All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 11 - Chapter 20

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第3話 冷徹侯爵の違和感②

 馬車が止まる。 扉が開かれる。 冷たい空気が流れ込み、リリアーナは無意識に肩を竦めた。乾いた土の匂い、冬を抜けきらない芝の匂い、遠くで焚かれている薪の匂いが混ざる。御者台のほうで革具が鳴り、玄関前には既に数人の使用人が整列していた。前世の記憶が正しければ、ここに立つ執事の名はローレンス。年配で、白髪を一筋の乱れもなく撫でつけ、礼儀正しく、だが侯爵家に不要な情を見せない男だ。「エヴェルシア伯爵家の皆様、お待ちしておりました」 やはりその声だった。 低く、無駄のない声音。リリアーナの背筋にうっすらと寒気が走る。懐かしさではない。傷跡に似た感覚だった。 マリアンヌが小さく「まあ」と感嘆し、継母は満足げに頷きながら先に降りた。リリアーナは最後に足を下ろす。石段へ靴裏が触れた瞬間、前世の最後に倒れた石畳の冷たさが一瞬だけ蘇り、膝から力が抜けかけた。「お嬢様」 すぐ後ろに控えていたエマが小さく囁く。その声で、かろうじて意識が今へ戻った。「……大丈夫」 自分に言い聞かせるように呟き、顔を上げる。 玄関扉はすでに開かれていた。中から流れ出てくる空気は外より暖かい。磨かれた木の匂い、蜜蝋、微かな花の香り。だがその温度のやさしさに反して、胸の奥はますます強張っていく。 前世の初訪問では、セドリックは出迎えにすら現れなかった。 それはよく覚えている。義母が応接間でこちらを値踏みし、父が必要以上に機嫌を取り、継母がこわばった笑みを浮かべる中、肝心の当主は「公務のため遅れる」とだけ伝えられた。あの時のリリアーナは、まだ未来を知らず、それでも胸のどこかで少し落胆したのだ。婚約相手に無関心なのだと、その時点で薄々気づいてしまったから。 だから今回も、そうだと思っていた。 彼は来ない。  来ても挨拶だけで終わる。  そうであってほしい、とさえ思っていた。 だが玄関ホールへ一歩足を踏み入れた瞬間、そこに立つ黒い影を見て、リリアーナは立ち尽くした。 セドリックがいた。 前世ではいなかった場所に、当たり前のように。 黒の礼装に身を包み、真っ直ぐにこちらを向いて立っている。窓から差す冬の名残のような淡い光が、その輪郭だけを冷たく縁取っていた。高い鼻梁、結ばれた薄い唇、蒼灰色の瞳。相変わらず他人を寄せつけないほど整った美貌なのに、その顔は今日、わずかに血の気を失
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第2話 巻き戻った朝の誓い③

 一口含む。甘い。温かい。喉を下りていくやさしい熱に、ようやく肩の力が少し抜けた。甘さというものは、こんなにも人の神経を緩めるのだと、前世の自分は時々忘れていた。侯爵家では何を口にしても、どこか気を張っていたから。「……驚いたでしょう」 「はい。少し」 エマは正直に頷いてから、慌てて付け足した。「でも、お嬢様が無理をなさる必要はございません。侯爵様も、お怒りではなかったようですし」 「怒らない人だから」 「え?」 「いいえ」 ぽつりと零れた本音を誤魔化し、カップを見つめる。怒らない人。たしかにそうだ。セドリックは簡単には怒声を上げない。怒鳴らない。感情を爆発させない。だから余計に、何を考えているのか分からなかった。冷たい静けさのほうが、剥き出しの怒りよりよほど人を孤独にすることを、リリアーナは知っている。「エマ」 「はい」 「今日の午後、衣装係が来る予定だったわね」 「はい。婚約調印用のドレスの最終調整と、宝飾品の合わせを」 その言葉だけで胃がきしんだ。婚約調印用のドレス。真珠の髪飾り。ヴァレンティア家の紋を織り込んだショール。前世で何度も袖を通した、それらの始まり。「断って」 「え?」 「少し延期してもらえるかしら。頭痛がすると伝えて」 「ですが、奥様が……」 「お母様には私から話すわ」 嘘だった。継母に理解を求める気はない。ただ、今あの衣装に触れたくなかった。あの布の重みを肩に乗せれば、まるで既に婚姻が決まってしまったような気がしてしまう。 エマは戸惑いながらも頷いた。もともと、主人の顔色を読んで動ける賢い娘だ。前世で連れていけなかったことを、何度惜しんだか分からない。「それから、便箋をもう一組。できれば、家名の入っていないものを」 「家名の、入っていない?」 「ええ。私用の手紙を書くの」 「かしこまりました」 エマが再び下がる。部屋に静けさが戻った。 窓の外では風が少し強くなり、若い枝が擦れ合ってかさかさと鳴っていた。春を待つ庭の音だ。まだ何も咲いていない。けれど土の下では、たしかに何かが動いている。そう思うと、胸の奥に小さく、ほそい火が灯る。 恐怖は消えない。けれど恐怖だけでは終わらせない。 リリアーナは机へ向かった。     * 紙の上に、最初の一行を書くまでに、ひどく時間がかかった。 ペン先
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第3話 冷徹侯爵の違和感④

