All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 逆転の布石

 その提案は、あまりにも唐突で、そして残酷だった。 会議室の空気が、目に見えないほど張り詰めている。重役たちの前で、東条謙一郎は静かに腕を組み、久遠ひかるを真正面から見据えていた。「一つ、案がある」 誰も口を挟まない。「演技テストをやる。公開で」 その言葉が落ちた瞬間、数名が息を呑んだ。「スポンサー、制作陣、そしてメディア立会い。すべてオープンだ」 それは“チャンス”などという生温いものではない。 失敗すれば、その場で終わる。 成功しても、少しでも陰りがあれば、容赦なく切られる。 つまり—— 公開処刑の舞台。 普通なら、誰もが逃げる。 マネージャーは青ざめ、事務所社長の白鳥可憐は思わず立ち上がりかけた。「東条さん、それはあまりにも……」 だが、東条は遮る。「公平だろう?」 淡々とした声。「スポンサーは“実力”を見たいと言っている。主演にふさわしいかどうかを、誰の贔屓もなく」 言葉の裏にあるものを、全員が理解していた。 これは、ひかるを守るための提案ではない。切るための“正当な理由”を作る場だ。 視線が一斉に、ひかるへ向けられる。 同情、期待、好奇心、そして——失敗を待つ目。 ひかるは、ゆっくりと息を吸った。 胸の奥で、心臓が強く打つ。だが、不思議と恐怖はなかった。(……やっぱり、来た) 追い込まれることは、最初から分かっていた。 ここまでの流れは、偶然ではない。 それでも。 ここで逃げれば、すべてが終わる。 ひかるは、静かに口を開いた。「……受けます」 その一言に、会議室がざわめいた。「正気か?」「公開だぞ……?」「失敗したら——」 誰かの声が重なる。 だが、ひかるは一人ひとりを見渡し、凛とした声で続けた。「私の演技が足りないなら、主演を降りる理由として、これ以上納得のいくものはありません」 一瞬、東条の眉がわずかに動いた。「逆に言えば」 ひかるは、ほんの少しだけ口角を上げる。「私が、役を生ききれるなら——この噂も、疑念も、全部“無意味”になります」 その場にいた誰もが、言葉を失った。 強がりではない。 覚悟の声だった。 東条は、しばらく黙ってひかるを見つめていたが、やがて短く頷く。「……いいだろう。それでこそ、久遠ひかるだ」 そして、淡々と告げる。「日時は三日後。課
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第82話 伝説のオーディション — 課題シーン78

 都内最大級の撮影スタジオ。 その中央に組まれたのは、高級ホテルの庭園セットだった。 白い石畳。整えられた植栽。遠景には夜景を模したライトが瞬き、柔らかな風まで再現するために送風機が静かに回っている。 時間設定は、21時。 庭園の奥には、小さな円形テーブルが置かれていた。 純白のクロスの上に並ぶ、キャンドルライトとワイングラス。炎が揺れるたび、金色の光が周囲を優雅に照らす。 そこに—— 一人の女が座っている。 社長夫人、玲子。 黒の妖艶なドレスが体の線を美しくなぞり、首元ではダイヤモンドが静かに輝いている。 誰が見ても分かる。 この女は「正妻」だ。 玲子は背筋を伸ばし、静かに辺りを見渡す。 落ち着いた所作。  一切の無駄がない。 夫を待つ時間すら、彼女にとっては舞台だった。 だがその瞳の奥には、微かな退屈が滲んでいる。 そのとき—— 石畳を打つ、速いヒールの音。 夫ではない。 怒りをまとった女が、一直線に歩いてくる。 自称“愛人”。 柏木紗季。「やっぱりここに居たのね! あなた、まだ蒼一さんに愛されてると思ってるの?」 吐き捨てるような声。 玲子はゆっくり視線だけを向ける。 まるで、騒がしい小鳥でも眺めるかのように。 その余裕が、紗季の怒りに油を注ぐ。 紗季はテーブルへ歩み寄ると、ワインの注がれたグラスを乱暴に掴んだ。 今にも投げつけそうな勢い。 その瞬間——「柏木さん!!」 切羽詰まった声が庭園に響いた。 二人が振り向く。 