All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

登場人物

杠澄乃ゆずりは・すみの容姿落ち着いた黒髪を持つ、清楚で品のある女性。 派手な華やかさで目を引くタイプではないが、背筋がすっと伸び、ひとつひとつの所作に丁寧さが宿る。久世家では淡い色のブラウスや上品なワンピースを身につけ、控えめで失礼のない装いを選んでいる。水篝館で働き始めると、藍鼠の着物や白い割烹着がよく似合うようになる。 静かな廊下、川の音、季節の花に囲まれる姿は、久世家で息を詰めている時よりもずっと自然で美しい。人物紹介久世昌親の妻。 久世家の嫁として、家の中のあらゆることを静かに支えている女性。朝食を整え、親族付き合いをこなし、義母の機嫌を読み、義父の来客対応にも気を配り、夫の体裁を守る。贈答、慶弔、季節の挨拶、食卓、衣類、家の空気まで、久世家が「勝手に整っている」と思い込むものを、澄乃がひとつずつ支えている。けれど久世家では、その働きに感謝が向けられない。 家事も気遣いも段取りも、すべて「妻なら当然」「嫁なら当然」として消費されている。そんな澄乃に、夫の不倫相手・汐見瑠璃花が告げる。「妻の座を譲ってください」澄乃は泣き縋らない。 怒鳴り散らさない。 ただ静かに決める。ならば、本当に譲る。 ただし、譲るのは“妻の座”だけ。家事も、気遣いも、親族対応も、贈答も、食卓も、夫の生活の後始末も、久世家を支えるために背負っているものすべてを置いていく。澄乃が向かう先は、老舗旅館・水篝館。 そこで彼女は、誰かの妻でも、誰かの嫁でもなく、杠澄乃として働き始める。久世家で当たり前のように消費されている気配り、段取り、季節を読む力、人をもてなす力は、水篝館で少しずつ花開いていく。澄乃は、捨てられる妻ではない。 自分を粗末にする場所から、自分の意思で離れていく人である。終盤、追いかけてくる昌親に向けて、澄乃は静かに線を引く。「私が譲るのは妻の座だけです。人生まで渡すつもりはありません」この物語は、澄乃が誰かに選ばれる話ではない。 澄乃が、自分自身を選び直す話である。匂坂伊織さぎさか・いおり容姿すらりと背が高く、落ち着いた雰囲気をまとう水篝館の若旦那。 黒髪は短く整えられ、涼しげな目元には穏やかさと鋭さが同居している。和装がよく似合い、旅館の廊下に立つだけで、その場の空気が静かに引き締まる。笑う時は柔らかい。
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座を譲れと言われました①

 久世家の応接間には、雨上がりの庭の匂いが薄く入り込んでいた。 障子は半分だけ開けられ、濡れた庭石の上に夕方の光が鈍く残っている。庭木の葉先から落ちる雫が、時折、ぽたりと低い音を立てた。その音は妙に大きく聞こえた。室内にいる誰もが声を潜めているわけではないのに、この部屋だけが息を殺しているようだった。 澄乃は、座卓の向こうに座る若い女を静かに見ていた。 汐見瑠璃花。 夫である久世昌親の隣に、ごく自然な顔をして座っている女だった。 薄桃色のワンピースは、昼間の喫茶店や洒落た店先なら可愛らしく映えただろう。けれど、年季の入った黒檀の座卓、落ち着いた絹張りの座布団、壁に掛けられた古い山水画のあるこの応接間では、甘い色だけが浮いていた。袖口の小さなリボン、光沢のある爪、膝の上で揃えられた白い指。どれも整えられているのに、どこか場の温度を読めていない。 瑠璃花の香水は、紅茶の香りより先に鼻へ届いた。 甘く、軽く、すぐに消えるはずなのに、部屋の空気へ薄く膜を張るような匂いだった。澄乃が午前中に選んだ沈丁花の香袋は、その匂いに負けている。