All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 131 - Chapter 138

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第32話 名ばかりの婚約者ではなく①

 その招待状を見た瞬間、リリアーナは少しだけ息を止めた。 白い厚手の紙に、王都でも古い格式を誇る公爵家の紋章。封蝋は深い緋色で、押された意匠にはほとんど無駄がない。春の終わりにはまだ少し早いが、季節の節目ごとに開かれる大規模な夜会の一つ。顔ぶれも重い。噂と利害と体面が最も濃く混ざる場所だ。 そこへ、リリアーナ宛に、正式な招待が届いた。 前世でも出たことのある夜会だった。  あの時のことは、妙に細かく覚えている。 大広間の灯り。  壁際の長い鏡。  絹の裾が擦れる音。  遠くの笑い声。  そして、自分が“侯爵夫人”という肩書だけを纏って、その中に立っていたこと。 誰も表立って無礼はしない。  けれど、誰の目にも、自分が“名ばかりの婚約者”であり、後には“名ばかりの妻”になるのだという空気が滲んでいた。侯爵の隣にはいる。だが、そこに体温はない。そういう女を見る時の社交界の目を、リリアーナはよく知っている。 だから今回も、最初に胸へ浮かんだのは期待ではなく、鈍い緊張だった。「……行くのね」 窓辺で招待状を広げたまま呟くと、エマが少しだけ目を伏せる。「侯爵様からも、同席をとのお言葉が届いております」 「そう」 「ご不快ですか」 「不快、というより」 リリアーナは紙を閉じた。  封蝋の跡へ指先を滑らせる。  冷たく、整っていて、少しも感情を持たない硬さ。「怖いのかもしれない」 「……」 「公の場って、いつもそうよ」 「はい」 「一人で立っているだけなのに、全部見透かされるみたいで」 エマは何も言わなかった。  ただ、主人の横顔を見る。  前世から一番近くでその背中を見てきた侍女だからこそ、今の言葉が単なる夜会嫌いではないことを知っているのだろう。 リリアーナは招待状を机へ置いた。 近頃、セドリックは人前でも隠さなくなってきていた。  いや、正確に言えば、以前のように“不自然に距離を取る”ことをしなくなった。  人の目があるからこそ、あえて冷たく振る舞う。  必要な言葉まで削り落とし、気遣いは使用人を経由させ、妻でありながら他人より少し近いだけの女として扱う。  前世の彼は、そういうふうに自分を守るつもりで、自分を削っていた。 今は違う。 隣に立たせる時は、ちゃんと立たせる。  手を取る時は、曖昧にし
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第32話 名ばかりの婚約者ではなく②

     * 夜会当日、侯爵家から迎えに来た馬車は、前世よりずっと静かだった。 豪奢ではない。  侯爵家らしく、必要以上の飾りを嫌う仕立てだ。  だが、扉の内側へ手を掛ける黒い革張りの位置や、膝掛けの厚み、乗り込んだ時に足元へ滑り込まないよう敷かれた布の具合まで、妙に細かく整えられている。 それが誰の指示なのか、もう分かってしまう自分が嫌になる。 今日は、セドリックも最初から同じ馬車にいた。 以前なら考えられないことだ。  迎えは来ても、本人は会場で待つ。  せいぜい玄関で合流する程度。  そういう距離の取り方ばかりだった男が、今は当たり前のように向かいではなく隣へ座っている。 今日の彼は、夜会用の礼装をきっちりと着込んでいた。黒に近い濃紺。白い襟元。銀の控えめな飾り。どこを見ても隙がない。なのに、その隙のなさの中に、妙な落ち着かなさが少しだけ混じっているのを、今のリリアーナは見て取れた。 たぶん、彼も緊張しているのだ。  自分と同じ種類ではないにしても。  今夜、公の場で何を見せることになるのか、それが持つ意味を、彼も分かっている。「寒くないか」 馬車が動き出してすぐ、セドリックが低く問う。「大丈夫」 「本当に?」 「その問い方、最近多いわね」 「そうか」 「ええ」 「前は少なすぎた」 「……」 言われて、リリアーナは少しだけ黙った。 そうだ。  前は少なすぎた。  聞いてほしかった時には、何も。  今は、こうして何度も。「今は、って」 「何だ」 「今は、聞いてくるのね」 「聞く」 「どうして」 「聞かなければ分からないからだ」 それは、簡単な言葉なのに、妙に胸へ刺さった。  前の彼は、分かったつもりでいたのだろう。  守るべき範囲も、距離の取り方も、何が正しいかも。  今は違う。  分からないから、聞く。  それだけのことが、どうしてこんなに厄介なのだろう。「今日は」 セドリックが続ける。「無理をしなくていい」 「でも、出る以上は」 「無理をしなくていい」 「……」 「もし途中で苦しくなったら、外へ出る」 「……あなたは?」 「当然、一緒に出る」 「人の目があるわ」 「構わない」 そう言い切られて、リリアーナは思わず窓の外を見た。 王都の石畳が、夕方の薄い
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第32話 名ばかりの婚約者ではなく③

