All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 91 - Chapter 100

104 Chapters

91.白藤商会からの書状

忠成は、机の上に置かれた封書をしばらく見つめていた。白藤商会。その名は、昨夜から有馬家の中に妙な重さを残している。華族会館の慈善夜会で、白藤商会の名は協賛者として呼ばれていた。病院への衛生用品、女学校への紙類と筆記具。派手な寄付ではない。だが、会を支える実務として、主催側から礼を述べられていた。そして、その名を受けて礼をしたのは、紗和だった。白藤紗和。有馬家が婚約を白紙に戻した娘。その娘が、坂上清彬の隣に立ち、白藤商会の主として広間にいた。忠成は、感情で物を見る男ではなかった。寿美子や貴臣のように、紗和個人への思いに引きずられているつもりはない。だが、それでも昨夜の光景は軽く扱えなかった。白藤商会は、ただの商家ではない。少なくとも、今の社交の場では、そう扱われていなかった。「開ければよろしいでしょう」寿美子が言った。声は落ち着いている。だが、その奥に苛立ちがあることを、忠成は聞き取っていた。「白藤商会が、わざわざ有馬家へ何を申し入れるのか。見せていただきましょう」貴臣は、少し離れたところに座っていた。顔色はよくない。昨夜から、どこか思いつめたような表情をしている。忠成は封を手に取った。白藤商会の印がある。封そのものに乱れはない。紙もよい。宛名の筆跡も、礼を失していない。こうした細部は、家の格や商会の性質を示す。怒りに任せて書かれたものではないことは、封を開ける前から分かった。忠成は、封を切った。中の書状を取り出し、広げる。冒頭は丁寧だった。有馬子爵家当主、有馬忠成殿。差出人は、白藤商会主、白藤紗和。その下に、補佐として佐伯源蔵、確認人として岩倉正倫の名が添えられている。忠成は、眉を動かした。岩倉正倫。公証人の名がある。ただの私怨ではない。書状を読み進めるにつれ、忠成の目は次第に細くなった。
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92.商家からの無礼

寿美子は、机の上の書状を見下ろしていた。白藤商会から届いた正式な申し入れ。その事実だけで、奥座敷の空気はひどく不快なものになっていた。白藤商会主、白藤紗和。その名が、文面の末尾に整った筆で記されている。さらに、佐伯源蔵と岩倉正倫の名も添えられている。怒りに任せた走り書きではない。礼を失した抗議文でもない。むしろ、あまりにも整っていた。それが、寿美子には腹立たしかった。紗和が泣き言を並べてきたのなら、退けられた。婚約を白紙に戻された恨みをぶつけてきたのなら、浅ましいと切り捨てることもできた。けれど、この書状は違う。先代有馬子爵に関する証文。返済猶予の覚書。礼状。立替記録。それらの存在を示し、当主である忠成に確認の場を求めている。感情ではなく、手続きとして来ている。だからこそ、寿美子は苛立っていた。「返せばよろしいのです」寿美子は言った。忠成は、机の前で書状をもう一度読み返している。貴臣は少し離れたところに座り、口を挟めずにいた。「このような申し入れ、有馬家がまともに受ける必要はございません。白藤商会が先代の名を持ち出して、今さら何を確認したいというのです」忠成はすぐには答えなかった。その沈黙もまた、寿美子には気に入らない。「旦那様」「聞いている」「でしたら、なぜすぐに退けないのですか」忠成は、ようやく顔を上げた。「退けるにも、退け方がある」「商家からの無礼に、そこまで気を遣う必要がございますか」言った瞬間、貴臣がわずかに身じろぎした。寿美子はそれを見逃さなかった。「何です、貴臣」「いえ……」貴臣は視線を落とした。その曖昧さに、寿美子の胸はまた冷えた。昨夜もそうだった。貴臣は紗和を見ていた。まるで、自分が手放したものの
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93.坂上家の保証

