Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 91 - Bab 100

121 Bab

追いかけてこないでください①

 雨は、昼過ぎには上がっていた。 水篝館の廊下には、濡れた木の匂いがまだ少し残っている。川沿いの窓を開けると、雨に洗われた山の緑が深く、葉の先から落ちる雫が細い光を拾っていた。水面は昨夜よりも少し高く、宿の下を流れる川は、白く泡を立てながら石の間を走っている。 澄乃は帳場の端で、記念日対応の確認表を写していた。 大切な日を宿で過ごす客へ、どこまで踏み込むのか。花を置くのか、食事の時にひと言添えるのか、写真を勧めるのか。昨日、伊織や篠田、真帆と相談しながら決めた三つの項目を、電話で聞きやすい形へ整えているところだった。 文字は、できるだけ短くした。 水篝館のもてなしは、過剰であってはいけない。客の胸の内へ勝手に踏み込まず、けれど望まれた時には静かに寄り添えるようにする。その加減を考える作業は、澄乃の神経を使った。 久世家で、澄乃は何度も記念日の支度をしてきた。 義母の友人の結婚記念、親族の長寿祝い、会社関係者の昇進祝い、取引先の子どもの入学祝い。どれも、表に出るのは久世家の名だった。花を選び、菓子を選び、手紙を書き、相手の家の事情に触れすぎないよう文面を整える。失礼がないよう、控えめすぎて軽く見られないよう、相手が受け取った時に少しだけ息を緩められるように。 それは、澄乃がずっとしてきたことだった。 けれど今、同じような仕事をしていても、胸の重さは違っていた。 水篝館では、澄乃ひとりで背負わない。伊織は必ず現場の負担を見た。篠田は客との距離を考えた。真帆は、実際に電話を受ける側の迷いを口にした。料理長は、厨房に無理を投げるなと釘を刺した。 意見が返ってくる。 止められる。 修正される。 そのたびに、澄乃は少し戸惑い、少し安心した。 自分の仕事が、自分ひとりの中で閉じていない。 それはまだ慣れないが、確かに楽だった。 帳場の奥では、篠田が宿泊客への確認電話をかけている。真帆は客室案内の試作を持って、三つの部屋へ向かった。伊織は町の商店会の人間と短く話していた。低い声で、必要なことだけを確認している。 澄乃は、記念日対応表の端を揃えた。 その時、携帯が震えた。 座卓ではなく、帳場の小さな棚に置いていた私物の鞄の中からだった。音は鳴らしていない。けれど、震えは妙にはっきりと伝わった。澄乃の手が止まる。 胸の奥に、冷たいものが落ちた
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追いかけてこないでください②

 部屋へ戻るまでに、電話は一度切れた。 ほっとするより先に、すぐまた震えた。 澄乃は襖を閉め、窓際の座卓の前に座った。深く息を吸う。携帯の画面を見る。昌親の名前が、再び光っている。 出るべきか。 出ないべきか。 迷いは短かった。 逃げ続けるためではなく、線を引くために出る。 そう決めて、澄乃は通話を受けた。「はい」 声は、思ったより落ち着いていた。 電話の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。 昌親は、澄乃が出ないと思っていたのかもしれない。あるいは、もっと掠れた声で出ると思っていたのかもしれない。澄乃の静かな返事に、少し調子を崩した気配があった。「……澄乃か」「はい」「どこにいる」 第一声は、それだった。 心配の声ではない。 怒りを抑えた、所有物の所在を確かめるような声だった。 澄乃は窓の外へ視線を向けた。 川が流れている。水面に、薄い雲の影が揺れていた。「今後の連絡先については、必要があれば書面でお知らせいたします」 昌親が息を詰める。「そういう言い方をするな。どこにいると聞いている」「お答えする必要はありません」 電話の向こうの空気が変わった。「澄乃」 低い声だった。 以前なら、この声だけで胸が縮んだ。 怒らせた。 機嫌を損ねた。 早く言葉を柔らかくして、場を収めなければ。 そう思っただろう。 けれど今、澄乃の膝の上には、水篝館で借りた仕事用の着物の袖があった。窓の外には久世家の庭ではなく、流れる川がある。廊下の向こうには、伊織や篠田や真帆がいる。澄乃を名前で呼ぶ人たちがいる。 ここは、久世家ではない。「ご用件を伺います」 澄乃は言った。 昌親は舌打ちを飲み込んだようだった。「用件って、お前な」「お急ぎでなければ、書面でお願いいたします」「急ぎだから電話しているんだ」「では、どうぞ」 丁寧な声だった。 だが、そこに以前のような怯えはなかった。 昌親は少し黙り、それから早口に言った。「桐島家への返礼の件だ。母さんの茶会で少し行き違いがあったらしい。何を送ればいい。あと、三倉家へも改めて詫びを入れた方がいいのか。母さんが騒いでいる」 澄乃は、すぐには返事をしなかった。 胸の中に、何かが静かに沈んでいく。 昌親が電話してきた。 その内容は謝罪ではない。 昨夜、いや、もう数日
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追いかけてこないでください③

