All Chapters of もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません: Chapter 61 - Chapter 70

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第12話 噂になるほど近すぎる①

 その噂を、リリアーナが最初に耳にしたのは、伯爵家の朝食室ではなかった。 花の刺繍が入った丸卓と、まだ湯気の立つ紅茶。窓を開ければ、春のはじめの冷たい風が白いレースを揺らし、庭師が遠くで剪定ばさみを鳴らしている。伯爵家の午前は、表向きはいつも穏やかだ。だがその穏やかさの裏では、呼び鈴一つ、茶会の招待状一通、女主人の機嫌一つで、家の中の空気がいくらでも変わる。 その日も、空は薄く晴れていた。けれど、春とはまだ言い切れない色をしている。白っぽい日差しが室内を明るくしているのに、指先の冷えはなかなか抜けない。そんな午前だった。「お嬢様」 エマが、いつもより少しだけ言いづらそうな声で呼んだ。 リリアーナは、手元の手紙から顔を上げる。  薬草院からの返事ではない。  今読んでいたのは、継母が“出ておきなさい”と押しつけてきた小規模な昼の茶会の招待状だった。家格と噂のつり合いを見て、どの席に顔を出し、どの席を断るか。そういう煩わしさは、婚約破棄を口にしてからいっそう増えた気がする。「何?」 エマは少しだけ躊躇ってから、折りたたんだ刺繍布を盆の上へ置き、その下から薄い紙を一枚取り出した。「これが、先ほど届きまして」 「招待状?」 「いえ……女官長の姪御さんからの、私信のようなものです」 「どうしてあなたに?」 「使用人同士のやり取りですから」 その言い方で、だいたい察した。  正式な便りではない。  つまり、“表には乗らないが、すでに広がっている話”だ。「読んで」 リリアーナがそう言うと、エマは小さく頷いて紙を開いた。「『王都では、近頃こんな話で持ちきりです。冷徹侯爵が、婚約者をとても大切にしておられるとか。お顔色を見てお茶の温度まで気にされ、外出先でもお一人にされないとか。あのヴァレンティア侯爵様が、恋に落ちたとしか思えないほどだと』」 そこでエマは読むのをやめた。 リリアーナは、一拍だけ何も言えなかった。  耳の奥だけがじんと熱い。  冷徹侯爵。  婚約者を大切にしている。  恋に落ちたとしか思えない。 馬鹿げている。  そして、笑えないほど当たっている部分があることが、なおさら厄介だった。「……ひどい噂ね」 「はい」 「今の王都、そんなに暇なのかしら」 「皆様、他人の幸福そうな話はお好きですから」 「幸福そ
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第12話 噂になるほど近すぎる②

 なぜなら本当に、最近のセドリックはおかしいくらい露骨だからだ。 馬車の乗り降りで、必要以上に手を離さない。  お茶の席では、カップを持った瞬間の指先の冷えに気づく。  外ではショールを一枚増やし、社交の席では立ち位置まで気にする。  前なら何も言わずに済ませたはずの小さなことを、今は見て、口にして、止めようとしない。 止められないのだ、とでも言うみたいに。「お嬢様」 エマが心配そうに言う。「お顔色が」 「大丈夫」 「ほんとうに?」 「……大丈夫よ。ただ」 「ただ?」 「今日の茶会、行きたくなくなっただけ」 その答えに、エマはほんの少しだけ困ったような顔をした。  けれど、今の主人の気持ちは分かるのだろう。  噂の当人として、人の視線の中へ出ていくのは、想像以上に息苦しい。「お断りになりますか」 「そうしたいけど」 「継母様が」 「ええ。喜ぶわよね、私が逃げたら」 「……」 「“図星だからだ”って、そういう顔をするわ」 「はい」 リリアーナは目を伏せた。 逃げたくない。  少なくとも、継母にそう思われる形では。  それに何より、今逃げれば、ますます自分が噂に呑まれる気がした。「行くわ」 やがてそう言うと、エマは黙って頷いた。「でも」 「はい」 「今日、あの人が来たら」 「侯爵様ですか」 「ええ」 「……」 「ちょっと本気で怒るかもしれない」     * 茶会は、王都の東寄りにある小侯爵家の温室で開かれた。 春の先取りを気取った集まりだったのだろう。外の空気はまだ冷たいのに、温室の中だけは湿った甘い香りで満ちている。薄桃の花、白い蘭、まだ季節の早い蔓薔薇まで、手入れの行き届いた鉢が幾つも並び、硝子越しの陽光がそれらを少しだけ眩しすぎるほど照らしていた。 だが、温室のあたたかさと花の匂いは、今日のリリアーナにとって少しも助けにならなかった。  入った瞬間に分かったからだ。 見られている。 露骨ではない。  だが、確実に。 女たちは笑っている。  扇を軽く動かし、カップを持ち、いつもの調子で「ご機嫌よう」と言う。  けれど、その“いつもの調子”の下に、ひとつだけ共通の温度がある。  噂の当人。  冷徹侯爵に、最近あからさまに大事にされている婚約者。 そういう視線。「リリ
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第12話 噂になるほど近すぎる③

