All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 11 - Chapter 20

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11.華乃の笑顔

書斎を出たあと、紗和はしばらく廊下を歩く音だけを聞いていた。父の声は、まだ耳の奥に残っている。紗和、お前なら分かってくれるな。その言葉は、怒鳴り声ではなかった。責める響きもなかった。むしろいつもと同じ、穏やかで、家のことを静かに考える父の声だった。だからこそ、紗和の胸の奥に深く沈んでいた。廊下には昼下がりの光が差していた。庭の木々の影が障子に揺れ、古い板の上に明るい筋が落ちている。屋敷はいつも通り静かで、どこか遠くから女中たちの話し声がかすかに聞こえた。この屋敷のどこかで、もう自分の行き先が変わったことを、皆が知っているのだろうか。紗和はそう思い、すぐに目を伏せた。知っているとしても、知らないとしても、自分のすることは変わらない。顔を乱さず、用を済ませ、呼ばれれば返事をする。そうしていれば、家の中は今まで通り回る。けれど、その今まで通りの一つひとつが、急に遠く感じられた。華乃の部屋の前を通りかかった時、襖の向こうから衣擦れの音がした。紗和は足を止めた。入る用はなかった。顔を合わせるには、まだ心が整っていない。そう思って引き返そうとした時、襖が内側から開いた。華乃が立っていた。「あ...」華乃の声が、そこで止まる。いつもなら、紗和を見つけるとすぐに明るく呼びかけてくる。お姉さま、と弾むように言い、頼みごとや見せたいものを続ける。けれど今の華乃は、言葉を探すように目を泳がせた。その反応だけで、紗和は分かった。華乃は、もう知っている。美佐乃から聞いたのだろう。父が紗和へ話す前か、話した後かは分からない。ただ、華乃の顔には、知らない者の無邪気さはなかった。紗和は静かに頭を下げた。「華乃さん」「紗和お姉さま...」華乃は少しだけ身を引いた。その奥の部屋には、先日まで有馬家との顔合わせのために広げられていた品々の名残があった。衣桁には淡い色の着物が掛けられ、鏡台の前には髪飾りの箱が開いたまま置かれている。畳の上には、使われなか
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12.必要とされた娘

夜になっても、紗和の胸の内は静まらなかった。自室へ戻ると、屋敷の音は遠くなった。廊下を行き交う女中の足音も、奥座敷から漏れる美佐乃の声も、華乃の笑い声も、襖一枚を隔てるだけで別の家のもののように薄くなる。けれど、昼間見たものは消えなかった。父の書斎で聞いた声。華乃の部屋で見た安堵。美佐乃の、いつもより柔らかな視線。それらが、別々の場面ではなく、ひとつの流れになって胸の奥へ沈んでいる。紗和は行灯の火を少し小さくした。明かりが弱まると、部屋の隅が濃い影に沈む。文机、鏡台、針箱、畳の目。昼間と同じものが、夜には少し遠く見えた。机の上には、まだ片づけきれていない紙がある。華乃の稽古に使う文案の控え、父から預かった書付の端切れ、明日女中へ渡す小間物屋への返事。そのどれも、昨日までの紗和の日常だった。誰かの用を整える。誰かの言葉を清書する。誰かが困らないよう、先回りしておく。それを続けていれば、榊原家の中で自分にも居場所があるような気がしていた。父に褒められれば胸が温かくなり、美佐乃に頼まれれば断らず、華乃さんに笑われれば、少しだけ自分も役に立てたと思えた。けれど今日、そのすべてが別の意味を持った。紗和なら分かってくれる。紗和なら落ち着いている。紗和なら有馬家でも務まる。紗和なら。その言葉の先に置かれているものが、父の書付でも、華乃の文でもなく、自分の婚約なのだと知った時、胸のどこかが静かに冷えた。紗和は鏡台の前に座った。髪をほどく前に、手が自然と簪へ伸びる。黒髪の奥に隠していた白藤の簪を、ゆっくり抜いた。細い房が行灯の光を受け、手のひらの上で淡く揺れる。白い藤の花は、夜の部屋ではいっそう静かに見えた。母の形見。この屋敷で、紗和が誰にも預けずに持っていられるもの。華乃の珊瑚の簪とは違う。明るく人目を引く色ではない。美佐乃が選んだ髪飾りのように、若い娘を華やかに飾るものでもない。けれど、紗和にはこ
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13.書き換えられた名

