All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 101 - Chapter 110

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第24話 冷徹侯爵の嫉妬①

 薬草院から届いた次の手紙は、アデル叔母のものではなかった。 封を切る前から、紙の質が少し違うと分かった。叔母の手紙は、実用一点張りの、乾いた白い紙を使うことが多い。だが今朝届いた封書は、同じように飾り気はないものの、ほんの少しだけ厚手で、文字を書く者の癖が出やすい滑らかな紙質だった。封蝋には母方の家の小さな紋章が押されているが、その筆跡は叔母のものではない。 窓辺の椅子へ座り、リリアーナは慎重に封を切った。 春の光はまだ弱い。  白く薄い日差しが、窓越しに机の端と便箋の隅を照らしている。  侯爵邸から戻って以来、伯爵家の自室に差し込む朝の光まで少し違って見えるようになった。たぶん、自分の中で切れたものがあるのだろう。  家族という言葉に寄りかかる心が、もうない。  その代わり、自分がどこへ向かうのかを考える時間は、以前よりまっすぐになった。 便箋を開く。 整った、若い筆跡だった。  几帳面で、だが堅すぎない。  官吏の文面らしい端正さの中へ、どこか人の気配が混じっている。 ――初めてお便り差し上げます。  ――アデル叔母上より、リリアーナ様がこちらへお越しになる可能性があると伺いました。  ――私はカイ・フォルネと申します。西丘薬草院の帳簿と周辺役所への届け出を任されております。  ――到着の折、必要な宿帳、移動証明、薬草院での滞在名目について、王都側でご準備いただくべき書類を整理してお送りします。  ――どうかご不安なくお越しください。こちらは王都ほど華やかではありませんが、息のしやすい土地です。  ――叔母上は、あなたが必要以上に緊張して来るのではと案じておられました。  ――ですので、せめて最初のご連絡だけでも、堅苦しくなりすぎぬよう努めたつもりです。 そこで一度、リリアーナは目を止めた。 息のしやすい土地。 たったそれだけの表現が、妙に胸へ沁みた。  王都では、呼吸をするにも姿勢がいる。  伯爵家でも、侯爵家でも、社交界でも。  だから「息のしやすい」という言葉が、慰めではなく、具体的な希望のように見えた。 続きを読む。 ――王都から西へ入る頃は、朝晩の冷えがまだ厳しいので、厚手のショールを一枚多く。  ――また、こちらの井戸水は最初、慣れぬ方には少々冷たく感じられるかもしれません。  ――もし薬草
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第24話 冷徹侯爵の嫉妬②

     * その日の午後、カイ・フォルネ本人が王都へ来た。 予想外だった。 手紙の中に、今日か明日には王都側の役所へ寄る予定があり、もし差し支えなければ必要書類の確認に立ち寄りたい、と追記があったらしい。父は外出中、継母は人を選ぶような茶会の最中で、こういう実務的な応対には向かない。だからリリアーナが直接会うことになった。 応接間ではなく、東向きの小さな客間が使われた。  春先の白い光が柔らかく入り、壁紙の淡い色をより静かに見せる部屋だ。  侯爵家ほど整いすぎてはいない。  伯爵家らしい控えめな格式がある。  今のリリアーナには、その少しだけ肩の抜けた感じがむしろ落ち着いた。 カイ・フォルネは、思っていたより若かった。 二十代半ばほどだろうか。長身ではないが、背筋がよく、書類を扱う人間らしい無駄のなさがある。茶色がかった黒髪は短く整えられ、目元は涼しい。文官らしい端正さの中に、田舎の風を知る者のやわらかさが混じっていた。服装も上質ではあるが華美ではなく、王都の貴族男たちのような見せびらかす匂いがない。 何より、最初の一礼がよかった。「初めてお目にかかります。カイ・フォルネと申します」 深すぎず、軽すぎず。  相手を令嬢として尊重しながら、それ以上に“これから話す相手”として自然な礼だった。「リリアーナ・エヴェルシアです」 「叔母上から、あなたのことは少し伺っております」 「……良い意味で?」 「ええ。強情で、気丈で、でも本当はよく眠れていない方だと」 「叔母様ったら」 思わずそう返してしまった時点で、自分でも少し驚いた。  初対面の男相手に、こんなに早く肩の力が抜けるとは思わなかったからだ。 カイは微かに笑った。「怒られそうですが、私も同感です」 「会ったばかりなのに?」 「会ったばかりだからかもしれません」 「それ、口説き文句のつもりなら点数は低いわ」 「それは残念です」 「残念がるのね」 「せっかく王都まで来たので、最初に嫌われるのは避けたいところです」 その言い方が、軽いのに不快ではなかった。  王都の男たちのように、相手を試す軽口ではない。  緊張をほどくために、少しだけ空気を緩める話し方。  そういう人なのだと、数往復で分かる。 話はすぐに本題へ移った。 滞在名目の書類。  薬草院
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第24話 冷徹侯爵の嫉妬③

