All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 51 - Chapter 60

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第9話 行き先のない令嬢⑤

 その時、廊下の向こうで急ぐ足音がした。二人で振り向く。ノックのあと、下女が顔を出す。「お嬢様、アデル様からお手紙が」 「……今?」 「はい、急ぎ便でございます」 心臓が、どくりと強く打った。 早い。思っていたよりずっと早い。  叔母は手紙を受け取ってすぐ返してくれたのだろうか。 受け取る。封蝋は簡素で、だが見慣れた印だった。母方の家の小さな紋。指先が少し震える。エマが何も言わず、静かに部屋の扉を閉めた。 封を切る。 紙を開く。 そこに並ぶ文字は、相変わらず整っていて、飾り気がなく、やさしかった。 ――リリアーナ。  あなたから手紙をもらう日が来るのを、ずっと待っていました。  理由がどれほど重くても、まずは来なさい。  話はそれからです。  ここには空いている部屋があります。  薬草園も、温室も、仕事もあります。  静養の名目でも、手伝いの名目でも、あなたが来る理由はどうとでも作れます。  大事なのは、あなたが来たいかどうかです。 その一文を読み終えた瞬間、リリアーナはしばらく動けなかった。 来なさい。 理由はどうとでも作れる。 あなたが来たいかどうか。 胸の奥で、何かが静かにほどける。 侯爵夫人としてではなく。  伯爵家の娘としてでもなく。  ただ、自分が行きたいかどうか。 そんなふうに問われたのは、いつ以来だろう。 あるいは、初めてかもしれない。 紙を持つ手がかすかに震えた。涙が出そうになったが、今度のそれは昨日までの痛みだけではない。まだ細いままではあるけれど、前を向くための光が混じっていた。「お嬢様……?」 エマが遠慮がちに呼ぶ。 リリアーナは顔を上げた。たぶん今、泣きそうな顔をしている。けれど、笑ってもいた。「行けるかもしれない」 「……はい」 「私、行き先がないわけじゃなかった」 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。雨上がりの冷えはまだある。侯爵家の問題も終わっていない。父を説得する必要もある。何一つ簡単にはいかないだろう。 それでも、未来が真っ暗ではなくなった。 うっすらとでも、道が見えた。 それだけで、今日の空気は昨日までよりずっと呼吸しやすかった。 リリアーナは手紙を胸元へ寄せ、もう一度窓の外を見た。雲の切れ間はまだ見えない。だが庭の濡れた枝先
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第10話 凍った男の焦り①

 それを聞いたのは、朝の執務が半ばに差しかかった頃だった。 窓の外は薄曇りで、王都の空はまだ春の青さを見せていない。ヴァレンティア侯爵邸の書斎にはいつも通り火が入り、暖炉の炎は安定した熱を放っていた。机の上には整然と並んだ報告書。北街道の補修、税の納付状況、商会間の軋轢、王城から下りてきた通達。どれも見るべきものばかりで、本来ならセドリックの思考はそこから逸れないはずだった。 だが、この数日、その「本来」が機能しない。 紙を開けば活字のあいだから、リリアーナの声が立ちのぼる。  愛のない結婚は結構です。  欲しかったのは謝罪ではなく、あの時のあなたの言葉でした。  その言葉は、紙よりも硬く、インクよりも深く、彼の胸のどこかへ刺さったまま抜けない。 それでも表面だけはいつも通りだった。  報告を聞けば判断を返す。  署名すべき書類へは迷いなく名を書く。  部下に向ける声は静かで短く、感情の波は見せない。 そうしていれば、少なくとも外側はまだ凍っていられる。「旦那様」 ローレンスが、控えめに声をかけた。 年老いた執事の声音はいつも通りだったが、その「旦那様」の中に、報告書とは違う種類の重さが混じっていた。セドリックはペンを置かずに応じる。「何だ」 「ご報告がございます」 「言え」 ローレンスは扉のそばから一歩進み、数秒だけ言葉を選ぶような沈黙を置いた。  その短さで、書類の話ではないと分かる。「伯爵家のほうで、動きがございます」 「……リリアーナ嬢か」 「はい」 その名を聞いた瞬間、ペン先が紙の上で止まった。  動きを止めたのは手だけで、顔は上げない。上げれば何かが出る気がしたからだ。「内容は」 「母方のご親族のもとへ、しばらく身を寄せる準備を進めているようです」 「親族」 「西の丘陵地に薬草院を持つ叔母君でございます」 「……アデル夫人か」 「ご存じで」 「名前だけは」 それだけを答えたが、実際には名前だけではなかった。 アデル・フォルネという女がいることは、結婚前の調査で知っていた。母方の遠縁。社交の中心ではなく、西の土地にこもり、小さな療養施設と薬草園を営む女。表向きは気まぐれな貴族夫人の道楽に見えたが、継続年数と人の出入りから、それなりに機能していることは把握
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第10話 凍った男の焦り②

