บททั้งหมดของ 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: บทที่ 121 - บทที่ 130

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名前のない疲れ③

 澄乃は、瞬きをした。 指先が震えている。 疲れているのだと分かった瞬間、心のどこかで否定が起きた。 まだ平気。 倒れていない。 座って作業しているだけ。 これくらいで疲れたなどと言っていたら、迷惑になる。 澄乃は左手で右手首を軽く押さえた。震えが収まるまで少し待ち、それからまた書き始める。けれど、今度は文字の線が弱くなった。 帳場の向こうで、伊織が立ち上がる音がした。 澄乃は気づいていたが、顔を上げなかった。 足音が近づく。 紙の上に、影が落ちる。「澄乃さん」 低い声だった。 澄乃は鉛筆を持ったまま顔を上げる。「はい」「手」 伊織の視線は、澄乃の右手に向いていた。 澄乃は反射的に手を引っ込めようとした。「少し、力を入れすぎただけです」「顔色も悪い」「大丈夫です」 言った瞬間、伊織の目が鋭くなった。 帳場の空気が少し止まる。 篠田が電話の手を止め、真帆も客室案内の紙を抱えたままこちらを見る。 澄乃は、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。「本当に、あと少しで」「立て」 伊織が言った。 短く、逃げ道のない声だった。「伊織さん」「休憩だ」「でも、まだ」「休憩だと言った」 伊織は、澄乃の手元から鉛筆を取った。 乱暴ではない。 けれど、有無を言わせない動作だった。 澄乃は、空になった指先を見た。鉛筆を握っていた形のまま、指が少し強張っている。「今、止めると」「誰かが死ぬのか」 伊織の声は低かった。 澄乃は言葉に詰まる。「死なない仕事なら、止められる」 その言い方は厳しい。 けれど、怒っているのとは違った。 澄乃の中で、何かがざわめく。 止められる。 その言葉が怖かった。 自分の手から仕事を離されることが怖い。今止まれば、役に立てない人間になる気がする。みんなが忙しいのに、自分だけ休むことが怖い。篠田も真帆も動いている。料理長も仕込みをしている。伊織も宿のために走り回っている。 自分だけ座って休むなど、許されるのだろうか。「ご迷惑をおかけします」 澄乃は、かすれた声で言った。 伊織は眉を寄せた。「迷惑になる前に止めてる」「でも、私はまだ」「ここでは倒れるまで我慢しなくていい」 その言葉が、帳場の空気にまっすぐ落ちた。 澄乃は、息を止めた。 倒れるまで我慢
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名前のない疲れ④

 立った瞬間、足元が少し揺れた。 自分が思っていたより、疲れている。 その事実が、悔しくて恥ずかしかった。 伊織は何も言わず、歩幅を少しだけ落として廊下を進んだ。 澄乃はその後ろを歩く。 水篝館の廊下は、昼の光の中で静かだった。客室の障子は閉まり、遠くから川の音と厨房の物音が聞こえる。すれ違った仲居が、伊織と澄乃を見て少しだけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げて通り過ぎた。 澄乃は、下を向きがちに歩いた。 恥ずかしい。 みんなが働いている中で、休憩へ連れ出されている。 まるで子どものようだ。 そう思った瞬間、伊織が言った。「子ども扱いしてるわけじゃない」 澄乃は、びくりとして顔を上げた。 伊織は前を見たままだった。「顔に出てる」「……申し訳ありません」「謝るな」 いつもの言葉だった。 澄乃は唇を結ぶ。 連れて行かれたのは、帳場から少し離れた川沿いの小さな休憩室だった。 従業員が使う部屋だろう。畳敷きではなく、古い木の床に小さな卓と椅子が置かれている。窓の外には川が見え、端には湯呑みや急須、茶葉の缶が並んでいた。華やかな場所ではない。けれど、静かで、帳場の音が少し遠い。 伊織は椅子を引いた。「座れ」「はい」 澄乃は素直に座った。 座った瞬間、肩の力が抜けそうになった。ここまでずっと、背中に何かを背負っていたのだと気づく。紙の束ではない。誰かの期待でもない。自分で自分へ乗せた、休んではいけないという重さだった。 伊織は湯呑みに茶を注いだ。 手つきは慣れていないわけではないが、篠田ほど滑らかでもない。湯の量を少し見て、熱すぎないか確かめるように湯呑みの外側へ指を当てる。それから、澄乃の前に置いた。「飲め」「ありがとうございます」 湯呑みを両手で包むと、指先の震えがよく分かった。 澄乃は、思わず手を隠そうとした。 伊織が見ていた。「隠すな」 静かな声だった。「見られるのが嫌なら、見ない。だが隠して働くな」 澄乃は、湯呑みを持つ手を止めた。 湯気が、指先を温めていく。「……恥ずかしいんです」 小さくこぼれた。 伊織は、向かいの椅子には座らず、窓際に立った。「何が」「これくらいで、手が震えることが。皆さん、働いていらっしゃるのに。私だけ休んでいることが」 声がだんだん小さくなる。「役に立ちたく
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名前のない疲れ⑤

