All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 41 - Chapter 50

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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる①

 その日は、朝から雨だった。 春を呼ぶにはまだ冷たすぎる雨が、灰色の空から細く、途切れなく落ちていた。伯爵家の庭は薄い霧に包まれ、石畳は早い時間から黒く濡れている。窓ガラスを伝う雫の筋は細く、時々風に煽られて斜めに揺れた。空気はしっとりとしているのに、肌へ触れる温度はどこか骨張っていて、あたたかさにはほど遠い。 こういう雨の日を、リリアーナは前世でも嫌っていた。 晴れた日の寒さなら、まだ耐えられる。火を焚き、湯を多めに使い、厚手のドレスを選べばいい。けれど雨の日の冷えは違う。湿り気が指先や足首へじわじわと忍び込み、火に当たってもしばらく抜けない。気持ちまで薄く湿らせ、何もかもが少しだけ重たくなる。 今日は特に、その重さが胸に落ちていた。 眠れない夜は、昨夜も続いた。  前世の記憶は、呼びたくなくても勝手に蘇る。  熱を出した朝。  夜会のあと。  食卓で言葉を待って、待ちくたびれて、それでも笑った日々。 そして、今世のセドリックの違和感。 自ら伯爵家へ来て、自分の言葉を聞き、終わらせるつもりはないと言った男。あまりに前世と違いすぎて、それがむしろ前世の傷口を抉る。もし最初からそうしてくれていたならと、考えたくもない可能性が胸の奥を掠めるからだ。 嫌だ。 そんなことを考えたくない。 あの十年は、もう終わった人生だ。  終わった人生の寂しさを、今さら別の意味で塗り替えられたくない。 リリアーナは窓辺を離れ、机へ向かった。紙を開く。昨日までの記録の横へ、新しい一枚を置く。まだ何も起きていないのに、こうして書く準備だけはするのは、半ば癖のようなものになっていた。前世の自分は、どんなにつらくても、心の中だけで泣いて終わった。今の自分は違う。記録する。書く。忘れない。曖昧にしない。 ペンを持ったところで、ノックが鳴った。
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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる②

 控えめだが、急ぎの合図だった。エマが顔を出す。少しだけ呼吸が早い。「お嬢様」「どうしたの」「侯爵家からお使いが……いえ、ご本人が」「……え?」 聞き間違えかと思った。「侯爵様が?」「はい。今回は事前に使いがありましたが、もう玄関に着かれております」「また」 その一言が、ほとんどため息のように零れた。 また、来た。 前回は婚約破棄の噂を聞いて、急ぎで現れた。 今度は、事前に知らせたうえで、それでも自ら来た。 何度も思う。前世なら、来なかった。たとえ婚約者が泣こうが怯えようが、侯爵家当主として必要な場にしか姿を見せなかった男が、どうして今世ではこんなふうに足を運ぶのか。「お父様は?」「旦那様は外出されました。近隣領主との会合で、夕刻まで戻られないかと」「お母様は」「奥様はお会いになるつもりでしたが、侯爵様が……」 エマが言いよどむ。「何て?」「リリアーナ嬢に、お一人で話したい、と」 部屋の空気が、一瞬だけきんと冷えた気がした。 お一人で。 その言葉の意味は明白だった。伯爵や継母を通さず、自分へ直接会いに来たのだ。侯爵家当主としてではなく、婚約者としてでもなく、もっと個人的な何かを持って。 それが嫌だった。 怖かった。 同時に、逃げてはいけないとも思った。 ここで避ければ、また向こうの都合で場が動く。前世で飲み込んだ言葉を、今世でも飲み込むことになる。それだけはいやだった。「……どちらで?」「客間の一つを整えさせております。奥様は同席を、と仰ったのですが、侯爵様が“二人でなければ意味がない”と」 エマの口からその言葉を聞いた瞬間、胸がざらりと逆立った。 二人でなければ意味がない。 前世で一度も真正面から話そうとしなかった男が、今さらそう言うのは卑怯だ。話す機会なら十年の間にいくらでもあった。寝室へ戻る夜も、食卓に向かう朝も、馬車の中も、庭も、夜会の帰りも。話せる場所はいくらでもあったのに、何も言わなかったのは彼のほうなのだ。「……行くわ」「お嬢様」「断ったって、また来るでしょう」「はい」「なら、聞くだけ聞く」 そう口にしてから、少しだけ唇を噛んだ。 聞くだけ。 でも本当に、それだけで済むだろうか。 あの人は今、何を言いに来たのだろう。前回の続きか。婚約破棄を拒む言葉か。あるいは説明か。謝
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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる③

