All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 31 - Chapter 40

76 Chapters

第6話 十年分の沈黙②

 馬車の中の空気がやけに重い。革の匂いが鼻につく。窓の外を横切る街路樹の枝はまだ硬く、春の気配は遠い。視界に入るものすべてが灰色だった。 セドリックは一度だけ目を閉じた。 閉じた瞬間、伯爵家の応接間ではなく、前世の別の場面が脳裏に立ち上がる。     * 結婚して一年目の冬だった。 夜半を過ぎた書斎は冷えていた。暖炉は入っていたが、広い部屋の隅々まで温めるには足りない。執務机には報告書の束。北の監督官からの報せ、商会との契約書、王都警備の動き、そして内部の不穏分子に関する密書。あの頃は毎晩のように、そのどれかが火種を孕んでいた。 ローレンスが一礼して告げたのだ。『奥様が熱をお出しです』 その一言を聞いた瞬間、ペン先が止まったのを覚えている。『医師は?』 『既に』 『薬は』 『飲まれました』 なら問題ない。 そう答えるべきだった。実際、口にしたのも似たような言葉だった。『分かった。必要なものがあれば手配しろ』 ローレンスは一礼して下がった。扉が閉まる。 だがそのあと、セドリックはしばらく一行も読めなかった。 向かうべきだと思った。彼女の寝室へ。熱は高いのか、咳はあるのか、眠れているのか、自分の目で確かめたかった。だが同時に、その日読んでいた密書の内容が頭から離れなかった。ヴァレンティア家内部に流れる金。夫人付きの侍女の不自然な出入り。侯爵の私的な動きを探る視線。 今、動けば見られる。 侯爵が新妻へどれほど心を割いているかを、知られる。 そう考えた。 だから彼は行かなかった。  行かない代わりに、薬を変えさせ、暖炉用の薪を追加させ、朝まで廊下の見回りを倍にした。 それで十分だと思った。 翌朝、食堂で顔を合わせた彼女は、まだ熱の抜けきらない顔色で微笑んだ。『ご心配をおかけして申し訳ありません』 『もう起きていていいのか』 『はい、だいぶ楽になりましたわ』 それだけだった。  その時の彼女の声のかすれも、指先の冷えも、カップを持つ手の弱さも覚えている。覚えているのに、自分は結局、そこでも何も言わなかった。 大丈夫か、の一言で済んだはずなのに。 その一言さえ、彼は飲み込んだ。
Read more

第6話 十年分の沈黙③

 馬車が曲がる。体がわずかに傾く。セドリックは膝の上に置いた手を少しだけ握り込んだ。手袋の革がきしむ。 あの夜だけではない。 思い返せば、同じことばかりだった。 舞踏会で女たちの囁きを浴びた夜。  義母に茶器の扱いを咎められた朝。  実家から届いた書簡を前に、彼女が何か言いかけて、結局何も言わなかった夕暮れ。  熱が下がったあと、庭のベンチで一人、夕日を見ていた背中。  誕生日だと知っていたのに、花を贈ることすら“目立つ”と思ってやめた日。 全部、理由はあった。  全部、自分なりの理屈があった。  全部、守るためだと信じていた。 だが理屈が何であれ、受け取る側に言葉が届かなければ、ただの沈黙だ。 十年分の沈黙。 その重みが、今になってようやく形を持った。  あれは何もない空白ではなかった。一つ一つが彼女の中に積もっていたのだ。こちらが飲み込んだ説明、こちらが避けた言葉、こちらが見て見ぬふりをした瞬間。その全部が“愛のない結婚”という一言になって返ってきた。 正しい。 痛いほどに正しい。 だからこそ、胸の中心に鈍い刃のように居座る。 馬車が屋敷の門をくぐる。鉄の門扉が開く音がして、やがて玄関前で停まった。 先に扉が開き、冷えた外気が流れ込む。ローレンスがそこにいた。白髪を一分の乱れもなく撫でつけ、いつも通りの完璧な姿勢で。「お帰りなさいませ、旦那様」 「ああ」 短く答え、石段を上がる。 玄関ホールの空気は外より暖かい。磨かれた床、蜜蝋の匂い、遠くでくすぶる暖炉の薪の香り。ヴァレンティア侯爵邸は今日も完璧だった。だが完璧さというものは、時として人をますます空虚にする。「母上は」 「温室にて」 「呼ばなくていい」 「かしこまりました」 ローレンスは一歩下がった。だが、セドリックは数歩進んだところで足を止めた。「ローレンス」 「はい」 振り返った老執事の顔はいつも通り無表情だった。だが長年仕えてきた人間特有の、主人のわずかな変化を見逃さない目をしている。「……一つ聞く」 「なんなりと」 「彼女は」 そこで言葉が詰まった。 彼女。  そう言うだけで、今の自分が何を問おうとしているのか情けなくなる。十年連れ添った妻について、今さら執事に確認するようなことではない。 それで
Read more