 カイがその空気を読んだらしく、すぐに立ち上がって一礼した。「初めてお目にかかります。西丘薬草院の事務を預かっております、カイ・フォルネと申します」 「……ヴァレンティア侯爵だ」 「お噂はかねがね」 「そうか」 短い。  冷たい。  外から見れば、いつもの侯爵だ。  だがリリアーナには分かった。  これは明らかに機嫌が悪い。 驚くほど露骨だった。 カイは気づいているのかいないのか、書類を軽く整えながら言った。「ちょうどリリアーナ様と、移動書類の確認をしていたところです」 「そうか」 「こちら側の手配は思った以上に煩雑で」 「そうだろうな」 「ですが、だいぶ整理できました」 「……」 セドリックは返事をしない。  いや、返事はする。  だが、あまりにも短い。 リリアーナは内心で少しだけ目を見開いた。  この男がここまであからさまに不機嫌を出すのを、初めて見る。  前世でも今世でも、苛立ちを押し込めて冷たさへ変えることはあった。  でも今のこれは、それよりもっと幼い。  まるで、自分の知らないところで誰かに居心地よく話されるのが気に入らない子どもみたいだ。 そう思った瞬間、少しだけ可笑しくなった。  だが同時に、やはり腹も立つ。 何その顔。  今まで感情を押し込めてばかりだったくせに、そこでそういうものを出すの。「侯爵様も、何かご確認が?」    カイが、ごく自然な調子で問う。  うまい。  相手の冷たさをそのまま受けず、あくまで話へ引き戻そうとしている。  文官として、人の機嫌を無用に刺激しない処世なのだろう。「ある」 セドリックは答えた。「出立の時刻だ」 「それも先ほど話していたの」 リリアーナが言うと、彼の視線がこちらへ来る。  その目が、妙に鋭い。「そうか」 「ええ」 「詳しく」 「どうして」 「護衛の配置を調整する必要がある」 「護衛の件なら、私が」 カイがそう口を挟みかける。  その瞬間、セドリックの目がはっきりと冷たくなった。「あなたが?」 低い声。  静かだが、刺すようだ。 カイは少しだけ驚いた顔をしたものの、落ち着いて答える。「はい。西側の道は、こちらの護衛より土地に慣れた者のほうが適しておりますので」 「……」 「薬草院からも二人ほど迎え
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第24話 冷徹侯爵の嫉妬④