     * 通されたのは、本館の南側にある小さな客間だった。 大きな応接間ほど格式ばってはいないが、伯爵家の客を通すには十分すぎる部屋。淡い生成りの壁、落ち着いた木製家具、窓辺には雨に煙る庭が見え、暖炉には火が入っている。だが火の熱は遠く、部屋の中央に置かれた小卓のあたりまで来る頃には、ぬくもりというより薄い明るさに変わっていた。 セドリックは、窓を背に立っていた。 黒の礼装ではなく、今日は濃い灰色の外套を脱いだだけの簡素な装いだった。だがその簡素さがかえって彼の輪郭を冷たく際立たせている。濡れた髪ではない。つまり、外で雨に打たれるほど乱暴な来方はしていないのだろう。それなのに、どこか急いできた気配だけが全身に残っている。 リリアーナが入ると、彼はすぐに振り返った。 前回の応接間と同じく、目だけが先に動いた。表情は保ったまま、瞳の底だけが深く揺れる。あれを見るたびに、胸の奥の古い傷がじくじく疼いた。「来てくれてありがとう」 彼が先に言った。 その一言が、ひどく不自然に聞こえた。  セドリックは礼を欠く人ではない。だが、こういう私的な場で、こんなふうに言葉を置く人でもなかった。「お話があるのでしょう」 「ああ」 「でしたら、手短にお願いします」 「……分かった」 リリアーナは扉から一番遠い椅子を選んで腰を下ろした。セドリックも対面の席へつく。二人の間には小卓。置かれた紅茶は、まだ手がつけられていない。湯気だけが静かに揺れている。 雨音が、細く窓を打っていた。 しばらく、どちらも何も言わなかった。沈黙は前世にもあった。だが質が違う。前世の沈黙は、彼の側から閉ざされるものだった。今の沈黙は、どう言葉を置けばいいのか双方が測っている沈黙だ。 それが、かえってリリアーナを苛立たせる。 最初からそうしてくれていたなら、少しは違ったのに。「婚約解消の件だが」 ようやくセドリックが口を開く。「私は、まだ受け入れるつもりはない」 「前回も伺いました」 「だが今日は、その話だけをしに来たわけではない」 「では何を」 問い返した瞬間、彼の視線が少し落ちた。わずかな間。たった数秒なのに、その沈黙が妙に重い。 まさか、と胸の奥で何かが身構える。 その予感は、次の一言で現実になった。「……すまなかった」 短かった。 あまりに短く
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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる④

