All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 91 - Chapter 100

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第21話 伯爵家の本性①

 夜が明けたあとも、リリアーナの胸の奥には、前夜の涙の熱がそのまま残っていた。 泣いたあとの朝は、いつも少し変だ。まぶたは重く、頬の皮膚は薄く張りつき、喉の奥にはまだ泣き声の擦れが残っている。鏡の中の自分は、腫れをどうにか抑えたつもりでも、よく見れば一目で分かる顔をしていた。誰かに「昨夜は眠れましたか」と尋ねられたら、その瞬間に崩れそうな顔。 けれど、それでも朝は来る。 侯爵邸の朝は、前世と同じように静かだった。  磨かれた廊下。  遠くの食堂からほとんど音を立てずに運ばれる銀器。  暖炉に足される薪のかすかな音。  窓の外で、枝先を揺らす春前の風。 美しく整っているのに、どこか人の体温が薄い。  前世のリリアーナは、その静けさが怖かった。  今のリリアーナは、その静けさの意味を少し知っている。  整えられたものは、時に守りでもあり、時に人を孤独にする檻でもある。 朝一番に運ばれてきたのは、薄いスープと、柔らかく煮た果物、それに蜂蜜を落とした薬湯だった。エマは何も聞かず、ただ主人の手元へそれらを静かに整える。昨夜、どれほど泣いたかも、何を聞いたかも、踏み込まずにいる。その慎重さがありがたく、同時に、余計に涙を誘いそうだった。「少しだけでも」 エマがそう言って、スープの匙を手元へ寄せる。 リリアーナは頷いた。  昨日よりは、食べなければいけない気がした。  体を起こしておかなければ、きっと今日の話を最後まで聞けない。 話。 そうだ。まだ終わっていない。 前夜、セドリックは「最初から愛していた」と告げた。  リリアーナは泣いた。怒った。  知っていたなら生き方が変わっていた、と嗚咽した。  でも、それで全部が尽くされたわけではない。 どうして言わなかったのか。  どうしてあんな十年になったのか。  そこにはまだ、彼が口にしきっていない部分があると分かっていた。 愛していた。  でも黙っていた。  その間に何があったのか。 そこを聞かなければ、きっと前へ進めない。 スープをひと口飲み込む。  温度が喉を通る。  玉ねぎの甘みと少しの塩気。  ちゃんと味が分かる。  それだけで、少しだけ現実へ戻ってこられる気がした。「お嬢様」 エマが静かに言う。「侯爵様より
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第21話 伯爵家の本性②

 その言葉に、リリアーナは毛布の上で指先を強く組んだ。 狙われやすい。  弱点。  標的。  そういう言葉で、自分が前世にどんな位置へ置かれていたかを、今さら明確に聞かされる。「婚約の段階で、既に君の実家は侯爵家の名をどこまで利用できるかを探っていた」 「……」 「母も、君を気に入ってはいなかった」 「知ってるわ」 「知っていた」 「だから?」 「私は、表立って君を庇えば庇うほど、君へ標的が集中すると判断した」 その一言は、ずっと胸のどこかで予感していた種類の答えだった。 守るため。  見せないため。  弱点にしないため。 きっと、そういう理屈はあったのだろう。  そして、それは完全な嘘ではない。侯爵家ほどの家なら、表に出る感情ひとつが交渉材料になる。妻への執着が見えれば、そこへ刃が向く。前世のリリアーナにだって、それくらいの理屈は分かる。 分かる。  でも。「だから、何も言わなかったの」 「……ああ」 「熱を出しても」 「……」 「夜会のあとも」 「……」 「お義母様が私を削る時も」 「……」 「全部、“標的を集中させないため”?」 その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。  彼の沈黙は、今はもう単なる逃避には見えない。  けれど、沈黙が人を傷つけることを、二人とも知っている。「最初は」 ようやく落ちた声は低かった。「最初は、本気でそう思っていた」 「最初は?」 「公の場で距離を取る。必要以上に側へ置かない。妻としての権限は与えるが、特別な感情は見せない。それが一番安全だと」 「……」 「実際、最初のうちはそれで何人かの目は逸れた」 「……」 「だから、正しい判断だと思った」 正しい判断。 その言葉の冷たさに、リリアーナはふっと笑いそうになった。  もちろん愉快だからではない。  前世の自分を形容するのに、なんて乾いた言葉を使うのだろうと思ったからだ。「正しい判断」 「……」 「それで私は、一人だったわ」 セドリックの目が、わずかに揺れる。「知っている」 「知っていた、でしょう」 リリアーナは言い直した。「当時から」 「……ああ」 「じゃあ、いつから気づいていたの」 「何に」 「その“正しい判断”が、私を孤独にしていたことに」 問いは静かだった
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第21話 伯爵家の本性③

