All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 121 - Chapter 130

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第29話 暴かれる死の真相③

 ローレンスが別の封書を開いて机へ置いた。 そこには見慣れた、角の丸い女文字が並んでいた。継母の筆跡だ。香油の薄い匂いまで、紙の端へまだ残っている気がした。 ――娘はまだ侯爵家の機嫌を損ねてはおりません。ですが、妙な正義感で寄進の帳面などを覗くことが増え、婦人会の方々にも余計な問いを投げております。  ――刺激せず、騒がせず、自然に静かになるのが一番かと。  ――少なくとも、婚姻の体面が崩れるような事態だけは避けたく存じます。 自然に静かになる。 その婉曲さに、リリアーナは逆に寒気を覚えた。 殺してくれ、とは書かない。  消してくれ、とも書かない。  ただ、“自然に静かに”とだけ書く。  その曖昧な言葉の先で、誰かがどう解釈するかなど、初めから分かっていたくせに。「前世の君は、都合が悪くなった」 セドリックの声が、ひどく低くなる。「実家にとっても」 「……」 「母にとっても」 「……」 「そして商会にとっても」 リリアーナは目を閉じた。 自分の死が、一人の明確な悪意だけであれば、どれほどまだ分かりやすかっただろう。  だが違う。  父の打算。  継母の保身。  義母の流用。  商会の利害。  そのどれもが“自分だけは汚れたくない”顔をしたまま、少しずつ噛み合ってしまった。 だからこそ、止める者がいなかったのだ。「君はその頃、何度か父へ金の流れを尋ねている」 「……覚えているわ」 「慈善会計の帳面も見ていた」 「ええ」 「そして、私にも会おうとしていた」 リリアーナは目を開けた。「私が?」 「そうだ」 セドリックはさらに一枚の紙を差し出す。  侯爵邸側の面会記録だった。日付は前世の襲撃の二日前。短く、こう記されている。 ――奥様付き侍女より、旦那様へ私的面談の願い。  ――旦那様ご不在につき保留。再調整の要あり。 リリアーナの呼吸が止まりそうになる。「私……あなたに会おうとしていたの」 「そうだ」 「どうして、知らなかったの」 「記録が止められていた」 「誰に」 「母の側近の手で。私の目に入る前に別箱へ移されていた」 「……」 「君は、実家へ逃げる前に、まず私へ話そうとしていたらしい」 その事実が、今度は違う痛みで胸を刺した。 話そうとしていた。  あの頃の自分は、完
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第29話 暴かれる死の真相④

「……私の死は」 喉がひりつく。「偶然じゃない」 「そうだ」 「都合の悪い存在を消すための」 「計画だった」 セドリックがはっきりと言い切る。 その断定が、机の上の紙よりも重く胸へ落ちた。「実家にとっては、借財整理の証人になりかねない娘」 「……」 「母にとっては、寄進名目の私的流用へ気づき始めた嫁」 「……」 「商会にとっては、侯爵家と伯爵家の繋ぎにされながら、逆にその流れを壊しかねない人間」 「……」 「だから、消すことが一番都合がよかった」 リリアーナは、しばらく机の上の青い便箋だけを見つめていた。「……知らなかった」 声は、ほとんど息に近かった。「私は、前世でも」 「……」 「逃げようとしていたのね」 「そうだ」 「生きようとしていたのに」 「……ああ」 その一言で、視界が揺れた。 前世の自分は、ただ静かに死んでいったわけではなかった。  諦めきっていたわけでもない。  最後の最後で、逃げようとしていた。  自分の足で。  息のしやすい場所へ行こうとしていた。  そして、その前に潰されたのだ。「君はその少し前から、私にも会おうとしていた」 セドリックが、さらに一枚のメモを取り出す。 それは侯爵邸側の面会記録だった。日付は前世の襲撃の二日前。短く、こう記されている。 ――奥様付き侍女より、旦那様へ私的面談の願い。  ――旦那様ご不在につき保留。再調整の要あり。 リリアーナの呼吸が止まりそうになる。「私……あなたに会おうとしていたの」 「そうだ」 「どうして、知らなかったの」 「記録が止められていた」 「誰に」 「母の側近の手で。私の目に入る前に別箱へ移されていた」 「……」 「君は、実家へ逃げる前に、まず私へ話そうとしていたらしい」 その事実が、今度は違う痛みで胸を刺した。 話そうとしていた。  あの頃の自分は、完全に諦めていたわけではなかった。  最後の最後で、この男へ何かを言おうとしていた。  それすら、届かなかった。 ならば、本当に、前世の死は偶然ではなかったのだ。  言葉を届けられる前に、逃げられる前に、消されている。「……どうするの」 問いは静かだった。「実家は切ったわ」 「……ああ」 「お義母様の金の流れも、もうあなたに渡した」 「…
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第30話 離れて守るは、もう終わりだ①

