All Chapters of アジアンロマンス ~私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから~: Chapter 51 - Chapter 60

63 Chapters

第51話 町の茶楼

「それでさ。いま、王宮はたいへんなのよね」すっかりおばさんモードだ。おばさん同士の井戸端会議のノリで、私は相手を前に喋った。「ふむ。王宮がそんな風に混乱しているのですか。私はまるで知りませんでしたよ」相手は目を丸くした。「内輪の話だから、外へ漏れないのかもしれないけどさ。ちょっとしたスキャンダルよ。いま、こうしてあなたに喋るように、いずれ世間にも知れ渡るわ。王宮の世継ぎ争いの醜さが」目の前にいる崙伖は、お茶の器を握ったまま、ようやくそれに口をつけた。ゆっくりと茶を啜った。ここは、以前利用した茶楼である文人崙伖とこの場所で落ち合った。今夜の夕食は抜いてもらった。一人お忍びで、町まで足を伸ばした。「たしかに皇帝の位を狙おうとする人物が複数出てくるのは分かるし、興味深いですね。私の書く白話小説の題材に採り入れてみましょうかね」「そうよ。それ、いいわ。絶対に面白くて売れるわよ。何せ、現実ですら、ときに汚い、ときにあざとい言動が雅な王宮でまかり通るのよ。派閥が三つもあって、互いが牽制し合う。その力学で王宮の未来に黄色のランプが灯ったとかさ」「はて?黄色のランプとは?」崙伖は首を傾げた。「あ……、ああ。言い間違えた。黄色のランプじゃなくて、何て言うの? 危険な状況を味方に知らせる灯りのようなものって」「それを言うなら、天灯でしょうな。夜間に味方へ危機を伝える灯籠です。空へ飛ばす灯籠なので天灯と呼ぶのです」崙伖は文人らしく意味を解説してくれた。「さすが博識ね。その天灯よ。王宮の未来に暗雲が垂れ込め、危機を告げる天灯が夜空に放たれた。そんな場面って、小説に描いたら盛り上がるんじゃない?」「はい。それはもう書きがいがありますよ。次の次くらいに、それを使わせてもらいますよ」崙伖は懐からくしゃくしゃになった雑紙を出し、それを丁寧にテーブルの上に広げた。携帯している袋から出した筆で、言葉をサササッとメモした。こんなに興奮して喋る美女を前にして、文人というのは如才なく会話をかわし、隙あらば自らの仕事にいかそうとする。ある意味で尊敬に値する。「私もね。こう見えて、皇帝のお子を産んだのよ。獅雷皇子と名づけたわ。獅雷皇子はね。竜光皇子や双渦皇子よりも優秀なの。キリリとした眉に可愛らしい口元で、こう言うの。『この名前はなに?』とか、『どうして空は青いの?』
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第52話 意識が作る現象風景

私は死んだと確信した。死ぬ寸前に士良がチョーとダブり、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」と恨むような目つきで言う姿が、おぼろげに頭に浮かんだ。そのイメージが死ぬ直前の私をいたぶった。これだったのか。気づいても、もう遅かった。郭貴妃が袖で口元を隠して笑っている。この人には負けなくない。悔しい。劉妃が蔑むように目を細めて私を見つめ、こちらを指さしている。この女にはいつか復讐してやる。私を罵倒し、おかげで流産した。あの流産さえなければ、今頃私が王宮の権力を牛耳られたのに。腹立たしい。皇后の妹が腰に手を当てて顎を突き出している。その女と激しく言い争った覚えばないが、三大勢力の一角である。あとから勢力に加わり、迷惑だった。本当に図々しい。それぞれの女が代わる代わる闇の中に登場し、私を嘲笑っている。真ん中に郭貴妃がおり、右隣りの劉妃が郭貴妃の肩に手を回し、左の皇后の妹は郭貴妃の腰に手を回している。三大悪女! この女たちさえいなければ、私が命を落とすことはなかったはず。みんな消えろ! 消えてなくなれ!急に風が吹いた。三大悪女は風にかき消されるようにして消えた。彼女らの立っていた場所に龍と虎と一本角の麒麟が出現した。どれも強そうな野獣である。三頭の野獣のうち、虎が牙をむいて襲って来た。その牙で私の体を引きちぎった。休む間もなく、龍の胴体が体に巻き付き、グイグイと締め上げた。挙げ句の果てには麒麟の強靭な後ろ足で鳩尾あたりを思い切り蹴られた。三頭の攻撃で、私の体はバラバラになった。肉の塊が四方に飛び散った。それが幻か悪夢なのかの区別がつかず、ただ苦しいという感覚だけが強く意識に残った。気づくと、三大悪女や三頭の野獣はどこにもいなかった。意識は宿るべき肉体を失い、虚空をあてもなく浮遊した。浮遊する意識は、グニャグニャしながら形を歪めた。妙な感覚を保ち、意識は時空を彷徨った。暗黒の世界はなにもないのか。なににもぶつからず、移動を続けた。暗闇の上から泣き声が響いた。聞き覚えのある声──。それは、あの獅雷皇子の泣き声だった。泣き声はしだいに近づき、声が高くなった。そして、一瞬で通り過ぎ、意識の塊から遠ざかるにつれ、声は少し低く聞こえた。音が聞こえる
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第53話 転生した私