有馬家へ出す返書の下書きが、文机の上に置かれていた。紗和は、筆を取らないまま、その紙を見つめていた。障子越しの昼の光が、墨の跡を少し青く見せている。父の手で書かれたものではなく、まずは美佐乃が文面を整え、それを直清が確認し、最後に紗和が清書することになっていた。自分の婚約に関わる書状を、自分の手で清書する。その事実が、どうしても胸の中でうまく収まらなかった。書状の冒頭は、相手方への礼で始まっている。有馬子爵家からの厚意ある申し入れに感謝し、榊原家としてもこの縁を重んじるという内容だった。そこまでは、以前にも何度も書いたことのあるような文面だった。けれど、中ほどに差しかかった時、紗和の目は自然と止まった。榊原家長女、紗和。その文字が、そこにあった。何度も見慣れているはずの自分の名なのに、他人のもののように見えた。手習いの頃から書き続けてきた名。父の書付を写す時、控えの端に記すこともあった名。けれど今は、有馬貴臣というまだ会ったことのない男の名と並べられ、縁談の文の中に置かれている。つい先日まで、その場所にあるはずだったのは華乃さんの名だった。誰も、そうは言わない。書状には、初めから紗和のために話が整えられたように書かれている。榊原家の娘として、有馬家との縁をありがたく受ける。長女である紗和は、落ち着きもあり、家風にもよく馴染むであろう。字面は整っていた。整いすぎていて、胸が冷えた。紗和は筆を取った。墨を含ませ、余分な墨を硯の端で落とす。手は震えていない。これまで何度も清書を任されてきた。乱れのない文字を書くことは、紗和にとって難しいことではなかった。難しいのは、自分の名を書いているのだと認めることだった。榊原家長女、紗和。筆先が紙に触れる。墨が白い紙へ沈み、名前が形になっていく。自分で書いた字なのに、まるで誰かが別の場所から紗和の人生をなぞっているようだった。部屋の外では、華乃の笑い声が聞こえた。以前より、声が軽い。お茶の稽古を嫌がるでもなく、着物
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14.有馬家へ向かう朝

有馬家へ向かう朝は、薄く曇っていた。障子の向こうに広がる空は白く、晴れと呼ぶには弱く、雨と呼ぶには静かだった。庭木の葉に朝露が残り、屋敷の廊下には、昨夜の冷えがまだ少しだけ沈んでいる。紗和は鏡台の前に座り、髪を結い上げた。今日は、榊原家の娘として有馬子爵家へ挨拶に伺う日だった。そう考えると、胸の奥がきゅっと細くなる。何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、支度を整える手はいつもより重かった。袖を通すのは、先日、美佐乃が選んだ藤鼠の着物だった。華やかではない。けれど光の角度によって、控えめな藤の色がやわらかく浮かぶ。紗和らしい色。そう言われた着物だった。紗和は襟元を確かめ、帯を締め直した。鏡の中の自分は、いつもより少し整って見える。だが、その整い方は、晴れやかなものではなかった。どこか余白の多い、静かな支度だった。鏡台の横に置いていた白藤の簪へ、目が向いた。昨夜から、箱にはしまっていない。小さな風呂敷のそばに置いたまま、朝を迎えた。銀の地に白い藤の細工が垂れ、薄曇りの光の中でひっそりと白く見える。持っていくべきだろうか。紗和は、しばらく手を伸ばせずにいた。美佐乃が見れば、また何かを思うかもしれない。有馬家に着いてからも、有馬夫人にふさわしくないと思われるかもしれない。子爵家へ向かう身支度に、商家の母の形見を挿していくことは、榊原家の娘として正しいことなのだろうか。そう考えて、胸の奥がまた冷えた。母のものを持つことまで、正しいかどうかで量らなければならないのか。紗和は、そっと簪を手に取った。冷たい。指先に触れる金具の感触だけが、迷いの中で確かだった。母の声はもうはっきり思い出せない。白藤家のことも、紗和は多くを知らない。けれど、この簪だけは、母と自分をつなぐものだった。榊原家の娘として向かう。有馬貴臣の婚約者として向かう。それでも、母の形見を置いていくことはできなかった。紗和は、正面から目立たない位置へ簪を挿した。白藤の房は、結い上げ
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15.有馬家の門