坂上家からの使いが有馬家へ到着したのは、白藤商会からの書状について家の中がまだ落ち着かないうちだった。忠成は、書斎で古い控えを探すよう家令に命じたばかりだった。先代の頃の出納、白藤家とのやり取り、礼状や覚書に関わるもの。何が残っているか分からない。だが、調べないわけにはいかなかった。白藤商会からの書状は、怒りに任せたものではなかった。だからこそ、重い。そこへ、坂上家からの連絡である。忠成は、届けられた書付を前にして、しばらく黙った。寿美子は、その様子を見ていた。朝から続く不快感は、少しも薄れていない。白藤商会の名が有馬家の中に入り込み、忠成がそれを無視できないものとして扱っている。それだけでも腹立たしいのに、今度は坂上家である。「坂上家から、何と」寿美子が尋ねた。忠成は書付を広げたまま、低く答えた。「白藤商会と有馬家の間で行われる記録確認の場について、坂上家が場の成立を保証する用意がある、と」寿美子の表情が固まった。「保証?」「立会い、もしくは双方の体面を保つ形での場の調整だ。白藤側の申し入れが正式なものであり、感情的な抗議ではないこと。確認の場を設けるなら、双方に礼を欠かぬ形式を整えること。そういう趣旨だ」寿美子は、扇を持っていない手を膝の上で握った。「清彬様が、紗和さんのために動いているということですか」「坂上家としての文面だ」忠成は短く言った。「有馬家を責めるものではない」「責めていなくとも、同じことではありませんか」寿美子の声には、隠しきれない苛立ちが滲んだ。「白藤商会の申し入れに、坂上家が名を添える。これでは、有馬家が断りにくくなることを分かっていてなさっているのでしょう」「その通りだろう」忠成は否定しなかった。寿美子は息を呑んだ。忠成は、書付を机の上へ置いた。「だからこそ、巧い。こちらを直接責めてはいない。先代の債務について、何かを断じても
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94.逃げられない確認

有馬家では、坂上家からの書付が届いてから、空気がさらに重くなった。白藤商会からの書状だけであれば、寿美子はまだ退ける言葉を探せた。商家からの無礼。婚約破棄された娘の腹いせ。白藤家の番頭に担がれた若い女の振る舞い。そう呼び替えれば、有馬家の側に立てる気がした。けれど、坂上家が場の保証を申し出たことで、その言い方は通じにくくなった。清彬は、有馬家を責めてはいない。白藤商会を代わりに庇い立てしているのでもない。ただ、双方が記録を確認する場を整えると告げているだけだった。それが、いちばん厄介だった。寿美子は奥座敷で、忠成が返答の文面を確認するのを見ていた。文面は短い。白藤商会からの申し入れを受け、先代有馬子爵に関する記録確認の場を設けること。日取りと場所については、坂上家の調整を受けること。必要な範囲で、有馬家側の古い控えも確認すること。どれも、寿美子には屈辱に見えた。「ここまで譲る必要がございますか」寿美子は、抑えた声で言った。忠成は筆を置いた。「譲るのではない。体面を守るために、受ける」「体面を守るために、白藤商会の申し入れを受けるのですか」「無視する方が、よほど悪い」忠成の声は冷静だった。だからこそ、寿美子の苛立ちは増した。「坂上家が場を保証する以上、こちらが理由なく拒めば、何か後ろ暗いものがあると見られる。先代の記録が存在するなら、なおさらだ」「先代の古い話ではありませんか」寿美子は言った。「昔の商家の帳簿や証文を、今さら有馬家へ突きつけるなど」「昔の話で済むかどうかを、確かめねばならん」忠成は書状へ目を戻した。「岩倉正倫の名がある。礼状、覚書、立替記録とまで書かれている。白藤側が何も持たずに来るとは思えない」寿美子は唇を引き結んだ。それでも、心のどこかでは白藤側の記録など大したものではないと思いたかった。先代の頃の曖昧なやり取り。商家が大げさに残した帳簿。紗和が白藤の名を得て、有馬
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95.確認の席