 リリアーナが王都を離れる。  伯爵家の屋根の下から出て、西の丘陵へ行く。  侯爵邸でも、伯爵邸でもない場所へ。 前世では、彼女はずっと手の届く場所にいた。 同じ屋敷の中に。  同じ王都の中に。  夜会へ出れば視界の端に。  食卓へ向かえば向かいに。  庭へ出れば、遠くからでも姿を見つけられる場所に。 距離はあった。触れようとはしなかった。言葉も足りなかった。だが、それでも彼女は常に「見える場所」にいた。  必要なら護衛を増やせた。  危険があれば人を回せた。  熱を出したと聞けば医師を増やせた。  自分が隣へ行かずとも、手は届くと、勝手に思っていた。 だが今度は違う。 西の丘陵は王都から数日かかる。天候が悪ければもっと。小さな薬草院。周囲にいるのは貴族社会のしきたりより、土地の事情で生きている人間たち。王都の目は届きにくい。ヴァレンティア侯爵の名も、距離と地の利の前では鈍る。 何より。 何より、彼女は自分の意思でそこへ行くのだ。 その事実が、胸の奥をきつく締めた。「出立は」 「まだ確定ではございません。しかし伯爵家では奥方が既に衣類の選別を始め、私物を一部まとめさせているとか」 「いつ聞いた」 「今朝です」 「……そうか」 声は静かだった。だが喉の内側がわずかに焼ける。 私物をまとめる。 その光景が、ありありと浮かぶ。  彼女の白く細い指が、ドレス棚の前で立ち止まる。  侯爵家へ嫁ぐために整えられた衣装ではなく、旅に耐える実用品を選ぶ。  華やかな髪飾りではなく、必要最低限のものだけを箱へ入れる。  そうして少しずつ、王都から、自分の視界から、消える準備をする。 消える。 その二文字が頭に浮かんだ瞬間、胸の中心を何かが掠めた。 前世の最後の夜が、予告もなく蘇る。 血の匂い。  冷えた石畳。  腕の中で急速に失われていく熱。  呼んでも、もう戻らない呼吸。  自分の名前ではなく、彼女の名を何度も呼ぶ、自分の掠れた声。 逝くな。 あの時、そう言った。  言っても意味がない時に。  届かない時に。  奪われたあとでしか、口にできなかった。 今、西へ行くという報告を聞いた時に胸へ走った冷たさは、あの時とよく似ていた。 いや、同じではない。  あの時は失った。  今はまだ失ってい
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第10話 凍った男の焦り③

