All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 81 - Chapter 90

104 Chapters

81.藤色のドレス

白藤家では、社交の場へ出るための支度が静かに始まった。それは、紗和がすぐに出ると決めたからではない。まだ、怖さは胸の中にあった。人前に立つこと。寿美子や貴臣と同じ場に出るかもしれないこと。白藤の名を背負う姿を、多くの目に見られること。どれも、考えるだけで指先が冷える。けれど、逃げ続けるわけにはいかないのだと、紗和はもう知っていた。おしまが用意した部屋には、何種類もの布が広げられていた。畳の上に薄紙を敷き、その上へ絹地やレース、リボン、手袋、扇が丁寧に並べられている。佐伯も部屋の端に控えていた。さらに、白藤商会と取引のある洋装仕立ての職人が呼ばれている。年配の女職人で、名を松枝というらしい。背筋の伸びた人で、華やかな社交服を扱う者らしく、布を見る目が鋭かった。「紗和様のお立場でしたら、あまり地味に寄せすぎるのは避けた方がよろしゅうございます」松枝は、紺に近い重い絹地をそっと畳みながら言った。「控えめに見せようとなさるほど、かえって事情を隠しているように見られることがございます」その言葉に、紗和は少し身を固くした。隠しているように見られる。有馬家で身を小さくしていた時の感覚が、ふと胸によみがえった。目立たないように。間違えないように。余計なことを言わないように。それは安全なようで、いつも自分を薄くしていくものだった。おしまが別の布を手に取る。「こちらは、若いお嬢様方に好まれる色でございますね」淡い桃色の絹地だった。光を受けるとやわらかく、いかにも令嬢らしい愛らしさがある。華乃なら、きっとよく似合っただろう。紗和は、そっと首を振った。「綺麗です。けれど……私のものではないように思います」おしまは無理に勧めなかった。「では、こちらは」次に出されたのは、深い葡萄色だった。上流の場に出ても見劣りしない重みがある。袖や裾に黒いレースを合わせれば、確かに立派なドレスになるだろう。けれど、紗和はその色にも
Read more

82.簪(かんざし)を一本

藤色の絹地が決まると、部屋の中の空気が少しだけ落ち着いた。松枝は、布の端を丁寧に畳みながら、仕立ての寸法や仮縫いの日取りについて、おしまに確認している。佐伯は少し離れたところに控え、必要な手配を書き留めていた。紗和は、畳の上に置かれた藤色の布を見つめていた。白藤の名を隠さず立つためのドレス。そう思うと、胸はまだ怖い。けれど、ただ怯えているだけではなかった。この布なら、白藤紗和として外の目の前に立つ支度を始められる。そう思えた。「髪飾りはいかがいたしましょう」松枝が、別の小箱を開いた。中には、真珠を連ねた飾りや、銀細工の櫛、西洋風の小さな髪飾りが並んでいた。どれも上品で、藤色のドレスに合わせてもおかしくない。控えめな白い羽飾りを添えれば、いかにも上流の洋装らしく見えるのだろう。おしまが一つを手に取る。「真珠なら、紗和様のお顔立ちにもよく合いますね」松枝も頷いた。「ええ。洋装に合わせるなら、こちらが一番自然かと。髪は高く結い上げ、真珠を控えめに散らす形がよろしいでしょう」紗和は、小箱の中を見つめた。真珠は美しい。銀細工も品がある。けれど、それらは白藤紗和として立つ日に、自分の中心へ置くものではない気がした。その時、紗和は自室の文机に置いてきたものを思い出した。母の形見の、白藤の簪。白藤家へ来てからは、布に包んで隠すことも、箱の奥へしまい込むこともしなくなった。けれど今は、支度の部屋には持ってきていない。「紗和様?」おしまが声をかける。「持ってきたいものがあります」紗和はそう告げて、自室へ戻った。文机の上には、小さな箱が置かれている。蓋を開けると、白藤の簪が静かに収まっていた。白い花の細工は、昼の光の中でひっそりと光っている。有馬家では、この簪を隠した。母の形見でありながら、有馬家にふさわしくないもののように扱われた。白藤の名を帯びたものだからと、身につけることを咎められた。取り上げられそうになった時の息
Read more

