All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 21 - Chapter 30

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第4話 婚約破棄の申し出③

「続けろ」「ありがとうございます。侯爵家は現時点では婚約に前向きに見えます。ですが、それは我が家がまだ“従順な伯爵家”だからです」「……」「ところが婚姻後、我が家は必ず侯爵家へ便宜を求めます。商会との関係、鉱山権、穀倉担保、その先には恐らく北方の林業権にも手を伸ばすでしょう」「林業権……?」 マリアンヌがぽかんと呟く。リリアーナはそちらを見ない。前世で父は確かにそこまで手を伸ばした。侯爵家の名を使えば、通常より有利な交渉ができると踏んだからだ。そしてセドリックはそれを拒み続け、そのたびに伯爵家からの圧は自分へ向かった。『お前は何のために嫁いだ』『一つくらい役に立ちなさい』『可愛がられていないなら、そのぶん交渉しなさい』 あの文面が、今も脳裏に焼きついている。「それらを拒まれた時、我が家はどうなりますか」「……」「侯爵家との関係は悪化します。わたくしは板挟みになります。実家は不満を募らせ、侯爵家は煩わしさを募らせる。結果として、我が家は侯爵家の庇護も信頼も失う」「憶測だ」 父がようやく言った。だが声音はさきほどほど強くない。「憶測ではございます。けれど、十分にあり得る未来です」「どの婚姻にもあり得ることだ」「いいえ。少なくとも、この婚約では確率が高いはずです。なぜなら我が家には既に資金面で焦りがあり、侯爵家にはそれを救える力があるから」 そこでリリアーナは一度、言葉を切った。紅茶はもう冷えている。喉が渇いていたが、今は飲まない。ここで緩んではならない。「お父様。率直に申し上げます」「何だ」「わたくしは、この婚姻が“娘の幸福”のために整えられたものだとは考えておりません」「当然だ」 父は吐き捨てた。「家の婚姻とはそういうものではない」「ええ。ですから同じ理屈でお返しします。家の婚姻ならば、感情ではなく損得で考えるべきです」「……」「そのうえで、この婚約は危険です」 リリアーナは父の目をまっすぐ見返した。「ヴァレンティア侯爵家は我が家より格が上すぎます。救われる可能性より、切り捨てられる可能性のほうが高い」「切り捨てるだと?」「はい。わたくしがもし向こうで歓迎されず、夫からも距離を置かれたなら、我が家が侯爵家へ要求を重ねるほど、先方は“厄介な妻の実家”として伯爵家そのものを疎みます」「そのようなこと、まだ何
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第4話 婚約破棄の申し出④

 詰まった。 そこで初めて、マリアンヌでさえ父の顔を見た。つまり、そうなのだ。父は求めるつもりなのだ。最初から。「誓えないのであれば、わたくしの申し上げている危険は現実的です」 「……」 「そして、その要求が重なれば重なるほど、侯爵家にとってわたくしは“厄介な妻”になります」 「そんなもの、お前が上手く立ち回れば」 「立ち回ってどうなりますか」 今度はリリアーナが一歩も引かなかった。「実家と夫家の間で都合よく動く女は、どちらからも信用されません」 「……」 「お父様はわたくしにそれをなさいと?」 「家の娘なら当然の」 「では、家の娘として申し上げます」 リリアーナは深く息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入り、逆に頭が冴える。「その役目は失敗します。わたくしには無理です」 「何だと」 「わたくしは、侯爵家へ便宜を願い出るたびに恥をかき、実家からはもっと役に立てと責められ、最後には両方から不要とされる」 「最後、ですって?」 継母がそこに反応した。 最後。あまりにも確信的な響きに、さすがに不気味さを覚えたのだろう。リリアーナは心臓が一つ強く打つのを感じた。危ない。ここで前世の記憶を未来予知のように言ってはいけない。「そうなり得る、と申し上げております」 「あなた……」 「お父様、お母様」 声を少しだけ落とす。怒鳴らない。静かに言ったほうが、この場では効くともう分かっていた。「わたくしは泣いて婚約を嫌がっているのではありません。伯爵家の娘として、家の見通しの甘さを申し上げているのです」 「見通しの、甘さ」 「はい。今必要なのは、格上の侯爵家へ娘を差し込んで救ってもらうことではなく、レーヴェン商会との条件見直しと、穀倉担保の整理ではありませんか」 「……お前」 「さらに申し上げれば、侯爵家との婚姻が決まったあとに条件を緩めてもらえば、商会側にも“伯爵家は侯爵家を後ろ盾に持った”という印象を与えます。その結果、今後の交渉でますます家の財務の実情を隠しづらくなる」 「黙りなさい!」 継母がついに声を荒げた。 鋭い叫びに、控えていたメイドがびくりと肩を揺らす。マリアンヌは半ば泣きそうな顔で母を見る。だが父は怒鳴らなかった。むしろ、机の一点を凝視したまま沈黙している。 効いている。
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第4話 婚約破棄の申し出⑤

