All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 111 - Chapter 120

138 Chapters

第26話 義母への静かな報復③

     * 夕方近くになって、セドリックが会計室へ来た。 扉が開く音は静かだったが、リリアーナはすぐに気づいた。  侯爵家の人間たちは総じて足音を殺す。  でもこの男が近づく時だけ、空気の密度がわずかに変わる。「まだここにいたのか」 低い声。  仕事用の声音だ。  だが、少しだけ疲れている。「ええ」 「無理はするなと言ったはずだ」 「無理ではないわ」 リリアーナは顔を上げた。 セドリックは机の上に広げられた紙を見て、わずかに目を細める。  その視線の動きだけで、彼が何枚かの書類の関係性を一瞬で掴んでいるのが分かった。「見つけたのか」 「ええ」 「何を」 「お義母様の、私的な金の流れ」 その言葉に、セドリックの顔から温度が引いた。  驚きではない。  むしろ、自分の中でずっと薄く疑っていたものが、はっきりと形を持って目の前に差し出された時の顔だった。「どこまでだ」 「寄進名目の小口を分けて、婦人会経由に見せている。でも実際には、ローザ・ベルメル婦人経由で、服飾商会と香油商へ流れている」 「……」 「品目も見たわ。孤児支援や婦人会活動で必要になるような物じゃない」 「額は」 「大きくはない」 「だが反復している」 「ええ」 セドリックは机の端へ手を置いた。  力は入っていない。  けれど、その静けさの裏で何かが硬くなっていくのが分かる。「母らしい」 「ええ」 リリアーナはその言葉に小さく頷いた。「だから、見つけられたのかもしれない」 「どういう意味だ」 「前世の私、あの人の“らしさ”だけは毎日見せつけられていたもの」 ほんの少しだけ、空気が止まる。 セドリックは何も言わない。  だが、その沈黙には理解がある。  アグネスの冷たさが、帳簿の癖にまで染みていると、彼も分かってしまったのだろう。 リリアーナは整えた書類の束を持ち上げた。  指で押さえた順番は崩れていない。  どこから見れば流れが分かるかも、もう整理してある。「これ」 「……」 「渡すわ」 セドリックは動かなかった。  ただ、視線だけがリリアーナの手元から顔へ上がる。「侯爵家のためじゃないわよ」 「……」 「勘違いしないで」 はっきり言う
Read more

第27話 十年分の花①

 それが届いたのは、昼の光がいちばん淡くなる頃だった。 春は近づいているはずなのに、その日の空は白く薄く曇っていた。陽はある。けれど、あたたかいと呼ぶにはまだ足りない。窓の外では、庭の若い枝が風に吹かれて小さく震え、そのたびに硬い芽の先がかすかに光を返す。伯爵家の自室は静かで、暖炉の火も今日は小さい。赤く沈んだ炭が、音もなく熱だけを残している。 リリアーナは窓辺の机に向かい、アデル叔母から届いた薬草院の書類へ目を通していた。 西へ向かう日取りは、もうかなり現実味を帯びていた。関所へ出す通行証、療養名目の証明文、随行者の名簿、持ち込む荷の簡易目録。紙の上へ並ぶそれらの文字はどれも実務的で、感傷の入り込む隙がない。けれど、その無機質さが今のリリアーナにはありがたかった。夢ではないと分かるからだ。王都を離れることが、ただの逃げ道ではなく、自分の足で選ぶ現実なのだと。 羽根ペンの先で、必要な項目へ小さく印をつける。 厚手のショール、二枚。  薬草の本、二冊。  母のスカーフ。  胃に負担の少ない保存食。  夜の冷えに備える湯たんぽ。 そういう細かなものを考えている時間は、不思議と心が静かだった。侯爵夫人になるとかならないとか、誰が自分を愛していたとか、そういう重たい言葉から少しだけ離れられる。生きていくために必要なものだけを選ぶ、その単純さがありがたかった。 ノックの音は、控えめだった。「お嬢様」 入ってきたエマの手には、銀の盆がある。  その上に載っていたものを見た瞬間、リリアーナは思わず目を瞬いた。 花だった。 だが、いつものような薄紙に包まれた花束ではない。大袈裟に結われたリボンも、贈答用らしい飾り紙もない。茶色い薄手の紙で、実用的に、ほどけない程度にだけ包まれている。その簡素さが、かえって目を引いた。「……また?」 反射的にそう言ったものの、いつもの“また”とは少し響きが違っていた。  エマもそれに気づいたのか、少しだけ首を傾げながら答える。「侯爵様より、でございます」 「ええ、そうでしょうね」 「ですが……」 彼女は盆を机へ置き、少しだけ困ったように笑った。「今回は、少し違います」 リリアーナは手を伸ばした。 紙越しにも分かるほど、花束は軽かった。豪奢な薔薇も、首をもたげる百合も、香りの強い夜の花もない。紙をほ
Read more