 ゆっくりと、噛みしめるように言う。  まるで、自分でも今ようやく本当の意味で理解したことを、言葉に乗せているみたいに。 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で反芻した。 正しい判断。  正しい愛し方。 前世の彼は、たぶん前者しか見ていなかったのだろう。  家を守る。  敵を増やさない。  感情を見せない。  妻を表向きの弱点にしない。  その全部は、侯爵としては理にかなっていたのかもしれない。 でも、妻である自分は人間だった。  体面では生きられない。  必要な敬意だけで満たされるわけでもない。  熱を出した朝に欲しいのは薬だけではなく、そこにいてくれる気配だった。  夜会のあとに欲しいのは、完璧な護衛ではなく、「大丈夫か」の一言だった。 その違いを、ようやく彼は理解したのだ。 遅すぎる。  どうしようもなく。  でも、理解したこと自体は嘘ではないと分かる。「今さらね」 ぽつりと呟く。  その一言の中に、責める気持ちも、諦めも、そして少しだけ切なさも混じる。「ああ」 「今さら、そんなこと言われても」 「分かっている」 「私は前の私を、もう取り戻せない」 「……」 「あの頃の私は、あなたが庇ってくれているなんて知らなかった」 「……」 「敵がいることも、家の中が腐っていることも」 「……」 「ただ、愛されていないと思っていた」 「……」 「それが、私の現実だったの」 セドリックの喉が小さく動く。  それが苦しいのだろう。  でも、苦しいだけでは足りない。  ちゃんと見てほしい。  自分がどんな現実を生きていたかを。「私は、あなたの“正しい判断”の外側で、ずっと一人だった」 「……ああ」 「それを、あなたは守るためだと思っていた」 「……」 「ならやっぱり、ひどい人よ」 そう言うと、今度はセドリックがほんのわずかに口元を歪めた。笑ったわけではない。苦く、自嘲するような、ほとんど笑いにすらならない動きだった。「否定できない」 「否定してほしいわけじゃないわ」 「……」 「ただ、分かってほしいだけ」 「何を」 「理屈が正しくても」 「……」 「私は救われなかったってことを」 その一言に、彼は深く頷いた。 前世なら、その頷きも見えなかっただろう。  見ていても
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第22話 侯爵夫人にはならないけれど①