 その報せは、夕方の雨と一緒に来た。 春は近づいているはずなのに、その日の空は朝から重かった。白く曇っているだけではなく、雲の底そのものが低く垂れこめ、昼を過ぎた頃から空気の湿り気がじわじわと濃くなる。窓を閉めていても、濡れた土の匂いがどこかから忍び込み、庭木の枝は風のたびにざわざわと不吉に鳴った。 リリアーナは伯爵家の自室で、西丘薬草院へ持っていく荷の最終確認をしていた。 大きな箱はもう粗方まとまっている。厚手のショール、母のスカーフ、薬草の本二冊、旅のあいだ食べられそうな軽い保存食、筆記具、油紙で包んだ小さな手帳。机の上には、アデル叔母からの手紙と、カイ・フォルネが整えてくれた出立用の書類が、きっちりと重ねて置かれていた。 その一枚一枚が、ようやく自分が本当に王都を離れるのだと教えてくれる。怖くないわけではない。むしろ、現実味を帯びれば帯びるほど、先にある見えないものへの怖さは増していく。けれど、それでも今までより息がしやすいのは、進む先が自分の意志で選んだ先だからだ。「お嬢様」 エマが入ってきた時、リリアーナはちょうど通行証の封筒を箱へ入れようとしていた。だが、その顔を一目見た瞬間、手が止まる。 顔色が違う。 青ざめているわけではない。だが、張りつめていた。何かを見聞きしてきた人間の、ぎりぎりのところで表情を整えた顔だった。「どうしたの」「侯爵様が」「……ええ」「今すぐ会いたいと」「ここへ?」「いいえ。西の小会議室へ、と」 西の小会議室。 伯爵家の応接ではない。侯爵邸にもあるような、家の中の人間しか使わない、小さな打ち合わせのための部屋だ。つまり、外聞ではなく中身の話をする時に使う場所。 リリアーナは、封筒を静かに机へ戻した。「何があったの」「詳しくは……ですが」「エマ」「……商会のほうが、もう動き始めたようです」 胸の奥が、ひやりと冷えた。 レーヴェン商会。 前世の襲撃の裏にいた手。 伯爵家と侯爵家内部、そして王都の商会勢力が噛み合って、自分を都合の悪い存在として消そうとした、その中心。 証拠を辿り始めた以上、向こうが黙っているはずはないと頭では分かっていた。 分かっていた。 だが、こうして「動いた」と告げられると、身体のほうはまだ追いつかない。「誰か来たの?」「侯爵家の使いの方が。ローレンス様か
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第30話 離れて守るは、もう終わりだ②