第27話 十年分の花②

 前世で何も贈らなかったくせに。  でも、見てはいたのだと。  そのことが苦しくて、どうしようもなく切ない。「手紙は?」 掠れた声でそう聞くと、エマが盆の隅から小さな紙片を取り上げた。「ございます」 渡される。  紙は、ごく小さい。  短い文しか書けない大きさだ。  まるで言い訳の余地を最初からなくすように。 そこに書かれていたのは、たった二行だった。 ――前世で一度も渡せなかった。  ――今さらだと分かっている。 リリアーナは目を閉じた。 ああ、と思う。  やっぱり、そういうことを書く。  飾らず、短く、逃げ場もなく。  それが今の彼だ。 前世で一度も渡せなかった。 それを、自分でも分かっている。  十年分の空白を。  何も贈らず、何も言わず、何も渡さなかった時間を。  そして、その今さらさを。「お嬢様」 「……ええ」 「どうなさいますか」 「どう、って?」 「お返しになるか、それとも」 リリアーナは目を開けた。  花束は机の上で、相変わらず静かにそこにある。  白。  淡いクリーム。  青灰。  派手さはなく、ただ季節の匂いだけがある。「花に罪はないわ」 気づけば、そう言っていた。 前にも、似たことを思った。  花に罪はない。  気持ちを押しつけられるのは苦しい。  でも、その苦しさを花へ向ける気にはなれない。  むしろ、こういう花だからこそ、余計に。「受け取る」 「はい」 「でも……」 そこで言葉が止まる。  花束に指先で触れる。  水仙の花弁は冷たく、薄い。  指先へわずかに春の青い匂いが移る。「心まで渡すわけじゃない」 小さくそう言うと、エマは静かに頷いた。「もちろんでございます」 その答えが、妙にありがたかった。     * 午後、セドリックは自分で来た。 来るだろうと思っていた。  花だけ寄越して終わるような男では、今はもうない。  以前なら、贈り物で代わりにしたかもしれない。  気持ちを形だけ置いて、言葉から逃げたかもしれない。  でも今の彼は、それでは終われないと知っている。 通されたのは、伯爵家の西向きの小さな居間だった。 夕方に近い光が入る部屋で、窓辺のレース越しに薄い金色が床へ落ちている。暖炉には火が入り、燃える音は静かだ
Read more