 結果。  前世の果て。  そこまで言われれば、簡単には言い返せない。「だから、今は止まれない」 その声は低く、しかし前よりずっと人間的だった。「何が必要で、何を言うべきか」 「……」 「それが見えていて」 「……」 「しかも、一度失っている」 「……」 「その上で、人目を理由にまた黙るくらいなら」 「……」 「噂になったほうがましだ」 あまりに真っ直ぐで、あまりに乱暴な理屈だった。  でも、そこに嘘がないことが分かる。  分かってしまうから、ますます腹が立つ。「……それじゃあ」 「何だ」 「社交界では、ただの溺愛話になるわ」 「構わない」 「私は構うの」 「どうして」 「困るからよ」 言い切ると、セドリックは少しだけ黙った。  やがて、低く問う。「困るのは、嫌だからか」 「……」 「それとも」 「何」 「本当に、まるでそう見えるからか」 その問いに、リリアーナは本気で返す言葉を失った。 回廊の向こうでは、温室の中の笑い声が薄く響いている。  春先の白い光。  鉢植えの影。  その全部が急に遠く感じた。 嫌だから、と答えれば簡単だったかもしれない。  でも、完全に嘘にもなる。  なぜなら今のセドリックの行動は、ただの外聞用でも演技でもないからだ。  本当に、まるで。  いや、本当にそうなのだろう。  本人が止められないと言うくらいなのだから。「……ずるい質問」 ようやくそう返すと、セドリックは少しだけ目を細めた。「そうか」 「そうよ」 「だが、答えは出ているように見える」 「最低」 「それも否定しない」 前なら、こんな会話はできなかった。  怒って終わり。  あるいは黙り込んで、どちらかが諦めるだけだった。  今は、怒りながらも言葉を交わせる。  それが良いことなのか悪いことなのか、まだ時々分からない。「……とにかく」 リリアーナは小さく息を吸った。「少しは抑えて」 「嫌だ」 「即答しないで」 「君の顔色が悪いのに」 「今はもう平気よ」 「なら戻るか」 「……」 「ただし、温かい茶は飲め」 「そういうところなの」 思わず目を閉じる。  怒っているのに、どこかで笑いそうになる自分がいて、それがまた悔しい。「噂になるほど近すぎるのよ」
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第13話 あなたの優しさは、今ではない①