窓から差し込む昼の光は、思いのほか硬かった。薄い硝子を通って室内に落ちた光は、机の上の筆記具や封蝋、磨かれた硯箱の角を白く照らしている。夜会の燭台のように揺らぐこともなく、金銀の飾りをきらめかせることもない。ただ、そこにあるものの輪郭だけを、容赦なく浮かび上がらせていた。岩倉正倫の用意した応接室は、広さに不足はなかった。けれど、華族の邸で見るような華やかさはない。壁際には書棚が並び、背表紙の色褪せた帳面や書類箱が整然と収められている。中央には、重い木の机が置かれていた。人をもてなすためというより、書類を開き、印を確かめ、言葉を記録するための机だった。その机の上に、白藤家の証文箱が置かれている。紗和は、椅子に腰を下ろしたまま、その箱から目を離せなかった。黒く磨かれた木肌。角を守る金具。蓋の中央に小さく入った白藤の意匠。派手ではない。だが、ただ古いだけの箱でもなかった。何度も手を触れられ、運ばれ、しまわれ、それでも失われずに残ってきたものだけが持つ、静かな重みがある。この箱を初めて見た時、紗和は中に収められた紙の枚数を思った。証文、覚書、礼状、立替記録。名を聞くだけなら、それはただの書類にすぎない。けれど今、その箱は紙の入れ物ではなかった。宗一郎が守ったもの。佐伯が預かり続けたもの。岩倉がその正当性を確かめてきたもの。そして今、白藤紗和の前に置かれているもの。紗和は膝の上で、白い手袋をはめた指をそっと重ねた。白藤の簪は、今日も髪に挿している。夜会の時のように人目を引く装いではない。淡い藤鼠の着物に、白い半襟。帯も控えめなものにした。けれど、髪に一本だけ挿した簪は、隠さなかった。隠さなくてよいものとして、そこにある。そう思うだけで、胸の奥が細く震えた。向かって左側には佐伯が控えている。年を重ねた横顔は、いつもよりさらに静かだった。けれど、その静けさの中には、番頭としてではなく、白藤の名を守ってきた者の緊張があった。右手側には岩倉がいる。机の上には、今日のために整えられた書付と、筆記用の紙が用意されていた。岩倉は無駄な言葉を発しない。ただ時折、書類
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96.父の筆跡

岩倉正倫が封筒の口を開く音は、ごく小さかった。だが、その音は忠成の耳に妙にはっきり届いた。古い紙がわずかに擦れる音。封の跡が乾いて残る、かすかな気配。応接室には、墨と紙の匂いが静かに満ちていた。華族の屋敷で嗅ぐ香の匂いとは違う。祝いの席の香でも、夜会の花の匂いでもない。長く保管され、必要な時まで開かれずにいた書類の匂いだった。忠成は机の上へ視線を落とした。つい先ほどまで、白藤家の証文箱は閉じられていた。黒く磨かれた木肌に、白藤の意匠が小さく入っているだけの、古い箱に見えた。だが蓋が開かれた今、その中から出てくる紙は、ただの古文書ではなかった。有馬家が知らされずにきた過去。あるいは、知らされぬままにしておきたかった過去。忠成はそう思いかけ、すぐにその考えを退けた。まだ決まったわけではない。白藤商会からの申し入れが正式な形を取っていたことは認める。坂上家が場を保証した以上、軽んじることもできない。岩倉正倫の名が添えられている以上、無根の言いがかりとも考えにくい。それでも、実際に確認するまでは、判断してはならない。有馬家当主として、忠成はそう自分に言い聞かせた。岩倉は、取り出した一通の証文をすぐに読み上げることはしなかった。まず机の中央に置き、紙の向きを整え、それから忠成の方へ静かに差し向ける。「まず、こちらをご確認ください」声は低く、よく通った。「先代有馬子爵の時代に作成された証文でございます。白藤商会が、有馬家の借財の一部を肩代わりした件について、当時の取り決めを記したものです」白藤商会。その言葉が、忠成の胸に沈んだ。白藤家ではない。白藤の娘を有する家というだけでもない。金を動かし、帳簿を残し、証文を保管してきた商会として、いま有馬家の前に置かれている。寿美子が、横でわずかに身じろぎした。忠成はそれに気づいたが、目を証文から離さなかった。古い紙だった。色は薄く変わり、端には年月の影が差している。だが、荒れた紙ではない
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97.守られていた体面

