雨は、昼過ぎには上がっていた。 水篝館の廊下には、濡れた木の匂いがまだ少し残っている。川沿いの窓を開けると、雨に洗われた山の緑が深く、葉の先から落ちる雫が細い光を拾っていた。水面は昨夜よりも少し高く、宿の下を流れる川は、白く泡を立てながら石の間を走っている。 澄乃は帳場の端で、記念日対応の確認表を写していた。 大切な日を宿で過ごす客へ、どこまで踏み込むのか。花を置くのか、食事の時にひと言添えるのか、写真を勧めるのか。昨日、伊織や篠田、真帆と相談しながら決めた三つの項目を、電話で聞きやすい形へ整えているところだった。 文字は、できるだけ短くした。 水篝館のもてなしは、過剰であってはいけない。客の胸の内へ勝手に踏み込まず、けれど望まれた時には静かに寄り添えるようにする。その加減を考える作業は、澄乃の神経を使った。 久世家で、澄乃は何度も記念日の支度をしてきた。 義母の友人の結婚記念、親族の長寿祝い、会社関係者の昇進祝い、取引先の子どもの入学祝い。どれも、表に出るのは久世家の名だった。花を選び、菓子を選び、手紙を書き、相手の家の事情に触れすぎないよう文面を整える。失礼がないよう、控えめすぎて軽く見られないよう、相手が受け取った時に少しだけ息を緩められるように。 それは、澄乃がずっとしてきたことだった。 けれど今、同じような仕事をしていても、胸の重さは違っていた。 水篝館では、澄乃ひとりで背負わない。伊織は必ず現場の負担を見た。篠田は客との距離を考えた。真帆は、実際に電話を受ける側の迷いを口にした。料理長は、厨房に無理を投げるなと釘を刺した。 意見が返ってくる。 止められる。 修正される。 そのたびに、澄乃は少し戸惑い、少し安心した。 自分の仕事が、自分ひとりの中で閉じていない。 それはまだ慣れないが、確かに楽だった。 帳場の奥では、篠田が宿泊客への確認電話をかけている。真帆は客室案内の試作を持って、三つの部屋へ向かった。伊織は町の商店会の人間と短く話していた。低い声で、必要なことだけを確認している。 澄乃は、記念日対応表の端を揃えた。 その時、携帯が震えた。 座卓ではなく、帳場の小さな棚に置いていた私物の鞄の中からだった。音は鳴らしていない。けれど、震えは妙にはっきりと伝わった。澄乃の手が止まる。 胸の奥に、冷たいものが落ちた
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