第6話 十年分の沈黙④

 予想していなかったわけではない。むしろ、その通りだと分かっていた。分かっていたからこそ、人の口から告げられると、改めて容赦がなかった。「それだけか」 「……言葉が足りない方にも」 「……」 「気にかけておられることは、見ていれば分かりました。しかし奥様にそれが伝わっていたとは、申し上げにくうございます」 セドリックはしばらく黙った。 玄関ホールの天井は高く、僅かな沈黙すらよく響く。使用人たちは気配を消しているが、それでもこの場の空気の重さは隠しきれない。「いつからだ」 「何が、でございますか」 「伝わっていなかったと、知っていたのは」 「最初から、ではございません」 ローレンスは慎重に言葉を選んでいた。「ですが二年目の冬頃には、そう感じておりました」 「二年」 たった二年で、いや、二年も、か。 その時点で誰かに言われていれば違ったのかと、一瞬考える。だが違う。言われなくとも、自分で気づくべきだった。彼女の笑みが少しずつ薄くなっていったことも、言葉を飲み込む癖がついたことも、全部、見ていたのだから。「進言しなかったな」 「差し出がましいかと」 「そうだろうな」 責めるつもりは起きなかった。執事は主人の夫婦関係へ軽々しく踏み込まない。ましてあの頃の自分は、誰に何を言われても“分かっている”の一言で切り捨てただろう。「……下がれ」 「はい」 ローレンスが一礼して去る。足音が遠ざかる。 セドリックはそのまましばらく、玄関ホールに立ち尽くした。 冷たい方に。  言葉が足りない方に。 それはつまり、彼女から見れば“愛のない結婚”だったということだ。 当たり前だ。愛がないのではなかった。だが、愛があると伝える努力を一つもしなかったのだから、ないのと同じだ。あるいは、ないほうがまだましだったかもしれない。あったのに与えなかったのなら、それは単なる不足ではなく、罪に近い。     * 書斎へ入ると、火の入った暖炉の熱が顔に当たった。だが温かいとは感じない。机の上には今日の報告書が積まれている。北方の警備、税の見直し、王都商会の動き。どれも本来なら目を通すべきものだ。だが紙を広げても、字が意味を持たない。 代わりに、伯爵家の応接間の光景ばかりが浮かぶ。 彼女が冷たく背筋を伸ばし、こちらをまっすぐに見て言った。 愛のない
Read more