「何に怒っているの」 「怒ってはいない」 「嘘」 「……」 「それに、これはあなたの立場で口を出す話ではないわ」 「君の移動の話だ」 「ええ。でも、薬草院の人と私が話しているところへ来て」 「……」 「不慣れな男を近くへ置くな、なんて」 「……」 「それ、何?」 問いを向けた瞬間、セドリックは黙った。  否定すればいいのに、できない。  それだけで答えになっている。 リリアーナは、ふうと息を吐いた。「……本当に、子どもみたい」 「……」 「今まで何も言わなかったくせに」 「……」 「そういうのだけ出すのね」 セドリックの喉が動く。  言い返したいのではない。  自分でも自覚があるのだろう。  みっともないと。  でも、抑えきれないのだ。 だから余計に滑稽で、そして少し切ない。 カイは気まずさを隠しきれないまま、それでも礼儀正しく頭を下げた。「リリアーナ様、必要書類は置いていきます」 「ありがとう」 「叔母上には、到着の見込みをもう一度だけ文で知らせてください」 「ええ」 「侯爵様」 最後に、カイはセドリックへも一礼した。「ご懸念は理解いたしました。ですが、私に他意はございません」 「……」 「リリアーナ様が安心してこちらへ来られるよう、必要な準備をするだけです」 「……そうか」 それ以上の悪意は返さなかった。  だが、声音はまだ冷たい。 カイが去り、扉が閉まる。  途端に、部屋の中の空気が別の意味で重くなる。 エマが「お茶をお持ちします」と言ってすぐに下がってくれたのは、たぶん最大限の配慮だった。  残されたのは、リリアーナとセドリックだけ。「……ねえ」 リリアーナが先に言う。「自分で分かってる?」 「何を」 「今、ものすごく嫉妬していたこと」 「……」 やはり黙る。  その沈黙が、否定より雄弁だ。「信じられない」 「……」 「あなたが、そういう顔をするなんて」 「……」 「しかも、今頃」 その“今頃”に、ひどく色々な意味がこもる。 前世で何も言わなかった年月。  今世でようやく表に出てくる感情。  遅すぎる独占欲。  全部だ。 セドリックはしばらく窓の外を見た。  庭は静かで、風だけが枝を揺らしている。  その沈黙が長くなりすぎたところで
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第25話 優しさに慣れてしまう前に①

 それは、大きな出来事ではなかった。 花束のように目立つものでも、夜会の真ん中で腕を取られるような劇的なものでもない。誰が見ても分かる「特別」ではなく、見落とそうと思えばいくらでも見落とせるような、小さな変化ばかりだった。 けれど、そういうものほど、気づいてしまうと厄介だった。 朝、部屋へ届くお茶の温度が、以前より少しだけぬるめになった。 最初は偶然だと思った。エマが気を利かせただけかもしれないし、侯爵邸の女医が「胃に負担をかけないように」と言ったからかもしれない。だが二日、三日と続くうちに、それが偶然ではないのだと分かった。熱すぎる飲み物を、リリアーナは昔から少し苦手としていた。口をつけるまでに間が要る。前世の食卓では、それを誰も気に留めなかった。冷めるまで待てばいいだけのことだと、自分でもそう思っていたから。 今は違う。 気づけば、出されるお茶は最初から少しだけ温度が落ちている。  温かいが、すぐに飲める温度。  誰かが、気にしている。 食事もそうだった。 以前のセドリックは、リリアーナが食べているかどうかを見ていたのか見ていなかったのか、判然としない時が多かった。前世では、その判然としなさ自体が苦しみだった。見ていても何も言わない。気づいていても触れない。食べられない日も、食卓を立つ背中へ視線が落ちるだけで終わる。 今は違う。 同じ席につく機会があれば、彼はまず料理ではなく、リリアーナの皿を見る。  パンを半分しか取っていない。  スープに口をつける前に、先に水を飲んだ。  肉へナイフを入れたまま、数秒止まった。  そういう小さな兆しを、今の彼は見逃さない。「それは無理に食べなくていい」 ある日の昼、そう言われたのは、肉の香りだけで胃が少し重くなった時だった。 伯爵家と侯爵家の間で、出立の日程を表向きにどう処理するかという話し合いがあり、珍しく同じ卓で昼食を取ることになった。父も継母も、最近の「関係修復らしい」噂を利用したいのか、表向きは以前よりも穏やかな顔を作っている。けれど、その穏やかさの中にある計算の匂いは、今のリリアーナにはもう隠しきれていなかった。 銀の蓋が開かれ、肉の温かい匂いが立った瞬間、胸の奥が少しだけむかついた。昨夜は眠りが浅く、今朝もパンと薄いスープしか入っていない。食べなければいけないと思うほど、
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第25話 優しさに慣れてしまう前に②