 何も変わっていないように見せることは得意だった。 王城の回廊は高く、冷たい石の匂いがする。人の声は反響し、絹の衣擦れや剣帯の金具の音まで遠く響く。会議の席でも彼は冷静だった。資料を読み、意見を述べ、必要な修正を入れる。誰も異変には気づかなかっただろう。 だが一度だけ、他領の若い伯爵が「では、婚約者をしばらく王都から遠ざけておくのも一案ですな」と軽く笑いながら言った時、セドリックは自分でも驚くほど鋭くその男を見た。 ほんの一瞬で済んだが、場の空気が微かに揺れた。「……侯爵?」 「失礼。続けろ」 それだけで済ませた。だが内側では、自分でも整理のつかない苛立ちが脈打っていた。 王都から遠ざける。  安全のために。  都合のために。  外聞のために。 そういう理屈で、これまで何度も自分は彼女との距離を正当化してきた。  だが今、その理屈を他人の口から軽く言われた瞬間、喉元へ刃を突きつけられたような不快感が走った。 安全のため、ではない。  都合のため、でもない。  少なくとも、今のこのざわつきは、それだけでは説明がつかない。 会議が終わり、回廊を一人で歩く。磨かれた床へ靴音が淡く反響する。高窓の外は曇天で、光は薄い。春なのに、城の中はまだ冬の名残を抱えた冷たさがあった。 中庭に面した回廊で、ふと足が止まる。下を見れば、花壇の端に小さな薬草区画があった。王城の侍医たちが使うためのものだろう。装飾の花ではなく、地味な草の列。そこへ目が吸い寄せられる。 彼女はああいう場所が好きだった。 それを初めて認識したのは、前世の五年目あたりだったか。侯爵邸の裏庭で、リリアーナが薬草区画へしゃがみ込み、庭師と何か話しているのを窓越しに見た。ドレスの裾を少し持ち上げて、土に触れないよう気をつけながら、それでも目だけは珍しく柔らかく笑っていた。 あんなふうに笑うのかと、その時少しだけ驚いた。 自分の前ではほとんど見なかった顔だった。  社交の笑みではなく、義務の微笑でもなく、ただ興味あるものに触れている時の静かなやわらかさ。 あの笑みを見て、何を思った。 綺麗だと思った。  そして同時に、自分がその笑みを持っていないことも悟った。 だから近づかなかった。  見ているだけだった。 今、西の丘陵の薬草院へ行くと知って、彼女がどんな顔をするか
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第10話 凍った男の焦り④

 その言葉が胸の中で形を持った時、セドリックはしばらく動けなかった。 回廊の石壁は冷たい。窓の外では風が低く鳴っている。中庭の薬草はまだ小さく、春の光も弱い。それでも世界は淡々と進んでいるのに、自分だけが一歩も動けない。 執着。 今まで、そこへ名前をつけなかった。 つけたくなかったのかもしれない。 責任と言い換えていれば、まだ自分はまともでいられたからだ。 婚約者を守る。 妻を危険から遠ざける。 そういう言葉は綺麗だ。整っている。侯爵としての理屈にも収まる。 だが今、彼女が離れると知って最初に胸を焼いたものは、そんな綺麗な理屈ではない。 行かせたくない。 それだけだ。 誰のためでもなく。 家のためでもなく。 責任でも義務でもなく。 自分が、嫌なのだ。 彼女が、自分の視界の外で、自分なしの未来を選ぶことが。 その認識は、吐き気がするほど鮮明だった。「旦那様」 護衛の一人が少し離れた場所から控えめに呼ぶ。 セドリックはようやく視線を上げた。「馬車のご用意が」「ああ」 短く応じ、歩き出す。 足取りは変わらない。 外から見れば、いつもの侯爵だ。 だが、先ほどまでと違うのは、自分が今どんな醜い感情を抱えているかを、もう誤魔化せないことだった。     * 屋敷へ戻ったのは、日が暮れかけた頃だった。 空は一日じゅう曇ったままで、夕方になっても赤みはほとんど差さない。ヴァレンティア侯爵邸の石壁は冷えた色を保ち、玄関脇の灯火だけがやわらかく揺れている。 外套を脱ぎ、手袋を外し、いつものように書斎へ向かう。 何も乱れていないように見せたかった。 けれど、ローレンスがすぐ後ろに控える気配の中、自分の呼吸が普段よりほんの少し浅いことは隠しきれない気がした。 書斎の扉が閉まる。 静けさ。 暖炉の火。 机の上に積まれた報告書。 だが今日はもう、それらを処理する気にはなれなかった。「ローレンス」「はい」「西の丘陵まで、早馬なら何日だ」「天候が良ければ二日半、通常の馬車で三日から四日ほどかと」「…そうか」 二日半。 三日。 その距離が、やけに具体的に胸へ落ちた。「伯爵家の動きは、明日も」「注視いたします」「露骨にはするな」「承知しております」「それから」「はい」「……彼女が本当に出るなら、出
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第10話 凍った男の焦り⑤