第6話 十年分の沈黙⑤

 実際、向いた。 前世の終わり、彼女を死に追いやった襲撃は偶然ではなかった。あれは金と恨みと焦りが絡んだ結果だ。その火種は婚姻のかなり早い段階からあった。 だから、自分は黙った。 黙り、隠し、遠ざけた。  それで守れると、本気で思っていた。 愚かだった。 理由があれば許されると、どこかで思っていたのだろうか。そんなわけがない。相手に一切伝えない理由は、相手から見ればただの不在だ。どれほど危険があったとしても、こちらが何も言わなければ、彼女は「愛されていないから放っておかれている」としか思えない。それが自然だ。むしろ、それ以外にどう受け取れというのか。 セドリックは机に片手をついた。 木の感触は冷たい。掌の熱だけがそこへ乗る。視界の端で暖炉の火が揺れている。火を見るたび、前世の彼女の寝室を思い出す。あの頃、暖炉の火加減一つでしか気遣いを示せなかった自分。薪を増やすことはできても、傍へ行って手を握ることはできなかった。 いや。できなかったのではない。しなかったのだ。 その区別が、今さら身を裂く。 ノックがした。「入れ」 扉を開けたのは、意外にもアグネスだった。母は温室から戻ったばかりなのか、肩に薄い灰色のショールをかけている。銀に近い淡金の髪は少しも乱れていない。いつも通り、完璧な人だった。「少しいいかしら」 「何か用ですか」 「ずいぶん珍しいことをしたと思って」 母はそう言いながら、書斎へ入ってきた。香水は控えめだが、花の匂いがした。温室の中の湿った緑も少し混じっている。彼女は暖炉のそばへ立ち、息をついた。「伯爵家へ、あなた自ら行ったのでしょう」 「ああ」 「何をそんなに慌てたの」 その問いに、セドリックは一度黙った。 母は息子を観察する目をしている。いつもそうだ。感情ではなく、構造を見る目だ。子を案じる母というより、侯爵家の均衡を見つめる人間の目。そのことを責めるつもりはない。この家で生きるとはそういうことだと、彼自身も長く思ってきたのだから。「婚約解消の話を聞いた」 「ええ、わたくしも聞いたわ。若い娘の気まぐれでしょう」 「気まぐれではない」 「……そうなの」 アグネスの眉が僅かに動く。彼女は暖炉の火を見つめながら、どこか軽い調子で続けた。「とはいえ、婚姻前の娘は不安定なものよ。少し丁寧に扱えば」 「母上
Read more

第6話 十年分の沈黙⑥

 母が暖炉の火へ視線を戻す。火の色がその横顔に揺れた。「説明すれば、受け入れられると?」 「そうは思っていない」 「なら」 「だが説明しなければ始まらない」 その言葉だけは、今はっきりしていた。 やり直しなどというものが本当にあるのかどうかは分からない。前世の彼女は既に死んでいる。彼女の中に積もった十年の孤独も、なかったことにはならない。今ここで同じ名を持つリリアーナが生きているからといって、それがそのまま赦しへ繋がるわけではない。 それでも、今度こそ始めるなら、まず説明が必要だ。 沈黙の理由。  距離の理由。  それが愛ではなかったのではなく、愛し方を間違えた結果だったこと。  そしてその間違いが、どれほど彼女を傷つけたかを、ようやく自分が理解したということ。 母はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。「あなたは昔から、肝心なことほど言葉にしない子だったわね」 「知っています」 「知っていて直さなかった」 「その通りです」 「なら今回も、説明しようとして失敗するかもしれないわ」 「それでもやる」 即答だった。 アグネスは小さく息を吐いた。諦め半分、呆れ半分の吐息に近い。「珍しいこと。そこまで執着するなんて」 「……失うはずではなかった」 言ってから、自分でその言葉の冷たさに気づく。 駒のようだ、と一瞬思った。だが違う。失うはずではなかったのは、役目でも体裁でもない。あの人そのものだ。なのに、それを上手く言えない時点で、やはり自分はまだ肝心なところで言葉を取り違えている。 母はその微妙な言い回しをどう受け取ったか分からなかった。だが追及はしなかった。ただ一度だけ、普段より柔らかい声音で言う。「遅すぎることもあるわ」 「分かっています」 「それでも?」 「ああ」 アグネスはしばらく息子を見つめ、それから何も言わずに踵を返した。扉が閉まる。 再び書斎に静けさが戻る。     * 日が落ちる頃、空はますます重たく曇った。 窓の外の並木は黒い影になり、庭の噴水は冷えた石の色へ沈んでいる。使用人が灯したランプの火が、室内へ柔らかな金色を落とす。なのに光は暖かく見えなかった。むしろ、光があるほど影が濃くなる。 セドリックは机の上に新しい紙を置いた。 白い便箋。  インク壺。  銀のペン。 説明が
Read more

