馬車が止まる。 扉が開かれる。 冷たい空気が流れ込み、リリアーナは無意識に肩を竦めた。乾いた土の匂い、冬を抜けきらない芝の匂い、遠くで焚かれている薪の匂いが混ざる。御者台のほうで革具が鳴り、玄関前には既に数人の使用人が整列していた。前世の記憶が正しければ、ここに立つ執事の名はローレンス。年配で、白髪を一筋の乱れもなく撫でつけ、礼儀正しく、だが侯爵家に不要な情を見せない男だ。「エヴェルシア伯爵家の皆様、お待ちしておりました」 やはりその声だった。 低く、無駄のない声音。リリアーナの背筋にうっすらと寒気が走る。懐かしさではない。傷跡に似た感覚だった。 マリアンヌが小さく「まあ」と感嘆し、継母は満足げに頷きながら先に降りた。リリアーナは最後に足を下ろす。石段へ靴裏が触れた瞬間、前世の最後に倒れた石畳の冷たさが一瞬だけ蘇り、膝から力が抜けかけた。「お嬢様」 すぐ後ろに控えていたエマが小さく囁く。その声で、かろうじて意識が今へ戻った。「……大丈夫」 自分に言い聞かせるように呟き、顔を上げる。 玄関扉はすでに開かれていた。中から流れ出てくる空気は外より暖かい。磨かれた木の匂い、蜜蝋、微かな花の香り。だがその温度のやさしさに反して、胸の奥はますます強張っていく。 前世の初訪問では、セドリックは出迎えにすら現れなかった。 それはよく覚えている。義母が応接間でこちらを値踏みし、父が必要以上に機嫌を取り、継母がこわばった笑みを浮かべる中、肝心の当主は「公務のため遅れる」とだけ伝えられた。あの時のリリアーナは、まだ未来を知らず、それでも胸のどこかで少し落胆したのだ。婚約相手に無関心なのだと、その時点で薄々気づいてしまったから。 だから今回も、そうだと思っていた。 彼は来ない。 来ても挨拶だけで終わる。 そうであってほしい、とさえ思っていた。 だが玄関ホールへ一歩足を踏み入れた瞬間、そこに立つ黒い影を見て、リリアーナは立ち尽くした。 セドリックがいた。 前世ではいなかった場所に、当たり前のように。 黒の礼装に身を包み、真っ直ぐにこちらを向いて立っている。窓から差す冬の名残のような淡い光が、その輪郭だけを冷たく縁取っていた。高い鼻梁、結ばれた薄い唇、蒼灰色の瞳。相変わらず他人を寄せつけないほど整った美貌なのに、その顔は今日、わずかに血の気を失
آخر تحديث : 2026-06-13 اقرأ المزيد