佐伯が開いた帳簿の紙は、古いものだった。それでも、汚れてはいない。何度もめくられ、確かめられ、また静かに閉じられてきた紙だった。墨の色は少し褪せているが、記された文字は乱れていない。日付、相手方、名目、出入りの額。どの行も、過ぎた年月を言い訳にしないように、細くまっすぐ並んでいた。紗和は、机の向こうで有馬忠成の指先が止まっているのを見た。先ほど、忠成は先代有馬子爵の筆跡を完全には否定しなかった。否定できなかったのだと、紗和にも分かった。父の筆跡。その言葉を聞いた時、忠成の顔から一つ色が落ちたように見えた。彼は声を荒げなかった。寿美子のように反発もしなかった。ただ、目の前の証文から目を逸らせなくなっていた。それは紗和にとって、痛快と言えるものではなかった。父の残した筆跡を前に、当主が沈黙する。その重さは、紗和にも分かった。榊原の書斎で、父の文字を見つめていた昔の自分が、胸の奥でかすかに疼く。けれど今、机の上に置かれているのは、有馬家の思い出ではない。白藤家が守ってきた記録だった。「続いて、証文に対応する白藤商会側の帳簿記録を確認いたします」岩倉の声が、室内の空気を整えるように響いた。「日付、相手方、名目、出金、ならびに後年の猶予記録を順に照合いたします。ここで確認するものは、単独の書類ではございません。複数の記録が互いに支え合う形で残っているかを見てまいります」佐伯が、帳簿の一箇所へ指を置いた。「こちらが、先ほどの証文と同じ日付の出金記録でございます」紗和の視線も、自然にそこへ落ちた。有馬家。御家政整理に伴う一時立替。字面は冷静だった。誰かを責める言葉はない。恥を暴くための大仰な表現もない。ただ、何年何月何日、何のために、いくらを動かしたかが残っている。その淡々とした記録の方が、かえって重かった。「白藤商会が、当時の有馬家の借財の一部を肩代わりした記録です」佐伯の声は低い。「続いて、同年の屋敷維持費に関する立替がござ
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98.先代子爵の礼状

寿美子は、机の上に広げられた帳簿を見つめながら、唇の内側を噛まぬよう意識していた。白藤商会の帳簿。そう聞くだけで、胸の内に冷えた不快感が広がる。商家の帳簿など、本来なら有馬家の奥へ持ち込まれる類いのものではない。帳場で番頭たちが指を黒くしてめくる紙。出入りの金を細かく書きつけ、品物や支払いを追うためのもの。華族の家の奥にあるべきものとは、まるで違う。それなのに、その帳簿が今、重い机の上に置かれ、有馬家当主である忠成の前に広げられている。そして有馬家は、それを退けることができないでいた。寿美子は、膝の上で扇を握り直した。指先に力が入りすぎないようにする。扇の骨が微かに鳴れば、動揺を見せることになる。背筋を伸ばし、顎を引き、呼吸を浅く整える。この場にいる者たちに、乱れを悟られてはならない。白藤側がどれほど古い紙を並べようと、有馬家は子爵家である。華族である。白藤は商家にすぎない。その序列は、簡単に覆るものではない。証文は、先代の時代のもの。帳簿は、商家側の記録。古いことは、いくらでも見え方が変わる。寿美子は、そう考えようとした。けれど、忠成の沈黙がその考えを邪魔していた。夫は、先ほどから容易に言葉を発しない。証文に記された父の筆跡を見て以来、表情の奥が重くなっている。寿美子が口を挟んでも、すぐには同調しない。むしろ、岩倉や佐伯の言葉を聞き落とすまいとしているように見える。それが、寿美子には腹立たしかった。有馬家の当主が、商家の出した帳簿に目を伏せて考え込む。その姿だけで、すでに何かを奪われている気がした。「では、続いて礼状を確認いたします」岩倉正倫の声が、静かな応接室に落ちた。礼状。寿美子の手が、扇の上で止まった。証文や覚書ならば、金の話だと言い張れる。帳簿ならば、白藤商会側の記録だと退ける余地を探せる。古いもの、商家のもの、先代の時代のもの。そうして自分の中で距離を取ることができた。だ
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99.見下す資格