来客のために整えた部屋が、知らない女の香りに上書きされていくのを、澄乃はどこか遠い場所から見るように感じていた。 昌親は、瑠璃花の隣で腕を組んでいる。 彼は応接間に入ってから、澄乃とまともに目を合わせていなかった。仕事帰りのままの紺のジャケットを羽織り、髪も乱れていない。疲れているような顔はしている。けれど、その疲れは妻を傷つけることへの苦悩ではなく、面倒な場を早く終わらせたい人間の疲れだった。 澄乃には、それが分かった。 七年も夫婦をしていれば、夫の沈黙の種類くらいは覚える。 仕事の失敗を隠したいときの沈黙。義母の小言を澄乃に受け流させたいときの沈黙。面倒な親族付き合いを知らないふりで押しつけるときの沈黙。そして、自分が悪者にならずに済む言葉を探しているときの沈黙。 今、昌親の沈黙はそのどれにも似ていて、どれよりも冷たかった。 澄乃は膝の上で両手を重ねた。 指先は冷えている。けれど、震えてはいなかった。震えるには、まだ身体が現実に追いついていないのかもしれない。畳の縁に沿って伸びる光の線を視界の端に置きながら、澄乃は静かに座っていた。 先に口を開いたのは瑠璃花だった。「あの、澄乃さん」 彼女は、最初から名前で
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座を譲れと言われました②

 それを責めたいわけではない。ただ、こういう小さなことの上に、この部屋の静けさは成り立っている。それを彼女は、まだ知らない。 澄乃は視線を上げた。 瑠璃花の目はきらきらしていた。緊張と興奮と、自分が選ばれたのだという酔いに満ちている。澄乃が泣くのを少し期待している目でもあった。怒鳴られれば怯えるだろう。けれど、泣かれれば、彼女は自分の勝利を確かめられる。 昌親は、まだ黙っていた。 澄乃は夫へ視線を移した。 昌親はその視線を受けて、ようやく顔を上げた。だが、目が合ったのはほんの短い間だった。すぐに彼は視線を畳へ落とし、指先で膝の上を軽く叩いた。 落ち着かない時の癖だった。 澄乃はそれを知っている。 商談の前。義父に叱責された後。都合の悪い話を切り出す前。彼はいつも、同じように指先で膝を叩く。自分でも気づいていないその癖を、澄乃は七年の間に何度も見てきた。「昌親さん」 澄乃は静かに呼んだ。 彼の指が止まった。「あなたも、同じお気持ちですか」 瑠璃花が期待を込めて昌親を見た。 昌親は、ほんのわずかに顔をしかめた。ここで答えなければならないことが不本意なのだと、その表情が語っていた。瑠璃花に言わせるつもりだったのだろう。澄乃が取り乱せば、それを理由に話を曖昧にできるとでも思っていたのかもしれない。 だが、澄乃は怒鳴らなかった。 泣きもしなかった。 ただ、聞いた。 だから昌親は、自分の口で何かを言わなければならなくなった。「……澄乃」「はい」「俺は、お前を傷つけたいわけじゃない」 最初に出てきたのは、自分を守るための言葉だった。 澄乃は、その一言だけで胸の奥が少し冷えていくのを感じた。 傷つけたいわけではない。 人は時々、それを免罪のように使う。傷つけるつもりはなかった。悪気はなかった。そう言えば、実際についた傷の深さを測らなくて済む。 昌親は続けた。「ただ、このままの状態がいいとは思っていない。瑠璃花とのことも、お前に隠し続けるのは違うと思った」 隠していたことが、まず違っていたのではないか。 その言葉は、澄乃の喉元まで来た。けれど、口には出さなかった。出せば彼は、責められた顔をする。そういう顔をされることに、澄乃はもう疲れていた。「俺は、お前には感謝している」 昌親は言った。 瑠璃花の表情が少し揺れた。 感
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座を譲れと言われました③