そこに立っていたのは、若い女。 社長に憧れている—— 水城梨々花。 肩で息をし、瞳を潤ませながら駆け寄ってくる。 そして玲子の前で立ち止まった。 震える声で言う。「私も社長を愛しているんです!!」 空気が凍る。 紗季の目が見開かれた。「……は?」 次の瞬間、梨々花に掴みかかろうとする。 だが。 そのすべてを見ながら—— 玲子は、テーブルに肘をついた。 手で顎を支え。 そして。 クスッと微笑んだ。 それは嘲笑ではない。 ——支配者の微笑だった。 その態度に、紗季の怒りが爆発する。「あなたみたいな女より、私のような若い女の方が、蒼一さんも好きに決まってるわ! もういい加減別れてください。あなただって、もう蒼一さんのことを愛してないんでし
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第83話 完璧な演技

 公開オーディション当日。 スタジオには異様な緊張感が漂っていた。 普段は機材の移動音やスタッフの掛け声が絶えない空間が、この日ばかりは静まり返っている。制作陣、スポンサー企業の重役、テレビ局関係者、そして報道陣までが後方に整然と並び、誰もが小声で言葉を交わしていた。フラッシュこそ焚かれていないが、その場に集まる視線の数は、まるで新作ドラマの発表会のようだった。 だが——空気はそれより遥かに重い。 華やかさではなく、張り詰めた糸のような緊迫感。 誰もが理解している。 これは——審判の場だ。 中央には、高級ホテル庭園のセットが組まれていた。夜の庭園を再現した石畳、控えめに灯るガーデンライト、白いクロスのかかったテーブル。その上にはキャンドルとワイングラスが置かれ、静かな炎が揺れている。 課題は、例のシーン78。 愛と支配が交錯する、女同士の戦場。「それでは始めます」 助監督の声が、静寂を裂くように響いた。「先に、結城美緒さん」 その瞬間、視線が一斉に集まる。 空気がわずかに動いた。 美緒はゆっくり立ち上がった。 歩き出す前に、ほんの一度だけ深く息を吸う。 深紅のドレス。 若さと野心を象徴するような色だった。照明を受けて、その赤は燃える炎のようにも見える。 ここに来るまで、美緒は誰よりも稽古を重ねていた。 監督の過去作品を研究し、演出の癖を分析し、紗季という女の人生を何度もノートに書き出した。どんな家庭で育ち、いつ蒼一に出会い、なぜここまで執着するのか——設定にない部分まで想像し、埋めていった。 ただの愛人ではない。 愛されたい女。 選ばれたい女。 負けたくない女。 そこまで作り込んでいた。 もはや役ではない。 紗季は、美緒の中で呼吸していた。「……スタート」 合図と同時に、空気が切り替わる。 スタッフの気配が消える。 石畳を打つヒールの音だけが、静かな庭園に響いた。 美緒——いや、紗季が歩いてくる。 その目には怒りが宿り、唇はわずかに震えている。感情を押し殺しきれない女の、危うい均衡。「やっぱりここに居たのね! あなた、まだ蒼一さんに愛されてると思ってるの?」 強い。 声が空間を貫いた。 感情が真っ直ぐ届く。作った響きではない。胸の奥から絞り出された声だった。 若さゆえの未熟さと、危うさ。
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第84話 怪物、入場

「次、久遠ひかるさん」 助監督が名前を呼んだ瞬間、広いスタジオの空気がわずかに揺れた。 ざわめきが起きる。 抑えた声のはずなのに、その波はすぐに周囲へ伝染していく。 週刊誌の騒動。 主演降板の噂。 連日のように報じられているスキャンダル。 逆風の渦中にいる女。 その本人が——ゆっくりと立ち上がった。 一切の迷いがない動作だった。 衣装は黒。 だが、美緒が先ほど見せた赤とはまるで違う。 色気を誇示する黒ではない。 視線を集めるための黒でもない。 支配する者の黒。 余計な装飾はなく、身体の線だけを静かに際立たせるそのドレスは、まるで鎧のようだった。 歩き出す。 たったそれだけで、空気が変わった。 誰かが無意識に背筋を伸ばす。 