 エヴェルシア伯爵家を切り捨てると決めた翌日、リリアーナは驚くほど静かに目を覚ました。 泣き疲れた朝の重さも、怒鳴ったあとの空虚さもなかったわけではない。胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。だが、その痛みは昨日までとは少し違っていた。曖昧な苦しさではなく、形のある痛みだ。家族だと思っていたものが、最初からそうではなかったと知ってしまったあとに残る、静かな傷。 窓の外は白い朝だった。雲はまだ多いが、薄い光は確かに差している。庭木の先には、小さな芽がいくつも見えた。春は遅い。遅いけれど、止まってはいない。 寝台の上で身を起こし、リリアーナはしばらくその光を見ていた。 伯爵家の本性。  父の書いた走り書き。  継母の手紙。  商会とのやり取り。  それらを胸の中でもう一度なぞってみても、気持ちは揺らがなかった。 自分は売られていた。  前世でも、今世でも。  娘の幸せという柔らかな布を被せられていたけれど、中身は金と体面だけだった。 そう分かってしまえば、逆に迷いは消える。  切るべきものを切る。  離れるべき場所から離れる。  それだけだ。 でも、もう一つだけ、切れないものが残っている。 セドリック。 その名を心の中で呼ぶだけで、胸の奥が少しだけざわめく。  前なら、ただ冷えるだけだった。  今は違う。  怒りもある。  悲しみもある。  そして、それだけでは足りないと知ってしまった苦しさがある。 前世で最初から愛していた。  守るための沈黙だった。  正しい判断と正しい愛し方は別だった。  そう言われて、許せるわけではない。  けれど、知ってしまった以上、昔みたいに「冷たいだけの男」とも言い切れない。 それが一番厄介だった。「お嬢様」 エマがそっと入ってくる。  盆の上には朝のお茶と、小さな白い封筒があった。 リリアーナはその封筒を見た瞬間、妙な予感を覚えた。  伯爵家の紋章ではない。  母方の家の印でもない。  だが、白い紙へ押された封蝋の形を見れば分かる。 ヴァレンティア侯爵家。「……また?」 「はい」 エマの声音は慎重だった。  たぶん、昨日のことを知っているからだろう。伯爵家の本性を突きつけ、父と継母へ決別のような言葉を吐いた娘に、今日はまた侯爵家から手紙が来る。普通なら、心
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第22話 侯爵夫人にはならないけれど②

「応接間ではなく」 「え?」 「庭の東屋にして」 言ってから、少しだけ息を吐いた。 侯爵邸の中の部屋は、どうしても前世の空気を呼び込みすぎる。  沈黙の食堂。  白い寝室。  冷えた廊下。  整いすぎた客間。  どこもかしこも、思い出が静かすぎて息が詰まる。 外のほうがいい。  たとえまだ春の冷えが残っていても。  風があって、空が見える場所のほうが、たぶん今はましだ。「かしこまりました」 エマが小さく頷く。  そのまま彼女は部屋の中のカーテンを少し開けた。  白い光が広がり、窓辺に活けられた淡い花がかすかに揺れる。  昨夜まではその光すら痛かったのに、今日はちゃんと光として見えた。     * 昼前、東庭の東屋にはまだ冷たい風が通っていた。 屋敷の裏手にある小さな庭は、社交用に見せる表庭ほど派手ではない。低木と、季節の草花、それに石造りの細い小道。奥には小さな池があり、春先の薄い空を鈍く映している。東屋の屋根へは白い蔓がまだ葉をつけきらず、骨組みだけが繊細な影を落としていた。 椅子と小卓が置かれ、暖を取るための小さな炭火鉢が用意されている。エマが念入りに敷物を整え、主人の膝へ掛けるための厚手のショールも持ってきてくれた。「冷えたらすぐお戻りください」 「ええ」 「本当に」 「大丈夫よ」 「侯爵様がお相手だからといって、無理にお顔色を保たなくていいのですよ」 「……そうね」 その一言に、少しだけ笑ってしまう。  侯爵様が相手だから、ではない。  むしろ相手が彼だからこそ、顔色を保ちたくなくなる。  怒りたいし、泣きたくもなる。  そして、そのどちらもきっと見られてしまう。 セドリックは時間ぴったりに来た。 黒に近い濃紺の上着。風を避けるためか、襟元はきっちり留められている。だが今日の彼は、いつもよりほんの少しだけ整いが甘く見えた。髪の一筋が、額の近くでわずかに乱れている。たったそれだけのことなのに、昨夜からほとんど眠っていないのだろうと分かった。 リリアーナは立たなかった。  座ったまま、彼が近づいてくるのを見る。 セドリックも無理に手を取ろうとはしない。  東屋の入口で一度止まり、軽く会釈してから中へ入ってくる。  その慎重さが、昔にはなかったものだと知っている。  昔なら、こういう
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第22話 侯爵夫人にはならないけれど③