 朝五時半に起きて、義父の血圧と前日の食事量に合わせて味噌汁の塩分を調整すること。義母が機嫌を損ねる前に電話を入れ、通院の車を手配し、薬の残数を確認すること。昌親の会食相手の苦手な食材を覚え、手土産の格を相手ごとに変えること。親族の席順を間違えれば、十年前の不和まで掘り返されること。贈答の花を一つ間違えるだけで、会社の信用に薄い傷がつくこと。 そうしたものを「家のこと」と呼ぶ。 呼ばれてしまえば、誰でもできる雑用に見える。 澄乃も、そう思おうとしてきた。 妻なのだから当然だと。嫁なのだから当たり前だと。昌親が外で働けるように、自分が見えない部分を整えるのは役目なのだと。 けれど、その役目の中身を、この二人は知らない。 知らないまま、座だけを欲しがっている。「汐見さん」 澄乃は言った。 瑠璃花が、背筋を伸ばす。「あなたは、妻の座が欲しいのですね」 瑠璃花は一瞬だけ戸惑った。 その言い方が、彼女の思い描いていた甘やかな勝利と少し違っていたのだろう。それでも彼女は頷いた。「はい」「久世家の嫁として、昌親さんの妻として、義父母のこと、家のこと、親族のこと、会社関係のお付き合いも含めて、引き受けるおつもりなのですね」 瑠璃花の視線が、ほんの少し昌親へ流れた。 昌親は目を合わせない。 澄乃はそのわずかな流れを見逃さなかった。 瑠璃花の望んでいるものは、責任ではない。選ばれた女という立場だ。けれど、立場だけが宙に浮いていることはない。必ず、それを支える仕事がある。 それでも瑠璃花は、負けたくないのだろう。 小さく顎を上げた。「もちろんです。最初は分からないこともあると思いますけど、昌親さんと一緒に覚えていきます」 昌親の指先が、また膝を叩いた。 一緒に覚える。 彼は何を覚えるつもりなのだろう。 自分の母が何時に電話をかけると機嫌がよいかも知らない。父の薬がどの引き出しに入っているかも覚えていない。取引先の妻たちが、どの茶会で誰と揉めたかも知らない。会社の祝い花の札に、どの肩書を入れてはならないかも知らない。 澄乃が教え、整え、見えない場所で直してきたから、彼は知らないままでいられた。 その無知を、澄乃はずっと守ってきた。 今、それをやめるのだと思った。「そうですか」 澄乃は頷いた。 瑠璃花の表情が明るくなる。 昌親は
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座を譲れと言われました④

 朝食。洗濯。掃除。夫の世話。義父母への気遣い。そういう、表に出やすいものだけだろうか。 それとも、何も見えていないのだろうか。「必要なことは、分かる範囲でまとめておきます」 澄乃は言った。 瑠璃花は目を輝かせた。「助かります。私、こういう家のことってまだ慣れていなくて。でも、細かすぎると逆に分からなくなってしまうので、簡単で大丈夫です」 簡単。 澄乃は内心で、その言葉に薄く触れた。 簡単にできると思われていたのだ。 七年分の労働が。気遣いが。記憶が。先回りが。怒られないために削ってきた眠りが。感謝されないまま積み上げた手間が。 簡単でいいものとして、受け取られようとしている。 それでも澄乃は、笑みを崩さなかった。「承知しました」 昌親が、少し安堵したように背もたれへ身を預けた。「澄乃」「はい」「そうやって落ち着いて話してくれるなら助かる。俺も、できるだけお前に不利にならないように考える」 できるだけ。 澄乃は、その曖昧な言葉を聞いた。 不利にならないように。 まるで、彼が与える側であるかのような言い方だった。傷つけた側が、傷ついた者へ恩を着せるための柔らかい布。そういうものを、昌親は無意識にいくつも持っている。 以前の澄乃なら、ありがとうございますと答えていたかもしれない。 