衣擦れの音すら遠慮がちになる。 監督が、小さく息を呑んだ。 —本物だ。 言葉にする前に、身体が理解していた。 ひかるは視線を彷徨わせない。 まっすぐセットへ向かう。 その姿に、不思議と「疑惑の女」という印象は一切重ならなかった。 ただ一人の、圧倒的な役者がそこにいた。 セットに入る。 椅子に座る。 それだけ。 それだけなのに……もう玲子がいる。 空気の質が変わる。 さっきまでスタッフの気配が満ちていたはずの庭園セットが、突然“誰かの人生が流れている場所”へと姿を変えた。「……スタート」 合図が落ちる。 沈黙。 ひかるは動かない。 呼吸すら演技の一部のように静かだった。 ただ庭園を見渡す。 その視線の奥に、“人生”が見える。 長い結婚生活。 積み重ねた時間。 簡単には壊れない誇り。 そして——裏切りすら飲み込んできた女の強さ。 台詞がない時間が——怖い。 誰もが本能的に理解していた。 この沈黙は「間」ではない。 支配だ。 紗季役が現れる。「やっぱりここに居たのね!」 怒鳴っている。 だが、玲子は揺れない。 微動だにしない。 ゆっくり視線を向ける。 それだけで上下関係が決まる。 言葉より先に、力関係が空間に刻まれた。 梨々花が叫ぶ。「私も社長を愛しているんです!!」 普通なら三角関係の緊張が生まれる場面。 視線がぶつかり、感情が火花を散らすはずの構図。 だが違う。 ここでは—— 玲子以外、全員が脇役だった。 ひかるは動かない。
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第85話 スポンサーが沈黙する日

公開オーディションから、三日後。 ドラマ『誰よりも、君だけを』の制作会議室には、重苦しい沈黙が落ちていた。 壁一面のガラス窓から冬の白い光が差し込んでいるというのに、室内の空気はどこか鈍く、曇っているように感じられる。 スポンサー企業の役員たちが並ぶ長机。 資料はすでに配られているが、ページをめくる音すらしない。 東条謙一郎は腕を組み、その表情を静かに観察していた。 本来なら、ここで揉めるはずだった。 主演問題。 スポンサー降板。 台本改訂。 どれも作品の根幹を揺るがしかねない議題だ。怒号の一つや二つ飛び交ってもおかしくない。 だが―――誰も口を開かない。 視線が交錯し、そしてすぐ逸らされる。 まるで、誰かが最初の一言を発するのを待っているかのようだった。 理由は明白だった。 あの日の演技を見てしまったからだ。 脳裏に焼き付いて離れない。 あの沈黙。 あの視線。 あの、場を支配する存在感。 沈黙に耐えきれず、一人の役員が咳払いをした。「……結論から申し上げます。当社としましては、これまで通り久遠ひかるさん主演で問題ありません」 東条の眉がわずかに動く。 予想していたとはいえ、あまりに早い決断だった。 別の役員も続いた。「正直に言えば、降板などあり得ない。あれほどの役者を外す理由が見当たらない」「むしろ今のスキャンダルで話題性は上がるでしょう。視聴率も期待できます」 理屈は後付けに過ぎない——東条はそう思った。 彼らは数字を語っているが、本音は違う。 あの演技を見た瞬間、理解してしまったのだ。 この作品の“核”は久遠ひかるなのだと。 ―――完全な手のひら返しだった。 数日前まで慎重論を唱えていた顔ぶれが、今では誰よりも強く続投を支持している。 東条はゆっくり口を開く。「では、例の“主役交代案”は白紙ということで?」 確認の言葉に、迷いはなかった。「ええ。異論はありません」 短く、だが力強い返答。 反対する者は一人もいない。 会議は、驚くほどあっさり終わった。 開始前の重苦しさが嘘のように、決定は一瞬だった。 部屋を出た東条は、小さく笑った。「……久遠ひかる。やはり怪物だな」 誰に聞かせるでもない独り言。 たった一度の演技で、企業の判断すら変えてしまう。 それは人気ではない。 
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第86話 美緒、初めて敗北を知る