 澄乃は、湯呑みを包む手に力を込めた。 休憩は甘えではない。 現場の管理。 その言い方なら、少しだけ受け取れる気がした。 自分のために休めと言われると、罪悪感が湧く。けれど、仕事を続けるための管理だと言われれば、拒む理由が少し減る。 伊織は澄乃を見た。「本当は、自分のために休めと言いたいところだが」 澄乃は息を止めた。「それだとお前は聞かないだろ」 図星だった。 澄乃は、何も言えなかった。 伊織は小さく息を吐く。「なら、仕事として休め」 その言葉は、強くもあり、優しくもあった。 だが甘くはない。 澄乃の逃げ道を、実務の言葉で塞いでいる。「……仕事として」「ああ」「休むことも、ですか」「条件に入れたはずだ」 澄乃は、雇用の話をした日のことを思い出した。 勤務時間を決める。 時間外に勝手に動かない。 倒れそうなら止める。 あれは、ただの気遣いではなかった。 仕事の条件だった。 澄乃は、ゆっくり茶を飲んだ。 少し冷めていて、飲みやすかった。温かさが喉を通ると、胃の奥がやっと動いたような感覚があった。 昼食もほとんど食べていないことを、今になって思い出す。 伊織が小さな包みを卓に置いた。「食え」 白い布に包まれた小さな握り飯だった。 澄乃は驚いて見た。「これは」「篠田さんが持たせた」「いつの間に」「お前が鉛筆を握りしめてる間に」 伊織の声は少しだけ呆れていた。 澄乃は、申し訳なさで胸がいっぱいになりかけた。「篠田さんにもご迷惑を」「だから」 伊織が遮る。「迷惑の話に戻すな」 澄乃は口を閉じた。 伊織は卓の包みを指で示す。「食事を用意するのは、宿の仕事だ。休憩中に食べるのは、お前の仕事だ」 また、仕事。 水篝館では、何でも仕事の言葉へ戻される。 それが今の澄乃には助かった。 澄乃は包みを開いた。 小さな塩むすびが二つ。 久世家を出た夜、家政婦が渡してくれた塩むすびを思い出した。あの時も、喉が詰まった。誰かが自分のために握ってくれたものを食べることに、慣れていなかった。 今も、まだ慣れない。 けれど、以前よりは手が伸びた。 澄乃は、ひとつを手に取り、小さく口に運んだ。 米は温かかった。 塩は控えめで、真ん中に梅が少しだけ入っている。酸味が舌に触れ、ようやく自分が空腹
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名前のない疲れ⑥