だが、今は違った。「具体的なことは、改めて書面で確認させてください」 昌親の顔から、安堵が消えた。「書面?」「はい。今後のことを曖昧にはできませんので」 瑠璃花が不安そうに昌親を見る。 昌親は眉を寄せた。「そこまでしなくてもいいだろう。家の中の話だ」「家の中だけの話ではありません」 澄乃は穏やかに言った。「婚姻に関わることですから」 その言葉に、昌親は押し黙った。 瑠璃花は、妻の座という言葉を口にした時ほど晴れやかな顔をしていなかった。座だけが欲しかったのに、その座の足元に冷たい床があると知り始めたような顔だった。 澄乃は、座卓の上のカップを見た。 昌親のカップは空になっている。いつもの澄乃なら、何も言われなくても紅茶を注ぎ足していた。会話の切れ目、相手の喉の渇き、室温、次に口を開く人。そういうものを読んで、自然に動いていた。 その手が、今日は動かなかった。 昌親が空のカップへ目を落とす。 そして、澄乃を見る。 そ
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座を譲れと言われました⑤

「私は、器ではありません」 澄乃は言った。 瑠璃花の瞳が揺れる。「何でも入れておけるものではありません」 その声は、少しだけ低かった。 昌親が目を見開く。 澄乃自身も、自分の声の温度に気づいていた。怒鳴ってはいない。だが、今まで久世家の中で出したことのない硬さがあった。 瑠璃花は唇を噛みかけ、すぐにやめた。爪を傷つけるのを恐れたのかもしれない。彼女は両手を膝の上で握った。「でも、澄乃さんは大人ですよね。私たちのこと、ちゃんと分かってくださるって、昌親さんも」「瑠璃花」 昌親が初めて彼女の名を強く呼んだ。 瑠璃花は肩を震わせた。 その声には、澄乃を庇う響きはなかった。ただ、余計なことを言うなという苛立ちがあった。瑠璃花はそれを敏感に感じ取り、口を閉じる。 澄乃は、そのやり取りを見ていた。 昌親は誰の味方でもない。 自分の立場が悪くならない方へ、ただ身体を傾けているだけだ。 それも、もう分かった。「お話は、分かりました」 澄乃は座卓に手をつき、ゆっくりと姿勢を正した。 畳に触れた指先は、冷たかった。だが、背筋は自然に伸びた。「妻の座は、汐見さんへお譲りします」 瑠璃花が息を飲む。 澄乃は昌親を見た。「ただし、それは私がこの家に残り続けるという意味ではありません」 昌親の表情が変わった。「何を言っている」「そのままの意味です」「少し冷静になれ」「冷静です」 澄乃は、これ以上ないほど冷静だった。 胸の奥は冷え、手先も冷え、目の前の二人の顔が不思議なほどはっきり見えている。瑠璃花の唇の端に残る焦り。昌親の目元に浮かぶ狼狽。座卓に置かれたカップの跡。畳に落ちた細い髪の毛。開いた障子の隙間から入り込む湿った風。 全部が、鮮明だった。「私は、妻の座を譲ります」 澄乃は繰り返した。「けれど、私自身をこの家に残しておく理由はありません」 昌親が唇を開いた。 だが、言葉が出てこない。 彼はきっと、そこまで考えていなかったのだ。瑠璃花を正式な相手として置きたい。けれど澄乃には、これまで通りどこかで家を整えていてほしい。そんな都合のよい曖昧さを、無意識に残していた。 澄乃は、その曖昧さを断った。 静かに。 確実に。「待て」 昌親の声が低くなる。「いきなり出ていくような話ではないだろう」「いきなりではありま
last updateLast Updated : 2026-06-09
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妻の座の中身①