「すぐに別の大きな縁談を探す必要はないかと存じます」 「そんな悠長な」 「悠長ではありません。むしろ今、急いで別の格上へ繋がろうとするほうが危険です。家の焦りを市場に晒すことになります」 「……」 「まずは商会との条件整理です。次いで担保の再編。家の体裁を保つにしても、婚姻を資金繰りの止血に使うべきではございません」 「お前に、そこまで」 「分かります。少なくとも、娘を一枚差し出せば全部丸く収まると思うほど、婚姻は便利ではありません」 父の喉が小さく動いた。 その反応を見た瞬間、リリアーナは悟った。刺さったのだ。しかも深く。父は“娘が反抗している”のではなく、“家の隠していた計算を読まれている”と理解した。だからこそ、さっきから怒りだけでは押し切れなくなっている。 マリアンヌが震えた声で言う。「お姉様、そんな言い方……。お父様もお母様も、家のために」 「ええ。だからこそ、家のために言っているのよ」 リリアーナは妹を見た。責めるつもりはなかった。まだ何も知らないのだ。この家がどうやって娘の価値を測るかも、婚姻がどう使われるかも、身をもっては知らない。「今の私は、この婚約が伯爵家を救うとは思えない」 「でも侯爵様は」 「侯爵様個人の態度は問題ではないわ」 「どうして?」 「家と家の話だから」 そう言い切ると、自分の胸の内で何かが少しだけ軋んだ。問題ではない、と言いながら、セドリックのあの違和感が全く無関係だとは思えていない自分がいる。だが今はそこを認めない。認めれば論が曇る。 父がゆっくり立ち上がった。椅子の脚が床を擦る低い音に、食堂の空気がまた張る。「……書斎へ来い、リリアーナ」 「あなた」 継母が焦ったように声を上げる。父はそちらを見ずに言った。「お前とマリアンヌは下がれ」 「ですが」 「下がれと言っている」 低い一喝に、継母が口を噤む。彼女の顔には怒りよりも、はっきりとした不安が浮かんでいた。娘が知ってはいけないことを知っている。その事実が、彼女にもようやく重くのしかかったのだ。 リリアーナは立ち上がった。膝が少しだけ強張っている。けれど足は震えない。 父のあとについて食堂を出る。廊下はひやりとしていた。朝の光が長く床へ落ち、壁に掛かった風景画の金縁だけが鈍く光っている。後ろで継
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第4話 婚約破棄の申し出⑥