「旦那様」 「何だ」 「それは、責任ですか」 「違う」 今度は、答えるのに迷わなかった。「責任ではない」 「……」 「私の問題だ」 ローレンスは深く一礼した。それ以上は問わない。賢い男だ。 扉が閉まり、セドリックは一人になる。 自分の問題。 その言葉の中身を今ならはっきり言える。  執着だ。  彼女が手の届く場所から消えることへの焦り。  前世では死によって奪われた。今世では彼女の意思で離れていくかもしれない。その二つは同じではないのに、身体はどちらにも同じ冷たさを覚える。 それがどれほど身勝手でも、否定できない。 彼は机へ向かった。  白い便箋を引き寄せる。  前に書きかけた説明の書簡はまだ途中だった。  君にとって、私が冷たい男に見えていたことを、今日初めて本当の意味で理解した。  その一文の先へ、まだ続きはない。 続けなければならない。 もし彼女が西へ行くのだとしても、その前に。  いや、行くからこそ、その前に。  このままでは、本当に手の届かないところへ行ってしまう。距離だけでなく、心まで。 行かせたくない。  だが閉じ込めたくもない。  ではどうする。 答えは一つしかなかった。 言葉を尽くすしかない。 説明する。  沈黙の理由を。  言わなかったことの過ちを。  そして、今、自分が彼女を失いたくないと思っていることを。 そこまで考えて、セドリックは初めて、自分の中のその最後の思いが、責任や償いの言葉では包めないものだと認めた。 失いたくない。 彼女が生きていることを確かめたいからだけではない。  危険から守りたいからだけでもない。  自分のいない場所で安らぐ彼女を想像して、胸が焦げるからだ。 それは、醜い。  だが、真実だ。 彼はペンを取った。  インクの先が白い紙へ触れる。 今さらだ。  遅すぎる。  それでも、今さらだからこそ、もう綺麗な理屈で誤魔化すわけにはいかなかった。 外では夜の風が、庭木の枝を鳴らしている。春前の乾いた音だ。まだ寒い。まだ季節は途中だ。だが、途中だからこそ、間に合うものが少しはあるかもしれない。 セドリックは白い紙に次の一行を書き始めた。 君が王都を離れようとしていると知って、私は初めて、自分が君を守りたいだけではなく、失いたくない
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第11話 義母の計算①

 招待状は、香りからして嫌だった。 厚手の乳白色の紙に、淡い灰銀の縁飾り。封を切る前から、薄く甘い花の香りが移っている。ヴァレンティア侯爵家で使われる香油の匂いだと、リリアーナはすぐに分かった。前世で何度も嗅いだ匂いだった。甘くて上品で、けれど少しでも気分が悪い日は胸の奥をむかつかせる、あの香り。 差出人は、アグネス・ヴァレンティア侯爵夫人。 文面は驚くほど穏やかだった。 先日の慈善市ではゆっくり話もできなかったから、小規模な茶会へ招きたい。気軽な顔ぶれで、堅苦しいものではない。婚約者として今後の付き合いもあるのだから、親しく話せれば嬉しい。 そんなふうに、どこを切っても角の立たない言葉で綴られている。 だが、紙を持つ指先へ伝わる感覚は冷たかった。 前世のアグネス・ヴァレンティアは、決して露骨に苛める女ではなかった。怒鳴らない。物を投げない。人前で恥をかかせるような、下品で分かりやすい真似はしない。むしろ常に上品で、慈愛に満ちて見え、口にする言葉は一見すると助言や気遣いの形をしていた。 だからこそ厄介だった。 微笑みながら値踏みをする。  褒めるふりをして線を引く。  「悪気はないのよ」と言わんばかりの穏やかさで、相手の居場所を少しずつ削っていく。 結婚して間もない頃、リリアーナはそれに気づけなかった。  気づいた頃には、もう手遅れに近かった。  義母の言葉を気にするのは自分が未熟だからだと思い込み、笑顔で飲み込むことばかり覚えてしまったから。 だが今は違う。 手紙を読んだだけで、その穏やかな文面の裏にあるものが分かる。  茶会。  小規模。  親しく話したい。 つまり、閉じた場で位置づけをするつもりなのだ。 冷徹侯爵が婚約者に妙に近いという噂は、もう王都を漂い始めている。慈善市でのショールの件は想像以上に広く伝わった。花束、贈り物、伯爵家への来訪。どれもこれも、前世ではありえなかった振る舞いばかりだ。だから社交界の女たちは面白がっている。冷徹侯爵の婚約者だけが知る特別な顔、などという勝手な物語まで生まれ始めているらしい。 それを、アグネスが見逃すはずがなかった。 息子が婚約者に近すぎる。  周囲がその娘を“愛されている未来の侯爵夫人”として見始めている。  ならば早めに印象を削る必要がある。 たぶん、そういう計
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第11話 義母の計算②