 寒さもそうだった。 今年の春は遅い。日差しだけは白くやわらかくなっているのに、風の底にまだ冬が残っている。朝夕は特に冷え、庭へ出るだけで指先がじんと冷たくなる。侯爵邸の東庭の東屋で、共闘の話をしたあの日以来、リリアーナは風の匂いに少し敏感になっていた。外の空気は息がしやすい。だが、長く居れば体温を奪う。「それでは足りない」 ある日、東屋で書類を広げていた時、セドリックはそう言った。 西へ向かう際の関所用の通行証と、薬草院での滞在名目の文面を、最終的に侯爵家側で確認してもらう必要があった。伯爵家の書斎で父と向き合うより、外の東屋のほうがましだと、リリアーナが自分で言ったのだ。エマがショールを肩へかけ、炭火鉢も用意した。だから十分だと思っていた。 けれど、セドリックは書類より先に、そのショールの端へ目を止めた。「それでは足りない」 「足りるわ」 「手が冷えている」 「元からよ」 「元からならなおさらだ」 「……」 その言い方が、あまりにも当然みたいで、リリアーナは一瞬だけ返す言葉を失った。 前世では、冷えた手は自分で温めるものだった。  暖炉へ近づく。  湯飲みを抱える。  膝掛けを増やす。  そういう小さな工夫を、誰に言われるでもなく自分で覚えた。 今は違う。  彼が当たり前のように気づく。  そして、当たり前のように指摘する。 ほどなくして、侯爵邸の年嵩の侍女がもう一枚厚手の膝掛けを持ってきた。色は落ち着いた青灰で、季節の花も飾り糸もない、実用品としての布だ。だがその素っ気なさが、逆に気を遣わせない。「勝手ね」 「寒いのは事実だ」 「そういうところ」 「何だ」 「以前は、こういうこと、一度も言わなかったでしょう」 「……」 その問いに、セドリックは一拍だけ沈黙した。  そして、ごく低く言った。「以前は、言う資格がないと思っていた」 「今はあると思うの?」 「思わない」 「じゃあどうして」 「……黙って見ているほうが、もっと悪いと分かったからだ」 その答えが、喉の奥に細い棘のように残った。 優しい。  でも、簡単に受け取れない。  受け取ってしまえば、昔の冷たさまで少しだけ説明がつくような気がしてしまうから。 説明がつくことと、許せることは違う。  そう自分へ何度も言い聞かせなければな
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第25話 優しさに慣れてしまう前に③

「私は遅らせてもいいと思う」 彼はそう言ってから、一拍置いた。「だが、君はどうしたい」 リリアーナはその時、本当に言葉が出なかった。 どうしたい。  そんなふうに訊かれること自体が、久しぶりだったから。  父も継母も、たいていは「どうあるべきか」を先に言う。  伯爵家にとってどうか。  外聞としてどうか。  令嬢としてどうか。  そういう“あるべき”の中でしか、自分の希望を問われたことがない。 だから「どうしたい」とだけ聞かれると、逆に空白が広がる。  自分の本音を、そのまま口にしていいのだと、すぐには信じられない。「……遅らせるのは、少し怖いわ」 「どうして」 「待つ時間が伸びるでしょう」 「……」 「狙われるかもしれないって分かったあとで、“その日”が先に延びるのは、少しつらい」 そう言ってから、自分で少し驚いた。  こんな弱音を、そのまま口にすると思わなかったからだ。 だがセドリックは「分かった」とだけ言い、そこで会話を終わらせなかった。「では予定通りにする」 「……」 「ただし護衛を増やす。君が待つ時間をこれ以上長く感じない形で」 「……」 その時、胸のどこかが、ひどく静かに揺れた。 以前のように「危険だから遅らせる」で終わらせない。  かといって、こちらの恐れだけを優先して判断を雑にもしない。  意見を聞いたうえで、全体を組み直してくる。 そういう優しさは、派手ではない。  でも、じわじわと効く。 だから怖い。 こんなふうに、少しずつ意見を聞かれ、少しずつ気遣われ、少しずつ体のことを見てもらうことに慣れてしまったら、どうなるのだろう。 今度こそ信じてしまうかもしれない。  今度こそ、この人は変わったのだと思ってしまうかもしれない。  そして、もしまた失ったら。 失ったら、どうするの。 前世の終わりよりもっとひどいかもしれない。  少なくとも、今の自分はもう「愛されていない」と思い込むことで自分を守れない。  知ってしまったから。  あの人が最初から愛していたことも、守るつもりで沈黙したことも、同じ悪夢を見てきたことも。 知ってしまったうえで、また失うのは、きっと前世の何倍も痛い。     * 夕方、侯爵家の書類が届いた。 西の薬草院へ向かうまでの護衛配置表、宿場の変更
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第25話 優しさに慣れてしまう前に④