第27話 十年分の花③

 リリアーナは思わず顔を上げた。 さらりと、とんでもないことを言う。  いや、さらりとではない。  たぶん、ものすごく勇気を振り絞っているのだろう。  でも声音が低く整っているせいで、余計にたちが悪い。「やめて」 「……」 「そういうことを、今言わないで」 「だが」 「今、そういう話をされたら」 喉の奥が熱くなる。  泣くつもりなんてない。  でも、昔の自分が好きだった花を、「その時の顔が好きだった」なんて言われたら、胸の奥の柔らかいところが否応なく揺れる。「今、そういうことを言われたら、困るの」 セドリックは一瞬だけ目を閉じた。  その顔に、ああまた間違えたのか、という種類の苦さが走る。「……すまない」 「謝ってほしいんじゃない」 「分かっている」 「分かってないわ」 「……そうかもしれない」 その認め方が、前より少しだけ素直で、余計に困る。 リリアーナは花束から目を逸らした。  見ていると、やはり泣きそうになる。  花そのものが悪いのではない。 ただ、この花は、あまりにも静かに十年分の不在を連れてくる。「前世で、一度もくれなかった」 「……ああ」 「一度でも、こんなふうに」 「……」 「私が好きだった花を束ねて」 「……」 「“君に似合うと思った”とか、そういう言葉でもなく」 「……」 「ただ、好きだっただろうって渡してくれていたら」 そこで、言葉が少しだけ詰まった。 想像してしまったからだ。  前世の自分へ、この花束が一度でも差し出されていたら。  あの白い寝室で。  食べられなかった朝のあとで。  夜会の帰りの次の日にでも。  そんな些細なタイミングで、ただこれを渡されていたら。 たぶん、自分の生き方は少し違っていた。「……知っていたら、生き方が変わっていた」 思わず、前にも口にした言葉が零れる。  今度は嗚咽ではない。  もっと静かで、だからこそ痛い響きだった。 セドリックの表情が、ゆっくりと強張る。  その一言が今も彼にとって刃であることは、もう分かっていた。「……ああ」 「でも」 「……」 「今さらでしょう」 リリアーナはようやく花から目を離し、まっすぐ彼を見た。「これを受け取ったからって」 「……」 「私の心まで、あなたへ渡せると思わない
Read more

第28話 あなたが欲しかった言葉①

 花は、思っていたより長くもった。 窓辺の白い陶器の花瓶に活けたまま、三日経ってもまだ、水仙は首を落とさなかった。白に近い野薔薇の枝も、細い棘を静かに隠したまま、淡い花弁を開いている。青灰色の小さなリナリアは風に弱そうな見た目に反して意外にしぶとく、窓の隙間から冷えた空気が入るたびに、揺れながらも折れずにいた。 春の花は、もっと脆いものだと思っていた。 たった一度強い風に吹かれれば、すぐに散るような。夜の冷えへ当てれば、朝には色を失ってしまうような。けれど目の前にある花は違った。控えめで、派手さもなく、香りだって強くないくせに、静かに長く咲いている。 そのしぶとさが、少しだけ憎らしい。 十年分の花。 あの日、そう思ってしまった。  今も、花瓶を見るたび、その言葉が胸のどこかで小さく疼く。 前世で一度も贈られなかった花。  でも、きっと見てはいた花。  自分が庭の裏手で足を止め、少しだけ表情をやわらげていた、その時にだけ好きだった花。 そんなものを、今さら束ねて差し出されて、何も揺れないわけがなかった。 泣きそうになった。  受け取った。  でも、心までは渡せないと言った。 それは本当だ。  今も、本当にそう思っている。 けれど、心は渡せないままでも、花を見るたびに胸が少しずつ柔らかい方へ引かれるのだとしたら、それはやはり危険だった。 リリアーナは窓辺に立ち、花瓶へ新しい水を足した。水面に小さな波紋が広がり、茎がかすかに揺れる。指先へ伝わる水はまだ冷たく、春の入り口の冷えをはっきりと残していた。 その時、扉が控えめに叩かれた。「お嬢様」 エマの声。「侯爵様より、お時間をいただけるなら、と」 「……今?」 「はい。無理なら改めると」 「そう」 前なら、改めるというその言葉に少し驚いたかもしれない。  今はもう驚かない。  今のセドリックは、押し切る時もあるが、それがいつでも通るわけではないと知っている。少なくとも、自分が露骨に拒んだ時に無理をすれば、もっと遠ざかることを。 だから問いを置く。  こちらの都合を聞く。  それだけのことが、前世にはなかった。 それすらも、今の自分を揺らす要因になるのだから、どうしようもない。「……会うわ」 「どちらで」 「ここでいい」 「かしこまりました」 エマは一
Read more