 そう言った時、自分の声が思いのほか静かだったので、リリアーナは少し驚いた。     * 茶会は三日後に開かれた。 ヴァレンティア侯爵邸の北側、温室に面した中規模のサロン。前世でも何度か使われた部屋だった。南向きほど陽は強くないが、そのぶん落ち着いた明るさがある。白に近い灰色の壁紙、金を抑えた装飾、楕円の小卓がいくつか、等間隔に配置されている。窓辺には季節の花が生けられていたが、香りは控えめだ。そこがアグネスらしい。人を酔わせるような派手さは避ける。代わりに、整っていて、隙がなく、誰にも「不快」と言わせない程度に完璧に整える。 今日の招待客は六名ほどだった。 いずれも侯爵夫人と親しい、あるいは関係を保っておきたい中堅貴族の婦人たち。年齢は三十代後半から五十代前半くらい。派手すぎず、けれど地味すぎない。笑顔も会話も慣れている。誰も露骨に人を刺すような女には見えない。だが、こういう場で一番怖いのは、露骨ではない人間のほうだと、リリアーナは前世で身をもって知っている。 案内されて入った瞬間、空気がこちらを見た。 その見られる感覚を、リリアーナは今でも嫌悪する。  目だけではない。  衣服、姿勢、表情、歩幅、声の高さまで含めて、一瞬で測られる。  侯爵家の婚約者として相応しいか。  噂通りの女か。  冷徹侯爵が気を配るだけの価値があるのか。 前世では、その視線に触れるだけで体が少し縮んだ。  だが今は、縮まないよう意識できる。「ようこそ、リリアーナ嬢」 アグネスが立ち上がり、完璧な微笑みを向けてくる。  淡銀の髪は今日も一糸乱れず、首元の真珠も控えめで上質だ。雨ではないが、外気の冷えへ合わせた柔らかな灰白色のドレスが、彼女の肌をより白く見せている。「お招きありがとうございます、侯爵夫人」 「お忙しいでしょうに、来てくださって嬉しいわ」 「お声がけいただき光栄ですわ」 形だけの挨拶は、何一つ問題なく交わされる。周囲の婦人たちは好意的な笑みを浮かべている。あくまで穏やかな場だ。まだ、今のところは。 席へ着く。紅茶が注がれる。薄い蒸気の向こうにベルガモットの香りが立ち、焼き菓子の甘い匂いが静かに重なる。銀の匙がソーサーへ触れる音。布地の擦れる気配。女たちの笑い声は低く、抑えられ、けれどよく耳に残る。 最初のうちは、本当に当たり障りの
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第11話 義母の計算③

