All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 21 - Chapter 30

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21.有馬家の朝

有馬家で迎える朝は、榊原家の朝よりも早かった。紗和は、まだ障子の向こうが薄青い頃に目を覚ました。寝慣れない布団の中で、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。天井の木目が違う。畳の匂いも、襖の向こうから聞こえる足音も、榊原家のものではない。有馬家の奥向き。その言葉を思い出した瞬間、胸の奥が静かに固くなった。起き上がると、部屋の中はよく整えられていた。寝具は清潔で、文机も鏡台もある。衣桁には昨日出した着物がきちんと掛けられ、隅には行李が置かれている。粗末な部屋ではなかった。婚約者として預かった娘を泊めるのに、不足があるわけではない。けれど、温かさはなかった。紗和のために選ばれたものというより、必要なものを過不足なく置いただけの部屋だった。文机の上には硯箱があるが、使い込まれた気配はない。鏡台もきれいだが、どこか冷たい。花も飾られていない。窓辺に朝の光が差しても、部屋の空気は少しよそよそしかった。榊原家の自室は、広くも華やかでもなかった。それでも、そこには紗和が長く座ってきた文机があり、母の簪をしまう箱があり、自分の手で整えた小さな順序があった。ここには、それがない。紗和は行李を開け、薄布に包んだ白藤の簪を確かめた。昨夜、身につけることはしなかった。寿美子の目を思えば、初めから目立つものを挿す気にはなれなかった。けれど、荷の中にあると分かるだけで少し息ができた。布越しに一度だけ触れ、すぐに戻す。その時、襖の外から声がした。「紗和様。お目覚めでいらっしゃいますか」低く、落ち着いた女の声だった。紗和は姿勢を正した。「はい。起きております」「失礼いたします」襖が開き、年配の女が入ってきた。背筋の伸びた人だった。髪はきっちりとまとめられ、着物も地味だが乱れがない。顔立ちは厳しく、目元に笑みはなかった。けれど礼は正確で、動きの一つひとつに無駄がない。「女中頭の滝乃でございます。奥様より、紗和様の奥向きでのお世話とご指導を仰せつかっております」
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22.奥様のお稽古

寿美子の部屋へ通された時、紗和は朝の空気がまだ畳の上に残っているように感じた。障子越しの光は淡く、庭に面した座敷は明るいはずだった。床の間には細い枝ものが生けられ、香も控えめに焚かれている。茶器も、座布団も、置かれた文机も、すべてが整っていた。けれど、その整い方は、くつろぎとは遠かった。紗和が膝をついて頭を下げると、上座に座る寿美子は、すぐには声をかけなかった。ほんの一呼吸、二呼吸。その間に、紗和は自分の背筋の角度、袖の位置、膝の揃え方まで見られている気がした。「おはようございます、紗和さん」「おはようございます。奥様」「有馬家の朝は早いでしょう」「はい。けれど、滝乃さんに教えていただきましたので、支度に迷うことはございませんでした」寿美子は穏やかに微笑んだ。「それはよろしいこと。分からないことを尋ねるのは悪いことではありません。けれど、同じことを何度も尋ねるのは、家の者の手を止めることになります」「心得ます」「では、まずは朝のご挨拶から見せていただきましょう」紗和は、深く頭を下げた。畳に手をつき、背を折り、息を整える。榊原家でも礼法は学んできた。客の前で恥をかくほどのことはないと思っていた。だが、寿美子の前では、その自信が薄紙のように頼りなくなる。「少し早いですね」寿美子の声は静かだった。紗和は頭を下げたまま、息を止めた。「はい」「礼は、ただ頭を下げればよいというものではありません。相手より先に心を乱しては、姿勢にも出ます。もう一度」「はい」紗和はもう一度、手をついた。今度は急がないようにした。指先を揃え、背筋を意識し、息をゆっくり落とす。「手の位置が少し近いわ」「申し訳ございません」「謝る前に、直しなさい」「はい」紗和は手を置き直した。寿美子の声は一度も荒れない。叱責というほど強くもない。だが、ほんの少しのずれを逃さない。その静かな
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23.奥向きの控え帳