 その夜会へ出る支度をしている時から、リリアーナは少し嫌な予感がしていた。 胸騒ぎ、というほど大げさなものではない。もっと地味で、もっと身体に近い感覚だ。朝から食欲が薄く、昼に口へ入れたスープも半分ほどしか喉を通らなかった。曇ったままの空は夕方になっても晴れず、窓の外の色はずっと鈍い。湿り気を含んだ冷たい風がときおりガラスを鳴らし、そのたびに肩のあたりが無意識に強張る。 今夜は王都の中でもそれなりに大きな夜会だった。  王家に連なる遠縁の伯爵家が主催する、春先の親睦を名目にした集まり。まだ本格的な社交季には少し早いが、そのぶん招かれる顔ぶれは濃い。大物ばかりではない。けれど、貴族社会の空気がどう動くのかを敏感に嗅ぎ取る者たちが集まる場ではある。 つまり、今のリリアーナにとっては最悪に近い。 冷徹侯爵が婚約者を溺愛しているらしい。  だが未来の義母は、その婚約者をどうも軽んじているらしい。  婚約解消の噂も、一度は流れたらしい。  しかも当の侯爵本人が、わざわざ伯爵家まで足を運んで止めに来たとか。 そんな、甘いのか険悪なのか分からない噂が、今の王都には妙に心地よく流れていた。女たちは面白がり、男たちは「なるほど」としたり顔で分析したつもりになっている。けれど、その噂の中に放り込まれている本人たちにとっては、どれも少しも甘くない。 リリアーナは鏡の前に立ったまま、そっと息を吐いた。 今夜のドレスは淡い藤色だった。深すぎない紫に灰色を一滴混ぜたような色で、明るすぎず、暗すぎず、夜会の灯りの中ではちょうどよく柔らかく見える。襟元は上品に詰まり、肩はほとんど出ない。継母の趣味ならもっと胸元を華やかに見せるだろうが、今日ばかりはエマが「お嬢様にはこのくらいのほうが」と押し切ってくれた。 髪はいつもより少しだけ高く結い上げ、真珠を細く連ねた飾りを差す。耳元には小さな雫型の真珠だけ。華美すぎない。だが控えめすぎて「怯えている」ようにも見えない。その絶妙な加減を、エマはよく分かっていた。「苦しくありませんか」 背後でコルセットの紐を整えながら、エマが問う。「少しだけ」 「緩めましょうか」 「いいえ……大丈夫」 そう答えたが、完全な本音ではなかった。  今夜の息苦しさはコルセットのせいだけではない。  視線。  噂。  そして、きっと向こう
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第13話 あなたの優しさは、今ではない②

 夜会へ向かう馬車の中でも、その重みは消えなかった。 継母は上機嫌だった。今日の主催家は伯爵家にとって無視できない縁だし、ヴァレンティア侯爵家との噂が少なくとも「娘が疎まれている」方向ではないことを、彼女はむしろ利用したいのだろう。こういう時だけ、婚約破棄騒動は一時的に棚へ上げられる。「笑顔を忘れないことよ」 「はい」 「今夜はあちらもいらっしゃるでしょうし」 「ええ」 あちら。  名前すら出さないのに、意味だけは十分だった。 窓の外では、街の灯りが雨上がりの石畳へ細く映っている。車輪の音は乾ききらない道を鈍く叩き、時折小さく揺れた。体が少しだけふわつくのは、空腹のせいか、それとも緊張のせいか、自分でも分からない。     * 会場は、明るすぎるほど明るかった。 高い天井からいくつものシャンデリアが光を落とし、そのひとつひとつが無数の小さな火を抱えている。壁面の燭台の灯りも重なり、磨かれた床はまるで薄い水面のようにきらきらと光った。花は白を基調にしていたが、香りは決して強くない。主催家は客の多さを分かっているらしく、匂いがぶつからないよう上手く抑えている。それでも、集まった人々の香水やワインや料理の匂いが混ざり合い、空気はやはり少し重たかった。 音楽は軽やかで、弦がよく響く。笑い声は天井へ上がり、また薄く降りてくる。色とりどりのドレス。黒や濃紺の礼服。銀器の音。何もかもが整い、何もかもが少し過剰だ。 リリアーナは会場へ足を踏み入れた瞬間、もうその視線を感じた。 噂の娘。  冷徹侯爵の婚約者。  最近やたらと気を配られているらしい伯爵令嬢。 目が合えば皆、微笑む。挨拶も丁寧だ。だが、その丁寧さのすぐ裏で、何を測られているのかくらいは分かる。「まあ、今夜もお綺麗」 「侯爵様がお放しにならないのも分かるわ」 「慈善市の件、伺いましたのよ」 「本当に素敵な殿方ですことね」 どれも悪意の顔をしていないから厄介だった。  前世では「お気の毒に」と哀れまれ、今世では「羨ましい」と囁かれる。  どちらも本人を見ているようで、実際には勝手な物語を楽しんでいるだけだ。 継母と並んで主催家へ挨拶し、何人かの夫人と短く言葉を交わす。リリアーナは笑顔を崩さない。だが内側では、少しずつ体力が削れていく感覚があった。 食事の匂い。  熱い人
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第13話 あなたの優しさは、今ではない③