第28話 あなたが欲しかった言葉②

      * セドリックは、今日はすぐには部屋の中へ入ってこなかった。 扉が開き、彼が中へ一歩入る。  そして、窓辺の花瓶に目を止める。  その一拍だけで、あの花がまだここにあることを、彼がどれほど気にしていたのか分かった。 馬鹿みたいだと思う。  花が枯れたかどうかで、こんなふうに息を詰めるなんて。  でも、その馬鹿さが、今の彼なのだとも思う。「……まだ咲いているのね」 先に言ったのはリリアーナだった。 セドリックの視線がゆっくりこちらへ来る。「そうだな」 「案外、しぶといのね」 「君に似ている」 「……そんなこと、今言うの」 「本当のことだ」 即答だった。  前のように、言ってから自分で戸惑う気配すらない。  だから腹が立つ。  でも、その腹立たしさの奥にあるものが、もう単純な怒りだけではないことも知っている。「何の用?」 「君が会うと言ったから来た」 「答えになってないわ」 「……話したいことがあった」 「奇遇ね」 リリアーナは椅子へ腰を下ろした。  セドリックは少しだけ迷い、それから前回と同じように、向かいではなく少し斜めの位置にある椅子へ座る。真正面に座ると、どうしても言葉が鋭くなりすぎることを、彼も分かってきたのだろう。 部屋の中は静かだった。  暖炉の火は小さい。  花瓶の花は窓際で揺れている。  外では風が弱く枝を撫で、その音が時折ガラス越しに聞こえた。 先に口を開いたのは、やはりリリアーナだった。「あなたに言いたいことがあるの」 「……何だ」 セドリックの声は低い。  けれど身構えているのが分かる。  ここ数日、自分から向けられる言葉が、彼にとって刃になることが多かったからだろう。 リリアーナは膝の上で指を組んだ。  何度も胸の中で繰り返した言葉なのに、いざ口にするとなると喉が少しだけ詰まる。「前世で」 「……」 「私が、本当に欲しかったもの」 その一言で、セドリックの目が動いた。  逃げない。  でも、強く注意を向けている目だ。「あなたはずっと、守るためだと言っていたでしょう」 「……ああ」 「表立って庇えば、標的が集中する」 「そうだ」 「感情を見せれば、私が弱点になる」 「……」 「正しい判断だったのかもしれないとも、少しは思う」 「…
Read more

第28話 あなたが欲しかった言葉③

 彼はほとんど自分へ問い返すみたいに、その言葉を繰り返した。「ええ」 「……」 「あなたが前世でくれなかったのは、たぶんそこなの」 リリアーナはゆっくりと言う。  胸の奥はまだ熱い。  でも今は泣かない。  泣くより先に、やっと見つけた言葉をちゃんと渡したかった。「私は、侯爵夫人だった」 「……」 「名目としては、ちゃんとあなたの妻だった」 「……」 「でも、そこに“私があなたの隣にいていい理由”が見えなかったの」 寝室もあった。  衣装もあった。  食卓の席もあった。  夜会で隣へ立つ権利もあった。  でも、それらは全部、役割として与えられていたものだった。  人として。  女として。  愛した相手として。  隣にいるのではない。 だからいつも、どこかが空っぽだった。「私は、あなたに必要なのだと」 「……」 「そう思いたかった」 「……」 「伯爵家の娘だからでもなく」 「……」 「侯爵夫人という肩書だからでもなく」 「……」 「あなたが、私でなければ嫌だと思ってくれているのだと」 そこまで言って、喉の奥がまた少し熱くなる。 ああ、本当にそうだったのだと、自分でも改めて分かる。  愛の証明。  それは言い換えれば、理由だ。  あなたが私を選ぶ理由。  私があなたの隣で生きていていい理由。 それが、欲しかった。「それが一度もなかったから」 「……」 「私は何度でも、自分の立ち位置を疑った」 「……」 「熱を出した朝も」 「……」 「夜会のあとも」 「……」 「お義母様に削られるたびも」 「……」 「実家からの手紙に追いつめられるたびも」 「……」 「私は、どうしてここにいるんだろうって、何度も思ったの」 セドリックはもう、言葉を返せなかった。 返せないのだろう。  今のこの一言一言が、自分がどれほど決定的なものを与えなかったのか、その形をあまりにも正確に描いてしまっているから。 リリアーナは少しだけ目を伏せた。  視界の端に、花瓶の花が入る。  白い水仙。  淡い野薔薇。  昔の自分が好きだった花。「守られることは、ありがたいのかもしれない」 「……」 「でも、守られるだけじゃ、人は生きていけないわ」 「……」 「少なくとも私は、そうだった
Read more

