Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 101 - Bab 110

121 Bab

雨の日の帳場⑥

「次、ですか」「同じ状況になった時の手順だ」 伊織は帳場の紙を一枚取り、澄乃の前へ置いた。「失敗を反省して終わるな。直す」 澄乃は、何も言えなかった。 直す。 失敗は責められるためのものではなく、直すためのもの。 その当たり前が、澄乃にはあまりにも遠かった。 伊織は鉛筆を持つ。「玄関の鈴が鳴った。客が濡れてる。内線が鳴った。優先順位は」 澄乃は、少し息を整えた。「まず、お客様に椅子をお勧めします。濡れている場合は手拭いと敷物を出します」「誰が」「帳場にいる者が対応します。もし内線中なら、手で真帆さんか篠田さんへ合図を」「合図の決め方が要る」「はい」 澄乃は紙へ書き始めた。 雨天時玄関対応。 一、鈴が鳴ったら、電話中でも目視確認。 二、濡れている客は、まず椅子へ案内。 三、手拭い、敷物、温かい茶。 四、内線や料理場伝達は、客を座らせてから折り返し。 五、帳場内で対応中の合図を決める。 伊織が横から言う。「椅子と手拭いは玄関に常設。取りに行く時間が無駄だ」「はい」「雨の日だけじゃなく、足の悪い客にも使う」「分かりました」「料理場への急ぎの内線は、折り返すと伝えればいい。客を立たせてまで優先しない」 澄乃は鉛筆を握る手に力を込めた。「はい」「ただし、食事の火入れに関わる急ぎは、誰かに玄関を任せる」「その場合の合図も」「決める」 伊織は、澄乃の書いた紙を見た。「これを明日、篠田さんと真帆に見せる。料理長にも、雨の日は内線の折り返しが遅れる可能性があると伝える」 澄乃は、思わず言った。「責めないのですか」 口にしてから、しまったと思った。 伊織は眉を寄せる。「責めてほしいのか」「いえ」「なら聞くな」 少しきつい声だった。 けれど、そこにも人格を否定する響きはなかった。 澄乃は目を伏せた。「久世家では、失敗すると、どうしてできなかったのかと責められることが多かったので」 言ってから、胸が少し苦しくなった。 仕事場で過去を背負いすぎてはいけない。 だが、今の言葉はこぼれてしまった。 伊織はしばらく黙っていた。 帳場の外では雨が続いている。 やがて、伊織は低く言った。「ここでは、失敗したら直す」 それだけだった。 澄乃は顔を上げる。「客に迷惑がかかったなら謝る。原因を見
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瑠璃花の誤算①

 汐見瑠璃花が久世家の客間で目を覚ました時、最初に感じたのは、天井の高さだった。 白い天井には古い木枠が走り、部屋の隅には季節の花が控えめに生けられている。客間として整えられた部屋だった。布団は上等で、肌に触れるシーツも滑らかだった。窓の外には手入れされた庭が見え、障子越しの朝の光はやわらかい。 普通なら、夢のような朝と言えたのかもしれない。 けれど瑠璃花は、目覚めた瞬間から胸の奥が重かった。 隣に昌親はいない。 この部屋は、昌親と過ごすための部屋ではない。久世家に泊まることになった瑠璃花へ、義母の佳枝が用意した「客間」だった。妻の座を望んだ女に与えられた部屋が、主寝室ではなく客間であること。その距離を、瑠璃花は昨夜から何度も感じていた。 布団の上で身じろぎすると、浴衣の袖が擦れた。 水色のワンピースは、昨夜のうちに脱いで畳んである。裾には、茶会の準備で慌てて動いた時についた小さな染みが残っていた。花の水をこぼした跡か、菓子の箱を運んだ時に触れたクリームか。どちらにしても、瑠璃花が思い描いていた久世家での朝とは違っていた。 華やかな略奪愛。 愛された女。 妻の座を譲られた女。 瑠璃花は、そういう言葉に似合う朝を想像していた。 昌親が迎えに来る。朝食の席でさりげなく隣に座る。義母はまだ複雑な顔をするかもしれないが、いずれ自分を認める。若く明るい瑠璃花が久世家に入れば、重苦しい空気も変わる。昌親は、そう言った。 澄乃は真面目すぎる。 家の中が息苦しい。 君といると、楽だ。 そう言われるたび、瑠璃花は胸を弾ませた。 大人の男に選ばれたと思った。 きちんとした家の男に、退屈な妻より自分の方が必要だと言われたのだと思った。 だが、実際に久世家で迎えた朝は、思っていたものと違った。 廊下の向こうから、佳枝の声がした。「汐見さん、起きていらっしゃるのなら、身支度をなさい」 敬語なのに、呼びつける声だった。 瑠璃花は反射的に肩を縮めた。「はい。すぐに」 返事をしてから、唇を噛む。 すぐに、とはどれくらいのことを言うのだろう。五分か、十分か。髪を巻き直す余裕はあるのか。顔色が悪いから少し化粧をしたい。けれど待たせればまた何か言われる。 久世家に来てから、瑠璃花は時間の使い方まで見張られているような気がしていた。 慌てて起き上が
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瑠璃花の誤算②