「謝りに来たの?」 「ああ」 「どうして今さら」 「今さらでしかないと分かっている」 「分かっているなら」 そこで一度言葉が切れた。続ければ、たぶん感情が滲む。滲ませたくなかった。けれど、もう遅い。喉が熱い。胸の奥がじわじわと焼ける。「分かっているなら、その一言で何とかなると思わないで」 セドリックの瞳が微かに揺れる。「何とかなるとは思っていない」 「だったら、どういうつもりで言ったの」 「言うべきだったからだ」 「いつ?」 「……」 「いつ言うべきだったの」 責めるつもりはないのに、言葉は刃の形をとった。「昨日? 先週? 婚約前?」 「違う」 「違うわよね」 笑いそうになった。もちろん可笑しいからではない。泣く代わりに笑いそうになるほど、腹の底が痛かった。「十年前でしょう」 「……」 「少なくとも、あの時よ」 あの時。 どの時を指しているのか、彼は分かるだろうか。  夜会のあと、鏡の前で一人だった夜か。  熱で寝込んで、額の布を侍女に替えてもらっていた朝か。  食欲がなくて食堂を立った時か。  誕生日に侍女の花束だけが温かかった夕方か。 きっと全部だ。 全部が“あの時”だった。 リリアーナは膝の上で手を握りしめた。手袋越しでも爪が皮膚へ食い込むのが分かる。そうしていないと、声が震えそうだった。「すまなかった、なんて」 「……」 「そんなの、何度も待ったわ」 「……」 「待って、待って、でも結局来なくて」 「リリアーナ」 「今さら与えられても、救いにはならないの」 そう言った時、ようやく自分の目元が熱いことに気づいた。涙になって零れるほどではない。けれど、感情が目の裏まで満ちているのが分かる。 セドリックは黙っていた。 その沈黙が、またひどく腹立たしい。 今、そこでもまだ黙るの。  謝っておいて、また黙るの。  結局あなたはいつもそうなのだ、と叫びたくなる。 だがその時、彼が低く言った。「どう言えばよかった」 「……え?」 「君は、何を待っていた」 問いというより、自分へ刃を向けるような声音だった。 その瞬間、リリアーナの中で何かが切れた。 分からないの。  そんなことも。 十年、何を見ていたの。  何を聞いていたの。  何も言わないで、今さら“何を待ってい
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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる⑤

 セドリックの顔色が、ゆっくりと変わった。 真っ白になるわけではない。けれど、静かに血が引くというのはこういうことなのだと分かる。蒼灰色の瞳の奥が、わずかに揺れ、そして沈む。彼は今、ようやく具体的に理解したのだろう。自分が何を与えなかったかを。何を与えるべきだったかを。 遅い。 あまりにも遅い。 だから痛い。「私は、あなたに謝ってほしかったんじゃない」 「……」 「その時に、そばにいてほしかったの」 「……リリアーナ」 低く名を呼ばれる。その声音には、抑えきれない何かが滲んでいた。けれど今、それに意味を感じたくなかった。「言わないで」 「だが」 「今さら、分かったみたいな顔をしないで」 ついに声が少しだけ揺れた。悔しくて、腹が立つ。「あなたは何度も、言えたはずだった」 「……」 「言葉にしようと思えばできたのよ。たった一言くらい」 「そうだ」 「そうよ」 即座に認められたことに、かえって息が詰まった。 言い訳されると思っていた。  違う、事情があった、と返されると思っていた。  でも彼は否定しない。ただ、正面から受けている。それがなおさら、自分の中の怒りと空虚さを増幅させた。「だから謝られても困るの」 「……」 「謝罪って、終わったことに対して言うものでしょう」 「そうだ」 「でも私が欲しかったのは、終わったあとに片づけるための言葉じゃなかった」 「……」 「その場で、私を独りにしないための言葉だったの」 それを言い切った瞬間、ようやく胸の奥の澱が少しだけ形を持った気がした。そうだ。自分が欲しかったのは、後からの理解でも、立派な悔恨でもない。あの時その場で、自分が独りじゃないと思わせてくれる一言だった。 それだけで、たぶん救われた夜がいくつもあった。 けれど彼はその全部を、沈黙で通り過ぎた。 セドリックはしばらく言葉を失っていた。 前世でも、彼が本当に沈黙する時はあった。だがあれは思考を整理する沈黙だった。今の沈黙は違う。刺さったものを抜けずにいる人間の沈黙だ。目を逸らさないくせに、呼吸だけが少し重くなる。喉仏が上下し、膝の上に置いた手がわずかに強張る。 その反応を見て、胸がまた軋んだ。 そんなふうに傷つかないで。  傷つく資格がない、とは言わない。  でも、その顔を見ると、こっちまで揺れ
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第8話 侯爵の謝罪は遅すぎる⑥