伸びた意識はバネのように縮んだ。光っている穴が急にワッと大きくなった。私の意識は穴の外へと吸い込まれた。吸い込まれたと同時に、見知らぬ女の子宮にいた女児の命と同化した。新しい命の心の中に意識が宿り、光の外へと出て行くのが直感的に分かった。それは別人に転生した瞬間だった。新しい人格。新しい人生。それが光の向こうで始まるんだ──。もはや梅本香里ではなく、梅皇貴妃でもない。王宮で繰り広げた世継ぎバトルの記憶も、さまざまな男たちに抱かれた愛の記憶もない。普通の赤ん坊として産声を上げ、暗い中から聖なる光に導かれるようにして、外へ出された。オギャー、オギャーと泣きながら、どこかうれしさもあった。新しい人生が祝福の声とともに始まった。赤ん坊として生きるというのは、前世の記憶を頭の抽斗から引き出せないのに等しい。そう言えば、どこかで似たようなことを知っているという既視感も、年を経ないと芽生えない。女児として誕生してからしばらくの間、見知らぬ両親の笑顔を見つめ、つぶらな瞳で笑うか、泣くしかできなかった。どうかするとすぐに腹が空いて、よく泣いた。おしっこしたくなったり、漏らしたりしても、当然のように泣いた。母親の乳をねだるときも、同様に泣いた。泣くたびに母はその腕であやした。私の機嫌は直った。「ヒナ。お前はかわいいね。将来が楽しみだよ。きっとすごい美人になるでしょうね」母は目を細め、私の器量の良さをほめた。美人とか、器量の良さという言葉を認識できなかったが、私を抱きながら目を細めて喜ぶ母たちの姿は、心で受け取れなくとも幼い目に焼き付いた。年を取って、母に「お前は小さいころから可愛かったのよ」と言われるたびに、その当時のこそばゆい感覚が少しだけじわりと蘇った。私は町民の家で育った。赤い着物を着せられ、よちよち歩けるようになった。言葉はまだ少ししか喋れない。たどたどしい言葉を操るだけで、「ヒナ、可愛いね」だの、「よく言えました。賢いね」だのと周囲の大人たちはほめそやした。私が近所のガキ大将をピンチから救ったのは、その頃だった。ちょうど、空が雲に覆われた秋の午後だった。午後と言うのは、お昼ご飯を食べてから、夕飯を食べるまでの間という時間の感覚で分かっていた。近所にいたガキ大将は、いつも子分の男の子三、四人を従えていた。
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第54話 遊べ、働け