第7話 愛されない妻の記憶①

 その夜、リリアーナはほとんど眠れなかった。 眠れないまま朝になる夜は、前世でも何度もあった。けれど今夜の眠れなさは、当時のそれとは少し違っていた。前世では、眠れない理由はいつだってもっと輪郭がはっきりしていた。義母に言われた言葉が胸に刺さっていたり、社交界で浴びた視線が喉につかえていたり、実家から届いた手紙の文面が脳裏で繰り返されたり。冷たい理由がいくつも積み重なって、眠りを遠ざけていた。 今夜は違う。 頭の中にあるのは、たった一つの場面と、たった一つの声だけだった。 君の言葉は聞いた。  だが、私はまだ終わらせるつもりはない。 セドリックのその低い声が、夜の暗がりの中で何度も蘇る。怒っていなかった。嘲ってもいなかった。見下してもいなかった。ただ静かで、静かすぎて、かえって底の見えない声だった。 だから眠れない。 怒鳴られたなら、楽だった。  婚約者としての礼を欠いていると責められたなら、もっと楽だった。  あの人はそういう人なのだと、前世の認識をそのまま今世へ延ばしていられたのに。 けれど、彼は怒らなかった。  怒る代わりに、自分の言葉を聞いた。  聞いたうえで、終わらせるつもりはないと言った。 その意味を考えないようにするほど、胸の内でざわつきが広がる。 寝台の上でゆっくり寝返りを打つ。掛布の擦れる音が、夜の静けさの中ではやけに大きく聞こえた。窓の外では風が木の枝を揺らしている。春はまだ遠く、夜気には冬の名残がある。閉め切った部屋の中でさえ、シーツの端へ触れる指先は少し冷たかった。 目を閉じる。 すると、瞼の裏に浮かぶのは今のセドリックではなく、前世の自分だった。     * 結婚して三年目の、秋の夜会のあとだった。 王都でも指折りの大きな舞踏会で、ヴァレンティア侯爵夫人としての自分は、これ以上ないほど丁寧に微笑んでいた。肩の開いた淡銀のドレス。真珠を連ねた首飾り。髪には白薔薇の飾りを挿し、誰が見ても隙のない装いだったはずだ。 だが、装いだけで守れるものには限度がある。『侯爵様、今夜も奥方を置いてお一人で?』 『あの方は飾りみたいなものなのでしょう』 『でもお綺麗よね。お人形としては上等ではなくて?』 笑い声は小さかった。扇の陰に隠された、上品な声音だった。だからこそ余計に卑怯だった。誰も露骨には侮辱しない。
Read more

第7話 愛されない妻の記憶②

 翌朝、目覚めたというより、夜が終わっただけだった。 カーテンの隙間から差し込む光は白く、曇った朝特有の平たい色をしている。小鳥の声は遠く、屋敷の廊下を行き交う使用人の足音もまだ控えめだ。部屋の空気は冷たい。エマが起こしに来る前にもう目は開いていたが、体はひどく重かった。「お嬢様」 ノックのあと、エマが入ってくる。手にはいつものように朝一番の薄いお茶。けれど彼女は寝台へ近づくなり、すぐに眉を寄せた。「全くお休みになれませんでしたね」 「……分かる?」 「分かります。お顔色が悪いですもの」 苦笑しようとして、頬が引きつる。鏡を見なくても分かる。瞼の裏は重く、喉は乾き、頭の芯が鈍く痛い。眠れなかった翌朝特有の、身体の奥へ薄く砂が入ったような感覚だった。「朝食はお部屋へお持ちしましょうか」 「いいえ……」 そう言いかけて、言葉が止まる。食堂へ行きたい気分ではない。家族の顔を見ながら、平然と食器を動かす自信もない。「少し、あとで」 「かしこまりました」 エマはそれ以上無理に勧めなかった。盆を置き、カーテンを少しだけ開ける。曇り空の光が部屋へ入り、白い天蓋と壁紙の花柄を淡く照らした。「湯の支度をいたしますね」 「ええ」 起き上がる。寝衣の裾が肌にまとわりつく感覚が妙に不快だった。昨夜汗をかいたわけでもないのに、眠れなかった夜の翌朝は、シーツも襟元も自分の肌に馴染まない。 洗面用の湯で顔を洗う。少し熱めの湯気が頬を撫で、ようやく体が生きている感じを取り戻す。石鹸のやさしい香り。タオルの乾いた手触り。現実の手応えがあるものへ触れていないと、頭の中が全部、前世のほうへ引っ張られていきそうだった。 だが支度を始めると、それはそれでまた別の記憶を呼び起こした。 ドレッサーの前に座り、髪を梳かれる。  コルセットを締める。  襟元を整え、袖を通し、鏡の中で形を確認する。 その一つ一つが、前世の“妻としての朝”と重なってしまう。     * 結婚後の寝室は、豪奢だった。 侯爵家の夫婦のために用意されたはずの部屋は広く、高い天井には控えめな金の装飾が走り、窓辺には厚いレースと深い色のカーテンが重ねられていた。寝台は大きく、白いリネンは常に完璧に整えられていた。暖炉には朝から火が入り、鏡台の上には季節の花が活けられ、香油の小瓶は朝の光を受けて
Read more