 セドリックは机の上の紙を一枚、こちらへ向ける。「北街道の宿場で、レーヴェン商会の手代が二人消えた」 「消えた?」 「正確には、“いなくなったことにされた”」 「……」 「追った者によれば、昨夜まではいた。だが今朝、帳場には最初から存在しなかったことになっている」 「証拠隠滅」 「ああ」 雨の音が、窓の外で少しだけ強くなる。  ぱた、ぱた、と細かい音が続き、それがかえって部屋の静けさを際立たせた。「もう一つは」 セドリックが次の紙へ手を置く。「君の出立日を探る動きが、今朝から一気に増えた」 「……私の」 「ああ。伯爵家の門番へ酒を持ち込んだ男がいる。厨房の下働きにも同じ」 「そんなに露骨に?」 「露骨だからこそ、急いでいる」 「何を」 「君が王都を離れる前に、もう一度手を伸ばすことを」 その一言で、空気がはっきり冷えた。 リリアーナは指先を膝の上で強く組んだ。  怖い。  胸の中心に、小さく鋭いものが立つ。  でも、今はそれに飲み込まれるわけにはいかない。「つまり」 「敵の狙いは、また君に向いている」 「……ええ」 「商会側も、伯爵家も、母の周辺も、今の君が生きて動いていることを、前世以上に危険と見始めた」 前世以上に。 その言葉が重い。  前世では死んだ。  だから、真相は後からしか暴けなかった。  今世では生きている。  証拠も掴み、名前も繋がりも見えてきた。  生きたまま真相へ踏み込む自分は、彼らにとって前世よりよほど厄介なのだ。 リリアーナは、ゆっくり息を吐いた。「それで」 「何だ」 「あなたは、どうするつもりなの」 問いかけると、セドリックの目が一瞬だけ細くなる。  考えるまでもないことを問われた、という顔ではない。  むしろ、もう答えは出ていて、その答えを自分に向けてどう言葉にするかを決めている顔だった。「離れて守るのは、もう終わりだ」 低い声音が、部屋の真ん中に落ちる。 それは宣言に近かった。  前世の彼なら言わなかった種類の言葉だ。  “守るための沈黙”の延長ではない。  もっと明確に、自分のやり方を切り替える時の声だった。 リリアーナは彼を見る。「どういう意味」 「今までのように、距離を取りながら安全だけを整えるつもりはない」 「……」 「君を
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第30話 離れて守るは、もう終わりだ③

「……ねえ」 やっと口を開く。「それは、以前みたいに“私のために決めてある”話じゃないの」 「違う」 「本当に?」 「だから、君にも言わせるために今ここへ呼んだ」 その返答に、わずかに息が止まる。「私にも?」 「ああ」 「何を」 「君は、どう戦うつもりだ」 それは意外な問いだった。 守る。  一人にしない。  その後に来る言葉としては、あまりにも違う。  指示でもなく。  禁止でもなく。  自分の意志を問うてくる。 リリアーナは、膝の上の指先をほどいた。  そうか。  今の彼は、本当に“共に”と言っているのだ。 守られるだけではない。  一方的に隠されるだけでもない。  自分がどう動くかを、ここで言葉にしろと。 ならば、答えなければならない。「私は」 喉の奥が少し乾く。  でも、言葉は案外素直に出た。「守られるだけではいないわ」 「……」 「前世を知っているのは、あなただけじゃないもの」 「……ああ」 「私も覚えている」 「……」 「いつ、どういう順番で、誰の機嫌が変わり始めたか」 「……」 「お義母様がどういう時に人を動かすか」 「……」 「実家がどういう言葉で相手へ責任を押しつけるか」 「……」 「商会の人間が、どんなふうに善意の顔をして近づくか」 口にしていくたびに、記憶が少しずつ輪郭を持つ。  嫌な記憶だ。  消したいものも多い。  でも、それをただ苦しみとして抱えているだけではなく、今は武器に変えられるのかもしれない。「私の知っている“いやなこと”を、今世では読むために使う」 「……」 「敵の手がどこから伸びてくるか」 「……」 「どういう時に、誰が先に焦るか」 「……」 「それを、私は前世の記憶で読む」 リリアーナは顔を上げた。  セドリックは、黙ってこちらを見ている。  驚いてはいない。  むしろ、それを聞くために待っていた顔だ。「だから」 言葉を継ぐ。「あなたが剣なら」 「……」 「私は地図になる」 「……」 「前世で踏み抜いた場所を知っている」 「……」 「同じところへは、もう落ちない」 その一言が、自分の胸の中へも強く落ちた。 もう落ちない。 前世の自分は、何が敵かも曖昧なまま、ただ削られて、追い詰められて、最後
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第30話 離れて守るは、もう終わりだ④