 その間も、セドリックはほとんど喋らなかった。 前世と同じように見えて、やはり違う。 彼は確かに沈黙している。だが無関心ではない。むしろ、沈黙の密度が濃すぎる。こちらがカップを持てば視線が落ち、義母が何か言えば空気の温度を測るように眉がわずかに動き、リリアーナが疲れた様子を見せれば息を呑むのをこらえるように喉が小さく上下する。 気づいてしまう自分が嫌だった。 見なければいいのに、見てしまう。  前世では一度も自分に向かなかったはずの注意が、今は僅かにでも向いていることを。 それが嬉しいわけではない。  嬉しいものか。  ただ、怖いのだ。 人は一度乾いた土へ水が落ちる音を知ると、二度目はその気配だけで身構える。期待ではなく、警戒として。「少し庭を歩かれますか」 不意に、セドリックが言った。 室内の会話が一瞬止まる。継母の顔がぱっと明るくなり、父は機嫌よく頷きかけた。だがリリアーナはその前に、思わずセドリックを見た。「……わたくしに?」 「ああ」 「なぜ」 問いが、そのまま零れてしまった。 気まずい沈黙が落ちる。継母がすぐに笑って取り繕う。「まあ、リリアーナ。侯爵様のお心遣いでしょう」 「お心遣い」 その言葉がやけに苦く聞こえる。 前世でも最初の数か月、セドリックは形式としての気遣いは見せた。食事はどうか、部屋の寒さはないか、必要なものは揃っているか。だがそれらはすべて“侯爵夫人を適切に配置する”ための確認に見えた。だから今の庭へ、という誘いも、善意ではなく別の何かにしか思えない。「長くは歩かない」 セドリックは静かに付け足した。その声音には強制の響きはない。むしろ、断られる前提で傷つかないようにしているような、妙な慎重さがあった。 そんなふうにしないで。 心の中でそう叫びたくなる。 あなたはもっと無関心でいてくれたほうがいい。  そうすれば私は、前世と同じ冷たさを憎むだけで済むのに。「……ご遠慮します」 リリアーナは微笑んだ。形だけは崩さずに。「少し疲れましたので」 「そうか」 「はい」 断られた時、セドリックの目がほんの少しだけ暗く沈んだ。けれど彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、分かったというように短く頷く。そのあまりの引き下がり方が、かえって違和感を深くした。前世の彼は無理強いもしなかったが、こ
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第2話 巻き戻った朝の誓い⑤