午後の有馬家の奥向きは、朝よりもさらに静かだった。礼法の稽古を終えたあと、紗和は自室に戻され、少し休むようにと言われた。けれど布団へ横になる気にはなれなかった。畳に座り、膝の上で手を重ねたまま、午前中に寿美子から直されたことを一つずつ思い返していた。礼の角度。茶碗を置く音。返事の間。袖の扱い。どれも、気を抜けばすぐに崩れそうだった。次に同じ指摘を受けてはいけない。そう思うと、休んでいるはずの時間にも、背筋が勝手に伸びる。襖の外から、滝乃の声がした。「紗和様。奥様がお呼びでございます」紗和はすぐに立ち上がった。「ただいま参ります」廊下へ出ると、滝乃はいつものように半歩先へ立った。表情は変わらない。礼儀正しく、乱れなく、けれど決して親しげではなかった。「奥向きの控え帳をお見せします」「控え帳を、でございますか」「はい。奥様が、嫁入り前に奥向きの流れも知っておくようにと仰せです」「承知しました」紗和は静かにうなずいた。案内されたのは、座敷ではなく、奥向きの廊下の奥にある小さな部屋だった。障子はあるが、庭に面していないため光が弱い。文机が二つ、古い棚が一つ。棚には紐で括られた帳面がいくつも積まれている。紙と墨の匂い、少し湿った木の匂いが混じっていた。華族家の客間で見たような華やかな調度はない。けれど、家の内側を支えるものが集められた部屋なのだと、紗和はすぐに分かった。寿美子はすでに部屋にいた。上座に座り、手元の帳面へ目を落としている。紗和が入ると、ゆっくり顔を上げた。「来ましたね、紗和さん」「はい。お呼びと伺いました」紗和は膝をつき、深く頭を下げた。寿美子は満足とも不満ともつかない目で、その礼を見た。何も言わなかったので、午前に直されたところは崩れていなかったのだろう。紗和はそれだけで少し安堵した。「嫁は、座敷に飾っておくだけのものではありません」
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24.滝乃の目

有馬家の奥向きで過ごす日々は、音の少ないまま重なっていった。朝は滝乃の声で始まる。襖の外から決まった時刻に声がかかり、紗和はすぐに返事をする。遅れたことはなかった。けれど、たとえ少し早く起きて支度を整えていても、滝乃は褒めない。「お支度はお済みでございますね」ただ、そう確認するだけだった。紗和も、頭を下げて答える。「はい」部屋に用意される着物は、薄藍や藤鼠、白に近いものが多かった。派手ではない。有馬家の奥向きに置かれる娘として、寿美子が選んだ色なのだろう。髪飾りも控えめにするよう言われ、白藤の簪は行李の中にしまったままだった。持ってきている。その事実だけが、朝ごとに紗和を支えていた。だが、身につけることはできない。寿美子の視線、滝乃の目、有馬家の格。そうしたものが、簪の白さを行李の底へ押し戻していた。朝の挨拶を終えると、紗和は控えの間で膳を取る。寿美子や貴臣と同じ席ではない。奥向きの小さな部屋に、一人分の膳が静かに置かれる。膳は粗末ではなかった。器も整っている。飯も汁も、香の物もある。けれど、女中が置いていく時の手つきには、客へ出すものとは違う簡潔さがあった。膳を置き、必要なことだけを告げ、すぐに下がる。「お済みになりましたら、こちらへお寄せくださいませ」言葉は丁寧だった。しかし、紗和が箸を取る前に、女中の気配はもう廊下の向こうへ消えている。榊原家では、紗和も中心にいたわけではない。けれど、食事の席には家の中の気配があった。華乃の笑い声、美佐乃の静かな声、父が膳へ箸を伸ばす音。自分の席が端にあっても、同じ家の朝に入っていることは分かった。ここでは違う。紗和は、婚約者として迎えられているのではなく、奥向きの端に置かれている。その感覚は、日を追うごとに濃くなった。滝乃たちは、決して無礼ではなかった。廊下で会えば頭を下げる。用があれば「紗和様」と呼ぶ。寿美子の前では、きちんと控える。けれど、その礼の中には、若奥様候補へ向
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25.母上も悪気はない