私は平凡な女児として町で暮らし、すくすくと育った。まだ自分がどういうタイプの女の子なのか分からないけれど、お花を眺めるのと、猫と遊ぶのが好きだった。少しして、弟が生まれた。弟のぽよぽよした頬を触るのも気持ちよくて好き。母に言いつけられ、食事の手伝いと後片付けはよくやるようになった。家の門の前で猫を撫でていると、近所の男の子が話しかけてきた。「やあ、ヒナ。おはよう」「おはよう」「ヒナは猫が好きか」「うん。好きだよ」「俺も好きだ。猫、触らせてくれ」「いいよ」私は猫の体を抱き上げ、男の子に手渡した。男の子は背中や顎の下を優しげに撫でた。猫は目を細め、うれしそうに鳴いた。「なあ、ヒナ」「なあに?」「ヒナは大人になったら、どうするんだ?」「さぁね。そんなのわかんないわ」「結婚するんだろ?」「たぶんね」「ヒナに結婚相手がいなければ、俺がもらってやるぞ」「そうなの?ありがとう」たわいもないやり取りは、その場限りの口約束だった。子ども同士の約束など、あてにできない。私はたぶん、親が決めた相手と見合いして結婚するだろうと思っていた。やがて、近所の男の子たちに混じって遊ぶようになり、丘に出かけた。丘に着いた。みんなのマネをし、草を摘んだ。草の茎を互いに引っかけ、引っ張り合って勝負した。「草あわせ」という遊びだ。切れた方が負け。単純で、負けてもすぐに次の勝負に挑める。だいたいは勝ったり負けたりの繰り返しになる。中には猛者もいた。同じ草で五連勝くらいする男の子は、胸をそらして腰に手を当てた。「どうだ? 俺、強いだろ?」その男の子には数えるほどしか勝てなかった。彼と仲良くなり、彼のグループに入れてもらえた。町の広場で、そのグループでゲームに興じた。現代のゴルフやゲートボールに似たゲームである。一種のスポーツとも言えよう。地面に穴を掘り、そこに各自が持った棒でボールを打ち、転がして穴に入れる。強い人がいろいろと手取り足取り教えてくれた。私も狭い穴に転がして入れる要領を掴んだ。ゴルフと違うのはボールが一つであり、各プレーヤーがそれを共有する点だ。たくさんボールが地面にあると、どれが誰のボールなのかこんがらがる。一つのボールを、決めた順に打つ。ゆえに、最初の人が一発で入れるときもあれば、穴の周囲をボールが行った
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第55話 私は侍女

「ヒナ。裁縫が終わったら、食事作りの班に加わって」「はい。承知しました」私は奥女中の頭に命ぜられ、居住まいを正した。しばらくして、裁縫仕事が片付いてから、厨房に向かった。厨房にはすでに数人の侍女がいた。赤い紐でたすき掛けし、一生懸命働いていた。「ヒナ、遅いよ。まだ切ってない野菜がザルに三つある。とにかく、それを大急ぎで切ってちょうだい」「はい。そのようにします」「グズグズするんじゃないよ」私より古株の侍女は野太い声で仕事を割り振った。厳しい目つきで。小さい頃の遊びで培った手先の器用さは、大人になるときに役立った。私は自分の住む地方の豪商の屋敷に住み込みで働いていた。奉公に出され、侍女として屋敷で働いた。日々、商人の主人の身の回りの世話や家事などをこなした。同時に、礼儀作法も叩き込まれた。仕事はキツかった。慣れると要領を覚えた。他の侍女たちと会話を交わしながら、簡単な作業は慎重に、難しい作業は他の人の協力を仰いで、ミスしないように丁寧に進めた。「洗い終えました。そこの竈を使います」「口を動かす暇があれば、さっさと手を動かす」古株の先輩の指示は厳しい。「はい」額に汗を浮かべ、切った野菜を流水で洗い、竈の鍋に放り込んだ。水を入れ、ぐつぐつと煮込み、調味料を足して味付けした。「できたかい?」「ええ。味もいいと思います」「どれ。あんたの舌は信用しないよ。私が味見する。どきな」古株は肘で私の体をどんと押した。竈に立ち、鍋から菜っ葉を摘まみ上げ、一口食べた。「よし。じゃ、火から下ろして。次は芋の皮むきよ」「はい」大皿にこんもり積み上げられた茶色の芋があった。フー、とため息をついた。短い包丁で芋の皮をむいた。いっぺんで切れる葉物野菜と違い、芋の皮むきは一度にできない。この地味な工程はいちばん骨が折れる。下っ端の侍女にその役目が回って来るのは仕方ない。「早くやりなよ」古株の声が背中越しに刺さる。厨房で働く侍女たちの間に緊張の空気が張りつめる。作業を見守り、矢継ぎ早に指示を飛ばす古株の存在が炊事担当の侍女に重くのしかかかる。予想以上に芋の皮むきに手間取った。すると、他の侍女が横から私の腕にぶつかった。「あんた、遅いよ。アタイが代わる。床を掃除しな」「は、はい」別の先輩侍女に作業の中断と別作業を言い
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第56話 皇貴妃に仕える