 父は机の上の書簡へ視線を落とした。濃紺の封蝋。レーヴェン商会だろう。そこへ視線が落ちたこと自体が答えだった。 リリアーナは最後の一歩を踏み込む。「お父様」 「何だ」 「お父様が本当に家を守りたいなら、今見るべきは侯爵家ではなく、机の上のそれです」 その瞬間、父の表情が止まった。 自分でも分かった。今の一言は深く入った。侯爵家という巨大な外の救いではなく、足元の火種を見ろと娘に言われたのだ。誇り高い伯爵にとって、それがどれほど痛いかくらい分かる。だが痛いからこそ効く。 長い沈黙のあと、父は低く言った。「出ていけ」 「お父様」 「今すぐ答えは出さん」 「……」 「だが、話は聞いた。もう出ていけ」 追い払う声だった。けれど拒絶とは少し違う。少なくとも最初のように“下らない我がまま”として切り捨てられてはいない。 リリアーナは深く礼をした。「ありがとうございます」 「礼を言うな」 吐き捨てるような声音。しかしその裏にあるのは、怒りと、焦りと、娘への薄気味悪さだった。 扉へ向かう。手をかける。その前に、背後から低い声が落ちた。「リリアーナ」 「はい」 「……お前は、本当にどこまで見ている」 振り返らずに答える。「お父様が思うより、ずっとでございます」 それだけを残して、リリアーナは書斎を出た。     * 廊下へ出た瞬間、張り詰めていた息がようやく抜けた。膝が少しだけ震える。けれど倒れそうではない。むしろ、体の奥に妙な熱が残っていた。 言った。 最後まで、飲み込まずに。 前世では父にも継母にも、こんなふうに話せなかった。怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、家のために従うのが正しいのだと思い込んでいた。けれど今日、自分の口から出た言葉は、そのどれよりも強かった。 廊下の角で、継母が待っていた。顔色が悪い。唇だけが不自然に赤い。「あなた、何をしたの」 「お話をしただけです」 「何を吹き込んで、旦那様をあんな顔に」 「吹き込んではおりません」 「嘘おっしゃい! あの人があんなふうに黙り込むなんて……」 継母はそこで言葉を切った。つまり、彼女自身も見たことがないのだ。父が娘に気圧されたような沈黙を。 リリアーナは静かに言う。「お母様。わたくしは本気です」 「……」 「
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第5話 失うはずのなかった駒①

 婚約破棄の噂は、三日で屋敷じゅうを巡った。 誰かが意図して流したのか、ただ使用人たちの囁きが勝手に膨らんだだけなのか、リリアーナには判別がつかなかった。だが少なくとも、父が書斎で娘と長く話し込んだこと、継母が珍しく昼の茶会を断ったこと、マリアンヌが食堂で妙におとなしかったこと、その三つが揃えば、伯爵家の中で何かが起きたのだと察するには十分だったのだろう。 朝、廊下を歩けば会釈の角度がほんの少し深くなる。  昼、食堂で水差しを持つ手がわずかに慎重になる。  夜、扉の向こうで足音が止まっている気配がする。 露骨な変化ではない。だが、確かにあった。 人は、自分が「ただ従うもの」だと思っていた相手が牙を持っていると知った瞬間、見方を変える。 それを、リリアーナは今、肌で感じていた。 重たい曇り空の午後だった。窓ガラスの向こうで、庭木の枝が低い風に揺れている。春は近いはずなのに、空気はまだ冬を忘れきれない。エマが淹れてくれた紅茶も、少し置けばすぐに表面の熱を失った。 机の上には、これまで書き留めた紙が並んでいる。 ヴァレンティア侯爵邸訪問の記録。  父とのやり取り。  レーヴェン商会。  穀倉担保。  侯爵家に嫁いだあとの実家からの便宜要求。  義母の言葉。  社交界の嘲笑。 前世では、どれもその都度胸を傷つけるだけの出来事だった。だが今は違う。全部が未来を変えるための材料になる。紙の上へ並べられた文字は冷たい。けれど、その冷たさがかえって彼女の気持ちを保たせていた。悲鳴のような感情は、文字にしてしまえば輪郭を持つ。輪郭を持てば、対処ができる。「お嬢様」 エマが小さく呼んだ。「アデル様からの返書は、まだ本日は」 「分かっているわ。そんなにすぐ来るはずないもの」 「……はい」 そう言いながらも、二人とも少しだけ落胆していた。 叔母からの返事が欲しかった。話を聞いてもらえる相手、自分の考えを“気まぐれ”ではなく“意思”として受け止めてくれる相手、その存在が今は何より欲しい。だが手紙は距離を飛び越えてすぐ戻ってくるものではない。 それまでの間に、伯爵家のほうが何かを仕掛けてくる可能性は十分にある。 父は婚約解消を即答しなかった。  だが、前のように頭ごなしに否定もしなかった。  あの沈黙は、怒りでは
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第5話 失うはずのなかった駒②