「今後の動きだ」 「ええ」 「君の出立は予定通りに見せる」 「偽情報は?」 「もう一度流す。ただし今度は、君自身の動きは減らす」 「減らす?」 「狙いを絞らせるためだ」 「それだと私はただ守られる側になるでしょう」 「違う」 「どう違うの」 「君には、会う相手を選んでもらう」 「……」 「誰が不自然に君へ近づくか」 「……」 「誰が昔を知っているような言い方をするか」 「……」 「誰が、伯爵家や母の名前を出さずにその周辺の事情だけに妙に詳しいか」 「……」 そうか、とリリアーナは思う。 自分にしか分からない違和感がある。  昔の侍女の言い回し。  実家の側の人間がよく使う婉曲な脅し方。  義母の周辺にいる女たち特有の、善意に見せかけた探り。  商会筋の男たちが、金の話を“心配”の形へ変える癖。 そういう細部は、前世を知らない者には拾えない。  自分だけが拾える。  それは、たしかに武器だ。「分かったわ」 「できるか」 「やる」 即答した自分に、少しだけ驚く。  怖い。  もちろん怖い。  でも、怖いままで立つことが、今の自分には必要なのだと分かっていた。「ただし」 「何だ」 「私が気づいたことは、その場であなたに伝える」 「ああ」 「隠さない」 「……ああ」 「前みたいに、一人で抱え込んだりしない」 「……」 その一言で、セドリックの目がわずかに変わった。  痛みと、安堵と、前世への悔いの全部が混じったような目。「それでいい」 「ええ」 「それがいい」 窓の外では、雨が少し弱まっていた。  叩きつけるようだった音が、今は細かく長く続く音へ変わっている。  春前の雨はいつもそうだ。  強く始まり、急にやわらぐ。  落ち着いたかと思えば、また乱れる。 自分たちも似たようなものかもしれない、と、ふとリリアーナは思った。 傷はまだある。  赦したわけではない。  信じきってもいない。  でも、ただ離れて守るだけの関係は、もう終わりなのだ。「……侯爵様」 「何だ」 「あなた、さっき“二度と一人にしない”って言ったわね」 「ああ」 「それ、後で監視みたいな顔をしたら怒るわよ」 「しない」 「本当に?」 「今度は、見張るためではなく隣にいる」 「……
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第31話 実家への仕返し①

 それが表へ出たのは、雨の翌々日の朝だった。 夜のあいだに空は洗われたらしく、窓の外にはひどく薄い青が広がっていた。春先の空はまだ頼りない。晴れていても、どこか白く、冷たく、光の輪郭だけが先に来る。けれど、その朝の光は、ここ数日の曇りや湿り気をひとまず押し流したあとの、あまりに残酷なほど澄んだものだった。 伯爵家の朝食室は、その澄んだ光をまともに受けていた。 長い窓から射し込んだ光が白いクロスの上へ広がり、銀のポットや皿の縁を冷たく光らせる。磨き抜かれた食器はいつも通り整っているのに、空気だけが整っていなかった。使用人たちの動きは小さく、足音も最小限だが、かえってその抑え方が異様だった。誰もが、声を出せば何かが壊れると知っているみたいに息を潜めている。 その中心にいたのは、父だった。 新聞を広げる手が、わずかに震えている。 紙の端が、かすかに鳴る。  普段なら絶対に出さない種類の音だ。  父はいつも、どれほど機嫌が悪くても、表面の形だけは崩さない男だった。  その父の指が、今朝は新聞の紙ひとつうまく扱えていない。 継母はまだ席についていなかった。  いや、正確には、すぐ隣に立っているのに、椅子へ腰を下ろせずにいる。  顔色は悪い。  だが蒼白というより、血の気だけが薄く引いた灰色に近い。  目元には昨夜眠れなかった跡があり、それでも無理やり髪を整え、首元へ真珠を並べているところが、かえって痛々しかった。 マリアンヌだけが、何も分からない顔で二人を見比べていた。「何があったの」 妹の問いは小さかった。  だがその声で、父が新聞をばさりとたたんだ。「お前は黙っていなさい」 怒鳴りはしない。  けれど、切羽詰まった時の父の声だった。 リリアーナはその様子を、食卓の自分の席から静かに見ていた。 昨夜のうちに、ある程度の予感はあった。  セドリックが「明朝には動く」とだけ言った時の声音で、それがただの商会への圧力では済まないと分かったからだ。  商会の帳簿。  侯爵家の寄進名目の流用。  伯爵家の借財整理と婚姻契約を結びつけた手紙。  全部が揃った以上、表へ出ないはずがなかった。 ただ、いざその朝を迎えてみると、思っていた以上に静かだった。 ざまあ、というのはもっと派手なものだと思っていたのかもしれない。  人が
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第31話 実家への仕返し②