 控室。 ドアの閉まった静かな空間に、かすかに空調の音だけが響いていた。 結城美緒はソファに腰掛けたまま、スマートフォンを握りしめていた。 指先に、わずかに力が入る。 画面には記事が並ぶ。【久遠ひかる、圧巻の演技】【主演続投決定】【次元の違う女優】 どの記事も、ひかるばかり。 写真も、見出しも、論調も——すべてが称賛一色だった。 スクロールする指が止まる。(……私は?) 喉の奥が乾く。 もう一度、ゆっくりスクロールする。 指先が、ほんのわずかに震えていた。 ようやく見つけた小さな記事。【若手女優・結城美緒、存在感を示す】 ——示す、だけ。 主役にはなれなかった。 そのたった一文が、何より残酷だった。 評価されていないわけではない。 だが、“主語”になっていない。 記事の中心にいるのは、あくまで久遠ひかるだ。 そのとき、控室のドアが勢いよく開いた。 マネージャーが飛び込んできた。「美緒!すごいよ、SNSトレンド入りしてる!」 胸が跳ねる。 顔を上げる。 期待が、一瞬だけ心を照らした。 だが次の瞬間。「紗季、嫌われすぎてる!」「え?」 思わず聞き返す。「怖すぎるって!最低の愛人役だって話題!」 空気が凍った。 美緒は言葉を失った。 演技がリアルすぎた結果——役のまま嫌われている。 スマートフォンを奪うように受け取り、SNSを開く。『紗季、無理』『あの女怖すぎる』『蒼一逃げて』『でも演技うますぎて震えた』 称賛と嫌悪が、入り混じっていた。 本来なら名誉だ。 役者にとって、「嫌われる悪役」は成功の証でもある。 だが。 ひかるは“称賛”。 自分は“嫌悪”。 差は歴然だった。 沈黙が落ちる。 マネージャーは一瞬迷ったように視線を泳がせ、そして静かに言った。「……正直に言うね」 美緒は顔を上げる。「下積みもないのに、久遠ひかるには勝てない」 言葉が、まっすぐ胸に突き刺さった。 反論できない。 事実だった。 久遠ひかるは十代から舞台に立ち、脇役も、汚れ役も、母親役さえも経験してきた女優だ。 積み上げてきた時間が違う。 背負ってきた役の数が違う。 実際、あのオーディションでの久遠ひかるの演技を目の当たりにした美緒にも、マネージャーが言う言葉の意味は十分分かっていた
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第87話 優、確信する。「やはりこの女だ」

夜のスタジオ。 昼間の熱気が嘘のように消え、広いフロアには静寂が落ちていた。 撮影が終わり、スタッフのほとんどはすでに帰っている。 遠くで機材を片付ける金属音が、時折乾いた余韻を残すだけだった。 モニター前に座る藤崎優は、一人、昼間の映像を見返していた。 薄暗い編集スペースに、再生画面の光だけが揺れている。 玲子が微笑む場面。 優はそこで再生を止めた。 画面の中のひかるは、顎に手を添え、わずかに口角を上げている。 ただ、それだけの動き。 なのに——目が離せない。 背筋に、ぞくりとした感覚が走る。 何度見ても同じだった。「……恐ろしいな」 思わず漏れた独り言。「何が?」 静かな声が背後から落ちた。 優は振り向く。 ひかるが立っていた。 いつからそこにいたのか分からない。 足音がまったくしなかった。 照明の落ちたスタジオの中で、黒いコートを羽織った姿は妙に輪郭が際立って見える。「君の演技」 優は率直に言う。 飾らない。濁さない。 それが彼の流儀だった。「人の感情を支配する。あれは才能じゃない……武器だ」 ひかるは一瞬だけ目を丸くし、それから少し困ったように笑った。「褒めすぎ」「いや。事実だ」 優はモニターを指差す。「普通の役者は感情を“見せる”。でも君は違う。見てる側に感情を“起こさせる”。逃げ場をなくす演技だ」 ひかるは画面に視線を向けた。 そこに映るのは、自分のはずなのに、どこか他人のようでもある。「そんな大げさなものじゃないよ」「大げさじゃない。現場の空気、覚えてるだろ」 優は立ち上がる。 二人の距離が、わずかに縮まる。 静かなスタジオでは、その一歩すら大きく感じられた。 そして、まっすぐに言った。「やはりこの女だ」「……何それ」 ひかるが小さく笑う。「この作品を本物にするのは、君しかいない」 冗談の響きは一切ない。 ただの断言。 視線が絡む。 長い沈黙が落ちる。 気まずさはない。 だが、どこか張り詰めている。 優は続けた。「俺は役者として、君を信じてる」 その言葉は静かだったが、不思議な重みがあった。 軽々しく口にする男ではないと、ひかるはもう知っている。 恋とはまだ呼べない。 だが確実に—— 何かが芽生えていた。 言葉にならない、小さな火種のよう