 そう思って顔を上げたところで、ちょうどセドリックがこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。 人波の中を、まっすぐに。 周囲の空気が、また少しだけざわつく。  冷徹侯爵が婚約者のもとへ行く。  それだけで、もう絵になるらしい。「リリアーナ嬢」 近づくなり、彼は低く名を呼んだ。  その声が耳へ入るのと同時に、世界が少しだけ遠くなった。 あ、と思った。 眩暈だ。 急にではない。もっと薄く、床がわずかに傾いたような種類の揺れ。光が少しだけ強く見える。人の声がひとつ遠くなる。胃の底がすうっと冷える。 まずい。 そう思った時には、呼吸がうまく入っていなかった。「……大丈」 「顔が」 セドリックの声がそこで途切れる。  何かを言おうとして、その前に彼の体が動いた。 次の瞬間には、リリアーナは強い腕に支えられていた。 倒れ込んだわけではない。ほんの半歩、足元が揺らいだだけだった。だがそのわずかな揺れを、彼は誰より先に見抜いたらしい。片腕が背へ回り、もう一方の手が肘のあたりを支える。力は強いのに、乱暴ではない。逃がさないようにしっかり支えながら、痛くはない絶妙な強さだった。 その感触が、まずひどく生々しかった。 衣越しに伝わる腕の熱。  布の擦れる音。  低く落ちる呼吸。  間近で嗅いだ、彼の衣の乾いた匂いと、ほんの少しだけ残る外気の冷たさ。 体が揺れているのに、その腕の中だけが妙に安定している。  その安定が、まずいほど心臓を打った。「下がれ」 セドリックの声は低く、しかし鋭かった。  誰に向けたものか最初は分からなかったが、すぐに、こちらへ寄ってこようとした周囲の女たちや使用人へ向けたものだと知れた。「騒ぐな」 「侯爵様」 「医師は呼ばなくていい。別室へ」 まるで前から決めていたみたいに、彼は手早かった。  会場のざわめきが遠のく。  いや、遠のかせているのは彼だ。  周囲がどよめき始めた瞬間に、それ以上近づかせないよう空気を切った。「歩けるか」 耳元近くで問われる。  低い。近い。近すぎる。 その声に、前世では一度もなかった種類の焦りが混じっているのが分かる。  それが余計に胸を乱した。「……大丈夫」 「大丈夫ではない」 「歩けるわ」 「なら行く」 返事を待たず、彼は支える手を緩めなかった。
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第13話 あなたの優しさは、今ではない④

 答えられないでいると、彼の目がさらに冷たく細くなる。 その冷たさは他人へ向ける氷ではなく、自分自身へ向けた苛立ちに近いように見えた。「いつからだ」「大げさにしないで」「大げさではない」「大げさよ」 言い返しながら、心は少しずつ揺れていた。 こんなふうに言葉を重ねられるたび、前世の自分が待っていたものの輪郭が現れてしまう。 倒れる前に。 壊れる前に。 少し顔色が悪いだけの時に。 こうして聞いてくれればよかったのに、と。 だからいけないのだ。 この優しさは、今の自分には危険だ。 受け取ってしまえば、昔の孤独まで少しだけ軽く見えそうになる。 そんなこと、許せない。 セドリックはまだ目の前にいた。 低く屈んだ姿勢のまま、逃がさないみたいに見ている。 その視線はあまりに真っ直ぐで、昔の冷たさとは違う。 だからこそ、リリアーナの胸は強く打つ。「……どうして」 思わず零れた。「どうして、今はそんなふうに」 言いかけて、唇を結ぶ。 そこまで言えば、きっと前世の話になる。 今、この場でそれを持ち出したくなかった。 でも、彼は逃げなかった。「今だからだ」 低い声が落ちる。「違うわ」「違わない」「違う」 リリアーナはグラスを小卓へ置いた。わずかに水面が揺れる。 指先はまだ冷たい。 けれど心のほうは、別の熱で揺れていた。「今の優しさは」 一度、呼吸を整える。 喉の奥が熱い。 けれど、言わなければいけない。「前の私を救ってはくれません」 部屋の空気が、しんとした。 暖炉の火の音だけが、小さくはぜる。 外の夜会の音は遠い。 近いのは、彼の呼吸だけだった。 セドリックの目が、はっきりと揺れた。 傷ついた、と言ってしまえば簡単だ。 だがそれだけではない。 自分でも分かっていたはずのことを、あまりにも正確な言葉で突きつけられた人間の揺れだ。「……分かっている」「分かっていないわ」 リリアーナは小さく首を振った。「分かっているなら、こんなふうにされたら、私が困ることも分かるでしょう」「困らせたいわけではない」「でも困るの」 声は静かだった。 怒鳴りたくはなかった。 ここで感情だけにしてしまうと、この切なさの輪郭がぼやけてしまう気がした。「今、あなたがこうしてくれるたびに」「……」「
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第13話 あなたの優しさは、今ではない⑤