「おはようございます」 瑠璃花が言うと、佳枝は一瞥した。「おはようございます。髪は、もう少しまとめた方がよろしいわね」 最初の言葉がそれだった。 瑠璃花は思わず自分の髪に触れる。「すみません」「謝ればよいというものではありません。お客様がいらっしゃる家にいるなら、朝から人前に出る身支度を覚えなさい」 客ではなく、家の者として扱われているのか。 それとも、客としても不十分だと言われているのか。 瑠璃花には分からなかった。 食卓に出された朝食は、昨日よりは形になっていた。米、味噌汁、焼き魚、小鉢。しかし、空気はぎこちない。義父の膳には薄味の煮物が置かれているが、彼は一口食べて箸を止めた。「香りがない」 低い声だった。 家政婦が頭を下げる。「申し訳ございません」 佳枝の視線が瑠璃花へ向いた。 瑠璃花は慌てた。「私、まだ作り方は」「誰も、あなたに煮物を作れとは言っていません」 佳枝は言った。「でも、何が必要かくらいは把握しなさい。昨日のファイルに、書いてあったのでしょう」 ファイル。 その言葉が出るたび、瑠璃花の胸は重くなる。 澄乃から渡された、灰色の表紙のファイル。久世家生活実務、などという堅苦しい文字が書かれていた。最初に受け取った時、瑠璃花は大げさだと思った。家のことをまとめただけで、そんな会社の資料みたいな顔をする必要があるのかと。 だが、開いてみると、そこには細かい文字がぎっしり並んでいた。 義父の薬。 義母の通院。 親族行事。 手土産。 禁句。 会食。 返礼。 茶会。 会社の祝い花。 瑠璃花は、数ページ読んだだけで閉じた。 無理だと思った。 こんなものを全部覚えるために、昌親と一緒にいたかったわけではない。 瑠璃花が欲しかったのは、昌親の隣だった。 久世家の中で、愛されている女として扱われる場所だった。 なのに、目の前に置かれたのは、薬の時間と塩分量と手土産の価格帯だった。 食卓で、昌親がようやく顔を上げた。「母さん、朝から責めるな」「責められるようなことが続いているからです」「瑠璃花はまだ慣れていない」「では、あなたが慣れているの」 佳枝が返すと、昌親は黙った。 その沈黙が、瑠璃花をさらに不安にさせた。 昌親は守ってくれるはずだった。 澄乃より自分を選んだ男なのだ
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瑠璃花の誤算③