第7話 愛されない妻の記憶③

 今、自分の髪を梳いているのはエマだ。ヴァレンティア侯爵邸の侍女ではない。実家の、昔から自分を知る、小柄で手のやわらかな侍女。ブラシが髪をすべるたび、細かな音が耳に心地よく残る。「少しだけ編み込みを入れましょうか」 「……任せるわ」 「本日は軽めのほうがお似合いです」 そんなやり取り一つが、妙にやさしくて泣きそうになる。 前世でも、自分を支えたのは侍女たちだった。  義母ではなく。  夫ではなく。  実家でもなく。 眠れない夜に温かいミルクを持ってきてくれたのも。  熱を出した朝に額を拭いてくれたのも。  夜会のあと、黙って髪飾りを外してくれたのも。  泣きたいのに泣けない時、何も聞かずに隣に立っていてくれたのも。 いつも侍女たちだった。 その記憶が蘇るほど、胸の奥がじくじくと痛む。 侯爵夫人としての暮らしは確かに整っていた。食事も部屋も服も、何一つ不足はなかった。だが不足がないことと、満たされていることはまるで違う。あの十年は、それを骨の髄まで教えてくれた。 朝食は、結局ほとんど喉を通らなかった。 エマが運んできた温かいスープと柔らかなパン。玉ねぎをよく煮た甘い匂いがして、身体には必要だと頭では分かる。けれどスプーンで掬っても、舌の上へ乗せても、味が遠い。二口飲み込んだだけで胃が重くなり、それ以上はどうしても無理だった。「もう少しだけでも」 「……ごめんなさい」 「謝らないでください」 エマは困ったように眉を下げたが、無理に勧めはしなかった。代わりに少し薄めた蜂蜜湯を作ってきてくれる。淡い甘さが喉を通ると、ようやく空っぽの胃が少しだけ落ち着いた。「お嬢様」 「うん」 「侯爵様のことを、考えていらっしゃるのですね」 それを聞いた瞬間、反射的に否定しかけた。 違う。考えているのは侯爵様のことではなく、前世のことだ。あの十年のことだ。与えられなかった言葉のことだ。そう言おうとして、けれど結局それは全部、彼に繋がっているのだと気づく。「……考えたくないのにね」 「はい」 「考えないですむなら、それが一番なのに」 窓の外を見る。曇り空の下で、まだ小さな芽をつけた枝が風に揺れていた。春へ向かう途中の庭は頼りなく、色も少ない。なのに、その頼りなさの中に確かな変化がある。人の心だけが、そんなふうに素直に季節を進めない。
Read more