有馬子爵家の門が見えてきた時、馬車の揺れが少しだけゆるやかになった。紗和は窓の外へ目を向けた。帝都の通りは次第に静かになり、両側には高い塀を持つ屋敷が増えていた。町中のざわめきは遠ざかり、車輪が砂利を踏む音と、馭者が手綱を扱う微かな気配だけが耳に残る。その先に、有馬家の門があった。石造りの門柱は重く、左右に広がる塀も高い。門の脇には、有馬子爵家の表札が掲げられている。文字は古く、けれどよく磨かれており、近づく者へ自然に背筋を伸ばさせる力があった。ここが、有馬貴臣様のお家。紗和は膝の上で指をそろえた。まだ会ったことのない婚約者の名を、胸の中でそっと呼ぶ。榊原家では、華乃の未来として語られていた名前。父の書状の中で自分の名と並べられた名前。その名が、今は門の向こうにある。この家に認められれば、自分にも新しい居場所ができるのかもしれない。そう思うと、胸の奥に緊張と淡い期待が同時に広がった。馬車が門前で止まる。外から使用人の声が聞こえ、馭者が短く応じた。すぐに扉が開き、紗和は促されて馬車を降りた。薄曇りの空の下、有馬家の門はさらに重々しく見えた。植え込みは形よく刈られ、門から玄関へ続く道には、細かな砂利が敷かれている。華族家らしい静けさがあり、榊原家の屋敷とは違う格式があった。紗和は小さく息を吸った。髪の奥で、白藤の簪がかすかに揺れる。目立たないように挿したはずなのに、その重みだけははっきり感じた。母の形見を持ってきたことを思い出すと、足元が少しだけ確かになる。「榊原様でいらっしゃいますね」門の内側から、年配の使用人が出てきた。身なりは整っており、物腰も丁寧だった。けれど、紗和が想像していたほど人数は多くない。門前に控える者はその男一人と、少し離れた場所に若い女中が一人だけだった。「榊原紗和でございます。本日はお招きいただき、恐れ入ります」紗和は深く頭を下げた。使用人は礼儀正しく一礼した。「奥へご案内いたします」その声に乱れはない。だが、どこか必要な言葉だけを選んでいる
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16.有馬夫人の笑み

襖が静かに開いた。紗和は畳へ手をつき、深く頭を下げた。客間の奥から漂う香の匂いが、玄関で感じたものよりも濃くなる。乾いた沈香のような、甘さを抑えた香りだった。「榊原紗和でございます。本日はお目通りをお許しいただき、誠にありがとうございます」自分の声が、部屋の中で少し小さく響いた。顔を伏せたまま、紗和は畳の目を見つめていた。畳はよく手入れされている。けれど新しいものではない。縁の色も少し沈み、ところどころ光の当たり方で擦れが見えた。調度品は立派だった。床の間の掛け軸も、脇に置かれた花器も、榊原家のものより格があるように見える。だが、空気は冷たかった。「顔をお上げなさい」女の声がした。紗和は静かに顔を上げた。有馬寿美子は、客間の上座に座っていた。年の頃は、美佐乃より少し上だろうか。顔立ちは整っており、目元には年齢に応じた落ち着きがある。髪は乱れなく結われ、濃い藍に銀糸の入った着物をきちんと着こなしていた。帯も帯留めも華美ではない。けれど、どれも上質で、選び方に隙がなかった。華族夫人。その言葉が、紗和の胸に自然に浮かんだ。美佐乃も上品な人だった。だが、美佐乃の上品さが華族夫人のように見せるためのものだとすれば、寿美子のそれは、最初からその場所に属している者のものだった。背筋の伸ばし方、指先の置き方、相手を見るまでの間。すべてが、他人に測られることを許さない静けさを持っている。寿美子は穏やかに微笑んだ。「遠いところ、よくいらっしゃいました」「恐れ入ります」「榊原家のお嬢様と、ようやくお目にかかれましたね」その言葉は丁寧だった。けれど、紗和はなぜか、胸の奥がわずかに縮むのを感じた。ようやく。それは、待っていたという意味にも聞こえる。だが同時に、相手がどの程度の娘か見に来た、という響きもあった。紗和はその違和感を、すぐに胸の奥へしまった。ここで余計なことを感じてはいけない。有馬家で認められるためには、まずこの夫
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17.古びた客間