 セドリックの声は、しばらくしてようやく落ちた。「……そうか」 「ええ」 「私は」 「弁解はいらないわ」 「弁解ではない」 「同じよ」 前にも聞いたやり取りだった。  でも今夜は少し違う。  彼の声が前より低く、前より静かで、前よりもどこか無力に近い。「では何」 「私は、前の君を救えない」 「ええ」 「だが、今の君を見過ごすこともできない」 「……」 その言葉に、胸がひとつ強く打った。 甘い言葉ではない。  愛の告白でもない。  けれど、責任や義務だけでは片付かない何かがそこにあった。 だから、よけいに切ない。「それが、困るって言っているの」 リリアーナはかろうじてそう返した。「今のあなたは、昔のあなたじゃない。  でも私は、昔の私を忘れられない」 「……」 「だから近づかれると、心が揺れるの。  揺れたくないのに」 セドリックの喉が小さく動く。  彼も苦しいのだろう。  そう見える。  そう見えてしまうから、余計に苦しい。 以前なら、この距離でこんなふうに言葉を交わすこと自体なかった。  だから今の近さは、外から見れば甘いのかもしれない。  でも本人たちにとっては、少しも甘くない。 欲しかったものに似ているのに、同じではない。  届きそうで、届かない。  そのどうしようもなさだけが、ふたりの間に濃く立っていた。「……もう大丈夫よ」 しばらくしてから、リリアーナは言った。  眩暈はだいぶ引いていた。  少なくとも立てるくらいには。「本当に?」 「さっきよりは」 「送る」 「今はやめて」 即座にそう言うと、彼が僅かに黙る。「皆が見ているもの」 「……」 「これ以上、“溺愛している侯爵様”を見せなくていいわ」 「私は」 「分かってる。でも、今夜はここまでにして」 やわらかく言ったつもりだった。  拒絶したいわけではない。  でも、これ以上近づかれると、きっと自分のほうが持たない。 セドリックは数秒黙り、それからゆっくり立ち上がった。  視線の高さが変わる。  だが、その目はまだこちらから逸れない。「医師は」 「要らないわ」 「なら、せめて甘いものを少し口にしろ」 「……命
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第14話 地方行きの打診①