83.白藤の装い

仕立て上がったドレスが白藤家へ届いたのは、午後の光が少しやわらぎ始めた頃だった。松枝が自ら届けてくれた箱を、おしまが慎重に開く。薄紙を一枚ずつ外すたび、淡い藤色の絹地が少しずつ姿を現した。紗和は、思わず息を止めた。布で見た時にも美しいと思った。けれど、形になったものは、まるで別の重さを持っていた。淡い藤色から白銀へ、光の中で静かに色が移る絹地。上身頃は細く整えられ、襟元は開きすぎず、白いレースが控えめに添えられている。袖は七分ほどで、白い長手袋を合わせるように作られていた。スカートの前はすっきりと落ち、後ろ腰から裾にかけて布が柔らかく重なっている。ふくらみは派手すぎず、けれど上流の社交の場に出ても見劣りしない。裾と後ろのドレープには、近づいた時にだけ分かるほどの白藤の刺繍が入っていた。光が当たると、白い花の糸が静かに浮かび上がる。それは、名を叫ぶ装いではなかった。けれど、隠れる装いでもなかった。「ようお似合いになると思います」松枝が、職人らしい確かな声で言った。おしまも、衣桁に掛けられたドレスを見つめたまま、静かに頷いた。「紗和様のお色でございますね」自分の色。そう言われても、紗和はすぐには返事ができなかった。このような装いを、自分が身につけるのだと思うと、胸の奥が強く鳴る。榊原家では、華乃の支度を整える側だった。有馬家では、何を身につけても有馬にふさわしいかを測られている気がした。けれど、これは違う。誰かの後ろに立つためのものではない。誰かの家に合わせて直されるためのものでもない。白藤紗和として、人前に出るための装いだった。おしまに手伝われ、紗和はドレスへ袖を通した。慣れない形だった。着物とは身体の支え方が違う。上身頃に背を預けるようにして、腰の後ろの布の重みを感じる。白い長手袋を通すと、指先の震えが少しだけ隠れた。松枝が背後の布を整え、おしまが襟元を確かめる。「苦しくはございませんか」
Read more

84.華族会館の夜

華族会館へ向かう夜の道は、白藤家を出た時から、いつもの帝都とは違って見えた。車輪の音が石畳に響く。窓の外には、灯の入った店先や、人力車の提灯が流れていく。夜気は少し冷たく、馬車の中にいても、紗和は指先が冷えるのを感じていた。膝の上には、白藤模様の扇を置いている。白い長手袋に包まれた指は、何度もその扇の骨へ触れかけた。落ち着こうとしているのだと、自分でも分かる。けれど、どれほど姿勢を正しても、胸の鼓動だけは早かった。淡い藤色から白銀へ移るドレスは、馬車の小さな灯りの中でも静かに光を含んでいる。後ろ腰に集められた布は、座っていてもわずかな重みを伝えてきた。裾やドレープに入った白藤の刺繍は、暗がりでは見えすぎない。だが、動くたびに、そこにあることだけは紗和自身に分かる。髪には、母の白藤の簪を一本挿していた。その重みが、今夜の紗和を支えている。向かいには清彬が座っていた。いつもと同じく、余計な言葉は少ない。黒に近い礼装は上質だが、これ見よがしではない。社交の場へ向かう華族として、場に馴染むだけの品と静けさを備えている。紗和は、ふと自分の胸元へ目を落とした。「私が、あのような場へ出てもよいのでしょうか」言ってから、同じ問いを何度も口にしている気がして、少し恥ずかしくなった。清彬は、咎めなかった。「よいかどうかを、他人に決めさせる必要はありません」紗和は顔を上げた。「ですが……」「今夜、白藤商会は慈善夜会の協賛者の一つです。白藤の主がその場にいることは、不自然ではありません」白藤の主。その言葉に、胸がまた強く鳴った。榊原家では、紗和は一歩引く側だった。華乃のために場所を空け、父や美佐乃の顔色を見ていた。有馬家では、婚約者でありながら、奥向きで見られ、直される側だった。人の前に立つことを、紗和は知らない。けれど今夜は、違う。白藤商会の主として、外の目の前に立つ。馬車がやがて速度を落とした。
Read more