寿美子が茶碗を置く音は、小さかった。けれど、その音が消えたあとも、客間の空気はしばらく動かなかった。紗和は膝の上に手を重ねたまま、顔を上げすぎないようにしていた。先ほどから、髪の奥の白藤の簪だけが、妙に意識に残っている。その簪は、少し古風なものね。寿美子の言葉は、咎めるほど強くはなかった。むしろ穏やかで、整っていた。けれど、母の形見をそっと指先で撫でられたような感覚が、まだ胸に残っている。紗和は、息を静かに整えた。有馬家で認められなければならない。そのためには、余計なことに動揺してはいけない。「貴臣は、少し遅れて参ります」寿美子はそう言い、女中へ目を向けた。「それまで、紗和さんに少しお部屋の様子を見ていただきなさい。いずれ慣れていただく場所ですもの」「かしこまりました」女中が深く頭を下げる。いずれ慣れていただく場所。その言葉に、紗和の胸が小さく鳴った。有馬家は、もうただ訪ねてきただけの家ではない。ここは、いずれ自分が入るかもしれない家なのだ。そう思うと、畳の感触まで少し違って感じられた。客として座っているだけなのに、見られているのはこちらだけではない。自分もまた、この家を見ている。寿美子は、紗和を見て微笑んだ。「緊張なさらなくてよろしいのよ。けれど、家に入るということは、その家の空気を覚えるということです。まずは、見ることから始めるのもよいでしょう」「はい。ありがとうございます」紗和は頭を下げた。女中に促され、客間の隣に続く廊下へ出る。寿美子は客間に残った。遠くへ離れたわけではない。襖一枚、廊下の折れ曲がり一つ向こうに、あの静かな視線がまだあるような気がした。廊下はよく磨かれていた。足袋の裏に、ひやりとした板の感触が伝わる。日中だというのに、屋敷の奥は少し暗い。庭に面した障子から光は入っているが、深い軒に遮られて、部屋の隅まで届かない。壁には古い書画が掛けられ、ところどころに洋風の小卓や椅子も置かれている。和と洋が混じったしつらえ
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18.貴臣の声

廊下の向こうから近づいてくる足音は、寿美子のものとは違っていた。軽すぎず、重すぎもしない。一定の速さで近づき、襖の前で静かに止まる。控えていた使用人が膝をつき、短く名を告げた。「貴臣様がお見えでございます」紗和は、膝の上の手に力を込めた。有馬貴臣。その名を、これまで何度も聞いてきた。華乃の縁談として語られ、父の書状に記され、美佐乃の口から支度の相手として出された名。けれど、実際に会うのは初めてだった。襖が開く。入ってきた青年は、思っていたより柔らかな印象の人だった。背は高すぎず、すらりとしている。肌は白く、目元は穏やかで、眉の形にも乱れがない。黒髪はきちんと整えられ、着物と羽織の取り合わせも控えめで上品だった。華族の嫡男らしい育ちのよさがありながら、寿美子のように相手を圧する強さはない。貴臣はまず寿美子へ一礼し、それから紗和の方へ向き直った。「有馬貴臣です。お目にかかれて光栄です」声は、想像していたよりもやわらかかった。紗和は深く頭を下げた。「榊原紗和でございます。本日はお目通りをいただき、ありがとうございます」「こちらこそ。遠いところをお越しいただき、ありがとうございました。道中、お疲れではありませんでしたか」その言葉に、紗和は少しだけ顔を上げた。疲れてはいないか。今日、初めてそう聞かれた気がした。榊原家を出る時、父は榊原の娘として恥ずかしくないようにと言った。美佐乃は有馬家では控えめにと告げた。華乃は紗和なら大丈夫だと言った。寿美子は、有馬家に入るからには覚えることが多いと教えた。誰も、紗和自身が疲れていないかとは聞かなかった。もちろん、貴臣の言葉は礼儀かもしれない。客へ向ける定型の気遣いかもしれない。それでも、紗和の胸には、わずかに温かいものが差した。「いいえ。お気遣い、ありがとうございます」紗和はそう答えた。貴臣はほっとしたように微笑んだ。「それならよかった」
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19.対等ではない席