 伊織は、相変わらず愛想のない顔をしている。「使える人間だから止めてる」 その言い方は、まったく甘くなかった。 だが、澄乃には効いた。「使えないなら」 伊織は少し考えた。「別の仕事を考える」 澄乃は、思わず小さく笑いそうになった。「解雇ではないんですね」「すぐ切ってたら、人なんか残らない」 現実的な答えだった。 けれど、その現実の中に水篝館の温度があった。「宿は、人で回る。人が壊れたら終わりだ」 伊織は低く言った。「だから、壊れる前に止める」 澄乃は、二つ目の塩むすびへ手を伸ばした。 今度は、少しだけ自然に食べられた。 窓の外では、川が陽を受けて光っている。休憩室の中には、茶の香りと米の匂いが満ちていた。帳場の音は遠く、ここだけ少し時間が緩んでいる。 澄乃は、久しぶりに自分の呼吸の音を聞いた気がした。 こんなふうに休むことを、忘れていた。 休むとは、倒れることではない。 誰かに許されるまで待つことでもない。 仕事を続けるために、途中で体を戻すこと。 水篝館は、澄乃へそれを覚えさせようとしている。 少し乱暴で、ぶっきらぼうで、甘くない方法で。 食べ終える頃には、指先の震えはほとんど収まっていた。 伊織は腕時計を見た。「あと十分」「まだ休むんですか」「まだ休む」「でも」「仕事として休めと言った」 澄乃は、反論を飲み込んだ。「……はい」 その「はい」は、さっきより少しだけ素直だった。 伊織は窓を少し開けた。 川の音が大きくなる。 湿った風が、休憩室へ入ってきた。水と木と、遠くの山の匂い。厨房から漂う出汁の香りも、かすかに混じっている。 澄乃は、目を閉じた。 何もしない時間。 それが、まだ落ち着かない。 だが、先ほどほど怖くはなかった。 帳場では、篠田と真帆が仕事をしている。料理長は厨房で仕込みをしている。伊織はここにいる。自分が一度席を外しても、水篝館は止まらなかった。 久世家とは違う。 いや、もしかすると久世家も、本当は止まらないように仕組みを作るべきだったのだ。 それをせず、澄乃ひとりに寄りかかっていた。 水篝館では、そうしない。 そうしないために、伊織は澄乃を止めた。 そのことが、ようやく少し理解できた。 十分後、伊織は立ち上がった。「戻るぞ」「はい」 澄乃も立
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名前のない疲れ⑦

 澄乃は、ゆっくり頷いた。「分かりました」「お前も書け。自分だけ最後にするな」「……はい」「怪しいな」「今度は、努力します」「努力じゃなくて、守れ」 厳しい声だった。 澄乃は、少しだけ背筋を伸ばした。「守ります」 伊織は短く頷いた。 帳場へ戻ると、篠田が顔を上げた。「お帰りなさい、澄乃さん。少し顔色が戻りましたね」 真帆も振り返る。「おにぎり、食べました?」「はい」「よかったです。澄乃さん、昼食すぐ飛ばすから」 真帆の言葉には、少しだけ責める響きがあった。 けれど、久世家の責めとは違う。 心配と、同じ現場で働く人としての困りが混じっている。 澄乃は頭を下げた。「すみません。気をつけます」 伊織が隣で言う。「気をつけるだけじゃ駄目だ。休憩表を作る」 篠田が目を細めた。「それはよいですね。私も、つい帳場に残りがちですから」 真帆が少し驚いた顔をした。「篠田さんもですか」「ええ。年を取ると、休まなくても平気なふりだけ上手になるの」 その言い方に、真帆が小さく笑った。 帳場の空気が少し緩む。 澄乃は、その中で立っていた。 自分ひとりが迷惑をかけたのではない。 自分の疲れをきっかけに、帳場全体の休み方が見直される。 それはまだ少し申し訳ない。 けれど、少しだけ救いでもあった。 午後の仕事に戻る前、澄乃は休憩表の下書きを始めた。 今度は、伊織の目の前で。 篠田、真帆、澄乃、帳場補助。 抜ける時間。 代わりに見る仕事。 電話を取る人。 客室対応へ出る人。 休憩中に戻ってこないこと。 最後の一文を書こうとして、澄乃は少し迷った。 休憩中に戻ってこないこと。 まるで自分へ向けた言葉だった。 伊織が横から紙を見た。「書け」 澄乃は、静かに頷いた。 休憩中は、緊急時を除き持ち場へ戻らない。 そう書いた。 字はまだ少し細かった。 けれど、線は震えていなかった。 夕方、料理長が帳場へ顔を出した。「湯葉の一行、できたのか」 澄乃は立ち上がりかけた。 伊織が視線だけで止める。 今は立たなくていい。 そう言われているようだった。 澄乃は座ったまま、紙を差し出した。「途中までですが、こちらです」 葛城は紙を受け取り、読んだ。「朝仕込みの湯葉を、淡い出汁で。山の香りを添えて」
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温泉街の灯籠まつり①