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。  愛がある。  そう、もうそれを完全には否定できないところまで来てしまった。  彼が最初から愛していたと言ったこと。  それが嘘ではないと、今はもう分かっている。  だからこそ、余計に厄介なのだ。 もし彼を憎むだけで済んでいたなら、どれほど楽だっただろう。 セドリックは低く言った。「私は」 「分かってる」 「何を」 「今度こそ違う愛し方をしたいんでしょう」 「……」 「沈黙じゃなく、言葉で」 「……ああ」 「でもね」 リリアーナは、そこでほんの少しだけ視線を落とした。  池の水面が見える。  白い空を映して、どこまでも曖昧な色だ。「私は、あなたを完全な他人としても見ていないの」 その言葉は、自分でも驚くほど静かに出た。 セドリックが動く。  驚いたのか、痛んだのか、その両方か。  でも今度は、リリアーナのほうが視線を逸らさなかった。「他人だったら、もっと簡単に拒めたわ」 「……」 「知らなかったら、もっと冷たくできた」 「……」 「でも、知ってしまったから」 胸の奥がじくじくと痛む。  怒りと、悲しみと、どうしようもない情が、全部混ざった痛み。「あなたを憎みたいのに」 「……」 「知ってしまったから、憎みきれない」 それは、たぶん今の自分に言える、最も正直な言葉だった。 愛しているとは言えない。  許したとも言えない。  やり直せるとも思わない。  でも、冷たいだけの男として切り捨てることも、もうできない。 その宙づりの苦しさを、今やっと言葉にできた。 セドリックはしばらく何も言わなかった。 言葉がないのではない。  たぶん、今の言葉以上に、自分へ正確に届いたものがなかったのだろう。 やがて、低く落ちる。「それでも」 「ええ」 「私は、諦めきれない」 「そうでしょうね」 「……」 「でも、婚約は無理よ」 きっぱりと言う。  ここだけは、曖昧にしたくなかった。「そこを曖昧にしたら、私はまた流される」 「……」 「苦しい保留ならできるかもしれない」 「……」 「でも、侯爵夫人にはならない」 セドリックの喉が動く。  彼は痛みを飲み込む時、そこが少しだけ目立つ。  それを知ってしまったことにも、また少し
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第23話 はじめての共闘①

 その提案を、リリアーナは最初、冗談かと思った。「関係修復したように見せる?」 伯爵家の小さな応接間は、午後の薄い光で静かに満たされていた。春は近いはずなのに、今日の空はまだ冬の名残を引きずっていて、窓の外の庭木もどこか色を失ったように見える。暖炉の火は小さく、消えきらない程度にくすぶっているだけだった。火の匂いと、紅茶の湯気、それに窓辺へ置かれた白い花のごく薄い香りが、部屋の中で静かに混ざっている。 その静けさの中で、セドリックの提案だけが妙に浮いて聞こえた。「表面上だけだ」 彼はいつものように整った顔で言う。けれどその目だけは、ここ数日の彼らしい、少しも楽観していない色をしていた。「先日の襲撃は早すぎた」 「ええ」 「前世よりも」 「……そうね」 その確認を、今ではもう二人とも避けない。 前世。  同じ夢。  同じ悪夢。  同じ死。 その言葉を共有しているという事実が、まだ時々現実感を失わせる。けれど、共有しているからこそ、今は話が早い部分もある。あの襲撃が前世と違っていたこと。時期も、手口も、狙いの絞り方も。偶然では片付かないと、もう二人とも知っていた。「侯爵家の内側に、まだ誰かいる」 「……あなたは、前からそう言っていたわね」 「確信に近い」 「伯爵家だけじゃなく」 「ああ。伯爵家だけなら、あの早さにはならない」 リリアーナは膝の上で指を組んだ。手袋越しでも、自分の指先が少し冷えていると分かる。襲撃の記憶はまだ新しい。荷車の不自然な位置、馬のいななき、空気を裂く矢の音、そして誰より早く駆けつけたセドリックの声。そのどれもが、まだ耳の奥へ残っていた。「だから、表面を変える必要がある」 セドリックが低く言う。「敵が見ているものを」 「私たちの関係を?」 「そうだ」 あまりにまっすぐな言い方で、リリアーナは小さく息を止めた。 私たちの関係。 それが今、どんな形なのか、自分でもうまく定義できない。拒絶した。婚約は断った。侯爵夫人にはならないと、はっきり言った。それでも彼を完全な他人として切り捨てることもできず、同じ悪夢を知ってしまった者同士として、苦しい保留のまま繋がっている。 そんな曖昧で、痛くて、少しも美しくない関係を、今度は人前で「修復した婚約者同士」のように見せる。 滑稽
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第23話 はじめての共闘②