 久世家の中に、澄乃の痕跡があまりにも多く残っている。 それが瑠璃花には腹立たしく、同時に怖かった。 佳枝は瑠璃花を見た。「ファイルに、会社関係の札の表記はありませんでしたか」「見てみます」 瑠璃花は食事もそこそこに客間へ戻り、ファイルを持ってきた。 灰色の表紙。 指先に触れるだけで、気が重くなる。 食堂の卓に置き、会社関係の項目を探す。目次はある。澄乃の字は整っていて、読みやすい。だが項目が多い。来客対応、会食、贈答、祝い花、弔事、取引先夫人の好み、役職変更時の注意。 祝い花の項目を見つける。 そこには、名義の順番、札の肩書、避けるべき表記、前回の送付履歴が書かれていた。 瑠璃花は、その文字を見て頭が痛くなった。「ありました」 佳枝が苛立ったように言う。「では、読み上げなさい」 瑠璃花は該当部分を読んだ。 総務へ伝えるべき内容は分かった。だが、なぜそれが必要なのかまでは分からない。肩書が一つ違えば、相手の受け取り方が変わる。前職の肩書を残すか、現職を優先するか。社長名義か、久世家名義か。そういうことが、この家では失礼や恥に直結するらしい。 瑠璃花には、まだ肌で分からない。 電話を取り次がれた昌親は、ファイルを見ながら総務へ伝えた。 その声は不機嫌だった。「だから、今回はこっちの名義で。いや、肩書は相談役でいい。前の役職は入れるな。……そうだ、そう書いてある」 そう書いてある。 昌親は、澄乃の記録を見ながら言った。 だが、その口調には感謝ではなく苛立ちがあった。 電話を切ると、彼はファイルを閉じた。「細かいな、本当に」 瑠璃花は、思わず言った。「でも、助かりましたよね」 昌親が彼女を見る。「何だ」「いえ……澄乃さんが書いていたから、分かったんですよね」 自分で口にして、瑠璃花は妙な気持ちになった。 澄乃を褒めたいわけではない。 でも、事実としてそうだった。 佳枝は黙っていた。 昌親は不快そうに顔をしかめる。「だからって、あいつが正しいことにはならない」 その言い方に、瑠璃花は胸がざわついた。 正しいかどうかの話なのだろうか。 少なくとも今、久世家は澄乃の残した紙に助けられている。なのに、昌親はそれを認めるのが嫌なのだ。 自分が愛した男は、こういう人だったのか。 その疑問が、ほんの一瞬
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瑠璃花の誤算④

 だが、自分で書くとなると、言葉が出てこなかった。 それまで、澄乃が下書きをしていたからだ。 佳枝は、その下書きに朱を入れ、最後の文面として出していた。だから自分が整えていると思っていた。けれど、本当は最初の骨を澄乃が作っていた。相手ごとの距離、謝罪の深さ、季節の言葉、久世家の面子を保つ加減。 いざ自分で書こうとすると、その骨がない。 瑠璃花は、佳枝の手元を見ていた。「澄乃さんのファイルに、文例はないんですか」 佳枝の顔が険しくなる。「見てみなさい」 瑠璃花はまたファイルを開いた。 礼状文例の項目はあった。 だが、それはそのまま写せるものではなかった。挨拶、時候、礼、詫び、返礼を添える場合の文の流れ。そこには、相手に合わせて整えるようにと書かれている。澄乃らしい丁寧な文字で。 瑠璃花は、思わず小さく言った。「これ、結局自分で考えなきゃいけないんですね」 佳枝が静かに言う。「当然です」「澄乃さん、これを毎回やってたんですか」 答えはなかった。 その沈黙が、答えだった。 瑠璃花は便箋を見つめた。 妻の座。 その言葉が、頭の中で少しずつ形を変えていく。 瑠璃花は、妻の座をブランドバッグのようなものだと思っていた。 持っていれば選ばれた証になるもの。 人に見られ、羨ましがられ、自分の価値を高く見せてくれるもの。 昌親に愛され、久世家に入り、上質な家で暮らし、義母に認められ、いずれ周囲から「若くて可愛らしい奥様」と呼ばれる。そういう、光沢のあるものだと思っていた。 けれど実際には、その座の中には、薬の時間があり、減塩の献立があり、返礼品の予備があり、失礼のない文面があり、車の手配があり、肩書の確認があり、義母の機嫌があり、昌親の不機嫌があった。 ブランドバッグではなかった。 重い管理表の束だった。 そして、その束を澄乃は七年持っていた。 その事実を、瑠璃花は認めたくなかった。 認めれば、自分があの応接間で言った言葉の重さを見なければならない。 妻の座を譲ってください。 あの時の自分は、勝ったつもりでいた。 澄乃を見下ろしていた。 大人しくて、地味で、夫に愛されなくなった女だと思っていた。自分が代わりに座れば、久世家はもっと明るくなる。昌親も幸せになる。自分も幸せになる。そう信じていた。 今なら分かる。 
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瑠璃花の誤算⑤