 温泉街の灯籠まつりは、水篝館の川下にある小さな広場から始まる。 川沿いの石畳に灯籠を並べ、宿泊客や町の人々が願いを書いた紙を入れ、夕刻からひとつずつ火を灯す。川へ流すものではない。水面に映る灯りを楽しむための、温泉街らしい静かなまつりだった。古い橋から見ると、石畳に置かれた灯籠の列が川面に映り、まるで水の中にも道があるように見える。 澄乃がその話を聞いたのは、朝の帳場だった。 篠田が町内会から届いた紙を広げ、真帆が少し困った顔で腕を組んでいた。「灯籠まつり、今年は人が増えそうなんですか」「町の広報で取り上げられたそうです。近隣から日帰りで来られる方もあるかもしれないと」 篠田の声は落ち着いていたが、紙の上には細かな書き込みがいくつもあった。宿泊客の夕食時間、広場までの徒歩時間、足元の悪い人への配慮、雨天時の場所変更、帰りの混雑、灯籠の数。 水篝館は毎年、このまつりに参加しているという。 宿泊客へ灯籠の短冊を渡し、希望者を夕方に広場へ案内する。帰ってきた客には温かい茶を出し、少し冷えた体を休めてもらう。それ自体は大きな催しではない。けれど、今年は日帰り客も増えるかもしれない。さらに水篝館では、季節膳と記念日対応の試作が始まったばかりだった。夕食時間を乱しすぎれば、料理場へ負担がかかる。 澄乃は、町内会の紙を一枚ずつ読んだ。 開始は夕方五時半。 点灯は六時。 水篝館の夕食は通常六時半と七時。 広場までは徒歩十分ほど。ただし高齢の客や足元が不安な客なら十五分以上。帰りは混雑しやすく、石畳が暗い。灯籠を見たあと、橋の上で立ち止まる人が多い。 澄乃は、紙の端にそっと指を置いた。 久世家の茶会や会食と似ている。 表に見えるのは灯籠と笑顔だけだ。だが、その裏には導線、時間、休憩、転倒防止、食事の調整、案内札、誰がどこに立つかという見えない支えが必要になる。 違うのは、ここでは澄乃ひとりが黙って支えるものではないということだった。「お客様の出発時間を、食事時間ごとに分けた方がよさそうです」 澄乃は言った。 篠田が頷く。「一斉に出ると玄関が混みますね」「はい。六時半から夕食のお客様は、五時二十分出発、六時五分には戻っていただく目安に。七時からのお客様は、五時四十分出発でも間に合います。ただ、灯籠が点く瞬間を見たい方もいらっしゃるでしょう
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温泉街の灯籠まつり②

 温泉街は川沿いに細長く伸びている。水篝館は少し上流側。灯籠まつりの広場は川下の橋近く。途中には細い坂道と、小さな土産物屋、足湯、共同浴場がある。道幅の狭いところが二か所。雨が降ると滑りやすい石畳が一か所。「今年は、広場の奥にも灯籠を増やす予定でしてね」 片桐が地図を指す。「ただ、この橋の手前が詰まるんです。皆さん写真を撮るので」「水篝館のお客様は、ここを通りますね」 澄乃が指を置く。「ええ。だから、水篝館さんからはできれば少し時間をずらして出してもらえると助かります」 伊織が腕を組む。「夕食時間がある」「そこですよねえ」 片桐は頭を掻いた。「町としては、点灯の瞬間に人が集まった方が盛り上がるんですが、宿としては夕食が乱れると困る。料理長に怒られるのも困る。あの人、俺の顔を見るだけで魚を投げそうになるし」「魚は投げない。包丁を研ぐだけだ」「それが怖いんだよ」 澄乃は思わず笑いそうになり、口元を押さえた。 片桐がそれを見て、目を細める。「笑ってくださいよ、杠さん。町内会の冗談はだいたい滑りますから、笑ってもらえると救われます」「いえ、失礼いたしました」「いえいえ」 伊織が地図を指した。「話を戻せ」「はいはい」 片桐は、今度は休憩所の場所を示した。「休憩所は、土産物屋の隣の空き店舗を借ります。椅子は十脚。温かい麦茶は出せると思いますが、常駐する人手が足りません」「十脚では足りないかもしれません」 澄乃は言った。 片桐がこちらを見る。「水篝館のお客様だけでなく、他の宿のご年配の方も使われますよね。点灯前後に一斉に座りたい方が出ると、すぐ埋まります。椅子を増やすのが難しければ、座れる縁台や、短時間だけ腰かけられる場所を案内に入れるのはどうでしょうか」 片桐は顎に手を当てた。「縁台か。足湯の横に二つあります。ただ、足湯の利用者で埋まるかも」「では、休憩所と足湯横の縁台を、どちらも案内札に書いておく形にします。水篝館のお客様には、無理に広場奥まで進まず、橋の手前でも灯籠は見えるとお伝えします」 片桐の表情が少し変わった。 笑いを含んだ軽い顔から、実務の顔になる。「杠さん、こういうの慣れてます?」「家の行事や来客対応で、似たような調整をしていました」 澄乃は、言いすぎないように答えた。 片桐は大きく頷く。
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温泉街の灯籠まつり③