     * 夜会の会場へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。 前世でも知っている、大広間。  高い天井から下がるいくつものシャンデリア。  磨かれた床。  壁際の長い鏡。  春を先取りした白と薄紅の花。  それらすべてが、ひどく鮮明に見えた。 ざわめきが、一拍遅れて広がる。 冷徹侯爵。  その婚約者。  最近やけに近いと噂されている二人。  伯爵家の不正が表へ出て、娘は実家を切ったらしい。  それなのに、侯爵はなお彼女を伴っている。 その意味を、社交界が読み取らないはずがない。 セドリックは今夜、最初からリリアーナの手を取ったまま歩いた。 形式だけのエスコートではない。  逃がさず、でも痛くなく、指先が震えれば分かる程度の強さ。  その手の取り方ひとつで、空気の読みが変わるのが分かった。 ああ、と思う。 見せているのだ。  この人は今、わざと。 名ばかりの婚約者としてではなく。  家同士の取り決めとしてでもなく。  自分の意志で、彼女を隣へ置いていると。 その事実が、王都の女たちの視線を一瞬で変えた。 前世では、自分を見る目の中にいつも薄い侮りがあった。  侯爵が情を見せない女。  立派な肩書だけを与えられた人形。  そういう目だ。 今夜は違う。 まだ好奇心はある。  噂を測る目もある。  けれど、その奥にあるものが少しだけ変わっている。  あの侯爵が、明らかに彼女を優先している。  そう認識した者の目だ。「リリアーナ嬢、お久しぶりですわ」 ある侯爵夫人が、柔らかな笑みで近づいてくる。  前世なら、まず先にセドリックへ挨拶を向け、自分へはおまけのように言葉を落とした人だ。  だが今夜は違った。  最初に自分の名を呼んだ。「お元気そうで」 「ありがとうございます」 「お顔色もよろしいのね」 「ええ、少しずつ」 「それは何より」 そのやり取りの間、セドリックは一歩だけ後ろへ引くわけでも、逆に割り込むわけでもなく、リリアーナの隣にそのまま立っていた。  それが絶妙だった。  “任せる”のではない。  “見守る”のでもない。  隣にいる。  ただそれだけで、この人が今どの位置に自分を置いているのか、周囲には十分伝わる。 次の婦人も、若い伯爵夫人も、皆どこか慎重だった。
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第32話 名ばかりの婚約者ではなく④