パート2 けれど、階下へ向かう途中で、その期待は別の形で裏切られた。 応接間へ近づくにつれ、屋敷の空気が妙に張っているのが分かったのだ。使用人たちは気配を消すように壁際へ下がり、皆一様に落ち着かない目をしている。侯爵家当主が突然来訪した、それだけでも十分な衝撃なのだろう。だがそれだけではない。誰もが知っているのだ。この数日、伯爵家の中で婚約解消の気配が燻っていたことを。だからこそ、今この来訪が何を意味するかを、漠然とでも感じ取っている。 応接間の前で一度立ち止まる。 扉の向こうからは、会話らしい会話は聞こえなかった。ただ、時折父の低い声と、継母の取り繕ったような柔らかい声音が断片的に漏れる。セドリックの声は、聞こえない。沈黙しているのか、あるいは短くしか答えていないのか。 ノックをしようとした時、ちょうど内側から扉が開いた。出てきたのはマリアンヌだった。頬が少し赤く、目は落ち着かない。「お姉様……」「どうしたの」「お父様が、あなたを」 そこで妹は言葉を切り、唇を噛んだ。怯えている。侯爵家の圧にではなく、この場に流れる大人たちの緊張に。「呼ばれたのね」「ええ」「なら入るわ」 マリアンヌは道を開けた。何か言いたそうだったが、結局何も言わない。あるいは言えないのだ。婚約破棄を口にした姉が、今や家の中でただの姉ではなく、場の均衡を崩す存在になってしまったと、薄々気づいているのかもしれない。 リリアーナは一度だけ息を整え、応接間へ入った。     * 室内は、静かすぎるほど静かだった。 暖炉の火は入っている。薪の弾ける小さな音もする。香りのよい紅茶も運ばれていて、卓上には菓子皿まで整えられていた。見た目だけなら、急な来客を完璧に迎え入れた伯爵家の応接そのものだ。 けれど、その整い方の上に乗っている空気は、まるで薄い氷の板のようだった。 父はソファの端に座り、表情を無理やり平静へ留めている。継母はその隣で笑みを貼りつけているが、指先が膝の上でわずかに強張っていた。対面の一人掛けには、セドリックがいた。 黒の礼装のまま、背筋を一分の狂いもなく伸ばして。 こちらを見た瞬間、彼の顔は動かなかった。少なくとも表面上は。けれど、その瞳だけが、あまりにも静かに、そして深く揺れた。探していたものをようやく見つけた人間のように。安堵しかけて、それを即
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第5話 失うはずのなかった駒③

 その問いに、継母がすぐさま口を挟もうとした。「侯爵様、若い娘の一時の不安で」 「本人に聞いている」 低い声が、継母の言葉を切った。 怒鳴りもしない、顔色も変えない。ただそれだけで、相手の言葉を床へ落とすような声音だった。継母は唇を閉じたが、その表情はこわばったままだった。 リリアーナは、膝の上で手袋越しに指を組んだ。白い革の下で指先が少し冷たい。けれど声は震えなかった。「理由は一つではありません」 「聞こう」 「わたくしは、この婚約が双方の家にとって最善とは思えません」 「双方の家」 セドリックがその言葉を繰り返す。響きに、かすかな違和感が混じった。彼が聞きたいのはそこではないのだと分かる。だがリリアーナはあえてそこから外さなかった。「はい。伯爵家は侯爵家との縁に多くを期待しすぎています。婚姻後、その期待は必ずわたくしを通して侯爵家へ向けられます」 「……」 「一方で、侯爵家にとってはそれが煩わしい負担になるでしょう」 「それは誰の判断だ」 「わたくしの判断です」 セドリックの視線が少しだけ沈んだ。 その反応の意味を考えたくなかった。だからリリアーナは続ける。「加えて、侯爵夫人との相性にも不安がございます」 「リリアーナ!」 今度は継母が悲鳴のように名を呼んだ。だがもう止まらない。止まるつもりもない。「昨日の訪問で十分に理解しました。わたくしはあの屋敷に歓迎されてはおりません」 「そんなことは」 「お母様。わたくしは自分が見聞きしたことを申し上げています」 継母の顔が強張る。父も苦い顔をした。だがセドリックだけは動かなかった。ただ、静かに彼女の言葉を受け止めている。「……それだけか」 しばしの沈黙のあと、彼が言った。 それだけか。 その問いに、胸の奥がざらりと逆立つ。 それだけでは足りない、とでも?  もっと本当のことを言えと?  あなた自身のことを言えと? だが、そこへ踏み込むのは危険だった。彼が前世と違うのは分かる。けれど、その違いの意味を知るのはまだ怖い。知ってしまえば、また心が揺れる。だから論理だけで押し切るつもりでいたのに、彼はその外側を見ようとしてくる。「十分ではございませんか」 リリアーナは冷たく返した。「婚約解消を願う理由としては」 「私は、君の言
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第5話 失うはずのなかった駒④

