馬車の中の空気がやけに重い。革の匂いが鼻につく。窓の外を横切る街路樹の枝はまだ硬く、春の気配は遠い。視界に入るものすべてが灰色だった。 セドリックは一度だけ目を閉じた。 閉じた瞬間、伯爵家の応接間ではなく、前世の別の場面が脳裏に立ち上がる。 * 結婚して一年目の冬だった。 夜半を過ぎた書斎は冷えていた。暖炉は入っていたが、広い部屋の隅々まで温めるには足りない。執務机には報告書の束。北の監督官からの報せ、商会との契約書、王都警備の動き、そして内部の不穏分子に関する密書。あの頃は毎晩のように、そのどれかが火種を孕んでいた。 ローレンスが一礼して告げたのだ。『奥様が熱をお出しです』 その一言を聞いた瞬間、ペン先が止まったのを覚えている。『医師は?』 『既に』 『薬は』 『飲まれました』 なら問題ない。 そう答えるべきだった。実際、口にしたのも似たような言葉だった。『分かった。必要なものがあれば手配しろ』 ローレンスは一礼して下がった。扉が閉まる。 だがそのあと、セドリックはしばらく一行も読めなかった。 向かうべきだと思った。彼女の寝室へ。熱は高いのか、咳はあるのか、眠れているのか、自分の目で確かめたかった。だが同時に、その日読んでいた密書の内容が頭から離れなかった。ヴァレンティア家内部に流れる金。夫人付きの侍女の不自然な出入り。侯爵の私的な動きを探る視線。 今、動けば見られる。 侯爵が新妻へどれほど心を割いているかを、知られる。 そう考えた。 だから彼は行かなかった。 行かない代わりに、薬を変えさせ、暖炉用の薪を追加させ、朝まで廊下の見回りを倍にした。 それで十分だと思った。 翌朝、食堂で顔を合わせた彼女は、まだ熱の抜けきらない顔色で微笑んだ。『ご心配をおかけして申し訳ありません』 『もう起きていていいのか』 『はい、だいぶ楽になりましたわ』 それだけだった。 その時の彼女の声のかすれも、指先の冷えも、カップを持つ手の弱さも覚えている。覚えているのに、自分は結局、そこでも何も言わなかった。 大丈夫か、の一言で済んだはずなのに。 その一言さえ、彼は飲み込んだ。
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