 スプーンを持つ。とろりとしたスープが舌にのる。塩気は穏やかで、喉を通る熱がやさしい。前世の終わりには、食べることすら義務になっていた時期があった。味がしない日も多かった。だから、今こうして素直に「温かい」と思えることが、少しだけ救いになる。「午後の衣装係には、頭痛とお伝えしておきました」 「ありがとう。お母様は?」 「少々ご不満のご様子でしたが、侯爵様が急においでになったことで、お疲れになったのだろうと……」 「そう」 継母にとっても、侯爵本人の予期せぬ来訪は予定外だったのだろう。ならば好都合だ。その揺れを使えるかもしれない。 リリアーナはスプーンを置き、エマを見た。「エマ、あなたに頼みたいことがあるの」 「なんなりと」 「まだ、誰にも言わないで聞いてちょうだい」 侍女は少し緊張した面持ちで背筋を伸ばした。「母方の叔母、アデルおばさまの居場所は分かる?」 「アデル様……。たしか西の丘陵地の修道院に近い領地で、温室と薬草園をお持ちだと」 「今も?」 「はい、昨年だったか、一度だけお手紙が来ていたかと」 よかった、と心の中で息をつく。前世で唯一、結婚前の自分に『嫌なら無理に嫁がなくてもいいのですよ』と言ってくれた人だった。だがその時のリリアーナは、そんな優しさを受け取る資格がないと思ってしまった。家のために決まった縁談なのだからと。 愚かだった。「おばさま宛に手紙を書くわ。できるだけ早く、確実に届くようにしたいの」 「……ご内密のほうがよろしいのですね」 「ええ」 エマは一瞬だけ迷ったようだった。だがすぐに、真剣な顔で頷いた。「承知いたしました。御者の中に、口の固い者が一人おります」 「助かるわ」 味方が一人いる。その事実だけで、少し立っていられる気がした。「それからもう一つ。お父様の書斎に、商会からの書簡が届いているはずよ。最近、封の色が濃紺のもの」 「お嬢様、それは」 「盗み見したいわけではないの。ただ、差出人を知りたいの。帳場に出入りする商会の名だけでいい」 「……危ういことでございます」 「分かっている。でも必要なの」 前世の終盤、伯爵家はかなり追い詰められていた。資金繰りは悪化し、父は侯爵家との縁を使って幾つも融通を受けようとしていた。もし今も既にその兆候があるなら、婚約の打算を裏づける材料になる。
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第2話 巻き戻った朝の誓い④

 ペン先が紙を擦る音だけが部屋に響く。リリアーナは記憶を短い言葉に変えていった。 義母。継続的な侮辱。人前では善人。二人きりの場を避ける。 書くことで、痛みが少しだけ輪郭を得る。ぼんやりした恐怖より、名前のついた危険のほうがまだ扱える。 次に思い出したのは、実家からの手紙だった。     * 侯爵家へ嫁いで最初の年の冬、伯爵家から届いた手紙には、祝いの言葉とともに小さく追伸が添えられていた。『侯爵様に、東部の鉱山権の件をお口添えいただけないかしら』 追伸は二通目で依頼になり、三通目で催促になり、半年も経つ頃にはほとんど命令になった。『お前は何のために侯爵家へ入った』 『少し頼みごとをするだけでしょう』 『家に恩返しをするのは当然ではなくて?』 父はそう書いた。継母はもっと露骨だった。『可愛がられていないのなら、それ以外で役に立ちなさい』 その一文を読んだ日のことも、リリアーナは忘れていない。書斎の小窓からは雪が見えた。暖炉は燃えていたのに手足が冷たくて、紙を持つ指先が震えた。可愛がられていない。家族はそれを知っていたのだ。知っていてなお、娘を労るより先に、利用価値を量っていた。 断れば責められる。頼めばセドリックは表情を変えず、『必要ない』とだけ言った。冷たい言い方ではない。ただ、そこで会話が終わる言い方だった。彼は実家の打算も、父たちの浅ましさも見抜いていたのだろう。だが、それを見抜いたうえでなお、リリアーナが板挟みになることへの言葉は一つもなかった。     * リリアーナは息を吐き、次の行を書いた。 実家。婚姻を取引と見ている。要求は増える。拒めば責める。証拠を残せる可能性あり。 証拠。 その言葉を書いた途端、彼女の中で何かが切り替わった。 そうだ。前世の自分は、ただ耐えていた。耐えて、傷ついて、誰も分かってくれないと夜ごと泣いていた。だが今は違う。記憶がある。いつ、誰が、どんな言葉を使い、どこで何を求めたのか。曖昧でも、手がかりはある。感情だけでは婚約は破れない。けれど、打算と不正と外聞への恐れなら、貴族社会は動く。 ペン先に少し力が入った。 社交界。嘲笑。味方は少数。誰が見ているかを確認。 紙に並ぶ単語は冷たい。だが冷たいからこそいい。泣きたくなる記憶も、文字にしてしまえば、少しだけ使えるものになる。 社交
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第2話 巻き戻った朝の誓い⑥