住み込みの行儀見習いが始まってから、日数を数える感覚が薄れていった。有馬家の奥向きでは、朝も昼も夕方も、すべてが決められた音で動いている。滝乃の声で起き、寿美子へ挨拶をし、礼法を直され、控え帳を写し、茶席の支度を覚える。廊下を歩く時の半歩、膳を置く時の音、返事をするまでの間。ひとつ直されれば、次は繰り返さぬように胸の中で何度もなぞった。それでも、直されることは尽きなかった。紗和は夕方の小部屋で、控え帳に向かっていた。障子の外はすでに薄暗い。庭に面していない部屋には、暮れ方の色だけが廊下越しに差し込み、紙の白さを鈍く沈ませている。机の上には、台所納入品控えと消耗品台帳、贈答品の記録が積まれていた。筆を持つ指先には、細かな痛みが残っている。礼法の稽古で茶碗を何度も置き直し、午後には茶席の支度で菓子皿を数え、滝乃に言われて古い帳面を棚から運んだ。重い帳面を落とさぬよう抱え続けたせいで、腕の奥も鈍く張っている。それでも、字は乱せなかった。字が乱れれば、滝乃は静かに言うだろう。「奥様にお見せするものですから」その一言だけで、紗和は背筋を伸ばすしかなくなる。紗和は、消耗品台帳の頁をめくった。紙。蝋燭。油。石鹸。薬。同じ品名が、月ごとに少しずつ違う顔を見せる。紙は薄くなり、蝋燭の数は控えめになり、薬の納入先は時折変わる。けれど表向きの客間に使うものは、いつも大きくは崩れない。贈答品の記録を見ても、格上の家への品だけは丁寧に保たれていた。有馬家は、見えるところを削らない。そのことだけは、もう何度も帳面の中から浮かび上がっていた。紗和は、筆を止めた。分かったところで、どうするわけでもない。自分はこの家の帳面を任されているのではない。寿美子に命じられ、滝乃に見られながら、ただ清書と照合をしているだけだ。けれど、見えてしまう。人の動きも、物の流れも、言葉の裏も。見えたものを口にしてはいけないと教えられても、見えなかったことにはできなかった。「紗和さん」
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26.白藤を隠す朝

有馬家の朝は、いつも同じ静けさから始まる。紗和は、障子越しに差し込む薄い光で目を覚ました。まだ外は明るくなりきっていない。庭に面していない奥向きの部屋には、朝の気配だけが淡く届き、畳の上にぼんやりとした白さを落としていた。この部屋で眠ることにも、少しずつ慣れてきた。寝具の匂い、襖の向こうを通る女中の足音、滝乃が決まった時刻に声をかける前の短い静寂。どれも最初の朝ほど見知らぬものではない。けれど、慣れたことと、安らぐことは違った。部屋は整っている。文机、鏡台、衣桁、行李。必要なものは揃えられていた。畳も清潔で、障子も破れてはいない。だが、どれも紗和のものではなかった。ここは、紗和のために心を込めて整えられた部屋ではなく、有馬家が預かった娘を置くための部屋だった。仮の場所。その言葉が、朝ごとに胸の奥へ沈む。紗和は布団を畳み、着物を整えた。今日は薄い灰桜の着物だった。奥様のお考えで、派手すぎず、地味すぎぬものを選ぶよう滝乃から言われている。色は控えめで、袖の柄も目立たない。鏡に映る自分は、有馬家の奥向きに置かれた見習いの娘として、確かにふさわしく見えた。ふさわしい。その言葉が、いつも少しだけ苦しかった。紗和は行李の蓋を開けた。奥の方に、薄い布で包んだものがある。そっと取り出し、布をほどくと、白藤の簪が朝の光を受けて淡く浮かんだ。銀の地に、白い藤の花が小さく垂れている。榊原家にいた頃から、紗和はこの簪を目立たないように挿してきた。美佐乃の目を避けるように、華乃の華やかな髪飾りと並べられぬように、髪の奥へひっそりと隠した。有馬家へ来ても、それは変わらなかった。むしろ、前よりも隠す必要がある。奥様は、以前この簪を見て言った。古風なものね。身につけるものにも、嫁ぎ先の格がある。その言葉は、紗和の耳にまだ残っている。責められたわけではない。取り上げられたわけでもない。けれど、母の形見が、有馬家の目で測られたことは確かだった。紗和は簪を手のひらに置
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27.嫁入り道具の検分