 低い。掠れてすらいない。けれど、完璧に整えた声音の下で、何かがきしんでいるのが分かる。 リリアーナはそこで笑いそうになった。もちろん楽しくてではない。あまりに遅すぎる問いに、泣きたくなる代わりに笑いが込み上げたのだ。「思っている、ではなく、そう見えるのでしょう」 「……」 「婚約前の今でさえ、このような有様ですもの。婚姻後に変わると期待するほど、わたくしは愚かではありません」 前世の私は愚かだったけれど、と心の中で続ける。 セドリックの視線が、今度ははっきりと痛みを帯びた。その目を見た瞬間、胸の奥の古い傷がずきりと疼く。こんな目をする男ではなかったくせに。何も伝えず、何も示さず、自分だけが耐えればいいと思っていた男のくせに。どうして今さらそんな顔を。 だからこそ、もっと冷たく言わなければならない。「侯爵様」 リリアーナは声を整えた。「わたくしは、名ばかりの婚約や義務の上にある結婚を望んでおりません」 「……」 「必要な敬意だけを与えられ、心は不要とされる暮らしなら、最初から要りません」 「リリアーナ!」 ついに父が強く名を呼んだ。だがもう遅い。言葉は出てしまったし、引っ込めるつもりもない。「お父様、侯爵様ご本人の前です」 「だからこそだ! 何という言い草を」 「本音でございます」 「本音であれば何を言ってもいいわけではない!」 「ならば嘘を申し上げればよろしいのですか」 その返しに、父が言葉を失う。 継母が慌てて取り繕おうと身を乗り出した。「侯爵様、どうかお気を悪くなさらないでくださいませ。この子は少し神経が過敏になっているだけで」 「過敏ではありません」 今度はセドリックが継母を遮った。 静かだが、一切の余地がない声だった。継母がぴたりと黙る。「彼女は、はっきり言っている」 「ですが」 「聞こえている」 その短い応酬だけで、室内の主導権が完全に彼へ移った。 父ですら、すぐには口を挟めない。侯爵家当主という格の差もある。だがそれ以上に、今のセドリックの静けさには、人の言葉を封じる何かがあった。 彼は再びリリアーナを見た。「君がそう望むなら、理由を無視して進める気はない」 「侯爵様」 父の声音に焦りが混じる。そりゃそうだろう。ここで本人が引けば、この縁談は崩れるかもしれない。「娘の未熟な感情でご
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第5話 失うはずのなかった駒⑤