 泣いてはいけない、と唇を結ぶ。ここで感情に流されれば、ただ縋るだけの手紙になってしまう。欲しいのは同情ではない。助力と、逃げ道と、自分が一人ではないという現実だ。 彼女は丁寧に書き進めた。婚約調印を前に強い不安があること。相談したいことがあること。できるだけ早く会いたいこと。直接は書けないが、この婚姻を望んでいないこと。 言葉を選ぶたび、手元が少し震えた。だがその震えは朝のものとは違う。恐怖に押し潰される震えではなく、扉に手をかける時の震えだ。 封をして、エマへ渡す。「必ず」 「はい。必ず」 侍女の手がしっかりとそれを受け取った。 それだけで、世界の端にほんの小さな楔が打たれた気がした。たった一通の手紙。たった一人の味方。それでも、何もせず流されていた前世とは違う。     * 夜、寝支度を終えたあとも、リリアーナはすぐには床に入れなかった。 部屋には小さなランプだけが灯っている。琥珀色の火がガラスの内側で揺れ、その光が壁紙の花模様を淡く照らしていた。外は静かだ。時折、どこかの扉が閉まる音と、遠い見回りの足音が聞こえるだけ。 眠ればまた、あの石畳の夢を見るかもしれない。 そう思うと、体はあたたかな寝衣に包まれているのに、心だけが寝台の端に立ちすくんでいた。 机に戻り、最後の一枚を引き寄せる。誰に見せるわけでもない紙だ。そこに、リリアーナはゆっくりと書いた。 私は、もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはならない。 書き終えた瞬間、ペン先が小さく震えた。黒いインクが文字の端でわずかに滲む。 口に出してみる。「……もう二度と、あの人の花嫁にはならない」 声は低く、かすれていた。 けれど次に息を吸った時、胸の奥の震え方が少し変わった。怖い。もちろん怖い。父も継母も敵に回るだろう。社交界はすぐ噂にする。セドリックがどう出るかも分からない。もしかしたら、自分は結局また押し流されるかもしれない。 それでも。 それでも、この一行を自分で書いたことだけは、誰にも奪えない。 前世の私は、何一つ言えなかった。  嫌だとも、苦しいとも、助けてとも、ちゃんと。  だから今世では、まず自分自身にだけは、はっきり言う。 嫌だ。  もう、あんなふうに生きたくない。  あの家に入って、義母に削られ、実家にしゃぶられ、社交界に笑われ、夫の沈黙の中で少し
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第3話 冷徹侯爵の違和感③

 リリアーナは深く礼をした。動作だけなら完璧に近かった。前世で叩き込まれたものだ。皮肉なことに、この屋敷に適応するための所作が、今は彼女を守る殻になっている。「お招きありがとうございます、侯爵夫人」 顔を上げる。義母の目が一瞬、彼女を測るように細くなった。前世でも最初からこうだった。褒める前に値踏みする。親しげな言葉より先に、欠点を探す目。「お噂通り、お綺麗な方ね」 柔らかい声。 けれどその“お噂通り”の中に、すでに本人ではなく評判で捉えている距離がある。人としてではなく、婚約者候補として見ている目だ。「ありがとうございます」 「少し顔色が悪いようだけれど、緊張していらっしゃるのかしら」 「ええ、少し」 「まあ、初々しいこと。けれどヴァレンティアの屋敷は、そんなに恐ろしいところではなくてよ」 その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。 恐ろしいところではない。 前世のアグネスも、よく似た言い方をした。傷ついた時ほど、痛みを認めない言葉で蓋をするのだ。あなたが気にしすぎ、あなたが未熟、あなたが場に慣れていないだけ。そうやって。「母上」 不意に、セドリックが口を挟んだ。 低い声だったが、室内の空気を静かに断つには十分だった。アグネスがわずかに眉を動かす。「リリアーナ嬢は朝から体調が万全ではない。今日は長く引き留めるつもりはない」 「まあ、そうなの」 「はい、侯爵夫人。でも、ご挨拶はきちんと」 リリアーナは反射的にそう言っていた。言いながら、自分で自分に腹が立つ。どうして庇われる前提のような形を受け取ってしまうのか。けれどセドリックの言葉をそのまま黙って許せば、前世の自分がずっと求めてしまったものに、また手を伸ばしてしまいそうだった。 セドリックは彼女を見た。 近くで見ると、なおさらその違和感が際立った。瞳が深い。沈黙がいつもと違う。前世の彼は、もっと完璧に“無”を装っていた。今の彼は装ってはいるが、その下で何かが絶えずきしんでいるように見える。「無理はするな」 それだけを言う声が、妙に低く落ちた。 まただ。 その言い方。 まるで既に、こちらがどれほど無理を重ねる人間か知っているような。 違和感はやがて不快感へ変わり始める。人は理解できない優しさに戸惑う。だが、一度傷つけられた相手から向けられる理解しがたい気遣いは、戸惑いで
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第3話 冷徹侯爵の違和感⑤