昼前の奥向きの座敷には、紗和の荷が並べられていた。それは、荷解きというより、検分に近かった。畳の上には、着物、帯、袱紗、文箱、手巾、櫛、簪を包んだ布、小さな針道具が、順を追って置かれている。滝乃が一つずつ紐をほどき、しわを伸ばし、寿美子の前へ差し出していた。紗和は下座に座り、膝の上で手を重ねていた。自分の持ち物が人の手で広げられていく様子を見るのは、不思議なほど心細かった。どれも高価なものではない。榊原家で与えられたもの、母の記憶につながるもの、自分の手で長く使ってきたもの。それらが、有馬家の畳の上では急に頼りなく見えた。寿美子は、上座で静かにそれを見ていた。「婚礼前には、身のまわりのものも一度整えておかなければなりません」声はいつも通り穏やかだった。「嫁入り後に恥をかかぬように。有馬家の家風に合うものと、そうでないものを分けておくのです。持ち物には、その人の育ちが出ますから」「はい」紗和は頭を下げた。反論する理由はなかった。寿美子の言葉は、すべて筋が通っているように聞こえる。嫁入り前に持ち物を整えること。婚家にふさわしいものを選ぶこと。不用なものを整理しておくこと。どれも、有馬家へ入る娘に必要な支度だと言われれば、その通りなのだろう。けれど紗和には、自分の内側まで畳の上に広げられているように感じられた。滝乃が、藤鼠の着物を寿美子の前へ置いた。「こちらは榊原様からお持ちになったものでございます」寿美子は手を伸ばし、布地を指先で軽く撫でた。「悪くはありません。けれど、少し地味ですね」「はい」「紗和さんには落ち着いた色が似合いますが、落ち着いていることと沈んで見えることは違います。有馬家の席に出るなら、もう少し品よく顔映りのするものを選ばなければ」「勉強いたします」寿美子はうなずき、次に帯へ目を移した。「これは榊原家ではよろしいのでしょうけれど、有馬家へ持ってくるには少し軽いわ」滝乃が黙って帯を畳み直す
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28.白藤の名

「紗和さん」寿美子の声は、座敷の空気を少しだけ冷やした。紗和は顔を伏せたまま、膝の上で手を重ねていた。指先に力が入りすぎていることは分かっている。だが、力を抜けば、そのまま「はい」と言ってしまいそうだった。畳の上には、紗和の持ち物が広げられている。着物。帯。袱紗。文箱。櫛。針道具。どれも一つずつ寿美子に見られ、有馬家にふさわしいかどうかを静かに分けられてきた。地味すぎるもの。軽いもの。古いもの。榊原家ではよくても、有馬家では整え直すべきもの。そのたびに、紗和は頭を下げてきた。けれど、白藤の簪だけは違った。寿美子の手の中で、白い藤の房が小さく揺れている。母の形見が、自分の手から離れたところにある。それだけで、胸の奥がひどく心細くなった。「聞こえなかったのかしら」寿美子は微笑んだまま言った。「その簪は、私の方でしばらく預かります」紗和は唇を開いた。声が出るまでに、少し時間がかかった。「奥様」「何か」「その簪だけは」そこで一度、喉が詰まった。滝乃が部屋の端で、静かに紗和を見ている。寿美子の手には、白藤の簪がある。自分の言葉ひとつで、この場の空気が乱れることも分かっていた。それでも、言わなければならなかった。「どうか、お許しください」寿美子の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。紗和は膝の上の手を握り直した。声を震わせてはいけない。怒ってはいけない。寿美子を責めてはいけない。ただ、渡せないのだと伝えるだけでいい。「母の形見なのです」座敷に沈黙が落ちた。外では昼の光が穏やかに障子を照らしている。畳の上に広がる持ち物も、寿美子の手の中の簪も、すべて静かだった。けれど紗和の胸の中だけは、強く波立っていた。寿美子は、手の中の簪へ視線を落とした。「母君の形見であることは、先ほど聞きました」「はい」「それでも、私は預かると言って
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29.守られない名