「いなくなった人間のことを何度言えば気が済むんだ」 佳枝は、扇子を持つ手を止めた。「いなくなったのではありません。あなたが失ったのです」 居間の空気が凍った。 昌親の顔が強張る。 瑠璃花も息を止めた。「母さん」「そして、私たちも軽んじた」 佳枝の声は、疲れていた。「その結果が、今なのです」 昌親は何も言わなかった。 言い返せないのか、言い返す気力がないのか。 瑠璃花は、二人を見ていた。 昌親から見せられていた夢の中では、澄乃は退屈な妻だった。昌親を理解せず、家を息苦しくしている女だった。瑠璃花は、彼を救う明るい存在だった。 だが、今、久世家の中で見えているのは違う。 澄乃は退屈だったのではない。 正確だった。 細かすぎたのではない。 必要だった。 それを昌親が息苦しいと呼び、瑠璃花が古い妻の仕事だと思い込んだだけだった。 夜になり、瑠璃花は客間へ戻った。 食事はほとんど喉を通らなかった。佳枝の前では緊張し、昌親の前では不安になり、義父の沈黙にはどうしてよいか分からなかった。華やかな家に入ったはずなのに、一日の終わりには肩も首も痛い。 客間の畳の上に、灰色のファイルを置く。 開きたくない。 けれど、開かなければ明日もまた責められる。 瑠璃花は、ゆっくり表紙をめくった。 最初のページには、澄乃の字で短く書かれていた。 この控えは、久世家生活実務の最低限をまとめたものです。記載のない事項は、各自で確認のうえ対応してください。 最低限。 瑠璃花は、その文字を見つめた。 これで最低限なのか。 ページをめくる。 義父の薬。 義母の通院。 親族行事。 茶会。 贈答。 会社関係。 返礼。 会食。 どれも、ただの家事ではなかった。 瑠璃花は、膝を抱えるようにして座った。 昌親は、君となら楽だと言った。 久世家は窮屈だが、君がいれば変わると言った。 澄乃はきっちりしすぎていて、自分は息が詰まるのだと言った。 その言葉を信じた。 信じたかった。 だが、昌親が見せた夢の中に、義父の薬はなかった。 義母の茶会もなかった。 会社の総務からの電話も、返礼の文面も、白百合を避ける理由もなかった。 瑠璃花は、初めて自分が座りたがった場所の形を見た。 それは、綺麗な椅子ではなかった。 重い机だった
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祖母の記憶がつないだ縁①

 水篝館の朝は、雨の名残を少しだけ残していた。 昨夜まで強く降っていた雨は夜明け前に止み、川の水はまだ少し高かった。宿の下を流れる水音はいつもより太く、石に当たるたび白い泡を立てている。山の木々は濡れた葉を光らせ、遠くの斜面には薄い靄がかかっていた。空は明るいのに、光はまだ柔らかく、濡れた木の香りが廊下の隅に残っている。 澄乃は帳場で、昨夜清書した雨天時玄関対応の紙を篠田に見せていた。 玄関に椅子と乾いた手拭いを常設すること。濡れた客を先に座らせること。料理場への内線は、急ぎであっても折り返しを伝え、客を立たせたままにしないこと。帳場で誰が対応中か分かるよう、簡単な合図を決めること。 昨日の失敗から生まれた紙だった。 紙の端に、澄乃の小さな字で日付が入っている。久世家で書いていた記録とは違う。責められた事実を自分のために残す紙ではなく、次に誰かが迷わないための紙だった。 篠田は、それを丁寧に読んでいた。「玄関椅子の位置は、もう少し内側の方がよいかもしれませんね。雨が吹き込む日は、今の場所ですと裾が濡れます」「では、傘立ての奥でしょうか」「ええ。ただし、車椅子の方が入られる時には邪魔にならないように」 篠田の指が紙の上を滑る。 その指先は落ち着いていた。否定ではない。現場の手触りで、少しずつ紙を宿の形へ合わせていく作業だった。澄乃はうなずき、余白に修正を書き込んだ。 真帆も横から覗き込んでいる。「手拭いの置き場所、玄関脇だと私、取りに行くの忘れそうです。目につくけど、お客様からは見えすぎない場所がいいです」「では、帳場側の棚の上に小さな籠を置きましょうか」「それならすぐ取れます」 真帆は少し嬉しそうに言った。 以前の硬さはまだ完全には消えていない。けれど、澄乃の案に対して、真帆はもうただ身構えるだけではなくなっていた。気になる点を言い、直せるところを探す。水篝館の仕事として、一緒に紙を見てくれている。 澄乃は、そのことに静かな温かさを覚えた。 帳場の奥では、伊織が予約台帳を閉じていた。 彼は口を挟まない。けれど、聞いていないわけではない。篠田や真帆の意見に澄乃がどう反応するか、紙が現場に乗る形になっているか、静かに見ている。 その視線は、澄乃を急かさなかった。 ただ、支えている。 午前の支度がひと段落した頃、玄関の引き戸
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祖母の記憶がつないだ縁②