 その朝は、珍しく目覚めが浅くなかった。 ぐっすり眠れたわけではない。夜の途中で二度ほど目を覚ましたし、明け方には雨戸の向こうを渡る風の音で意識が浮いた。それでも、ここ数日にしてはましだった。寝台の上で身体を起こした時、胸の奥にいつも薄く張りついていた息苦しさが、少しだけ弱い。前夜の夜会での眩暈はまだ記憶に新しいし、セドリックの腕の強さや、耳のすぐそばへ落ちてきた低い声も、思い出そうとすればたやすく蘇る。それでも今朝の空気には、別の種類の静けさがあった。 曇りがちな空が続いていたが、今日は雲の切れ間から淡い光が差していた。厚手のカーテンの隙間から落ちるその光は、冬の名残を含みながらも、もう完全に冬の色ではない。まだ弱く頼りないが、確かに春へ向かっている光だ。窓の外では、昨夜の風で揺られたらしい若い枝が細く震え、その枝先にごく小さな芽が見えた。 寝台の端へ足を下ろすと、足裏に触れる床板はまだ冷たかった。だが、その冷たさすら、今はひどく現実的で悪くなかった。自分の身体がここにあると分かる程度にはっきりしている。心の中がぐらぐらと揺れている時ほど、人はこういう小さな感覚にしがみつきたくなるのかもしれない、とリリアーナはぼんやり思った。「お嬢様」 ノックのあと、エマが入ってきた。いつも通り、洗面用の湯と、朝一番の薄いお茶、それに小さな封書を載せた銀盆を手にしている。だが、その封書を見た瞬間、リリアーナの胸がどくりと鳴った。 白い封筒に、控えめな紋章。母方の家の、小さな印。「アデル叔母様から?」 「はい。今朝一番の便で」 声が自然と低くなる。まだ完全に目覚めたわけでもない身体の中で、そこだけが急に熱を持った。「早かったわね」 「急ぎで返してくださったようです」 エマが盆を机へ置く。リリアーナは寝衣のまま立ち上がり、ほとんど無意識に封を取った。指先が少しだけ震える。封蝋は簡素だが丁寧に押されていて、紙にはかすかに乾いた薬草の匂いが移っていた。気のせいではないだろう。アデル叔母の手紙は時々、乾燥させた葉の匂いをわずかにまとっていた。庭で書くのか、温室のそばで封をするのか。前世から変わらないその癖が、今は胸の奥にひどくやさしく沁みた。 便箋を開く。 整った文字が、前の手紙よりも少しだけ急いだ筆致で並んでいる。 リリアーナ。  前の返事だけでは足りな
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第14話 地方行きの打診②

 その一言で、食卓に短い沈黙が落ちた。 マリアンヌがそっとフォークを置く。  継母の目が細くなる。  父だけが、表情を変えない。だがその無表情の裏に、数日前よりもわずかに慎重さが混じっているのを、リリアーナは見逃さなかった。「叔母は受け入れを申し出てくださっています」 「書面でか」 「はい」 「迎えも出すと?」 「ええ」 「ふん」 父は新聞を畳み、卓上へ置いた。「名目は」 「静養です」 「それだけでは弱い」 「薬草院の手伝いもいたします」 「貴族の娘がか」 「ええ。何か問題が?」 「問題はあるだろう。外聞が」 「療養を兼ねて親族の元で過ごす娘が、周囲の役に立つ程度の手伝いをすることに、どれほどの外聞の問題がございますか」 継母が声を上げた。「“働く”などと取られたら恥でしょう!」 「それは恥ですか?」 「当たり前です」 「そうでしょうか」 リリアーナは静かに問い返した。「ただ座って噂を待つ娘より、ずっと健全だと思いますけれど」 「……」 継母の頬がぴくりと動く。  父はそこで、ゆっくりと腕を組んだ。「行かせたあと、どうするつもりだ」 「まず心身を整えます」 「その後は」 「薬草院で過ごしながら考えます」 「曖昧だな」 「曖昧で結構です。少なくとも、今ここで次の縁談へ差し出されるよりは」 父の目が冷たく光った。「次の縁談だと?」 「違いますか?」 「……」 「お父様が私をただ王都へ置いておくとは思っておりません」 「買いかぶるな」 「買いかぶってはおりません。私は伯爵家の娘で、今や扱いの難しい娘でもある。ならば別の形で使おうとなさるでしょう」 「リリアーナ!」 継母が鋭く名を呼んだ。  マリアンヌは青ざめた顔で、母と姉を交互に見ている。 リリアーナはそこで一度だけ呼吸を整え、少しだけ声を柔らかくした。「お父様。私は、この家に恥をかかせるために申し上げているのではありません」 「……」 「今のまま王都に置くより、一度静養へ出したほうが、噂も薄まります」 「噂が薄まる?」 「ええ。侯爵様が過剰に気を配っておいでだという噂も、婚約解消の話も、いったん距離を置けば熱は下がるでしょう」 「……」 「伯爵家にとっても悪い話ではないはずです」 ここが肝だと分かっていた。 父
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