 セドリックは机の上へ小さな紙片を三枚置いた。  それぞれに、簡単な日取りとルートが記されている。  あまりに手際がよくて、リリアーナは一瞬だけ呆れてしまう。「……随分慣れているのね」 「慣れたくはなかった」 「そうでしょうね」 「だが必要だ」 必要。  その言葉に、前よりは少しだけ違う温度を感じる。  以前の彼は、その一言で全てを片づけていた。  今の彼は、“必要だから”と口にしながらも、それだけでは自分が納得しないことを分かっている顔をしている。「私がやることは」 「今夜の夜会で、私と並ぶ」 「……」 「私が耳打ちするふりをした時、少しだけ表情を変えてくれ」 「表情?」 「どの婦人や使用人がそれを見ているかを、こちらで拾う」 「それだけ?」 「それだけではない。帰り際、君は一人の婦人にだけ、三日後の早朝、と聞こえるように言う」 「誰に」 「ジュリアンヌ夫人だ」 「……お義母様寄りの」 「そうだ」 「もう一つは?」 「北門側の話は、母に」 「あなた、自分のお母様を餌にするの」 「今さらだ」 静かな声音だった。だがその中にある冷たさは本物だ。  母を疑いたいわけではない。  けれど、信じきることもできないのだろう。  前世で何が起きたのかを知っている以上、その冷たさは理解できる。理解できてしまうことが、また少し痛い。「夜明け前の出立は?」 「私が、あえて護衛頭にだけ言う」 「あなたが」 「ああ」 リリアーナはしばらく黙った。 共同作戦。  餌。  夜会。  同じ夢を見る人と、同じ敵を炙り出すために並んで立つ。 前世の自分が聞いたら、きっと信じない。  でも、今の自分にはもう、完全に拒むこともできなかった。 あの襲撃は、自分を狙った。  次があるかもしれない。  その前に内通者を見つけられるなら、やるべきなのだろう。  侯爵家のためではなく、自分が生き延びるために。「分かったわ」 やがて、リリアーナはそう言った。「やる」 「……いいのか」 「よくはないわ」 少しだけ皮肉を込めて返す。「でも、ここまで来て“怖いから嫌”なんて言っていられないもの」 「怖いのか」 「怖いに決まってるでしょう」 思わずそう言うと、セドリックの目が少しだけ動いた。  驚いたのではな
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第23話 はじめての共闘③