     * 夜会の中盤、ひときわ大きなざわめきが起きたのは、例のクラウディア侯爵夫人が近づいてきた時だった。 あの、今朝方継母の茶会を“急病”で取りやめた女。  そして、社交界で誰を切り、誰を残すかを、笑顔のまま決められる女。 彼女は、薄い藤色のドレスをまとっていた。年齢に似合わぬ色ではない。むしろ、成熟した女が着ることで初めて品よく見える色だ。目元には笑み。だが、その笑みの奥にある計算高さは相変わらず鋭い。「セドリック様、リリアーナ様」 彼女は立ち止まり、二人へきちんと視線を向けた。 前なら、先に侯爵の名を呼んでいた。  今日は違う。  そこがもう、空気の変化の証だった。「ご機嫌よう、侯爵夫人」 「ご機嫌よう」 「お二人が並んでいらっしゃるところを拝見できて、安心いたしましたわ」 その“安心”の意味を、リリアーナはすぐ理解した。 伯爵家の不正が表へ出た今、自分が実家と運命を共にするのか、それとも侯爵家側へ立つのか。社交界はそこを見ている。クラウディア侯爵夫人がこの場で「安心」と言うのは、つまり、侯爵家が彼女を切り捨てていないと見て取ったからだ。 リリアーナは一拍だけ迷った。  だが、その迷いより早く、セドリックが低く言った。「彼女に無用な不安を与えるつもりはない」 言葉としては短い。  だが、その一文の中に“彼女”という呼び方がある。  距離を置くための“伯爵令嬢”でも、“婚約者”という役割名でもなく、ただ彼女。 クラウディア侯爵夫人の笑みが、ほんの一瞬だけ深くなった。  ああ、と理解した顔だ。  これは単なる体裁ではないのだと。  少なくとも、この男の中では。「そうですのね」 彼女はうなずき、今度はリリアーナへ向かってやわらかく言った。「なら、今後はお会いする機会も増えるでしょう。どうか、もう遠慮なさらずに」 「……ありがとうございます」 「こちらこそ」 その会話のあいだ、セドリックの手は一度も離れなかった。  強く握るわけでもない。  けれど、自然にそこにある。  それだけで、言葉より雄弁だった。 社交界の空気は、その場で目に見えないほど静かに動いた。 女たちの視線の質。  男たちの会釈の深さ。  使用人たちの案内の仕方。  何もかもが、今までよりほんの少しずつ違う。 リリアーナ
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第32話 名ばかりの婚約者ではなく⑤

     * その小さな揺れは、夜会の終わり近く、ついに態度へ出た。 大広間の空気が少しだけ緩み、人々がそれぞれ小さな輪へ散り始めた頃だった。音楽はやわらかく、会話のざわめきも低くなっている。壁際の鏡には、灯りと人影が重なって映り、どこが本物の空間で、どこからが反射なのか一瞬分からなくなる。 リリアーナは急に、息が詰まりそうになった。 暑いわけではない。  人酔いでもない。  ただ、嬉しいと思ってしまった自分を、急に持て余したのだ。 こんなふうに扱われることを。  隣にいていいのだと、公の場で示されることを。  その変化が、心のどこかをやわらかくした。  そのやわらかさに、今さら自分で怯えた。「……少し」 気づけば、小さく声が漏れていた。 隣にいたセドリックが、すぐに視線を落とす。「どうした」 「少しだけ」 「苦しいか」 「ええ……たぶん」 彼は一瞬も迷わなかった。  周囲に人はいる。  会話の輪もある。  それでも、リリアーナの手を取り、そのまま大広間の外へ向かう。 引っ張るのではない。  急かすのでもない。  けれど明らかに、今この場では彼女が優先なのだと誰の目にも分かる形で。 それを見て、またざわめきが生まれる。  でももう、今はそんなことを気にしていられなかった。 廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬へ触れた。  窓の外は夜で、庭の灯りだけが小さく揺れている。  大広間の熱と香りが一歩分だけ遠のき、ようやく呼吸が深く入った。「……ありがとう」 壁際に手をついて、リリアーナはゆっくり息を整える。「人が多すぎたか」 「違うの」 「なら何だ」 「……」 すぐには言えなかった。  こんなこと、説明できるだろうか。  人前でちゃんと扱われたことが、嬉しかった。  その嬉しさが怖くなって、急に苦しくなった。  そんな、あまりにもみっともない本音を。 でも今の彼は、待つ。  問いつめずに。  昔のように沈黙の中へ閉じ込めるのでもなく。「リリアーナ」 低い声が落ちる。「言え」 「……」 「分からないままにはしたくない」 その一言が、背中を押した。 リリアーナは目を閉じた。  夜の空気が少し冷たい。  その冷たさが、
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第33話 冷たい口づけではなく①