 その現実を言葉にすると、胸の内が空洞になったような感覚がした。事実なのに、あまりに重すぎて、今さら自分の口から聞くのがつらい。 愛されていないと思って生きた。 それが自分の結婚だった。 セドリックは椅子から立ち上がらなかった。追いすがることも、手を伸ばすこともしない。ただ座ったまま、彼女を見上げている。その視線が、前世では一度もなかったほど正面で、真剣で、遅い。 遅い。 本当に、遅い。「今日はもう終わりにしましょう」 リリアーナは声を整えた。乱したくなかった。ここで泣きたくなかった。泣けば、また彼に弱さを見せることになる気がした。「……まだ話したい」 「私は話したくないわ」 「リリアーナ」 「侯爵様」 いつものように敬称で呼ぶ。冷たい線を引くために。「謝罪は、受け取りません」 「……」 「受け取ってしまったら、全部終わったことにしなければいけない気がするから」 「終わらせるつもりはない」 「だから困るの」 思わず、少しだけ笑ってしまった。乾いた、疲れた笑いだった。「あなたは終わらせるつもりがなくて、私は終わらせたいの。そこからして、もうずれてる」 「……」 「でも一つだけ、分かってほしい」 最後にそれだけは言っておきたかった。「今、あなたが謝ることで救われるほど、私は軽く傷ついていたわけじゃない」 セドリックの目に、はっきりと痛みが走った。 でも、それを見てももう手加減はしなかった。手加減できるほど浅い話ではないからだ。「失礼します」 そう告げて、リリアーナは踵を返した。 扉へ向かう。背中に視線を感じる。強く、静かで、どうしようもなく遅い視線。けれど振り返らない。振り返ったら、また何かを拾ってしまいそうだった。 扉を開ける。 外の廊下にはエマがいた。彼女は主人の顔を見た瞬間、何も聞かず、ただ少しだけ近づいた。その気遣いがありがたい。 客間の中からは、何の音もしなかった。 謝罪した男は、きっとまだあの部屋に一人で残っている。  短すぎる謝罪と、遅すぎる理解を抱えたまま。 リリアーナは歩き出した。廊下の空気は少し冷たい。遠くで雨の音がしている。窓の向こうの庭は、どこもかしこも濡れて黒い。 心は軽くならなかった。  救われもしなかった。  むしろ、古い傷の形をもう一度なぞったぶん、ひどく疲れてい
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第9話 行き先のない令嬢①

 翌朝、雨は止んでいた。 けれど空はまだ低く、雲の切れ間もない。庭の石畳には昨夜の雨が残り、薄い灰色の空を鈍く映していた。濡れた土の匂いが窓の隙間から微かに入り込み、部屋の中のラベンダーの残り香と混ざっている。春の雨上がりにしては冷たすぎる空気だったが、それでも昨日まで続いていた細い雨音が消えただけで、世界がほんの少し静かになった気がした。 リリアーナは夜明け前に一度目を覚まし、そのまま寝返りも打たずにしばらく天蓋を見上げていた。昨夜の会話が、まだ胸の奥に残っていたからだ。 すまなかった。 十年待った言葉。  けれど、聞いた瞬間に分かった。  遅すぎる謝罪は、人を救わない。 欲しかったのは謝罪ではなく、あの時の言葉だった。夜会のあと、熱を出した朝、食欲をなくした食卓で。今の自分がどれほど明瞭にそれを言葉にできても、過去の自分が受け取れなかったことは変わらない。 なのに、胸の内は妙に静かだった。 楽になったわけではない。むしろ疲れている。古い傷を指で押し広げて、その痛みの深さを改めて見たあとのようなだるさが、肩から背中にかけて重たく残っていた。だが同時に、曖昧だったものに名前がついたせいかもしれない。自分が何を失ったと思っていたのか、自分が何を待っていたのか、それを今さらでも口にできたことだけは、心の中に細い線を引いていた。 この先、自分はどこへ行くのか。 その問いが、ようやく現実的な重さで胸に落ちてきたのは、その静けさのあとだった。 婚約破棄を望む。  侯爵家との縁を切る。  それはもう、揺らがない。 だが、切ったあと、どうする。 前世ではそこまで考えたことがなかった。考えなくても、道はすでに決められていたからだ。娘は家の都合で嫁ぎ、妻は夫家の中で役割を果たす。それ以外を思いつく余地すらないまま、気づけば十年が経っていた。 今は違う。 違うのなら、婚約を壊したあとの自分の居場所を、自分で探さなければならない。 それは自由のようでいて、途方もない空白でもあった。 女性が一人で生きる道は、そう多くない。  まして伯爵家の令嬢が、正式な婚姻を前に縁談を断り、自力で暮らす道など、社交界の常識の外に近い。世間はすぐに噂を立てるだろうし、実家は「扱いにくい娘」として持て余すだろう。別の縁談を急いであてがわれる可能性も高い。 ならば、
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第9話 行き先のない令嬢②