「覚えているな」 低い声で、セドリックが言う。「夫人二人と、あなたのお母様」 「ああ。ジュリアンヌ夫人、母、護衛頭だ」 「順番も」 「分かっている」 「……」 それだけの確認なのに、近い。  近すぎる。  控えの間の灯りは落とし気味で、外の喧騒は扉一枚向こうにある。  ここで彼が手を伸ばせば、何かが変わってしまいそうな距離だった。 だがセドリックは、すぐには触れなかった。  ほんの一拍だけためらい、それからゆっくりと手を差し出す。「行くぞ」 リリアーナはその手を見た。 骨ばっていて、指が長く、男の手だと分かる。  前世でも何度かその手を取った。  舞踏の時。  階段で。  馬車へ乗る時。  でもそのどれも、形式の中の接触だった。  今のこれは、形式でありながら、同時に共犯の合図でもある。 指先が少しだけ震える。  それでも、リリアーナは自分からその手を取った。 セドリックの指が、わずかに強く閉じる。  すぐ離せる程度の強さ。  でも、逃さないとも言える強さ。「……怖いわ」 「知っている」 「嘘。知ってても分からないでしょう」 「分からないな」 「正直ね」 「今さらだ」 その短いやり取りのあと、扉が開かれた。     * 二人が並んで会場へ入った瞬間、ざわめきが一拍遅れて広がった。 それは決して大きな喧噪ではない。  上流の夜会らしく、誰も露骨には騒がない。  けれど、音楽の裏で、笑い声の隙間で、空気が一斉にこちらを向くのが分かった。 冷徹侯爵。  婚約破棄の噂があった令嬢。  最近やたらと近すぎると言われていた二人。  その二人が、今夜は最初から並んで入ってくる。 それだけで十分だった。 セドリックはリリアーナの手を離さず、会場の中央へ向かう。  無駄のない歩幅。  視線はまっすぐ。  いつものように冷たい顔だ。  だがその冷たさの下に、自分の存在をはっきり周囲へ示しているのが分かる。 リリアーナは息を整えた。  怖い。  視線が刺さる。  でも、彼の腕に軽く手を添えたまま歩いていると、不思議と足元はぶれなかった。  支えられている、というより、支え合っているような錯覚が一瞬だけ生まれる。  その錯覚が危険だと分かっているのに。「見ろ」 セドリックが、ほ
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第23話 はじめての共闘④

「三日後の早朝」 ほとんど音にならない低さで。 リリアーナは一瞬だけ目を揺らし、それからごく小さく頷いた。  外から見れば、ただ甘い囁きに反応した婚約者の顔だろう。  だが実際には、罠の一つ目が落とされた瞬間だった。 右前方で、ジュリアンヌ夫人の扇が少しだけ高く動く。  それを見ていた使用人の一人が、視線を外へ流した。 反応した。 セドリックも気づいたらしい。  彼の指先が、リリアーナの腕へ一瞬だけ触れる。  褒めるでもなく、ただ確認の合図として。 その接触に、胸がひどく変なふうに鳴る。  作戦中だ。  ただの合図だ。  分かっているのに、身体は昔を知らないみたいに正直だった。     * 夜会の中盤、二人は舞踏を一曲だけ踊った。 それは予定にはなかった。  だが、主催家の老侯爵夫人が「せっかくですもの」と柔らかく勧め、周囲の視線も期待を隠さなかった。断れば不自然になる。だからセドリックは一拍だけこちらを見て、その目で問うた。 大丈夫か。 リリアーナは、ほんの少しだけ顎を引いた。  やるしかない。 曲は遅く、穏やかな三拍子だった。  彼の手が腰へ触れ、もう一方の手が自分の指を包む。  形式の中の接触だ。  でも、今の二人にとってはそれだけでは済まない。 前世でも踊った。  夫婦として。  周囲の前で、完璧に。  その頃の彼の手は、いつもどこか遠かった。必要な強さだけを持ち、それ以上は何も語らない手だった。 今の彼の手は違う。  力が入りすぎているわけではない。  でも、離さないための注意がそこにある。  それが分かる。「痛い?」 小さく問われ、リリアーナは我に返った。  彼の手が、自分の指を少し強く握っていたらしい。「少しだけ」 「すまない」 すぐに力が緩む。  そのやり取りが、外からは甘く見えるのだろうと思うと、少しだけ笑いそうになった。  甘いわけがない。  痛みの確認だ。  ぎこちなさの修正だ。  でも、周囲にはそうは映らない。 曲の途中、リリアーナは肩越しに見えた。  会場の端で、あの若い書記官風の男がもうそこにいない。  離れたのだ。  情報を運ぶために。「一人、動いたわ」 「見た」 舞踏の形を崩さず、セドリックが答える。「次は母だ」 「ええ」 「
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