85.協賛者名簿

広間へ足を踏み入れてからも、紗和の胸の鼓動はしばらく収まらなかった。音楽はやわらかく流れている。けれど、耳に入るのは弦の音ばかりではない。扇を開く音、礼服の衣擦れ、低い笑い声、名刺を差し出す時の短い挨拶。すべてが重なり合い、ひとつの華やかなざわめきになっていた。紗和は、清彬の隣を歩いていた。後ろではない。そのことを意識するたび、背筋に力が入る。清彬は紗和の歩幅に合わせていた。先に立って引いていくのではなく、かといって紗和を不安なまま置いていくのでもない。彼はただ、隣にいた。その距離が、今夜この場での言葉になる。清彬がそう言った意味を、紗和は少しずつ感じ始めていた。広間の壁際には、大きな名簿が掲げられていた。淡い金の縁取りがされた板に、寄付者と協賛者の名が整然と記されている。華族家の名、財界人の名、いくつかの商会名。紗和は何気なく目を向け、そこで足を止めた。白藤商会。その文字があった。紗和は息を呑んだ。華族家の名に囲まれながら、白藤商会の名は静かに掲げられている。大きく誇示されているわけではない。だが、見落とされるような扱いでもなかった。白藤商会。自分が継いだ名。帳場で帳簿を開き、倉庫で荷札を見た名。証文に残され、印を押した名。その名が、華族会館の夜会の中にある。「こちらです」清彬が静かに言った。名簿の横には、今夜の慈善事業の趣旨が記されていた。病院の貧困患者救済。女学校備品支援。その下に、協賛者からの金品、物資、手配の内容が簡潔に記されている。紗和は、その中に白藤商会の欄を見つけた。包帯。消毒薬。紙。帳面。筆記具。いくつかの品目が、控えめに並んでいた。どれも、華やかな品ではなかった。宝石でも、絹でも、酒肴でもない。だが、それらは病院や女学校にとって、確かに必要なものだった。
Read more

86.白藤商会の新しい主

清彬は、紗和を広間の奥へ導いた。導くといっても、手を引くわけではない。少し先を歩き、紗和がついてくるのを待つのでもない。歩幅を合わせ、隣に立つ。その距離は、馬車を降りた時から変わらなかった。紗和は、扇を持つ手に力を込めていた。協賛者名簿に白藤商会の名を見つけたことで、少しだけ胸の中に芯ができた。自分は清彬の連れとしてだけここにいるのではない。白藤商会の主として、この場に立つ理由がある。そう思っても、広間の視線に慣れるわけではなかった。音楽が一度やみ、次の曲へ移るまでの間、会話の声が少し大きくなる。名刺を交わす紳士たち。扇を持って笑みを交わす婦人たち。壁際で寄付者名簿を眺める人々。その中で、紗和は何度も視線を感じた。淡藤色のドレス。髪に挿した白藤の簪。清彬の隣にいる若い女。それらが、この場の人々に何かを問いかけているのだろう。清彬は、広間の中央近くで足を止めた。そこには、今夜の慈善夜会の主催側らしき夫人がいた。年配の侯爵夫人と、その隣に控える病院関係者らしい紳士、さらに女学校の教師と思われる落ち着いた婦人が話している。清彬が近づくと、周囲の空気が少し改まった。「坂上様」侯爵夫人が微笑む。「今宵はお越しいただき、ありがとうございます」「お招きいただき、光栄です」清彬は丁寧に礼を返した。紗和も一歩遅れず、同じように頭を下げる。このまま清彬の後ろに控えていれば、少しは楽だったかもしれない。清彬の連れとして名を伏せ、ただ礼だけをしていればよい。人の視線も、紗和ではなく清彬の方へ向くだろう。けれど清彬は、そうしなかった。彼は紗和を見てから、侯爵夫人たちへ向き直った。「ご紹介いたします。こちらは、白藤商会の新しい主、白藤紗和様です」白藤商会の新しい主。その言葉が、広間の中に静かに置かれた。紗和は、一瞬息が詰まった。清彬の連れではない。
Read more