 名を呼ばれて顔を上げる。 セドリックは数歩先で足を止めていた。表情はいつものように整っている。だが、その瞳だけが違う。玄関先でも、侯爵家の応接間でも見た、あの痛みを呑み込んだような目。それが今は、もっと濃く、もっと静かに沈んでいる。「君の言葉は聞いた」 低い声だった。「だが、私はまだ終わらせるつもりはない」 胸が強く打つ。 何それ、と言い返したくなる。 終わらせるつもりはない?  誰のために?  どうして?  前世では、始まる時ですら手を伸ばさなかったくせに。 けれどそのどれも口にはならなかった。ただ、冷えた怒りだけが形を持つ。「それは、侯爵様のご自由ではございません」 「そうだな」 意外なほどあっさりと彼は言った。「だから、君にも自由に言ってもらう」 その答えが、また意味を持ちすぎていて嫌だった。まるで今まで奪っていたものを返そうとするような言い方。そんなもの、今さら差し出されたって困るだけなのに。 セドリックはそれ以上何も言わず、踵を返した。父と継母が慌てて見送りに続く。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。応接間に残されたのは、火の音と、ひどく張り詰めた沈黙だけだった。     * 扉が閉まってからもしばらく、リリアーナは動けなかった。 立ったまま、ただ暖炉の火を見つめる。橙の火は小さく揺れているのに、部屋の中は少しも温まった気がしない。むしろ、彼がいた時よりも冷えているようだった。 エマがそっと入ってきて、遠慮がちに声をかける。「お嬢様」 「……大丈夫」 そう言ったものの、自分でも大丈夫ではないと分かっていた。膝の裏が薄く震えている。喉は乾いているのに、何も飲み込みたくない。 愛のない結婚は結構です。 あの言葉を自分で口にした感触が、まだ唇の内側に残っている。すっきりしたはずなのに、胸の奥は逆にざわついていた。なぜなら、その言葉を受けたセドリックの顔が、思っていたよりもずっと――傷ついた人間の顔に見えてしまったからだ。 違う。 そうではない、と頭の中で何度も言う。 あれは傷ついた顔ではない。  ただ予想外だっただけ。  あるいは侯爵家当主としての外聞に関わる話だから、不愉快だっただけ。 そう思わなければならない。でなければ、自分の言葉で彼を傷つけたみたいではないか。そしてそんなふうに考え始めたら
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第6話 十年分の沈黙①

 馬車の扉が閉まった瞬間、外の音が一段遠くなった。 けれど、静かにはならなかった。 車輪が石畳を噛む音。革張りの座席がわずかに軋む音。窓の外を流れていく灰色の街並み。曇天に押しつぶされた午後の光。どれも穏やかなはずなのに、セドリックの耳には、ただ一つの声ばかりが残っていた。 愛のない結婚は結構です。 たった一言だった。 怒鳴られたわけでもない。泣きつかれたわけでもない。  ただ、静かに、冷たく、迷いなく告げられただけ。 なのに、その一言は、剣よりも深く胸へ入った。 セドリックは背筋を崩さず座っていた。手袋を嵌めたまま膝に置いた両手も、傍目には何一つ乱れていない。侯爵家当主としての顔は保たれている。御者が扉越しに声をかけてきても、短く応じられる程度には。 だが内側は、まるで骨の継ぎ目から静かに壊れていくようだった。 愛のない結婚。 そう見えていたのか、ではない。  そう見せてきたのだ、自分が。 彼女の言葉を、誤解だと切り捨てることはできなかった。腹が立たないわけではない。いや、正確には違う。腹を立てる資格がない、と瞬時に理解してしまったから、怒りの形にすらならなかった。 あの十年で、自分が何をした。 守るつもりで距離を取った。  狙われないように、公の場で庇いすぎないようにした。  実家と侯爵家の間に挟まれていることも知っていた。  義母の刺すような言葉も、社交界の嘲笑も、全部、知っていた。 知っていて、沈黙した。 それが最善だと思っていた。少なくとも一番ましなやり方だと。自分が彼女へ熱を見せれば見せるほど、ヴァレンティア家の内部も、外の敵も、彼女に目をつける。だから必要な敬意だけを与え、表向きは淡々と接し、彼女を“侯爵の弱点”に見せないようにした。 そう、思っていた。 だが今、あの一言を胸に受けて初めて分かった。 それは保護ではなかった。  ただ、自分が説明しなかっただけだ。 守るために距離を取るのなら、せめてなぜ距離を取るのかを伝えるべきだった。全部話せずとも、せめて一度くらい、自分の沈黙が拒絶ではないと知らせるべきだった。だが彼はそれをしなかった。話せば余計に彼女を巻き込むと思った。言葉にすれば、自分の感情そのものが彼女を危険へ晒す気がした。 けれど結局、言わなかったことで何が起きた。 彼女は、十
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