翌朝、澄乃は五時二十分に目を覚ました。 目覚ましが鳴るより、十分早かった。寝室の障子の向こうはまだ薄暗く、夜の名残が畳の端に沈んでいる。掛け布団の中には人の温もりがない。昌親は昨夜、書斎から戻らなかった。 珍しいことではなかった。 仕事が立て込んでいる時、気まずい話のあと、あるいは自分の都合の悪い沈黙を朝まで持ち越したい時、昌親は書斎の長椅子で眠る。最初の頃、澄乃はそれを心配して毛布を持っていった。首を痛めないよう枕を置き、朝には温かい味噌汁を少し薄めに仕立てて、胃に負担がかからないようにした。 今思えば、あれも癖だった。 相手が何も求めていなくても、先に整える。嫌われないように。責められないように。自分が役に立つことで、そこにいてもよい理由を作るように。 澄乃は、しばらく天井を見つめていた。 古い木目の中に、黒く細い節がある。嫁いできた最初の夜にも、眠れずにその節を数えたことを覚えている。あの時は、自分はこれからこの家の人間になるのだと思っていた。慣れない屋敷、硬い空気、義母の視線、昌親の曖昧な優しさ。怖さはあったが、それでも努力すれば居場所ができると信じていた。 七年経って、澄乃は知った。 努力だけでは、居場所にならない場所がある。 役目だけが増え、名前だけが薄くなっていく場所がある。 布団の中で、澄乃はゆっくりと息を吐いた。胸が痛むほどではない。ただ、内側に冷たい石が置かれているようだった。昨日、応接間で聞いた言葉が、遅れて身体の中に沈んでいる。 妻の座を譲ってください。 その言葉を思い返しても、涙は出なかった。 代わりに、頭の奥が妙に冴えていた。 澄乃は起き上がった。布団から出た瞬間、朝の冷気が足首を撫でる。五月とはいえ、早朝の久世家はひんやりとしている。古い屋敷は日中こそ陽を含むが、朝は湿気と冷えが床から上がってくる。 身支度を整え、髪を低くまとめる。 鏡に映った自分は、いつもとほとんど変わらなかった。淡い色の部屋着。薄く結んだ唇。表情を大きく動かさない目。久世家の朝に馴染んだ、静かな嫁の顔だった。 けれど、鏡の中の目だけが違った。 昨夜までの澄乃なら、今日の朝食をどう乗り切るかを考えていた。昌親が不機嫌にならないように。義父母に余計な心配をかけないように。汐見瑠璃花の話題をどう避けるか。もし出た場合、どう受け流すか。
last updateLast Updated : 2026-06-10
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妻の中の中身②

 親族の慶弔予定は、昼までに見直す。 来週、昌親の従姉の子が入学祝いを迎える。金額は義母の見栄に合わせなければならないが、相手の家に負担を感じさせない書き方が必要だった。さらに、遠縁の叔母の法要が近い。昌親はほとんど会ったことがないと言うが、義父の世代には重要な付き合いだ。欠席するなら、供花と手紙の文面を整えなければならない。 澄乃は、鍋の中で小さな泡が立ち始めるのを見た。 それらは、毎朝の中に紛れ込んでいた。 家事。 そう呼ばれていたもの。 けれど、今こうして一つずつ並べてみると、それは単なる炊事や掃除ではなかった。栄養管理、予定調整、社交実務、秘書業務、贈答管理、親族間の火種の処理、会社の体裁の補助。 名前を変えれば、いくらでも仕事になるものだった。 それなのに、久世家では全部「妻だから当然」の中へ入れられていた。 湯が沸く直前で火を弱め、鰹節を入れる。ふわりと出汁の香りが立つ。澄乃はその香りを吸い込みながら、少しだけ目を伏せた。 当然。 その言葉は、便利な箱だった。 妻だから当然。嫁だから当然。家にいるのだから当然。気づいた人がやればいい。あなたはそういうのが得意でしょう。澄乃なら分かってくれるでしょう。澄乃は怒らないから大丈夫でしょう。 