「……失礼いたしました」 先に引いたのは、彼のほうだった。「体調の悪い相手に言うべきことではなかった」 「ええ、本当に」 「だが」 「侯爵様」 リリアーナは遮った。これ以上聞きたくなかった。彼の口から何かが零れる前に、扉を閉めてしまいたかった。「わたくしは、少し疲れておりますの。これ以上のお気遣いは、かえって身に余りますわ」 丁寧な言葉だった。けれど意味は明白だ。踏み込むな。近づくな。これ以上妙な優しさを向けるな。 セドリックはしばらく彼女を見ていた。 その目が、あまりにも静かで、あまりにも痛そうだったから、リリアーナは視線を合わせていられなかった。胸がざわつく。腹が立つ。そんな顔をするくらいなら、どうして前世で何も言わなかったのかと、叫びたくなる。けれどここでそんなことを言えるはずがない。「……分かった」 彼は低く答えた。 そのたった一言に、妙な諦めが混じっていた。まるで拒まれることに慣れている人間のような、あるいは拒まれて当然だと思っている人間のような声音だった。 リリアーナはそれに返事をせず、馬車へ乗り込んだ。裾を持ち上げ、革張りの座席へ腰を下ろす。エマがすぐ後に続く。扉が閉まり、外の風が遮られた瞬間、ようやく胸いっぱいに息を吸えた。 けれど安堵は長く続かなかった。 窓の向こうで、セドリックがまだこちらを見ていた。 他の誰にも見せないほど静かな顔で。ただじっと、見失ったものをもう一度手放すまいとするような眼差しで。 やめて。 心の中で、鋭く思う。 そんな目で見ないで。  私はあの眼差しを知らない。  知りたくもない。  知ってしまえば、前世の十年がもっと意味の分からないものになる。 馬車が動き出す。車輪が石畳を踏み、屋敷がゆっくりと後ろへ遠ざかる。けれど黒い影はしばらくそこに立ち尽くしたままだった。 継母は上機嫌だった。「素晴らしいお屋敷でしたこと。侯爵夫人も気品にあふれていらしたわ」 「ええ、本当に。お姉様、羨ましいですわ」 マリアンヌが頬を紅潮させながら言う。父も満足げに頷いた。「侯爵様も、想像以上にお前を気にかけておられるようだ。先日の失態があってなおあの対応なら、むしろ良い方向に働いたのかもしれんな」 失態。 気にかけている。 その言葉たちが、車内の空気の中で薄っぺらく跳ねる。 気にか
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第4話 婚約破棄の申し出①