 ただの宿泊客ではない。 古くからの客だと、澄乃にも分かった。 篠田の表情が柔らかくなる。「桂木様。お帰りなさいませ」「ただいま。川の音が今日はよく聞こえるわね」 女性の声は落ち着いていて、少し低い。耳にやさしいのに、弱くはない声だった。 桂木と呼ばれた女性は、帳場へ近づきながら館内を見回した。玄関の花、磨かれた床、雨の名残のある石畳、帳場の上の木札。ひとつひとつを懐かしむように見て、それから篠田へ微笑んだ。「篠田さん、変わらないわね」「桂木様こそ、お変わりなく」「変わったわよ。膝が少しばかり正直になっただけ」 冗談めかして言うと、篠田が小さく笑った。「すぐ椅子をお持ちします」「ありがとう。急がなくていいわ」 澄乃は、その言葉に少しだけ耳を留めた。 急がなくていい。 祖母も、よくそう言っていた。 廊下を歩く時。湯上がりに息を整える時。食事をゆっくり取る時。急ぐと、せっかく来た場所が逃げてしまうわ、と笑っていた。 篠田が椅子を用意している間、桂木は帳場の端に立つ澄乃へ視線を向けた。 その目が、ふと止まる。 澄乃は姿勢を正し、頭を下げた。「いらっしゃいませ。足元の悪い中、お越しいただきありがとうございます」 桂木は、澄乃をじっと見た。 無遠慮ではない。 けれど、遠い記憶の中から何かを探すようなまなざしだった。「あなた」 小さく言う。 澄乃は少し緊張した。「はい」「もしかして、杠様の……」 その言葉を聞いた瞬間、澄乃の胸がかすかに鳴った。 篠田が静かに口を添える。「こちら、杠澄乃さんです。今、帳場の手伝いに入ってくださっています」 桂木の目が、驚きと懐かしさで丸くなった。「まあ」 それは、短い声だった。 けれど、その一音に長い時間が含まれていた。「やっぱり。あなた、あの時のお嬢さんね」 澄乃は、すぐには返事ができなかった。 あの時。 その言葉が、胸の奥に置かれる。 久世家へ嫁ぐ前。 祖母に付き添って、水篝館へ来ていた頃。 若くて、まだ今よりずっと頼りなくて、けれど祖母の湯呑みや膝掛けや薬の袋を一生懸命抱えていた頃。 その頃の自分を、この人は覚えているのだろうか。「祖母を、ご存じでいらっしゃるのですか」 澄乃は、ようやくそう尋ねた。 桂木は椅子に腰を下ろしながら、ゆっくりうなずいた
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祖母の記憶がつないだ縁③