 前世、侯爵邸の庭園で唯一落ち着けたのは、薔薇の並ぶ表庭ではなく、裏手の小さな薬草区画だった。装飾のためではない、役に立つための植物たち。土の匂い。乾いた葉の匂い。雨のあとに立ちのぼる青い香り。手を伸ばせばすぐに触れられる、静かな生き物たち。あそこにいる時だけ、自分は侯爵夫人の顔を少し忘れられた。 もし。 もしああいう場所で、自分の手を使って生きられるなら。 侯爵夫人としてではなく。  誰かの娘としてでもなく。  単に、リリアーナという一人の人間として。 その未来はまだ細い。  ひどく曖昧で、風が吹けば消えそうな線だ。  それでも今は、その細さにすがりたいと思った。「お嬢様」 ノックのあと、エマが朝の支度を持って入ってくる。白い湯気の立つ洗面用の湯、薄い蜂蜜湯、それに小さな焼き菓子をひとつ。昨日ほとんど何も食べられなかったことを気にして、まずは喉に入るものだけを考えてくれたのだろう。「お目覚めでございますか」 「ええ」 「少しはお休みになれました?」 「ほんの少しだけ」 嘘ではない。途中で何度も目は覚めたが、完全な徹夜ではなかった。それだけでも昨日よりはましだ。 エマは主人の顔色を見て、小さく息を吐いた。「今朝は昨日ほどお悪くないです」 「そう?」 「はい。……少しだけ、ですけれど」 「少しだけでも十分よ」 そう答えて、自分でも驚いた。ちゃんと笑えたからだ。大きな笑みではない。けれど形だけではなく、ほんの少しだけ内側から出た笑みだった。 エマも気づいたらしい。表情を和らげ、盆を机へ置いた。「蜂蜜湯は少しだけレモンも入っております」 「ありがとう」 カップを手に取る。まだ温かい。淡い甘さと、喉の奥を少しだけ引き締める酸味がある。口へ含むと、こわばっていた身体の内側がゆっくり解けるような気がした。「エマ」 「はい」 「アデル叔母様からの返書は、まだよね」 「まだ本日は届いておりません。ですが、昨日の便はもう西へ向かっておりますので……」 「分かってる」 急ぐものではない。急いでも届かない。頭では分かっているのに、胸のどこかは返事を待っている。「でも、待っているだけでは駄目ね」 「え?」 「私、叔母様の薬草院のこと、知っているようでほとんど知らないの」 エマが首を傾げる。「場所と、薬草園があるという
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第9話 行き先のない令嬢③