白藤の簪を胸元に抱えたまま、紗和は座敷を下がった。廊下へ出ると、昼の光が障子越しに細く伸びていた。有馬家の奥向きは、いつも通り静かだった。女中たちの足音は抑えられ、遠くで襖の開け閉めされる音だけが小さく響いている。何も変わっていない。そう見えることが、かえって紗和には苦しかった。座敷の中で、寿美子は声を荒げなかった。滝乃も表情を変えなかった。白藤の簪は無理に取り上げられず、今も紗和の手の中にある。外から見れば、持ち物の検分が少し滞っただけに見えるだろう。けれど紗和の胸の中では、まだ寿美子の言葉が冷たく残っていた。白藤といえば、商家でしょう。お母上には商家の気配が残っていたのでしょうね。白藤ではなく、有馬にふさわしい女にならねばなりません。紗和は、手の中の簪を強く握りすぎないように気をつけた。強く握れば、細い房を傷めてしまう。けれど力を抜けば、今度は自分の方が崩れてしまいそうだった。「紗和さん」廊下の向こうから声がした。紗和は顔を上げた。貴臣が立っていた。表向きへ続く廊下の手前で足を止め、こちらを見ている。今日も穏やかな装いだった。派手さはなく、けれど品よく整えられた羽織に、有馬家の嫡男らしい静かな育ちが滲んでいる。その顔に、わずかな驚きが浮かんだ。「どうなさいました。顔色が」紗和は反射的に、簪を胸元へ引き寄せた。それを見た貴臣の視線が、白藤の房へ落ちる。すぐに紗和の顔へ戻ったが、何かあったのだと気づいたのだろう。眉がわずかに寄った。その表情を見た瞬間、紗和の胸に小さな期待が生まれた。貴臣様なら。この方なら、分かってくださるかもしれない。母の形見を守りたかっただけなのだと。寿美子の言葉に傷ついたのだと。母の名をあのように言われたくなかったのだと。「貴臣様」紗和は小さく呼んだ。その声が、自分でも少し頼る響きを帯びているのが分かった。貴臣は一歩近づいた。
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30.消されるもの

部屋へ戻る頃には、有馬家の奥向きは夜の支度に沈み始めていた。廊下の行灯に火が入り、障子の向こうに映る光が淡く揺れている。女中たちの足音は昼間よりさらに控えめになり、遠くで膳を下げる器の音が一度だけ小さく響いた。紗和は自室として与えられた部屋へ入り、襖を閉めた。その瞬間、ようやく息をついた。だが、安堵ではなかった。胸の中には、昼間の座敷の空気がまだ残っている。寿美子の静かな声。滝乃の動かない目。貴臣の困ったような沈黙。そして、自分の手の中に戻ってきた白藤の簪。紗和は、行李の前に座った。手の中の簪を、ゆっくり開く。白い藤の房が、行灯の光を受けて淡く浮かんだ。昼間、寿美子の指先で揺れていた時と同じものなのに、こうして自分の手の中に戻ると、少しだけ息がしやすくなる。守れた。その思いは確かにあった。けれど、その安堵はすぐに別の痛みに覆われた。有馬家の席で見かけたら、こちらで預かります。寿美子の声が耳の奥でよみがえる。預かる。それは、取り上げると言わないための言葉だった。ふさわしくないと言わず、整えると言う。侮ると言わず、家の格と言う。寿美子の言葉はいつも整っている。だからこそ、そこに含まれる冷たさから逃げる場所がなかった。紗和は簪の房に指を触れた。この簪は、ただの髪飾りではない。母・千鶴と自分をつなぐ、ただ一つのものだった。榊原家にいた頃、母の名はあまり語られなかった。直清は時折、遠いことのように千鶴を思い出すだけだった。美佐乃のいる家の中で、紗和が母の話をすることはほとんどなかった。千鶴は、いつも薄くされていた。前妻。亡くなった人。今の榊原家の中心にはいない人。そういう扱いを、紗和は幼い頃から覚えてきた。母の記憶を大きな声で求めれば、場の空気が曇る。だから、簪だけをそっと持っていた。誰にも見せびらかさず、誰にも奪われないように、髪の奥に隠すように挿していた。有馬家へ来れば、も
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