第7話 愛されない妻の記憶④

 たとえ今世のセドリックが何かを知っていて、何かをやり直そうとしていて、前世の沈黙の裏に理由があったとしても、あの十年の寂しさは消えない。熱を出した朝に独りだったことも、夜会のあと鏡の前で一人きりだったことも、食卓で言葉を待って待って待ちくたびれたことも、全部本当だ。 事情があることと、傷つけていいことは違う。 その当たり前のことを、自分はまた忘れかけていた。少し優しさめいたものを見せられると、すぐに過去まで正当化しそうになる。前世の自分と同じだ。「ありがとう、エマ」 「いいえ」 侍女は少しだけ笑った。その笑みは控えめで、でもちゃんと温度がある。こういう表情に、前世のリリアーナは何度救われただろう。誰かが無理に励まさず、ただ本当のことを本当だと認めてくれるだけで、人は少しだけ立ち直れるのだ。     * 午後になっても、食欲は戻らなかった。 書き物をしようとしても、紙の上へ視線を落とすたびに前世の別の場面が浮かんでくる。食後の薬を嫌がった夜。寝室の外を通り過ぎる彼の足音。執務が忙しいからと一言だけ残された日。誕生日の朝、専属侍女だけが小さな花束を用意してくれたこと。 その花は、薄いクリーム色の小花だった。派手ではなく、香りも控えめで、手の中に収まるほどの小さな束。侍女が「庭の端に咲いていたので」と照れくさそうに差し出してくれた。侯爵夫人の誕生日にしてはあまりに慎ましい花束だったが、その時のリリアーナには、それがその日一番温かい贈り物だった。 セドリックはその日も何も言わなかった。 夕食の席でふと視線を寄越し、テーブルの上に置かれた花を一瞥しただけだった。気づいていないはずはない。けれど結局、何も言わなかった。 その時は本当に、嫌いになれると思ったのに。 どうして今さら、最後に泣くの。  どうして今さら、今世で追ってくるの。  どうして今さら、私の言葉を聞くような顔をするの。 分からない。 分からないことばかりが胸に残る。 それなのに、もし今ここで「あなたは冷たい人でした」と言い切れば、きっと心のどこかがちくりと痛む。それが悔しくて仕方がない。 夕方近く、エマが薄い粥を運んできた。湯気の向こうに、米の甘い匂いと少量の塩の匂いが立っている。重たいものは無理でも、これなら少しは喉を通るかもしれないと思ったのだろう。「少しだけで結構
Read more

第7話 愛されない妻の記憶⑤

 侯爵夫人でありながら、肝心の夫からは何一つ受け取れない。  なのに侍女たちには優しくされる。  その優しさに救われながら、そのことがまた自分の孤独を際立たせる。 矛盾していて、苦しくて、情けなくて、結局その夜、誰にも見えないように枕へ顔を押しつけて泣いた。     * 粥を半分ほど食べたところで、リリアーナはスプーンを置いた。「もう少し」 「……これ以上は、今は無理」 「はい」 エマは盆を下げながら、ちらりと主人の顔を見た。その視線には、無理強いをしない種類の心配があった。リリアーナはその視線だけでまた胸が痛む。自分を支えてくれるのが、いつもこういう人たちばかりだったことが、ありがたくて、そして少し悲しい。 夕暮れが近づく。曇り空のせいで日が落ちるのは早く、部屋の中の色彩も徐々に鈍くなっていく。エマがランプを灯し、暖炉へ薪を足す。火がぱちりと鳴り、小さく明るくなる。 その火を見つめながら、リリアーナはふと思う。 前世でも、こうして火が強くなる時があった。  自分が寒がりなのを知っていて、侍女が気を利かせたのだと思っていた。  でも、時々、侍女が入れていないはずの時間にも火が強くなっていた。  あれは、もしかしたら。 そこで考えるのをやめた。 違う。  そういう細部を拾い集めるから、私はまた許しそうになる。  火が強くなったから何だというの。  暖かくしてくれたからといって、隣にいなかったことは消えない。  薬が増えたからといって、「大丈夫か」をくれなかったことは消えない。「お嬢様」 エマが静かに呼ぶ。「本日はもうお休みになりませんか」 「……うん」 「今夜は少し、眠れるといいのですが」 「そうね」 答えながら、ふと苦笑したくなる。眠れない理由が、怒りだけならどんなにいいだろう。怒って、嫌って、切り捨てて、それで眠れるなら簡単だ。 けれど実際には、嫌いになりきれない自分がいる。  そしてその自分が、何より腹立たしい。 寝台へ入る前、リリアーナは窓辺へ寄った。外はもうほとんど夜だった。庭木の枝が黒く浮かび、遠くの門灯だけが小さく灯っている。ガラスへ指先を当てると、外気の冷たさが薄く伝わった。「どうして」 小さく零す。「どうして今さらなの」 あの人に向けた問いなのか、自分に向けた問いなのか、もう分か
Read more
PREV
1234568
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status