     * 朝食は今日も一人で取った。 父は外出の支度で早くに出ていき、継母はその見送りへ、マリアンヌは体調が優れないと言って自室にこもっているらしい。昨日までなら、一人の食卓は侘びしく感じただろう。だが今朝はむしろ助かった。 窓際の席に座る。白いクロス。磨かれた銀。湯気の立つスープ。焼いたパン。少しだけ火を通した林檎。整った朝食だ。自分ひとりしかいないのに、給仕はきちんと人数分の静けさを保って立っている。 スープを一口。昨日より、味が分かる。塩気と玉ねぎの甘み、それに胡椒のほんの少しの刺激。パンも半分ほどなら食べられそうだった。 窓の外では、雨上がりの庭の手入れに庭師が出ている。濡れた枝を払い、花壇の縁を整え、土の流れた場所へ新しい腐葉土を足していた。地味な作業だ。派手ではなく、誰かに褒められるようなものでもない。だが、その手つきには無駄がない。 役に立つ手。 そう思う。 自分の手は、これまで何をしてきただろう。  刺繍。手紙。帳簿。礼状。花を活けること。紅茶を注ぐこと。  必要ではあった。だが、誰かの機嫌や、家の体面や、貴婦人らしさのためのことばかりだった気がする。 薬草に触れる手なら、少しは違うだろうか。 乾燥させた葉を選る。  煎じる。  患部へ当てる。  土へ苗を植える。  香りで季節を知る。 そういう暮らしが、自分にできるとはまだ言えない。けれど、想像することはできる。そして想像できる未来は、少なくとも“ない”わけではない。「お嬢様」 食後にエマが戻ってきた時、顔に少しだけ明るい色があった。「何かあった?」 「はい。アデル様の薬草院について、少しだけ厨房で耳にいたしました」 「厨房で?」 「ええ。買い出しへ出た下女が、西の丘陵の市に親戚がおりまして」 「本当に、どこにでも繋がりはあるのね」 「はい。よくも悪くも」 そう言ってエマは少しだけ声を潜めた。「その方の話では、アデル様の薬草院は“院”というほど大きくはなく、療養用の小さな家と温室、それに薬草を乾かす小屋がある程度だそうです」 「……小さいのね」 「はい。ですが、行商人や近隣の農家、それに季節ごとの熱病で弱った方などが、ちょくちょく薬をもらいに来るとか」 「人手は?」 「お二人ほど常の手伝いがいて、繁忙の時期だけ近所の娘さんが通うそう
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第9話 行き先のない令嬢④

 ふと、前世の記憶が掠める。 侯爵邸の裏庭で、薬草区画の枯れかけた株を見つけて、しゃがみ込んで土を触った日のこと。冬前で、土は冷たく、少し湿っていた。根が呼吸できていないのだと気づき、庭師に少し掘り返すよう頼んだら、数日後には持ち直した。 その時、庭師は驚いたように笑ったのだ。『奥様は、こういうことがお好きなのですね』 リリアーナはその問いに少し戸惑いながらも、「ええ」と答えた。あの日だけは、本当にそうだと思えた。 侯爵夫人の顔でも、伯爵家の娘の顔でもなく、ただ好きなものに触れている時の自分。 あの感覚を、今も思い出せる。 ならば、あれはただの気まぐれではないのかもしれない。 ページをめくる。乾いた紙の匂いが少しだけ鼻先に立つ。文字の間に描かれた簡素な草花の挿絵が、妙に愛おしく見えた。「お嬢様」 エマが遠慮がちに声をかけた。「……少し、お顔色が違います」 「違う?」 「先ほどまでより、少しだけ、ございますが」 「たぶん、考えることが“先”になったからね」 「先?」 「ええ。昨日までのことじゃなくて、この先」 エマはゆっくりと目を瞬いたあと、微かに笑った。「それはとても良いことでございます」 「良いこと、なのかしら」 「はい。行き先が見えない時が、一番おつらいですから」 その通りだと思った。 行き先がないことは、人をじわじわと削る。  婚約を壊すとしても、その先に何もないのなら、結局また誰かの都合へ戻される。  でも、今は違う。  まだぼんやりしている。叔母からの返事もない。父をどう説得するかも決まっていない。  それでも、“道があるかもしれない”と初めて思えた。 それだけで、胸の中に空気が入る。 リリアーナは本を閉じた。「紙を頂戴、エマ」 「はい」 新しい便箋を用意してもらい、机へ向かう。今度はアデル叔母への手紙ではない。自分のための整理だ。 書く。 西の丘陵地。  薬草院。  静養の名目。  手伝いとして入る可能性。  必要な知識。  必要な持ち物。  伯爵家への説得材料。 言葉にするほど、輪郭が濃くなる。  ただの夢想ではなく、現実の計画へ少しずつ近づいていく。 侯爵夫人としてではなく、一人の人間として生きる。 その一文を頭の中でなぞった時、胸の奥にほそい震えが走った。恐れで
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