茶の席は、はじめから美しく整えられていた。客間の奥、庭に面した座敷には、低い卓が据えられている。茶器は上品で、菓子皿には季節の干菓子が控えめに盛られていた。障子越しの午後の光はやわらかく、庭の木々の影が畳の上に細く落ちている。けれど、その美しさの中に座ると、紗和の背筋は自然に伸びた。寿美子は上座に座り、貴臣はその少し脇に控えるように座った。紗和は向かいに座る形だったが、その位置は対等というより、見られるために置かれた席のように感じられた。茶は温かく、香りもよい。だが、茶碗を持つ指先にまで、寿美子の視線が届いているようだった。「お口に合うかしら」寿美子が穏やかに言った。紗和は茶碗を置き、頭を下げた。「はい。大変おいしゅうございます」「それはよかったこと」寿美子は微笑んだ。「有馬家では、こうした日々の作法も大切にしております。特別な席だけ整えればよいというものではありません。家の内にいる時ほど、振る舞いはその者の育ちを映しますから」「はい」紗和は静かに答えた。寿美子の言葉は、どこまでも丁寧だった。だが、そこにはすでに教える側と教わる側の線が引かれている。紗和は有馬家に迎えられる婚約者としてここに座っているはずなのに、寿美子の前では、これから直されるべき娘として見られている気がした。貴臣が、少しだけ身を乗り出した。「紗和さん、菓子もどうぞ。今日は少し淡い味のものを用意させたようです」「ありがとうございます」紗和は貴臣の方へ顔を向けた。貴臣の声はやはり柔らかかった。寿美子の言葉で固くなった空気の中に、その声が差し込むと、ほんの少し呼吸がしやすくなる。紗和は菓子を一つ取り、丁寧に口へ運んだ。甘さは控えめだった。口の中でほろりと崩れる。緊張しているせいか、味は少し遠かった。「おいしゅうございます」そう言うと、貴臣は安心したように微笑んだ。「よかった」その笑みに、紗
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20.奥向きに預けられる

有馬家からの申し入れは、午前の早い時刻に届いた。紗和はその知らせを、最初は自分とは少し離れたものとして聞いた。玄関に有馬家の使いが立ち、書状が父の書斎へ運ばれ、女中たちがいつもより声を潜めて廊下を行き来する。そうした屋敷の動きは、婚約が正式に進み始めてから、もう珍しいものではなくなっていた。けれど、その日の書斎の空気は違っていた。昼前、直清に呼ばれた紗和は、襖の前で一度だけ息を整えた。「紗和でございます」「入れ」父の声は穏やかだった。書斎に入ると、直清は文机の向こうに座っていた。脇には美佐乃もいる。美佐乃が書斎に同席している時点で、ただの返書や控えの用ではないことは分かった。紗和は下座に座り、頭を下げた。「お呼びと伺いました」「うむ」直清は机上の書状へ目を落とした。「有馬家から、ありがたい申し入れがあった」紗和は顔を上げすぎないようにしながら、父の言葉を待った。ありがたい申し入れ。その言い方の奥に、すでに答えが決まっている響きがあった。美佐乃が柔らかく口を開く。「有馬夫人が、あなたのことをしばらく有馬家の奥向きで預かってくださるそうです」「有馬家の、奥向きに...でございますか」紗和は思わず聞き返した。美佐乃はうなずいた。「ええ。婚礼の前に、有馬家の家風や奥向きの作法を知っておく方が、あなたのためになるだろうと。有馬夫人自ら、そうお申し出くださったのです」その言葉は、丁寧に整えられていた。しかし紗和の胸は、静かに冷えた。有馬家へ行くことは、もう覚悟していた。婚約者として挨拶に伺い、寿美子の前で座り、有馬家の作法を覚えるよう言われた。けれど、それはあくまで通いの話だと思っていた。榊原家へ帰る場所があり、夜には自室で白藤の簪を手に取ることができると思っていた。しばらく有馬家で預かる。その言葉は、紗和の足元をもう一歩、榊原家の外へ押し出した。
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