ある日、豪商の主人の部屋に呼ばれた。膝をついて伏せ、仕事のミスで怒られるのかと肝を冷やした。「面を上げろ。ヒナ」「はい」私は主人の命令に従った。主人はいつものように落ち着いた表情だった。「ヒナを呼んだのは他でもない。器量はよいし、丈夫でよく働く。ワシはお前を王宮に『献上』しようと思うとる」「ありがとうございます」「王宮で生活することになるが、何か訊いておきたいことなどあるか」「王宮では何をすれば」「お前は女官になる。身の回りの世話じゃ」「分かりました」「では荷物をまとめるがいい。王宮に行きなさい」「はい」「しっかり勤めるのじゃぞ」「もちろんです」こうして私の王宮行きは決定した。このまま豪商の屋敷にいて働き続けるものと思い込んでいた。ずいぶんあっさり、出世の幸運が訪れたものだ。生来の容姿端麗ぶりでよかったと胸を撫で下ろした。王宮に行ける。舞い上がった。王宮で女官として働く、と周囲に漏らした。「いいわね。羨ましいわ。頑張ってね」「たまには町に戻って来てよね。王宮の暮らしぶりを手紙に書いて寄越してほしいわ」「ヒナなら行けると思ってた。しっかり働いて王族に尽くしなさいよ」みんなは口々に温かい言葉をかけてくれた。豪商は地方で権力を握るだけあって、王宮との結びつきが強い。私のように賀の王宮に「献上品」として推挙される者は、けっして珍しくなかった。前日までに荷物をまとめ、当日に歩いて王宮に向かった。豪商の侍女として奉公し、王宮の女官に出世できたのはうれしかったし、誇らしかった。当日は朝からよく晴れ、心地よい空気を吸いながら気持ちよく町を後にした。川にかかる橋に差しかかった。橋を渡るとき、ふと恐ろしい出来事がフラッシュバックした。私の前世で、この場所で斬られたようなイメージが浮かんだ。頭を振り、現実を見据えた。自分に言い聞かせた。「だいじょうぶよ、ヒナ。私は生まれ変わったの。心配しなくていい」橋を渡ろうとして、王宮から来たと思しき兵士数人とすれ違った。橋を渡り終え、しばらく歩いて王宮に着いた。立派な門と石の壁で囲まれている。「ここが王宮か。初めて見るわ。聞きしに勝る見事さね」門番に来た旨を告げた。自分の名前と豪商に推挙された事情などだ。門番はそれを聞き、「入れ」と告げ、門を開けてくれた。中に入った。広い
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第57話 ケンカ上等

賀の王宮で女官として働く日々は忙しかった。仕事はしんどかったが順調だった。求められてやる仕事にやりがいを感じた。李皇貴妃の身の回りの世話をするだけでよかった。たまに女官同士で協力して何かを準備したり、手伝ったりするときもあった。それでも、李妃の世話を優先した。働き始めてしばらくたつと、女官同士の関係が気になった、横同士のつながりで仲の良い女官は多い。それでも、皇帝に付いていた女官はお高くとまっていた。「ヒナ。そこ、どきなさいよ。皇帝が入浴されるのよ」「はい。そうします」私は答え、皇帝と皇帝付きの女官のために、李皇貴妃の入浴後の片づけを急いで終わらせた。皇帝は偉い。しかるに皇帝付きの女官も偉い、とは限らない。身分は同じ女官だ。女官が女官を顎で使うのには抵抗がある。心中で不満を吐き出し、わだかまりが渦を巻く。と、女官に怒られた。「そこ。タオル、落ちてるわ。さっさと拾いなさいよ。皇帝がいらっしゃるのよ。みっともない」「はい、すみません」分かっている。タオルを拾いながら、女官を呪った。そのタオルは私たちのではない。皇帝付きの女官が、隙を見てそっと床に落としたのだ。ここで逆らうと、あとあと面倒だ。そんな風に判断した。その嫌がらせを甘んじて受け入れた。そうしたトラブルはしだいに目につくようになり、私の心を蝕んだ。仲のいい別の女官に打ち明けた。その女官は私を慰めてくれた。ジンという名の女官である。ジンはため息交じりに言った。「私にも似たような悪さをしてくるのよね。頭にきちゃう」その言葉を聞き、少し心が和らいだ。仲間の存在だけでホッとする。私は少し考え、言った。「でも、私、思うの。その女官が悪いわけじゃないんだ、と。たまたま皇帝付きになったから、自然と威張るようになったけど、本当はそうやって孤立し、寂しいんじゃないかってね」「ヒナ。あなた、優しい人ね」ジンは私の手を軽く握った。その後、ジンとはよく会った。会って、互いの悩みや夢などを語り合った。また、私たちより身分の劣る一般女官との軋轢も生じた。一般女官は王宮全体に関係する仕事をこなし、縁の下の力持ちである。洗濯や調理。清掃と裁縫。それぞれが得意な専門分野を受け持ち、スキルがある。それでも扱いは低い。そのせいだろうか。一般女官はときに、私たち上の女官に
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第58話 満月に漲る力