 昌親が声を荒げた。「だから、それが分からないから聞いている」「もう私の責任ではありません」 その一言を言った瞬間、部屋の空気が変わった気がした。 川の音が、急に近くなる。 電話の向こうで、昌親が黙った。 長い沈黙だった。 これまで何度も、澄乃は昌親のために先回りしてきた。彼が分からないことを調べ、できないことを整え、面倒がることを代わりに引き受けた。昌親はそれを妻の仕事だと思っていた。澄乃が断る可能性など、本気で考えたことはなかったのだろう。 もう私の責任ではありません。 その言葉は、昌親に初めて本当の距離を感じさせた。 電話越しにも分かった。 彼が息を詰めている。 怒るより先に、理解できないものを突きつけられたように黙っている。「……お前」 ようやく出た声は、少し掠れていた。「本気で言っているのか」「はい」「桐島家との付き合いは、うちにとって大事なんだぞ」「存じております」「なら」「だからこそ、久世家の方が責任を持ってご対応ください」 昌親は言葉に詰まった。 澄乃の声は丁寧だった。 怒鳴っていない。 泣いていない。 責めてもいない。 だからこそ、昌親は反論できなかった。 澄乃が感情的なら、彼は言えただろう。落ち着け。大げさだ。そうやって話を逸らすことができた。だが、澄乃は落ち着いていた。用件を聞き、責任の所在を返しただけだった。「お前が勝手に出ていったから、こうなっているんだろう」 昌親は、ようやく苛立ちを言葉にした。 澄乃は、窓の外の川を見た。 水は、石に当たって白く砕けながら流れている。止まらない。戻らない。「私は、必要な引き継ぎをいたしました」「必要じゃないから困っている」「必要な範囲はお渡ししました。それ以上は、私がこれまで個人的に記録し、実務として担っていたものです」「家族のことを、個人的だの実務だの」「家族であることを理由に、無期限に無償で対応する義務はありません」 昌親は息を呑んだ。 澄乃自身も、自分の声に少し驚いていた。 こんな言葉を、以前の自分が口にできただろうか。 久世家の食卓で、義母の前で、昌親の前で。 無理だった。 けれど今は、言える。 水篝館で、仕事としての線を引かれたからかもしれない。働くなら条件を決める。休むなら休む。無料で何でもしない。できない
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追いかけてこないでください④

「澄乃」「会社関係の贈答、会食、親族やご友人への返礼について、私へ確認するのはお控えください」「待て」「もう私の担当ではありません」「担当って、夫婦だろう」「夫婦であったからといって、私の労働を当然に使えるわけではありません」 昌親が、短く笑った。 苛立ちと焦りの混じった笑いだった。「随分、強くなったな」 その言葉に、澄乃は少しだけ目を伏せた。 強くなったのだろうか。 分からない。 今も怖い。電話を持つ手は冷たい。昌親の声を聞くと、胸の奥に古い痛みが戻る。反論されるたびに、謝りたくなる癖が顔を出す。切ってしまえばいいのに、最後まで丁寧に話そうとしてしまう。 それでも、戻らないと決めた。 強さというより、もう削られる場所に自分を置きたくないだけだった。「強くなったかどうかは分かりません」 澄乃は言った。「ただ、同じ場所へ戻らないと決めました」 昌親は、しばらく何も言わなかった。 電話の向こうに、遠い紙の音が聞こえる。 誰かが呼ぶ声もかすかに混じった。会社だろうか。「今夜の会食先だけでいい」 昌親は、声を抑えて言った。 それは譲歩のようで、まだ諦めていない声だった。「相手の奥さんが何を嫌うか、母さんが分からないと言っている。俺も分からない。今夜だけでいい。教えてくれ」 今夜だけ。 そう言われると、また胸が揺れた。 今夜だけなら。 たった一つなら。 自分が教えれば、誰かが恥をかかずに済む。相手に不快な思いをさせずに済む。久世家が大きな失礼をせずに済む。 だが、その「今夜だけ」は、これまで何度も澄乃を縛ってきた言葉だった。 今回だけ。 少しだけ。 急ぎだから。 あなたなら分かるでしょう。 その積み重ねが、七年になった。 澄乃は目を閉じた。 水篝館で伊織が言った言葉を思い出す。 何を足すかだけじゃない。何をしないかも決めろ。 今、決める時だった。「お答えできません」 澄乃は言った。 昌親の呼吸が乱れた。「本気で、俺に恥をかかせるつもりか」「私は、昌親さんに恥をかかせるために断っているのではありません」「同じことだろう」「違います」 澄乃は、静かに言った。「私は、もう昌親さんの失敗を未然に防ぐ立場ではありません」 電話の向こうが、完全に黙った。 その沈黙は、これまでのものとは違
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追いかけてこないでください⑤