 その時、玄関ホールのほうで、慌ただしい足音がした。 使用人が一人、顔色を変えて入ってくる。「旦那様」 「何だ」 「クラウディア侯爵夫人様からのお使いが」 「通せ」 「……その、面会ではなく、お言葉だけを」 「何だ」 使用人はためらった。  そして、ほんの少し目を伏せて言う。「本日の茶会は、急病のためお取りやめとのことです」 「……」 継母の顔から、さらに色が落ちた。 クラウディア侯爵夫人。  昨日までなら、継母が“親しい友人”と呼びたがった相手だ。  その茶会が、急病を理由に取りやめられる。  それ自体はよくある断り文句だ。  だが、今日この朝に、それが届く意味を、この部屋の誰もが理解していた。 切られたのだ。 しかも、穏やかで、上品な形で。「……一件だけよ」 継母が、ほとんど自分へ言い聞かせるみたいに言う。「たまたまよ」 「たまたまなものか」 父の声は低く重い。  その時、さらに別の使用人が駆け込んできた。「旦那様、エヴァンス商会の番頭が」 「今度は何だ」 「本日中に、先月分の利払いについてご相談を、と」 「……相談?」 「はい。先方は“契約の前提が揺らいだ以上、支払い形態の見直しが必要”と」 それで終わりではない。 門番からの取り次ぎ。  婦人会からの“しばらく寄進の受付を見合わせたい”という書状。  小さな舞踏会の招待取り消し。  先延ばしにしていた仕立て屋からの“先約優先”の断り。  全部が同じ朝に、一斉に来た。 ひどく静かだ。  だが、逃げ場がない。 昨日まで、この家は伯爵家だった。  格も体面も、まだかろうじて保っていた。  今日の朝、その体面だけが一斉に引き剥がされた。 社交界から切り捨てられる、とはこういうことなのだと、リリアーナはどこか冷静に思った。 誰も怒鳴らない。  誰も正面から「あなた方とは今後付き合えません」とは言わない。  ただ、茶会が取りやめになり、招待が消え、商会が条件を変え、婦人会が距離を置く。  そうやって、今日まで当然のように流れていた水だけが、いきなり止まる。 その時になって初めて、人は自分がどれほど多くの“当然”に支えられていたかを知る。 父は立ち上がった。  椅子が床を擦る。  その音が、やけに大きく響く。「馬車を出せ
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第31話 実家への仕返し③