女官がすっと腕を出した。反射的によけた。ふっと背後に人気を感じた。その気配は本物だった。私を後ろからがっちりと羽交い締めにした。前にいる女官と後ろの人間。二人だ。挟み撃ちに遭った。前の女官は紐のようなものを手にしていた。洗濯、あるいは裁縫の女官か。両手で紐を強くひき、水平にピンと張った紐が目の前にある。背筋がゾクゾクし、額に汗がにじんだ。女官は、いきなり私の首に紐を押し付けた。喉を圧迫され、私は喘いだ。ウッ、グ、グ。息が苦しい。女官の手をなんとか払おうとした。女官はなおも、ピンと張った紐を引いて、グイグイと喉を締め付ける。本当に苦しい。紐をどけようとするも、羽交い絞めで手が使えない。目をつぶった。これが女官のすることか。怒りがこみ上げた。タイマンなら負けないのに。涙が滲んだ。後ろで動きを封じられ、反撃できない。それでも、やってやる。怒りと悔しさが体を動かした。私は前で勢いをつけ、その反動を利用して、片足を思い切り後ろに振り上げた。「痛っ!」後ろの人間が呻いた。上手くいった。うまい具合に、足が相手の股間に入った。相手は怯んだ。私は手をほどいた。自由になった手で、羽交い絞めにした人間の頭をしこたま殴った。満月がその人の顔をうっすらと照らした。竜光皇子──。直感で分かった。王宮に来て、四人の皇子の顔は知っていた。獅雷皇子が次期皇帝の最有力候補であり、残りの三人が後塵を拝しているのを知っていた。なぜ竜光皇子が私にひどい仕打ちをするのか。そのときは全く見当がつかなかった。月光に照らされた竜光皇子の顔は醜く歪んだ。細い目が見開かれた。目つきはおぞましかった。よほど私に恨みを持っていたのだろう。皇子は股間を押さえ、悶絶していた。驚いて攻撃の手が止まった女官は、紐を捨てて私を殴りつけた。私も殴った。女同士の意地のぶつかり合いだ。お互いに数発殴り合った。しつこい女官に対し、私は相手の髪の毛を掴んで思い切り引っ張った。女官は頭髪を押さえ、悲痛な声を出した。「やめて、やめて」うろたえる女官。髪を引っ張る私。女官の訴えにかまわず、髪を掴んで引きずり回した。とどめとばかり、狙いをつけて女官の腹にパンチを見舞った。憎しみのこもったパンチは確実に女官を痛めた。三発目のパンチが女官の急所に
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第59話 危機一髪