 その朝、リリアーナは目が覚めた瞬間に、自分がほとんど眠れていなかったことを知った。 瞼の裏には何度も同じ光景が浮かんだ。ヴァレンティア侯爵邸の玄関ホール。灰白色の光。義母の完璧な微笑み。セドリックの蒼灰色の瞳。そして、自分を見た瞬間、彼の顔からわずかに血の気が引いた、あの一瞬。 何度思い返しても気味が悪い。 あの人は前世では、もっと冷たく、もっと分かりやすく遠かった。だからこそ、傷つくたびに自分を納得させられたのだ。この人はそういう人なのだと。愛を求めるほうが愚かなのだと。けれど今世の彼は違う。沈黙のままなのに、そこに沈黙以外の何かが混じっている。それが一番たちが悪かった。 だが、いつまでもそこに心を引っかけてはいられない。 今日、やるべきことは決まっていた。 父に、婚約解消を正式に願い出る。 それは昨夜のうちに決めていた。アデル叔母への手紙はもう出した。侯爵家訪問の記録も書き留めた。伯爵家とレーヴェン商会の繋がりについても、前世の記憶と今の動きが少しずつ重なり始めている。ならば、次に打つべき手は一つだ。 家の中で、自分の意思を言葉にすること。 反対されるに決まっている。怒鳴られるだろう。継母は泣いたふりをするかもしれない。マリアンヌは善意ぶって首を傾げるだろう。けれど、それでも言わなければならない。前世の自分は、最初の「嫌です」を飲み込んだ。だからその先、何もかもが家の都合のまま滑り落ちていった。 今度は違う。 リリアーナは掛布を押しのけ、床へ足を下ろした。春先の朝の冷えが、靴を履く前の足裏へしみる。窓の外はまだ薄青い。庭木の影が長く伸び、夜露の残る芝がかすかに光っていた。部屋の中には、昨日エマが小さく焚いてくれたラベンダーの残り香がある。胸いっぱいに吸い込むと、荒れていた神経が少しだけ整う気がした。「お嬢様、お目覚めでございますか」 ノックのあと、エマが静かに入ってくる。盆には白磁のカップと小さなポット。朝一番の薄いお茶だ。薬草を少し混ぜてあるのか、湯気の向こうにすっきりとした香りが立つ。「ええ。起きるわ」 「お加減は」 「眠れなかっただけ。体は動くわ」 「……本日、でございますか」 小さな声だった。だが問う意味は分かる。父へ話をするのか。今日、言うのか。 リリアーナは頷いた。「今日よ。先延ばしにしたら、家のほうが
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第4話 婚約破棄の申し出②

 継母が首を傾げた。その仕草は柔らかいが、目の奥が先に警戒を始めている。昨日の侯爵家訪問のあとで改まって話があるなどと言われれば、誰でも身構える。「朝食の席で申し上げることではないかもしれません。ですが、皆様にご一緒に聞いていただいたほうがよろしいと思いました」 「何をもったいぶっているの」 継母の声音が微かに冷えた。 リリアーナは背筋を伸ばした。指先はテーブルの下で組んだままだ。白い手袋越しでも少し汗ばんでいるのが分かる。けれど声は揺らさない。「ヴァレンティア侯爵家との婚約を、解消していただきたく存じます」 その一言で、食堂の空気が止まった。 父の手から新聞が滑り、卓上へばさりと落ちる。マリアンヌが息を呑み、継母はまるで聞き間違えたかのように数秒、無表情のまま固まった。「……もう一度、言ってちょうだい」 継母が笑顔のまま言う。その笑顔だけが怖い。頬は上がっているのに、目は全く笑っていない。「ヴァレンティア侯爵家との婚約を解消していただきたいのです」 「何を馬鹿なことを」 今度は父が先に声を荒げた。卓を叩くほどではなかったが、低く唸るような怒気が食堂の空気を震わせた。「昨日何を見てきたのだ。侯爵家の屋敷の格も、あちらの態度も分かっただろう。それでもまだ子どもじみた我がままを」 「我がままではございません」 「ならば何だ」 「判断です」 ぴたり、と父の眉が寄る。 リリアーナはそこで初めて、自分の中の恐怖が少しだけ形を変えるのを感じた。相手を怖がる気持ちが、言葉を置くたび、わずかに距離へ変わっていく。前世の自分は、父が声を荒げるだけで委縮した。だが今は、その怒りの中身が見える。ただの支配欲と焦りだ。「判断、だと?」 「はい。わたくしはこの婚約が、我が家にとって長期的に有利ではないと考えます」 「……何を言っているの」 継母の声が、今度ははっきり尖った。「あなたごときが、侯爵家との縁談を家の利益で語るの?」 「語れます。少なくとも、嫁ぐ当人ですから」 「リリアーナ」 「お母様、わたくしは真面目に申し上げています」 その言い方が、思っていた以上に効いたらしい。継母の表情が一瞬、崩れた。リリアーナがここまで真っ直ぐに言い返すのは初めてだった。 父は低く息を吐き、椅子の背へもたれた。その目つきが変わる
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