「まだ、そういう言い方をするのね」 「何を」 「私のため、って」 「だってそうでしょう?」 「いいえ」 リリアーナはゆっくりと立ち上がった。 窓から差す朝の光は、少しもやわらかくなっていない。  むしろ、時間が経つほど部屋の中の色を冷たく照らし出していく。「これは私のためじゃないわ」 「リリアーナ」 「お父様も、お母様も」 「……」 「最初から、私の幸せなんて一度も見ていなかった」 「今はそんなことを言っている場合じゃ」 「今だから言うのよ」 父が苛立たしげに睨む。「感情的になるな」 「感情的?」 リリアーナは、そこでほんの少しだけ笑った。  乾いた、静かな笑いだ。「あなたたちは、今になって私に何を求めてるの?」 「家族としての助けだ」 「家族」 「そうだ」 「……よく言えるわね」 その一言で、父の顔が強張る。  でも、もう怖くない。  この人が怒っても、今の自分が失うものはないからだ。「あなたたちは、私が泣いていた時、一度も振り返らなかった」 部屋の空気が止まる。 誰も動かない。  マリアンヌだけが、はっとしたようにリリアーナを見た。「熱を出した朝も」 「……」 「夜会から戻って、何も食べられない日も」 「……」 「侯爵家で一人だった時も」 「……」 「あなたたちは、私に“家のため”と言うだけで」 「……」 「一度も振り返らなかった」 その一言一言が、もう涙にはならない。  ただ静かに、相手の顔へ落ちていく。「今になって、家族?」 「リリアーナ、それは」 「都合が悪くなったから、でしょう」 「違う!」 「違わないわ」 今度は父が、はっきりと声を荒げた。「お前は伯爵家の娘だ!」 「そうやって言うのも、便利ね」 「何だと」 「使いたい時だけ娘」 「……」 「侯爵家へ置いて金を引き出す時も娘」 「……」 「泣きついて取りなしてほしい時も娘」 「……」 「でも、私が泣いていた時は」 リリアーナはそこで、父と継母の顔を交互に見た。「一度も、娘じゃなかったでしょう」 継母の目に、初めて本当の焦りが浮かんだ。「そんなこと」 「言わないで、ではないわよ」 「……」 「事実でしょう」 リリアーナは机の上に置かれた、今朝届いた断りの書状を一枚手に取った
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第31話 実家への仕返し④

 外では鳥が一羽鳴いた。  晴れた朝らしい、甲高く短い声。  それがこの室内だけ別の季節に取り残されているみたいで、妙におかしかった。 リリアーナは、手にしていた書状を机へ戻した。「さようなら、お父様、お母様」 その呼び方に、もう意味はない。  でも、最後だからこそ、あえてそう言う。「これ以上、私に泣きつかないで」 「……」 「あなたたちは、私が泣いていた時、一度も振り返らなかった」 「……」 「だから私も、もう振り返らない」 言い切る。 誰も、引き止めなかった。  引き止められなかったのだろう。  あるいは、もう引き止めても無駄だと分かったのか。 リリアーナは踵を返した。  エマがすぐ後ろにつく。  廊下へ出ると、朝の冷えた空気が頬へ触れた。  部屋の中の淀みとは違う、外へ続く冷たさだった。 歩きながら、胸の奥が少しだけ痛む。  情がないわけではない。  生まれ育った家だ。  小さな頃の記憶だってある。  だから、何も感じないほど冷たくはなれない。 でも、その痛みは、足を止めるほどのものではなかった。 むしろ、ようやく切るべきものを切ったあとの、まっすぐな痛みだった。 だが、それで終わりではなかった。 自室へ戻りかけたところで、背後から足音が追ってきた。  絨毯を踏む乱れた音。  この家で、父と継母がこんなふうに取り乱した足音を立てるのは珍しい。  だから、振り返らなくても分かった。「待ちなさい!」 継母の声だった。  高く、かすかに掠れている。  怒鳴っているのではない。  泣きそうなのだ。 リリアーナは足を止めた。  止めたのは、情が残っていたからではない。  最後に、きちんと終わらせるためだ。 振り返る。 継母は廊下の半ばで胸を上下させていた。  父もすぐ後ろにいる。  さきほどまでの“伯爵”と“伯爵夫人”の顔はもう半ば崩れていて、代わりに、足元から床が抜けるのを初めて知った人間の怯えがむき出しになっていた。「本当に、このまま行くつもり?」 「ええ」 「話し合いましょう」 「今さら?」 「今だからよ!」 継母は一歩、また一歩と近づいてくる。  真珠の首飾りが細く鳴る。  手袋をした手は強く握られ、白くなっていた。「あなたにだって分かるでしょう? 家が崩れ
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