熱が下がり、どうにか女官の仕事に戻った。一般女官との対決に勝ち、私に敵意をむき出しにする女官はいなくなった。「ヒナ。李妃様がお呼びだ。鷺の間へ行け」私の部屋に召使が来て、そう声をかけた。午前中に詩吟の予定が入っていた。詩吟に出る李妃様を鷺の間へ案内したのは、二時間ほど前だった。「何かあったのかしら」私は首をひねった。詩吟の会はいつも二時間では終わらない。たいていお昼頃までかかるのは通例である。んだ。李妃の用事だと信じ、急ぎ足で廊下を歩いた。前から竜光皇子が一人で歩いて来た。私は頭を下げ、廊下の脇にどいた。竜光皇子は私の前を通り過ぎた。私は皇子の来た方向へ歩こうとした。まさにそのときだった。通り過ぎたはずの竜光皇子が引き返し、急に私の背後に回った。えっ!?私は狼狽した。この前、夜の庭でこの皇子は私を羽交い絞めにしたばかり──。あり得ぬことだが、その再現が行われた。竜光皇子は、またもや男の強い力でねじ伏せ、私を羽交い絞めにした。「やめてください!大声を出して、人を呼びますよ!」「フフフ。やれるものなら、やってみよ」彼は小声でうそぶいた。そして、不敵に笑った。そこへ、タタタタタと足音が聞こえた。廊下の前方からだれかが走り寄って来る。何と!相手は年を取った郭貴妃である。目を吊り上げ、こちらを睨んでいる。その手に短刀を握り締めている。両手を短刀に添え、胸の下で固定している。初老の郭貴妃は、廊下で羽交い絞めに遭っている私をめがけ、まっしぐらに走り寄る。「や、やめてー!」叫び声がかすれた。「ヒナ。いえ、梅妃の生まれ変わりめ。いざ、覚悟!」郭貴妃はたしかにそう叫んだ。郭貴妃が至近距離に近づき、目の前に短刀がキラリと光った瞬間だった。前世の記憶がワーッと見えない波になって押し寄せた。三皇子が乱立した経緯。王宮の人間関係が分断され、三つの勢力に分かれたこと、趙士良の仇討ちに遭い、前世の私が斬り殺されたこと。郭貴妃と対立し、恨みを持たれたこと。さまざまな因縁があった。だからこそ、郭貴妃親子は私を殺そうとしている。彼らは、私が因縁の梅妃の生まれ変わりだと見抜いていたのだ。まんまと郭貴妃親子の計略に引っかかった。また死ぬのか。諦めた。諦めて、目をつぶった。悲しくて、目に涙がたまった。い
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第60話 最高の罰、再び

殺された。だれも助けてくれなかった。そう思った。しかし、そんな風に思うのはまだ早かった。寸前で助かった。死ぬと思った刹那に、走馬灯が見えた。走馬灯は死ぬ間際で見るもの。その走馬灯の世界で、空から何かがこちらに向かって来る。鳥、か。いや、もっと大きい。馬?空から来たのは、天馬だ。天馬に乗った人。その人は、芙楽王だった。「芙楽様」女官ヒナとして、なぜ彼の名前を、姿を知っているのだろう。我ながら不思議だ。ちゃんとした理由などない。ただ、なんとなく、前世に深い縁があった、と頭で分かった。芙楽は透明な体で馬に乗っていた。クラゲのように透き通り、輪郭だけがはっきりしていた。馬にはペガサスのように大きな翼が生えていた。そんな風な天馬だ。天馬に乗って駆けてきて、芙楽は手に槍を持っている。芙楽の乗った天馬は、地上に舞い降りた。芙楽は馬上で槍を構え、私に向かって叫んだ。「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」その台詞も聞き覚えがあった。台詞が頭の中でガーンと響いた。女官ヒナとしての記憶に前世の梅妃の記憶がかぶさる。もう何が何だか分からない。でも、思った。もはや、最高の罰を受ける運命から逃れられない、と。私は芙楽を平気で裏切ったんだわ。あの戦いで、芙楽は賀の王宮に突入した。芙楽は吊り天井の罠にはまった。天井に付いた杭により、八つ裂きになって死んだ。梅妃としての私には、どうしようもなかった。その後で、馬奈を見捨てて賀に寝返った。それが死んだ芙楽にとって無念であり、「平気で裏切った」ことになるのね──。その台詞を聞き終わるや、槍の刃先が私の心臓めがけて刺そうとする。槍が心臓を突き刺した。郭貴妃の短刀はどこへ行ったのか。短刀は視界から消えた。郭貴妃の姿も見えない。短刀が体に入るよりもかなり前に、芙楽の持つ長い槍が私の体を貫いた。ああ、これでいいのね。平気で裏切った私。そんな女にふさわしい、最高の罰。女官ヒナとして、だれかを愛したことはなかった。しかし、女同士で醜いケンカをし、相手を殴りつけた。竜光皇子にも暴力をふるった。私は女官として、イケナイ女だ。この槍の一突きをもって、この世から消える。短い生涯を終えるのね。私の父。私の母。ごめんなさい。親不孝な娘で、
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