侯爵邸へ戻った時には、夜はもう深く沈んでいた。  庭の木々は風を失い、窓の外の闇はひどく静かだった。つい先ほどまで耳のすぐ横で鳴っていた怒声や、馬の荒い息や、石畳を蹴る足音が嘘のように遠い。けれど、静けさの中へ戻ってきたというだけで、出来事そのものが薄まるわけではない。むしろ音の消えたあとのほうが、さっきまでそこにあった危機は、輪郭をはっきりと持って胸へ残る。 今夜の囮は、成功した。 少なくとも表面上は。 北門側から出るという偽の情報に食いついた商会筋の手が、予定通り動いた。護衛を薄く見せた馬車へ近づき、外郭で待機していた侯爵家側の者たちが一気に押さえ込む。その流れ自体は、セドリックとローレンスが事前に組んだ通りだった。だが、敵はそれだけでは終わらなかった。 囮へ意識を向けさせた裏で、本命は別にいた。 東側の細い裏道。侯爵邸へ戻ると見せず、一度だけ王都南区の礼拝堂裏へ回るという、リリアーナにも直前まで伏せられていた補助ルート。その小さな回り道の先で、馬車の車輪を狙った矢が飛んだ。一本、二本。二本目は窓枠を掠め、ガラスが細く砕けた。 あの瞬間のことは、帰ってきた今もまだ、体のどこかが思い出している。 裂ける空気の音。  ガラスの破片が袖口へ入り込む冷たさ。  セドリックの腕が、とっさに肩を抱き寄せた強さ。  馬車の壁へ背がぶつかった鈍い衝撃。  そして、次の矢が来る方向を、前世の記憶に似た何かで、咄嗟に言い当てた自分の声。『右後ろ、低い位置!』 それは理屈ではなかった。前世で一度だけ、同じような呼吸の止まり方を経験した体が、先に動いただけだ。セドリックはその声を聞くより早く剣へ手をかけ、次の瞬間には馬車の扉を蹴り開けていた。護衛が叫ぶ。誰かが地面へ崩れる音。雨上がりの泥を踏む足音。短い乱闘。その全部が、まるで薄い膜一枚向こうのことみたいに遠かった。 終わったあとで初めて、自分の手が震えていたことに気づいた。 そして今、その震えは、ようやく少し遅れて本格的に体へ戻ってきていた。「傷は」 部屋へ入ってから、たぶん三度目の問いだった。 セドリックは扉のすぐそばに立ったまま、低く言う。服は着替えているが、髪だけはまだほんの少し乱れていた。黒に近い室内着の襟元はきちんと整えられているのに、袖口へ残るわずかな擦れ跡だけが、今夜彼もまた静かで
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第33話 冷たい口づけではなく②