 夕方に近づくと、水篝館の中はまつりの支度で少しずつ色を変えた。 帳場には、宿泊客へ渡す小さな案内札が並ぶ。紙は淡い生成りで、文字は黒。派手な飾りはないが、隅に小さな灯籠の絵を真帆が描いてくれた。真帆は「下手ですよ」と言っていたが、その素朴な線が水篝館の雰囲気に合っていた。 篠田は宿泊客ごとの出発時間を確認する。 伊織は送迎車の動きと、料理場への夕食時間の伝達を見ている。 料理長の葛城は、いつもより早めに一部の仕込みを終わらせ、夕食がずれても対応できるよう献立の順番を調整していた。ただし、帳場へ出てきて「勝手に遅らせるなよ」と釘を刺すことは忘れなかった。 澄乃は、玄関横に小さな休憩用の椅子を二脚置いた。 灯籠まつりへ出かける前に、履き物を整える客が座れるようにするためだった。雨は降っていないが、川沿いは夜になると冷える。薄手の羽織も数枚、貸し出し用として用意した。 真帆がその様子を見て言った。「澄乃さん、そこまで気づくの、すごいです」 澄乃は首を振った。「以前、祖母と来た時に、出かける前の支度で少し疲れたことがあったんです。座れる場所があるだけで、ずいぶん違いますから」「経験なんですね」「はい」 そう言えることが、少し嬉しかった。 久世家での経験だけではない。 祖母と水篝館で過ごした時間も、今の澄乃の仕事につながっている。 やがて、宿泊客が玄関へ集まり始めた。 水明の若い夫婦は、手をつなぐか迷うような距離で立っていた。桂木は膝掛けを肩にかけ、片手に杖を持っている。子ども連れの家族は、小さな男の子が灯籠の絵を見て目を輝かせていた。 澄乃は、一組ずつ案内札を渡した。「広場までは徒歩で十分ほどですが、足元に不安がありましたら途中の休憩所をご利用ください。水篝館の夕食は、こちらのお時間でご用意しております。お戻りが遅れそうな時は、帳場へご連絡くださいませ」 声は落ち着いていた。 久世家で社交を整えていた時のように、背筋を伸ばす。けれど、あの頃のような緊張だけではない。ここでは、澄乃の説明は誰かの体面を守るためだけのものではない。客が安心してまつりへ出かけ、無理なく宿へ戻ってくるためのものだった。 桂木が案内札を受け取り、微笑んだ。「途中で休める場所が分かるのは助かるわ」「片桐さんが休憩所を整えてくださっています。足湯横の縁台
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温泉街の灯籠まつり④