 澄乃は、息を忘れたように桂木を見つめた。 祖母のことだけではない。 自分のことも覚えている。 久世家の妻としてではなく。 昌親の隣にいた女としてではなく。 杠澄乃として、水篝館にいた頃の自分を。「そんな、私は……ただ、祖母の付き添いをしていただけで」「ただ、ではなかったわ」 桂木は静かに言った。 その声は柔らかかったが、不思議と澄乃の言葉を遮る力があった。「お祖母様が咳き込まれた時、あなたはすぐ背中に手を添えていた。お茶を飲む前に、必ず温度を確かめていた。食事を残された時も、残したことを気に病ませないように、先に『今日は香りがよく分かりますね』なんて声をかけていらした」 澄乃は、目を伏せた。 覚えていないわけではない。 けれど、それは自分にとって当たり前のことだった。 祖母が苦しくないように。 祖母が申し訳ないと思わないように。 水篝館での時間を、少しでも穏やかに過ごせるように。 ただ、それだけだった。「お祖母様ね」 桂木は続けた。「あなたが廊下の先へ行ったあと、私におっしゃったことがあるのよ」 澄乃は顔を上げた。「祖母が、ですか」「ええ。『あの子は、人のことを見すぎる子です。見えるから、放っておけない。いつか、それを当然だと思う人のそばに行かなければいいけれど』と」 澄乃の胸が、大きく震えた。 手元の紙が、かすかに揺れる。 桂木は、澄乃の表情を見て、少しだけ目を細めた。「ごめんなさい。余計なことだったかしら」「いえ」 澄乃は首を横に振った。 声が少し掠れる。「いいえ。ありがとうございます」 祖母は、見ていたのだ。 あの頃から。 澄乃の手を。 澄乃の癖を。 誰かのために先回りしすぎるところを。 そして、それを当然に食べる人のそばへ行くことを、心配していた。 祖母の言葉は、時間を越えて今の澄乃へ届いたようだった。 あの子は、人のことを見すぎる子です。 見えるから、放っておけない。 澄乃は、帳場の木目を見つめた。 久世家での七年が胸を過ぎる。義父の薬、義母の茶会、昌親の会食、瑠璃花の言葉、置いてきた鍵。祖母が恐れた通り、自分は「当然だと思う人たち」のそばへ行ってしまったのかもしれない。 けれど、今ここへ戻ってきた。 水篝館へ。 祖母が穏やかな最期の季節を過ごした場所へ。 自分
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祖母の記憶がつないだ縁④

 桂木はそのやり取りを見て、満足そうに頷いた。「この宿は、変わったようで変わらないわね」「古いだけです」 伊織が短く言う。「それを保つのは大変なことよ」 桂木は、ゆっくり帳場の木札へ視線を移した。「昔、お祖母様もそうおっしゃっていたわ。古いものは、ただ古いだけなら傷む。誰かが毎日手を入れているから、懐かしく残るのだと」 澄乃は、その言葉を胸に受け止めた。 祖母らしい言葉だった。 水篝館にいると、祖母の声があちこちから戻ってくる。川の音、廊下の椅子、湯呑みの温度、帳場の木の匂い。久世家では遠くなっていた記憶が、ここではまだ息をしている。 桂木は澄乃を見た。「あなたは、あの頃からここにいたのよ」 澄乃は、思わず息を止めた。「え……」「久世のお家へ行かれる前から。お祖母様のそばで、ちゃんとここにいた。帳場の方に頭を下げて、廊下で転びかけて、若旦那さんに手拭いを借りて」 伊織の目がわずかに動いた。 澄乃も驚いて伊織を見る。 桂木は微笑んだ。「覚えていない?」 澄乃は、胸の奥を探った。 覚えている。 祖母の湯呑みを持って急いでいた時、廊下の角で足を滑らせかけた。湯呑みの茶がこぼれ、手の甲にかかった。熱いと言う前に、黒髪の青年が黙って手拭いを差し出した。大丈夫か、と硬い声で言った。 匂坂伊織。 あれを桂木が見ていたのだ。 伊織は、少しだけ視線を逸らした。「そんなこともありましたか」「覚えている顔ね」 桂木が楽しそうに言う。 伊織は答えない。 澄乃は、思わず小さく笑いそうになった。 久世家を出てから、こんなふうに過去を思い出して笑いそうになることがあるとは思わなかった。 痛みではなく、懐かしさとして。 それが不思議だった。 桂木は、澄乃へ向き直った。「あなたは、その時も一生懸命だったわ。少し危なっかしいくらいに」 澄乃は手元の紙を握った。「私は、祖母に迷惑をかけたくなくて」「お祖母様は、迷惑だなんて一度もおっしゃらなかったわ」 桂木の声が少し柔らかくなる。「あの方は、あなたが部屋を出たあと、よく川を見ながら笑っていらした。『あの子がいると、少し長く生きてみようかと思ってしまいます』と」 その言葉は、澄乃の胸の深いところを貫いた。 呼吸が止まる。 目の奥が、一気に熱くなる。 祖母が、そんなことを
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