第28話 あなたが欲しかった言葉④

 だから自分は、何度も空っぽになった。「……あなたは」 「何だ」 「今、ようやく分かったのね」 リリアーナがそう言うと、セドリックはゆっくり頷いた。「ああ」 「遅いわ」 「分かっている」 「遅すぎる」 「……ああ」 でも、その遅さを、今はただ責めたいだけではなかった。  責めたい。  もちろん責めたい。  でも同時に、自分が欲しかったものの輪郭を、ようやく相手も見たのだと思うと、胸の奥の長い霧が少しだけ晴れた気もする。「愛していたって言葉も」 「……」 「もちろん欲しかった」 「……」 「でも、それだけでも足りなかったかもしれない」 「……」 「だって、愛していると言われても」 「……」 「じゃあ、どうして私はここにいるのって、きっと聞いたから」 言葉は証明になる。  でも、証明だけではない。  理由。  自分を選ぶ理由。  隣にいてほしい理由。  それが欲しかったのだ。 セドリックは低く言った。「……私は、君がいることを当然だと思っていた」 「ええ」 「それがどれほど残酷かも知らずに」 「……」 「愛していることを、言わなくても伝わるものだと、どこかで思っていた」 「伝わらなかったわ」 「そうだな」 「全然」 「……ああ」 その認め方は、ひどく静かだった。  だからこそ、言い訳ではなく本当なのだと分かる。「あなたは私に、侯爵夫人の場所はくれた」 「……」 「でも、そこに私が居る意味はくれなかった」 「……ああ」 「だから私は、何度も死にたくなったの」 その一言で、セドリックの表情が完全に止まった。 目が、深く沈む。  今さらそれを聞くのか、と思う。  前世の彼は、たぶんそこまで明確には想像していなかったのだろう。  自分の沈黙が、彼女から生きる理由を少しずつ削り取っていくことを。「……死にたく」 「ええ」 リリアーナは目を逸らさなかった。「死にたいって、はっきり思った日もあった」 「……」 「でも、死にたいというより」 「……」 「消えたい、のほうが近かったかもしれない」 「……」 「どうしてここにいるのか分からないなら、いないのと同じだと思っていたから」 そこまで言った時、セドリックの指先が、膝の上でわずかに強く握られるのが見えた。  彼
Read more