87.有馬家の沈黙

寿美子にとって、華族会館の夜会は、ただの慈善の場ではなかった。もちろん、表向きには病院の貧困患者救済と女学校備品支援のための会である。婦人たちは寄付の額を控えめに語り、紳士たちは国の行く末や教育の必要を口にする。楽団の音が広間を満たし、シャンデリアの光が絹と宝石をやわらかく照らしていた。だが寿美子は、その奥にあるものをよく知っている。誰が誰に先に挨拶するか。どの夫人が、どの家へ気を遣うか。どの家の名が、寄付者名簿のどのあたりに掲げられているか。誰が中央に立ち、誰が壁際へ寄るか。そうした一つ一つが、家の位置を静かに示していた。有馬家は子爵家である。財政に陰りはある。以前のようにはいかないことも、寿美子自身よく分かっていた。けれど、だからこそ体面を保たなければならない。会釈の角度ひとつ、会話の相手ひとつで、有馬家がまだ上流の輪にあることを示さなければならなかった。寿美子は、いつものように品よく微笑んでいた。扇を持つ手の角度も、視線の置き方も、乱れはない。今夜も数人の夫人が挨拶に来た。古くから付き合いのある家の者たちは、有馬家の名を軽んじてはいない。それを確認し、寿美子は胸の内で少し息をついた。その時、広間の一角に小さなざわめきが起こった。寿美子は、何気なくそちらへ目を向けた。坂上清彬がいた。侯爵家である坂上家の嫡男。若くして家の実務にも関わり、社交の場でも軽んじられることのない人物だった。清彬が誰の隣に立つかは、それだけで意味を持つ。その清彬の隣に、若い女性が立っている。寿美子は最初、どこかの華族令嬢か、財界の有力者の娘だろうと思った。淡い藤色から白銀へ移る洋装は品があり、派手に飾り立てているわけではないのに、広間の光の中で静かに目を引いた。髪には、白い花の簪が一本。その簪を見た瞬間、寿美子の指が扇の骨を強く押さえた。紗和だった。有馬家の奥向きで、静かに頭を下げていた娘。言葉を飲み込み、こちらの指示を待
Read more

88.父の沈黙

有馬家の方角から向けられる視線に気づいたあとも、紗和は広間を離れなかった。寿美子がこちらを見ていたことは分かった。貴臣の視線も、短い間ではあったが感じた。胸が痛まなかったわけではない。けれど、有馬家の座敷で告げられた言葉に比べれば、その痛みはもう紗和をその場へ縛るものではなかった。今夜の紗和は、白藤紗和としてここにいる。その事実を、何度も胸の中で確かめた。清彬は、また別の来賓へ紗和を紹介していた。白藤商会の物資協力について、病院関係者が礼を述べ、女学校関係者が帳面や紙類の質を褒める。紗和はまだ慣れないながらも、一つ一つの言葉へ礼を返していた。その途中で、ふと広間の入口近くにいる人影が目に入った。直清だった。紗和は、一瞬息を止めた。父は、少し離れたところに立っていた。派手な装いではないが、榊原家の当主として夜会に出るだけの身なりは整えている。けれど、その顔には社交の場で見せるはずの穏やかな微笑がなかった。直清は、紗和を見ていた。淡藤色から白銀へ移るドレス。髪に挿した白藤の簪。清彬の隣に立ち、白藤商会の主として挨拶を受ける姿。そのすべてを、遠くから見ていた。紗和の胸が、静かに痛んだ。父に見られている。そう思った瞬間、榊原家の座敷の空気が戻ってきた。お前は榊原の娘だ。直清がそう言った時、紗和の胸は確かに揺れた。ずっと欲しかった言葉だった。父の娘として見てほしい。華乃の代わりではなく、家のために我慢する者でもなく、ただ娘として見てほしい。その願いは、今も完全には消えていない。だからこそ、父の視線は痛かった。直清の目に、紗和は何として映っているのだろう。榊原家で控えめに座敷の端にいた娘か。華乃の後ろに下がっていた娘か。有馬家へ行くように告げた時、何も言わずに受け入れた娘か。それとも、今ここにいる白藤紗和なのか。直清は、動かなかった。近づいてくる様
Read more