「侯爵夫人のお言葉のように、穏やかなお声で仰っても、意味の取り方がいくつにも分かれるような表現は、伯爵家ではあまり学ぶ機会がございませんでしたの」 「……」 「ですから、わたくしにはとても勉強になりますわ」 静かだった。 声も顔も穏やかなまま。  だが意味は明白だ。 穏やかに聞こえる言葉で相手へ含みを持たせる、そのやり方を、今まさに私は学んでいますよ、と言っているに等しい。 婦人たちの間へ、小さな沈黙が落ちた。  誰もが理解したわけではないだろう。だが何人かは、はっきり分かった顔をしている。アグネスの「伯爵家では」という何気ない言葉が、単なる褒め言葉ではなかったことを。「まあ、賢いこと」 アグネスは笑った。  けれどその笑いは、さっきまでより少しだけ薄い。「リリアーナ嬢は、言葉尻をよく拾うのね」 「はい。意味のない言葉はございませんもの」 「それは、そうね」 「特に侯爵夫人のようなお立場の方のお言葉は、周囲へ与える印象も大きいでしょうから」 今度こそ、空気がはっきり揺れた。 周囲へ与える印象。 それはつまり、“あなたの言葉は、ただの雑談ではなく、人を位置づける力を持つ”と指摘しているのだ。 婦人の一人が、扇子も持っていないのに手元を気にする仕草をした。別の一人はカップへ視線を落としたまま、口元だけで薄く笑っている。誰も露骨には反応しない。だが、見えている。アグネスの穏やかな言葉が、単なる親しみではなく、階級差を前提にしたものだと。 アグネスはそこで話題を変えた。「そういえば、リリアーナ嬢は薬草がお好きなのですって?」 「ええ、少し」 「まあ、意外。伯爵家のお嬢様にしては随分と実用的な趣味ね」 また、その言い方だ。 伯爵家の娘にしては。  随分と。  実用的。 褒めるようで、少しだけ“貴婦人らしからぬ”と匂わせる言い方。 前世なら、また曖昧に微笑んで受け流していた。  だが今は違う。「ええ、実用的で助かりますわ」 リリアーナは素直に頷いた。「飾るためだけの花より、熱を下げたり、喉を楽にしたりできる草のほうが、わたくしにはずっと役に立つのです」 「……」 「もちろん、侯爵夫人のように観賞と社交の両方に通じた方には、少々地味に映るのでしょうけれど」 「まあ」 「わ
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第11話 義母の計算④

 それだけで十分だ。 婦人たちは笑った。場をなだめるための、上品な笑いだ。けれど、その笑いの底で、もう彼女たちは覚えてしまったはずだ。侯爵夫人は穏やかな顔で、婚約者へ少しだけ冷たい線を引いている、と。 その印象は、社交界では静かに効く。 露骨な悪評より、ずっと長く。     * 茶会を終えて馬車へ戻る頃には、リリアーナはひどく疲れていた。 怒鳴ったわけでもない。感情を爆発させたわけでもない。むしろ終始、礼儀正しく、丁寧に話しただけだ。だが、上品に戦うというのは想像以上に神経を削る。相手の言葉を拾い、その意味を測り、自分の返しがどこまで届くかを一瞬で決める。刃物を絹で包んで差し出し合うようなものだ。 馬車へ乗り込むと、ようやく肩の力が抜けた。  エマがすぐ向かいへ座り、膝掛けを整えてくれる。  車輪が動き出すと、乾いた振動が足元から伝わった。「お嬢様」 エマが、半ば堪えきれないように囁く。「……お見事でした」 「疲れたわ」 「でも」 「ええ、分かってる」 窓の外へ視線を向ける。ヴァレンティア侯爵邸の門が遠ざかる。曇り空の下、灰白色の石造りは相変わらず整いすぎるほど整っていて、どこまでも美しく冷たい。「たぶん、少しは残ったでしょうね」 「はい」 「侯爵夫人のお言葉が、いつも純粋な善意ではないって」 「皆様、お気づきになったと思います」 「そうだといいけれど」 小さなざまぁだ。  本当に小さい。  彼女を完膚なきまでに打ちのめしたわけでも、恥をかかせたわけでもない。  ただ、周囲へ印象をずらしただけ。  それでも十分だった。 前世の自分は、あの微笑みの下にある刃を、自分ひとりで受け続けた。  でも今世は違う。  あなただけが上品で、あなただけが善意の人に見えるようにはさせない。 その第一歩としては、悪くない。「でも」 エマが少し言いにくそうに口を開く。「侯爵様がこのことをお知りになったら」 「どうかしら」 「侯爵夫人様がお怒りになるより、そちらのほうが……」 リリアーナはそこで目を閉じた。 セドリック。  その名を出されると、疲れの質が少し変わる。 彼がこの茶会をどこまで知っているかは分からない。  もしかしたら、母が婚約者へ牽制をかけるつもりだということも、ある程度見抜いているかもしれない
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