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第88話 視聴率という王冠

 第1話放送当日。 その夜、テレビ局の編成フロアには異様な緊張が漂っていた。 ドラマ『誰よりも、君だけを』は、放送前から何かと話題が多かった。主演問題、スポンサー騒動、公開オーディション——業界関係者なら誰もが知っている。だからこそ、この初回の数字がすべてを決めると言っても過言ではなかった。 編成デスクの上にはコーヒーの空き缶が並び、誰もが落ち着かない様子で時計を気にしている。「分刻みで視聴率の速報、入るよな?」「最近は配信も強いからな……でも、地上波の数字はやっぱり別格だ」 誰もが平静を装っていたが、内心は穏やかではない。 そして翌朝。 まだ始業時間前だというのに、局内の廊下にはすでに人が集まり始めていた。 編成部のドアが勢いよく開く。「出たぞ!!」 一瞬で空気が張り詰める。 速報が走る。【初回視聴率 18.9%】 局内がどよめいた。「は!?十九近いのか!?」「今どきこの数字は化け物だ!」「配信入れたら、とんでもないことになるぞ……!」 若手スタッフが思わず拍手し、慌てて手を止める。だが、その顔は興奮で赤くなっていた。 SNSはすでに祭り状態だった。【玲子、怖すぎる】【あの微笑み、鳥肌立った】【冷たすぎて逆に美しい】【感情が読めないのに目が離せない】 さらに——【蒼一、冷静すぎない?】【妻に対してあれは愛がなさすぎる】【優しさゼロの声なのに、なぜか色気ある】【あの夫婦、温度差が恐ろしい】 玲子の圧倒的な存在感と、蒼一の感情を削ぎ落したような演技。その対比が視聴者の心を強く掴んでいた。 だが一方で—— 紗季は猛烈に叩かれていた。【最低の愛人】【見てて腹が立つ】【ああいう女、本当にいそうで怖い】【自称愛人がウザすぎる】【お願いだから玲子に勝てると思わないで】【出てくるだけでイライラする】 それは演技が成功している証でもあったが、言葉の刃は容赦がない。 結城美緒の父は、その報告を受けた瞬間、顔を真っ赤にした。「どういうことだこれは!!」 重厚なデスクを拳で叩く。「娘が悪役扱いされるドラマに金は出さん!スポンサーを降りる!」 秘書が慌ててなだめるが、怒りは収まらない。「イメージ商売なんだぞ!嫌われてどうする!」 だが、その情報が東条謙一郎のもとに届いたとき——彼はまったく動じなかっ
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第89話 父の名は、世界

東条に呼ばれ、ひかるが訪れたのは——都心の超高層ビル最上階だった。 ガラス張りのエントランスから見上げる空は、どこまでも高く、まるで別世界のように澄んでいる。受付の奥に掲げられた企業ロゴが、静かに威圧感を放っていた。 世界的大企業《久遠(くどう)ホールディングス》。 経済誌の表紙を幾度も飾り、日本だけでなく海外でも名を知られる巨大財閥。その頂点に立つ男のもとへ、ひかるは足を踏み入れていた。 オーナー社長。 久遠隆之(くどうたかゆき)。 そして——久遠ひかるの、父だった。 女優になって十年以上。 ひかるは自ら連絡を絶った。正確には、「頼らない」と決めたのだ。 父の名前に守られるのではなく、自分の力だけで立つと。 専用エレベーターが静かに最上階へ到着する。扉が開いた瞬間、厚い絨毯が足音を吸い込んだ。 重厚な扉の前で、東条が小さく息を整える。「緊張しているか?」「……少しだけ」 だが、その声は驚くほど落ち着いていた。 