「怖いのよ」 気づけば、ぽつりと口にしていた。 エマが動きを止める。  紅茶を注ぐ途中の手がわずかに止まり、それからゆっくり続きを注いだ。  聞いている。  でも急かさない。  その沈黙に甘えて、リリアーナはもう少しだけ言葉を続けた。「前みたいに冷たかったら」 「……」 「まだ、怒っていられるでしょう」 「はい」 「でも今は、細かいことばかり見てくる」 「はい」 「食べたかどうかも」 「はい」 「寒くないかも」 「はい」 「私がどうしたいかまで」 「……」 「そんなの、慣れてしまうじゃない」 最後の一言は、ほとんど独り言に近かった。 慣れてしまう。 それがどれだけ危険なことか、自分だけが知っている。  優しさは、最初は異物だ。  でも毎日少しずつ差し出されると、体がそれを当然のように覚え始める。  今日も温度がちょうどいい。  今日も食べられるものが出てくる。  今日も寒さへ先に気づいてくれる。  今日も、自分の意見を先に聞く。 そういう日々に慣れたあとで、それが失われたら。 たぶん、もう立てない。 前世の自分は、愛されていないと思っていたから耐えられたところもあった。  求めなければいい。  期待しなければいい。  そう自分へ言い聞かせることで、ぎりぎりまで立っていられた。 今度は違う。  期待してしまう。  信じてしまうかもしれない。  そうなってから失うのは、きっともっとひどい。「今度こそ信じて」 「……」 「また失ったら、どうしたらいいのか分からない」 そこまで言ってから、リリアーナは口をつぐんだ。 部屋の中が静かになる。  窓の外では、夕方の風が枝先を揺らし、日が落ちかけた白い光が少しずつ青みを増していた。 エマはしばらく何も言わなかった。  それから、カップを主人の前へ置き、やわらかく言う。「慣れてしまう前に、怖いと仰ってください」 「……え?」 「侯爵様に」 「そんな」 「お嬢様は、前は何も言えなかったのでしょう」 「……」 「なら今度は、怖いことを怖いまま伝えればよろしいのです」 「……」 それは簡単そうで、ひどく難しいことだった。 怖い。  慣れてしまいそうで。  優しさが当たり前になりそうで。  今度こそ信じそうで。  そして
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第26話 義母への静かな報復①

