その日は、朝から雨だった。 春を呼ぶにはまだ冷たすぎる雨が、灰色の空から細く、途切れなく落ちていた。伯爵家の庭は薄い霧に包まれ、石畳は早い時間から黒く濡れている。窓ガラスを伝う雫の筋は細く、時々風に煽られて斜めに揺れた。空気はしっとりとしているのに、肌へ触れる温度はどこか骨張っていて、あたたかさにはほど遠い。 こういう雨の日を、リリアーナは前世でも嫌っていた。 晴れた日の寒さなら、まだ耐えられる。火を焚き、湯を多めに使い、厚手のドレスを選べばいい。けれど雨の日の冷えは違う。湿り気が指先や足首へじわじわと忍び込み、火に当たってもしばらく抜けない。気持ちまで薄く湿らせ、何もかもが少しだけ重たくなる。 今日は特に、その重さが胸に落ちていた。 眠れない夜は、昨夜も続いた。 前世の記憶は、呼びたくなくても勝手に蘇る。 熱を出した朝。 夜会のあと。 食卓で言葉を待って、待ちくたびれて、それでも笑った日々。 そして、今世のセドリックの違和感。 自ら伯爵家へ来て、自分の言葉を聞き、終わらせるつもりはないと言った男。あまりに前世と違いすぎて、それがむしろ前世の傷口を抉る。もし最初からそうしてくれていたならと、考えたくもない可能性が胸の奥を掠めるからだ。 嫌だ。 そんなことを考えたくない。 あの十年は、もう終わった人生だ。 終わった人生の寂しさを、今さら別の意味で塗り替えられたくない。 リリアーナは窓辺を離れ、机へ向かった。紙を開く。昨日までの記録の横へ、新しい一枚を置く。まだ何も起きていないのに、こうして書く準備だけはするのは、半ば癖のようなものになっていた。前世の自分は、どんなにつらくても、心の中だけで泣いて終わった。今の自分は違う。記録する。書く。忘れない。曖昧にしない。 ペンを持ったところで、ノックが鳴った。
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