 橋の手前に着いた時、ちょうど灯籠に火が入るところだった。 町の人が一つずつ、小さな灯を移していく。紙の灯籠の内側に火が入ると、柔らかな橙色がふわりと広がった。ひとつ、またひとつ。石畳に沿って光が並び、やがて川面にも同じ数の灯りが揺れ始める。 水は静かではない。 流れている。 だから灯りは、きれいな形のままでは映らない。揺れ、崩れ、長く伸び、また丸く戻る。そのたびに、川の中にも灯籠が生まれてはほどけていくようだった。 澄乃は、息を忘れて見つめた。 温泉街の人々の声が、少し遠くなる。 風が川面を渡り、灯籠の火が細く揺れた。紙の内側に書かれた願いの文字が、光に透けている。家族の健康。よい旅になりますように。また来られますように。小さな子どもの丸い文字。年配の客の落ち着いた筆跡。 水篝館の客たちも、灯籠の前で立ち止まっていた。 水明の夫婦は並んで灯りを見ている。桂木は休憩所からゆっくり歩いてきて、橋の手前で足を止めた。子ども連れの男の子は、父親の手を握りながら「水の中にもある」と声を上げている。 澄乃の案内札。 出発時間。 休憩所。 足元への注意。 そのすべては、目立たない。 誰も澄乃の名前を言わない。 けれど、客たちは無事にここへ来て、灯籠を見ている。 それだけでよかった。 胸の奥に、静かな手応えが生まれた。 久世家での労働は、誰かの失敗を未然に消すものだった。消してしまえば、誰にも見えない。見えないから、当然にされる。失敗が起きた時だけ、澄乃の責任になる。 水篝館での仕事も、目立たない。 だが、ここでは違う。 導線を整えたことを、篠田が知っている。真帆が知っている。片桐が知っている。伊織が見ている。誰かの楽しい時間が、少しだけ滑らかになる。そのことを、自分も知っている。 消える仕事ではない。 宿と町の中に、薄く残る仕事だった。「伊織さん」 澄乃は、灯籠を見たまま言った。「はい」「ここに来られて、よかったです」 伊織は、少しだけ横を見る。 澄乃の声は静かだった。「水篝館だけではなくて、温泉街のことも、少し見えた気がします。私の仕事が、宿の中だけではなく、外へもつながっているのだと」 伊織は何も言わなかった。 澄乃は続けた。「まだ怖いです。広がると、また抱え込みすぎそうで。でも、誰かと分けてよいのなら…
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元夫が現れた日①

 灯籠まつりの夜、水篝館の玄関はいつもより少し明るかった。 川沿いから戻ってくる客の足元を照らすため、玄関脇には小さな行灯が二つ置かれている。石畳には夕方の湿り気が残り、灯籠の明かりを受けて黒く光っていた。外からは、温泉街のざわめきがかすかに流れてくる。遠くで子どもの笑う声、下駄が石を打つ音、片桐の大きな声、川の音。そのすべてが夜気に混ざり、水篝館の玄関へゆっくり届いていた。 帳場では、澄乃が案内札の控えを揃えていた。 灯籠まつりへ出かけた客は、まだ全員戻っていない。夕食の時間を後ろへずらした客が一組、足湯横の縁台で休んでいる桂木には真帆が付き添っている。水明の若い夫婦は戻りの時刻を少し遅らせたいと連絡を入れてきた。子ども連れの家族は、男の子が灯籠をもう少し見たいと駄々をこねているらしい。 澄乃は、そのひとつひとつを台帳へ書き込んでいた。 戻り確認。 夕食時間。 料理場への伝達。 足元の悪い客への椅子。 帰館後の温かい茶。 水篝館の夜は、まつりの華やかさを受け止めるために静かに忙しい。外の灯りが美しく見えるほど、宿の中では目立たない手が必要になる。澄乃はそのことを、以前より落ち着いて受け止められるようになっていた。 紙を揃え、篠田へ渡す。「水明のお客様は、七時十分の夕食でご了承いただいています。料理場へは私から伝えました。桂木様は真帆さんが付き添って戻られる予定です。戻られたら、温かいお茶と膝掛けを」「承知しました」 篠田は穏やかに頷いた。「澄乃さん、玄関の方は少し落ち着きましたか」「はい。戻りの山は、あと二十分ほどかと」「では、その前にお茶を一口」 澄乃は言いかけた。 大丈夫です。 けれど、口に出す前に止めた。「いただきます」 そう答えると、篠田の目元が少しだけ和らいだ。 休むことも仕事。 伊織にそう言われてから、澄乃はまだ何度も失敗しそうになっている。だが、少なくとも今は、反射的に断る前に立ち止まれるようになっていた。ほんの少しの変化だった。けれど、水篝館ではその小さな変化を、誰かが見てくれている。 篠田が湯呑みを差し出した時、玄関の外で車の音がした。 宿の送迎車ではない。 石畳の手前で停まった車の音は、静かで、いかにも手入れの行き届いたものだった。水篝館に来る客の車は、もう少し旅の埃をまとっていることが多
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