 その言い方が、あまりにもぎこちなくて、リリアーナは一瞬だけ目を伏せた。  この人は今、本当に変わろうとしているのだ。  それが分かるから、余計に胸の奥が疼く。 袖を少しだけ捲る。肘の少し上、窓ガラスの細片で薄く裂けた場所に、赤い筋が一本だけ残っていた。止血はしてある。深くはない。だが白い肌の上だと目立つらしく、セドリックの目がわずかに細くなった。「これを大したことないと言うな」 「本当にそうよ」 「今日の矢があと少し内側なら」 「分かってる」 「分かっていない」 「分かってるってば」 少しだけ声が強くなる。 分かっている。  あと少しずれていれば、首筋か、肩か、もっと深いところへ届いていたかもしれない。  分かっているからこそ、今はそれを考えたくないのだ。「今、そこを何度も言わないで」 「……」 「怖いもの」 その一言が出た瞬間、部屋がしんと静まった。 暖炉の火が、小さくはぜる。  それ以外の音は何もない。 セドリックの顔から、さっきまでの張りつめた硬さがほんの少しだけ崩れた。  怖い。  その一言が、彼にも届いたのだろう。  守ると決めて、共に戦うと口にして、それでも今日の自分が、やはり怖かったのだと。「……そうか」 低い声。「怖かった」 「ええ」 「私もだ」 その返答に、リリアーナは顔を上げた。 彼は嘘をついていない。  強がってもいない。  ただ、同じ重さのまま、その言葉を返してきた。 私もだ。 その短さが、なぜか胸へ深く落ちる。  前世の彼なら、絶対に言わなかった。「……あなたも?」 「矢が窓を割った瞬間、前の夜を思い出した」 「……」 「二度目は無理だと思った」 「……」 二度目は無理。 その一言が、ひどく静かに胸を刺す。  前世で自分の死を見た男が、今こうして同じ夜をもう一度見るかもしれないと思ったのだ。  怖くないはずがない。 リリアーナはゆっくり息を吐いた。  手の震えはまだ止まらない。  だが、その震えを一人で抱えているのではないのだと思うと、少しだけ呼吸が深くなる。「……私も」 「何だ」 「無理だと思ったわ」 「……」 「今度こそ、あなたが間に合っても、今度はまた少し違う形で終わるのかもって」 「……」 「だから、叫んだの」 「右後ろ
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第33話 冷たい口づけではなく③

「……ごめんなさい」 「謝るな」 「でも」 「今はそれ以上言わない」 彼の声は低い。  だが、命令ではない。  こちらの限界を見て、そこから先へ踏み込まないようにしている声だと分かる。 そのことが、また少しだけ胸を揺らす。 リリアーナは寝台脇の長椅子へ腰を下ろした。  急に膝の力が抜けたのだ。  危機の最中より、終わって安全な部屋に戻ってきてからのほうが、体は正直だった。 セドリックが一歩、近づく。 距離は前よりずっと近い。  でも、触れる前に止まる。  そこが、前世と決定的に違う。「薬を塗る」 「女医は?」 「今日は下がらせた」 「どうして」 「君が知らない顔へ何度も傷を見せるのを嫌がると思った」 その読みが当たっていることに、リリアーナは少しだけ唇を噛んだ。  嫌だった。  知らない誰かが、自分の震えた手や、遅れて出る怯えを平然と見ていくのは。「……そう」 「嫌ならやめる」 「いいえ」 「どちらだ」 「……あなたなら」 そこまで言って、声が止まる。  “あなたなら”の先を、自分で補うのが怖かった。 セドリックは何も言わなかった。  ただ、机の上の小瓶と清潔な布を手に取る。  近づいてきた時、かすかに外気と革の匂いがした。まだ完全に夜の戦いの気配が抜けきっていない。「染みる」 「ええ」 「我慢しろとは言わない」 「優しいのか、冷たいのか分からない言い方ね」 「今の私にちょうどいい言葉が分からない」 「……そう」 布が傷へ触れる。  ひり、と小さく痛む。  でも、その痛みは生きているほうの痛みだ。  それを今、妙に強く意識した。 セドリックの指先は意外なほど慎重だった。  力が強いのに、傷へ触れる時だけは迷うように弱い。  まるで、壊れものに触れているのではなく、壊したくないものに触れているみたいだった。「……そんなに恐る恐る触らないで」 「難しい」 「どうして」 「今夜は、何をどこまでしていいのか分からない」 その一言に、呼吸が少しだけ止まる。 何をどこまでしていいのか分からない。  それはたぶん、傷の手当てのことだけではない。  この夜の距離のことだ。  互いに張りつめていたものがほどけかけているのに、どこまで近づけば壊さずに済むのか、彼にもまだ分からな
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