礼状が机の上に置かれたまま、誰もすぐには動かなかった。窓から入る昼の光は、少しずつ傾き始めている。先ほどまでは白く硬かった光が、紙の端に薄い影を落としていた。応接室の中には、古い紙と墨の匂いが残っている。証文、覚書、帳簿、礼状。開かれたものはすべて静かで、声を持たないはずなのに、どの言葉よりも重く場を支配していた。紗和は、机の上の礼状から目を離せなかった。白藤宗一郎殿。封筒に記されたその名を見た時、胸の奥で何かが静かに揺れた。伯父の名。母の兄の名。紗和を白藤家へ迎える道を残してくれた人の名。その名へ宛てて、先代有馬子爵が礼を述べている。有馬家の面目を守ってくれたことへの礼。返済猶予への感謝。白藤家の助力を忘れないという趣旨の言葉。そのすべてを聞いたあと、寿美子は言葉を失っていた。かつて有馬家の奥で、紗和へ向けられたあの静かな高慢さは、今も消えたわけではない。背筋は伸び、顎も乱れていない。着物の襟元も、髪も、扇を置く指先も、表向きには崩れていなかった。けれど、言葉がない。それだけで、紗和には十分だった。怒鳴り返したかった日が、なかったわけではない。白藤の簪を軽んじられた時。母の名を、商家の血として下に置かれた時。有馬家の座敷で婚約破棄を告げられた時。貴臣が何も守らず、ただ苦しそうな顔で「すまない」と言った時。あの時の痛みは、今もどこかにある。礼状一通で、消えるものではない。けれど今日、紗和はその痛みを差し出しに来たのではなかった。白藤家の証文箱を開くために、ここへ来た。白藤商会の帳簿を示すために、ここへ座っている。岩倉が、礼状を丁寧に整え直した。「本日確認した書類について、ここで一度整理いたします」その声で、場の沈黙がわずかに動いた。忠成は顔を上げた。寿美子は扇の上に置いた手を動かさない。貴臣は、先ほどから紗和の方へ視線を向けている気配があった。紗和は、その視線に応えなかった。貴臣の目
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100.応接室の外

扉が閉じる音は、思っていたよりも静かだった。紗和は廊下へ出てから、しばらくその場に立っていた。応接室の中に残っていた古い紙と墨の匂いが、まだ袖のあたりにまとわりついているようだった。証文箱の金具が閉じられた音。帳簿の紙が重なる音。岩倉の低い声。忠成が絞り出した返答。寿美子の沈黙。それらが、扉一枚を隔てた向こうに、まだ残っている。中では、岩倉が本日の確認記録について、有馬忠成と短く言葉を交わしていた。返済や今後の協議について、この場で決めきるのではない。改めて正式な席を設けること。今日確認した書類の扱い。写しの作成。原本の保管。佐伯もまだ中にいる。白藤家の証文箱は、佐伯の手元にあるはずだった。あの箱は、ただの古い箱ではない。宗一郎が残し、佐伯が守り、岩倉が正当性を確かめてきた、白藤家の記録の入れ物だった。その箱を開き、有馬家の前に示した。紗和は、ゆっくり息を吐いた。廊下は静かだった。応接室の中の重さとは違う、薄く広がる静けさがある。古い木の床はよく磨かれ、障子越しの午後の光が、細く長く落ちていた。遠くで人が歩く気配がする。けれど、その足音も控えめで、ここが誰か一人の家の奥ではないことを感じさせた。有馬家の廊下ではない。紗和は、そのことを強く思った。かつて有馬家の奥へ通された時、廊下を歩くたび、どこかで寿美子の目を気にしていた。歩幅は大きすぎないか。足音は高くないか。襟元は乱れていないか。簪は見えていないか。何かを尋ねられた時、すぐに答えられるか。あの屋敷の廊下は、立派だった。けれど、どこまで進んでも、紗和は自分がその家に受け入れられているとは感じられなかった。奥へ進むほど、逃げ道が細くなっていくようだった。畳の匂いも、磨かれた木の艶も、整えられた座敷も、紗和にはいつも少し冷たかった。ここは違う。ここは岩倉が整えた、中立の場だった。有馬家の奥でも、白藤家の帳場でもない。書類を開き、言葉を記録し、双方が逃げられない形で事実を確かめるための場所。その廊下に、紗和は今、白藤家の主として立っている。
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