たくさんの言葉が、今朝の台所で静かに形を変えていく。 それは感謝ではなかった。 依頼ですらなかった。 ただ、澄乃の時間を誰かのものとして扱うための、柔らかな命令だった。 土鍋の蓋の隙間から、白い湯気が上がり始めた。 澄乃は蒸らし時間を確かめ、魚を焼き網へ置いた。皮の表面に薄く火が入り、じり、と小さな音がした。魚の脂が落ちる匂いに、出汁と米の香りが混じる。いつもの朝の匂いだった。 この匂いを、昌親は覚えているだろうか。 たぶん、覚えていない。 そこにあるのが当然のものは、人の記憶に残りにくい。 食卓を整える前に、澄乃は壁の時計を見た。六時十五分。昌親が起きてくるまで、まだ少しある。 その隙に、台所の隅に置いてある小さな帳面を開いた。 表紙には「家事覚え」とだけ書いてある。以前、義母から「あなたは細かく書きすぎるわね」と笑われたものだ。澄乃はその言葉に合わせ、ただの覚え書きのような題名にした。 だが、中身は覚え書きというには多すぎる。 月別の献立傾向。義父の血圧の変動と食事内容
last updateLast Updated : 2026-06-10
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妻の中の中身③

「今日の会食ですが」 澄乃は言った。 昌親は湯呑みを置きながら、面倒そうに目を細めた。「何だ」「料亭へ十時半までに最終確認を入れます。甲殻類の件は先方へ伝えてありますが、念のためお店にも再確認をしておきます」「まだやってなかったのか」 その言葉が、台所に落ちた。 澄乃は一瞬、手を止めた。 まだやってなかったのか。 昨夜のうちに一次確認は済ませてある。店側からの折り返しも受けた。ただ、当日の担当者にまで伝わっているかを確かめるだけだ。 そこまでして初めて、失礼が起きない。 澄乃は説明しかけて、やめた。 彼は、結果しか見ない。 問題が起きなければ「普通」。問題が起きれば「なぜ確認しなかった」。その間にある手間は、彼の目には映らない。「最終確認です」 澄乃は静かに言った。「ああ、そう」 昌親はそれ以上聞かなかった。 澄乃は味噌汁の火を止めた。 昌親はまだ台所に立っている。何か言いたげだった。昨夜のことか、瑠璃花のことか。あるいは、澄乃が思ったより普段通りに動いていることへの戸惑いか。 けれど彼は、何も言わなかった。 言葉を選ぶ労力を避けるように、湯呑みを持ったまま食堂へ向かった。 澄乃はその背中を見送った。 昨日までは、その背中を見て、今日の機嫌を測っていた。肩の下がり方。歩く速度。扉の閉め方。そういうものから、朝食の会話量を調整し、義父母の前で余計な摩擦が出ないよう気を配っていた。 それも、仕事だった。 誰にも名前をつけられなかった仕事。 食卓を整えると、義父がやって来た。 久世隆成は、昌親の父であり、会社ではまだ大きな影響力を持つ人だった。現社長ではあるが、実務の多くは昌親に移している。けれど取引先の多くは、いまだに隆成の顔を見て久世家を判断する。 七十近い年齢だが、背筋は伸びている。朝は新聞を広げ、食事に注文をつけるのが習慣だった。「味噌汁は薄くしすぎるなよ」 椅子へ座るなり、隆成は言った。「はい。香りを強めにしております」「香りで腹は膨れん」「卵焼きを少し多めにいたしました」 隆成はそれ以上言わず、新聞を開いた。 澄乃は椀を置きながら、義父の指先を見た。少しむくんでいる。昨日、塩気の強いものを口にしたのかもしれない。薬は飲んだはずだが、念のため朝の血圧を確認した方がいい。 これも、仕事。 
last updateLast Updated : 2026-06-10
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