第29話 暴かれる死の真相①

 その日、セドリックが「見せたいものがある」と言った時、リリアーナはすぐに、それが優しい種類の話ではないと分かった。 声が低かったからではない。近頃の彼は、低い声でも以前ほど人を突き放すようには響かないことが増えた。むしろ、低いまま抑えた時ほど、本当に重大なことを言おうとしているのだと分かるようになってしまった。その“分かってしまう”自分が、時々ひどく厄介だった。 案内されたのは、侯爵邸の奥にある内書斎だった。 客を通す応接間でも、日常の執務を行う広い書斎でもない。分厚い扉と、内側からしか開かない細い鎧戸のついた窓。壁一面の書棚には、装丁の揃った法文書と、領地の台帳、それに鍵付きの書類箱がいくつも並んでいる。暖炉の火は小さく、部屋の空気は温かいのに、どこかしんと冷えているように感じた。 机の上には、もう書類が整えられていた。 封を切られた手紙。  帳簿の抜粋。  供述書らしい数枚の紙。  商会の印の押された領収控え。  そして、小さな革袋に入った封蝋の欠片。 その整然とした光景を見ただけで、胸の奥がひやりとした。 ローレンスが部屋の隅に立っている。  もう一人、侯爵家付きの法務を扱う年配の書記官らしい男もいた。  エマは扉のすぐ内側に控え、主人の顔色を気にしている。  皆、無駄な言葉を挟まない顔をしていた。 つまり、これはもう、後戻りのできない話なのだ。「座ってくれ」 セドリックが言う。 リリアーナは机の向かいの椅子へ腰を下ろした。  膝の上で指先を組む。  冷えている。  だが逃げるつもりはなかった。「何が分かったの」 先に問うと、セドリックはまっすぐに見返した。「前世の君を死に追いやった襲撃の裏だ」 「……」 「偶然ではなかった」 「それは、もう分かっていたわ」 「今回は、その中身が出た」 その“出た”という一語が、ひどく重たかった。
Read more

第29話 暴かれる死の真相②

 リリアーナは一度だけ息を整えた。「聞くわ」 「……ああ」 セドリックは机の上の一番上の紙を手に取った。  それは最近の襲撃で捕らえた男の供述書だった。荒い字を、後から書記官が整えたものらしい。「先日の襲撃で拘束した男の一人が口を割った」 「……」 「元はレーヴェン商会の荷運びをしていた男だ」 「レーヴェン……」 その名に、リリアーナの胸が小さくざわめく。  伯爵家の借り。  婚約成立後の担保見直し。  父の書斎で見つけた手紙。  全部がその名へ繋がっている。「男は、今回の襲撃を請け負う際、“以前と同じ娘だ”と聞かされていた」 「……以前と同じ?」 「ああ」 「つまり」 「前世の襲撃にも、同じ商会の手が入っていた」 部屋の空気が、静かに重くなる。 リリアーナは視線を落とさなかった。  その一言で膝が笑いそうになるのを、どうにか椅子の縁を握って抑える。「ただの商会の暴走ではない」 セドリックは次の紙を置く。「荷を運ぶための襲撃なら、もっと単純なやり方をする。だが前世の件も今回の件も、狙いは最初から君だった」 「……」 「男は“女を生かして連れ出せるならそれでいい。無理なら口を利けなくしろ”と命じられていた」 「口を利けなくしろ」 「そうだ」 その表現が、気味が悪いほど生々しかった。 殺せ、ではない。  まずは口を利けなくしろ。  つまり、最初から「何かを言われること」が問題だったのだ。 リリアーナはゆっくりと唇を開く。「私は、何を知っていたの」 その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。  代わりに、別の書類を差し出す。  見覚えのある筆跡だった。 父の字。 目が止まる。 そこに書かれていたのは、前世の日付だった。婚姻から九年目の冬。伯爵家からレーヴェン商会への私信の写し。 ――娘が近頃、侯爵家側の金の流れへ妙に目を向け始めた。  ――夫人筋の寄進と、こちらの借財整理が結びついていることまでは、まだ確証を得ていないはず。  ――だが、放置してよい兆候ではない。  ――侯爵本人へ話が及ぶ前に、処置が要る。 リリアーナは、その文字をしばらく認識できなかった。 妙に目を向け始めた。  侯爵家側の金の流れ。  こちらの借財整理。  侯爵本人へ話が及ぶ前に。  処置。 紙
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status