89.社交界の白藤

夜会は、少しずつ深まっていった。楽団の音楽は、曲を変えながら広間に流れている。シャンデリアの光は、婦人たちの絹地や宝石をやわらかく照らし、紳士たちの礼服の肩に淡く落ちていた。寄付の礼を述べる声、名刺を交わす声、扇の陰で交わされる小さな噂。そのすべての中に、紗和は立っていた。最初に広間へ入った時のような、足元が揺らぐほどの恐れは少し薄れている。けれど、緊張が消えたわけではない。視線はまだある。好奇もある。探るような目も、あからさまではないにせよ、いくつも向けられていた。あれが白藤の。有馬家の。榊原家の。そのささやきは、紗和の耳に届いたり、届かなかったりした。だが、そのたびに押し込められることはなかった。清彬は、必要な時だけ隣に立った。紹介の場では、紗和の隣にいてくれる。相手が白藤商会の名を知らぬ様子を見せれば、静かに一言添える。けれど、紗和が挨拶をする時には、少しだけ後ろへ引いた。庇って隠すのではない。紗和が自分の名で立つための間を、清彬は作っていた。「白藤紗和でございます」紗和は、その言葉を何度も口にした。最初は、喉の奥で震えた。けれど、二度、三度と名乗るうちに、その名は少しずつ自分の声に馴染んでいった。白藤紗和。白藤商会の主。その名を告げるたびに、相手の表情がわずかに変わる。驚く者もいた。若い女が商会の主なのかと、目だけで測る者もいた。だが、病院の者や女学校の関係者は、白藤商会の品に礼を述べた。「先日の包帯の納入も、滞りなく届きました」「女学校の帳面も、白藤様のお品は紙がしっかりしております」「宗一郎様の頃より、確かな商いをなさる家と伺っております」そのたびに、紗和は礼を返した。自分一人が褒められているのではない。帳場で数字を追う秋山がいる。倉庫で品を整える者たちがいる。荷札を結ぶ手代たちがいる。奥で支えるおしまがいる。長く白藤の名を守ってきた佐伯がいる。その人々の
Read more

90.夜会の翌朝

有馬家の朝は、いつもより静かだった。静かというより、音が沈んでいるようだった。廊下を行き来する女中の足音も、茶器の触れ合う音も、いつもと同じはずなのに、どこか遠い。屋敷そのものが、昨夜の華やかな光を受け止めきれず、重く閉じているように感じられた。寿美子は、奥座敷で茶を前にしていた。湯気は立っている。けれど、手を伸ばす気にはなれなかった。昨夜の光が、まだ目の裏に残っている。華族会館の広間。シャンデリアの下で淡く光っていた藤色の洋装。髪に挿された白藤の簪。坂上清彬の隣に立つ若い女。白藤商会の新しい主、白藤紗和様。その言葉が、耳の奥で不快に響いた。寿美子は、扇を持つ手に力が入った昨夜の感覚を思い出し、膝の上の指を静かに握った。認めたくなかった。紗和は、有馬家から退けた娘である。嫁としてふさわしくないと見極め、縁談を白紙に戻した娘である。奥向きでしつけ直される側にいた娘であり、寿美子の言葉を受ければ俯いていた娘だった。それが昨夜は、白藤商会の主として紹介されていた。病院の者が礼を述べ、女学校の関係者が白藤商会の品を褒め、主催側が協賛者としてその名を呼んだ。まるで、紗和がその場に立つことが当然であるかのように。寿美子は、口元だけで小さく笑った。当然であるはずがない。あの娘は、商家の血を引く娘だ。榊原家の前妻の娘であり、有馬家に入るには足りないところが多かった。白藤の簪を大切そうに抱え、有馬家の空気に馴染もうとしながらも、どこかで白藤の名を捨てきれなかった。だからこそ、退けた。そのはずだった。だが、昨夜の広間で、周囲は寿美子の思う序列を受け入れなかった。白藤商会。その名は、ただの商家として扱われていなかった。慈善夜会を支える協賛者として、病院や女学校に必要な品を納める商会として、確かな場所を持っていた。それが腹立たしかった。白藤は白藤でしかない。有
Read more
PREV
1
...
67891011
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status