 それを見つけたのは、昼と夕方のあいだの、光がいちばん薄くなる時間だった。 空は晴れていなかった。雨でもない。春の入り口に特有の、どこまでも白く曇った空が、侯爵邸の高い窓の向こうに広がっている。庭の枝先は細く揺れ、まだ固い蕾を抱えたまま、風のたびにわずかに鳴った。暖炉には火が入っていたが、大きく燃えているわけではない。赤く沈んだ炭が、ときおり小さくはぜる音だけが、静かな部屋に短く響いている。 侯爵邸の南側にある小さな会計室は、客を通すような部屋ではなかった。飾り気のない棚、背の低い書類箱、鍵のついた小さな整理箪笥、窓際には筆記台と、帳簿をひろげるための広めの机。花はない。香油の匂いもない。代わりにあるのは、紙とインクと、乾いた革表紙の匂いだけだ。 リリアーナはその机の前に座り、帳簿の頁を一枚ずつめくっていた。 表向きの理由は、共闘の一環だった。  侯爵家内部の金の流れ。  襲撃に繋がる不自然な支出。  内通者へ渡っている可能性のある小口の金。  そういうものを洗うために、セドリックが「見てほしい」と言ったのだ。 最初は断るつもりだった。 侯爵家の帳簿など、いくら今の自分が前世を知り、彼と同じ夢を見ているからといって、簡単に触れていいものではない。家の奥を覗くことになるし、何より、自分はまだ侯爵夫人ではない。ならないとも言っている。そこまで踏み込む筋合いがあるのか、と、最初は本当にそう思った。 だがセドリックは珍しく理詰めではなく、ただ静かに言った。「君のほうが気づくものがある」 それだけだった。 気づくもの。 その言い方はひどく曖昧で、だからこそ引っかかった。  自分の目で見たもの。  前世で受けた違和感。  義母の手つき。  実家の匂い。  帳簿の上では見落とされても、生活の中で不自然だったもの。  そういう“感覚の記憶”を、彼は今、必要としているのだと分かった。 だから来た。 侯爵家のためではない。  彼のためだけでもない。  少なくとも最初は、自分が生き延びるために、見ておいたほうがいいと思ったからだ。 それが、今は別の意味を持ち始めていることを、リリアーナはまだ言葉にしていなかった。 頁をめくる。 過去数か月分の小口支出。  厨房の増額。  馬具の買い替え。  客用ワインの補充。  庭師への季
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第26話 義母への静かな報復②

 寄進は本来、侯爵家の名でまとまって出す。  こんなに小口で分ける意味がない。  分けるなら、分けるだけの理由がいる。  だが理由の記載がない。「おかしい……」 思わず、唇の裏で呟く。 隣の棚で別の書類を確かめていたローレンスが、視線だけこちらへ向けた。「何か」 「まだ断定はできません」 「承知しております」 老執事はそれ以上何も言わない。  この人は、本当に必要な時しか口を挟まない。  それが今はありがたかった。 リリアーナは頁を戻り、同じ支出先が過去にどう処理されていたかを追い始めた。  一月前。  二月前。  さらに前年同月。  筆跡。  承認印。  附属の控え書類。 そこまでたどった時、初めて、線が見えた。 寄進先として記されている婦人会の名前と、実際の受領控えの名義が違う。 表向きは「南区婦人慈善組合」。  だが、添付されている簡易領収の宛先は「ローザ・ベルメル婦人」。  個人名だ。  しかもリリアーナは、その名前に覚えがあった。 前世、義母の午後の茶会でよく見た女だ。 年の頃は四十代半ば。  夫は没落気味の男爵。  だが本人は顔が広く、王都の婦人会を幾つも渡り歩き、寄進と紹介と小さな縁談を仲立ちしては自分の取り分を抜く、そういう女だった。アグネスは彼女を「世話好きの良い人」と言っていた。だがその“世話”の向かう先が、いつも義母に都合のいい家ばかりだったことを、リリアーナはうっすら覚えている。 次の紙。  その次。  名前は違うが、筆跡の癖が似ている。  同じ女の代筆か、同じ書記だ。 そして、さらに奥の整理箱からローレンスが取り出してきた古い補助簿を見た瞬間、完全に繋がった。 婦人会寄進金の一部が、別名義で服飾商会へ渡っている。  その服飾商会は、アグネス専用の仕立てを請ける店。  帳簿上は「支援衣類費」。  だが、品目の中にあるのは、明らかに孤児へ配るようなものではない。  薄手の絹手袋。  夜会用のレース。  装飾リボン。  色数の多い刺繍糸。  女たちの社交衣装を整えるための品ばかりだ。 しかも、その支払いの端数がもう一つ別の口へ流れている。  小さな香油商。  そこも、アグネスが贔屓にしていた店だった。 慈善の名目で金を出し、婦人会を経由したように見せ、
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