コンコン——。 扉が開く。 白髪交じりの男が立っていた。 背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない鋭い眼差し。しかしその目は、次の瞬間、確かに揺れた。「久しぶりだな、ひかる」 その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられる。 幼い頃、何度も呼ばれた声だった。「……どうして」 絞り出すように問いかける。「スポンサーに名乗りを上げた」 さらりと言う。 まるで特別なことではないかのように。 隆之はゆっくり室内へ招き入れた。窓の外には東京の街が一望できる。だが今のひかるには、その景色すら目に入らなかった。「さらに、国際共同制作映画への出資として、まず十億円を融資する」 東条が息を呑む。 桁が違う。 数億でも大きな案件だというのに、その倍以上を「まずは」と言ってのける。 隆之は東条の方へ視線を向けた。「海外映画の件も、出資させてもらう。日本の作品が世界へ出るなら、支援する価値がある」 東条は一瞬言葉を失い、それから深く頭を下げた。「……ありがとうございます。これほど心強いことはありません」 久遠隆之は小さく頷き、静かに続ける。 そして東条に向かって頭を下げた。「それと——ひかるをどうかよろしく」 東条の目がわずかに見開かれた。「彼女は、もう私の庇護など必要ないところまで来ている。だが、現場には現場
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第90話 黒崎俊哉、テレビでひかるを見る

 夜の狭いリビングに、テレビの光だけが揺れていた。壁紙はところどころ剥がれ、窓の外に見えるのは隣の建物の灰色の壁だけ。かつては都心の高層マンションに住み、煌めく夜景を見下ろしていた男が、今は築年数の古い賃貸のソファに沈み込んでいる。 黒崎俊哉は、缶ビールを握ったまま画面を見つめていた。安物のテーブルにはコンビニの弁当の空き容器が放置され、部屋にはアルコールの匂いが漂っている。 ドラマ『誰よりも、君だけを』。 第2話の放送だった。 玲子が静かに微笑む——ただそれだけの場面なのに、空気が張り詰める。 視線一つで相手を追い詰める演技。 台詞よりも雄弁な沈黙。 俊哉は無意識に背筋を伸ばしていた。 SNSの実況テロップが流れる。【玲子、怖すぎるのに美しい】【この女優、格が違う】【久遠ひかるに支配される一時間】 俊哉の喉が鳴った。「……ひかる」 思わず名前がこぼれる。 画面の中の彼女は、もう自分の知っている女ではなかった。 いや——違う、と俊哉は心のどこかで否定する。(何を変わったように見せてるんだ) あの女は、本当は自分のものだ。 どれだけ世間が持ち上げようと、自分の前では従順だった。料理を作り、仕事の愚痴を黙って聞き、深夜でも迎えに来た。文句ひとつ言わず、ただ自分を支えていた。 それを——家政婦のように扱っていたのは事実だ。 だが、それでも離れなかった。 つまり。(あいつは、まだ俺に惚れてる) 俊哉はそう信じていた。 番組が終わると、次はトーク番組の予告が流れた。“怪物女優・久遠ひかる特集”。 怪物——。 俊哉は乾いた笑いを漏らした。「はは……怪物、か」 だが笑いながら、胸の奥では別の感情が膨らむ。 誇らしさに似た、歪んだ優越感。(あの怪物を、俺は手に入れてたんだぞ) グラスにビールを注ごうとして、手が震えていることに気づく。 あの頃、自分の隣にいた女。  だが今、テレビの中で脚光を浴びている。 俊哉の胸に、ある考えが浮かぶ。(今なら、まだ間に合う) もう一度会いに行けばいい。 昔みたいに、優しく名前を呼び、愛を囁けば——。(ひかるは戻ってくる) あの女は情が深い。冷たく突き放すことなどできない。 どれだけ有名になろうと、本質は変わらないはずだ。 俊哉は勝手に確信していた。 ソファの端
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