 電話の向こうで、昌親が言葉を失った。 澄乃は、静かに告げた。「失礼いたします」「澄乃」「書面でお願いいたします」 そう言って、通話を切った。 画面が暗くなる。 部屋に、川の音が戻ってきた。 澄乃は携帯を座卓の上に置いた。 指先が冷たい。 手のひらに汗が滲んでいる。 呼吸も少し浅い。 それでも、涙は出なかった。 澄乃は両手を膝の上で重ね、ゆっくり息を吐いた。 切った。 今、確かに切った。 久世家からの用件を。 昌親の当然の要求を。 自分の中にまだ残っていた、困らせてはいけないという癖を。 完全に消えたわけではない。 すぐまた揺れるだろう。夜になれば、会食先で久世家が失敗しないか気になるかもしれない。義母が誰かに失礼をしないか、昌親が禁句を口にしないか、心のどこかが疼くかもしれない。 だが、もう答えなかった。 それが大事だった。 襖の外で、控えめな足音がした。「澄乃さん」 篠田の声だった。 澄乃は、少し声を整えて答える。「はい」「若旦那が、無理に戻らなくてよいと。お茶をお持ちしても?」 澄乃は、目を閉じた。 戻らなくてよい。 その一言が、通話で強張った胸へゆっくり染みた。「お願いします」 今度は、素直に言えた。 襖が開き、篠田が盆を持って入ってくる。湯呑みから白い湯気が上がっていた。篠田は座卓に盆を置き、携帯の画面を見ないよう静かに視線を外した。「温かいものを、少し」「ありがとうございます」「ご気分が悪ければ、横になってください」「はい」 篠田は、それ以上聞かなかった。 襖が閉まると、澄乃は湯呑みを両手で包んだ。温かさが指先へ移る。さっきまで冷えていた手が、少しずつ戻ってくる。 その時、携帯がまた震えた。 澄乃の肩が、びくりと動いた。 画面を見る。 昌親からの着信ではなかった。 短いメッセージが一件。 昌親からだった。 内容は、たった一文。 今夜だけでいい。頼む。 澄乃は、その文面をしばらく見つめた。 また胸が痛む。 だが、返信はしなかった。 携帯を伏せる。 湯呑みを手に取る。 茶を一口飲む。 温かさが、喉を通って落ちていく。 窓の外では、川が流れている。 久世家の会食も、返礼も、茶会の後始末も、もう澄乃の手を離れた。何が起きても、それは久世家が受け取る
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雨の日の帳場①

 朝から、雨は屋根を叩いていた。 水篝館の瓦を打つ音は、夜明け前から途切れない。細い雨ではなかった。山の上からまとめて落ちてくるような、重く、密な雨だった。川は昨夜よりもさらに水かさを増し、宿の下を流れる音も低く太い。窓硝子にぶつかる雨粒は、時折、風に押されて斜めに走った。 廊下には湿った木の匂いが満ちていた。 畳の目にも、雨の日特有の重さがある。客室の障子越しの光は鈍く、昼前だというのに夕方のように暗かった。行灯を消すと廊下が沈みすぎるため、帳場近くの灯りは朝から少しだけ落とさずにいた。 澄乃は帳場の端に立ち、宿泊予定表と予約台帳を見比べていた。 今日の宿泊は七組。 うち二組は駅まで送迎予定。 一組は高齢の夫婦で、到着時間が早まる可能性があると聞いている。もう一組は小さな子ども連れで、雨なら車酔いしやすいと備考に書かれていた。夕食時間は通常通りに組んでいたが、この雨ではずれるかもしれない。 紙の上では整っている。 けれど、外の雨音が、その整った予定を少しずつ濡らして崩そうとしているようだった。 真帆が帳場へ駆け込んできた。 髪はきちんとまとめているが、頬に少し赤みがある。客室から戻ってきたばかりらしく、腕には濡れた傘袋の束を抱えていた。「玄関の傘袋、足りなくなりそうです。予備、どこでしたっけ」 篠田がすぐに顔を上げる。「帳場奥の棚の下段です。澄乃さん、お願いできますか」「はい」 澄乃はすぐ棚へ向かい、予備の傘袋を取り出した。透明な袋の束は少し古く、端が湿気でくっつきかけている。両手で軽くほぐしながら真帆に渡す。「こちらです。追加で玄関脇に置きますか」「お願いします。お客様が続くと、手渡しだけでは間に合わないので」「では、傘立ての左側に」 澄乃が言うと、真帆が一瞬こちらを見る。 以前なら、真帆はそこで少し警戒したかもしれない。外から来た人間が勝手に配置を決めることを、気にしたかもしれない。けれど、この数日で、二人の間には小さな呼吸ができ始めていた。 真帆は頷いた。「はい。左なら、お客様が取りやすいです」 澄乃は軽く頭を下げ、玄関へ向かった。 引き戸の向こうから、雨の白い幕が見える。石畳は黒く濡れ、屋根から落ちる雨垂れが細い線になっている。玄関先には、すでに数本の傘が置かれていた。床が濡れないよう、敷物を少しずらし、
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雨の日の帳場②

 澄乃は台帳を見た。 水明。四時へ変更希望。 薄氷。三時半駅着。 山吹。到着一時間遅れ、夕食三十分後ろ。 さらに、今日は日帰り入浴の問い合わせも朝から多かった。雨で山歩きを諦めた客が、温泉だけ利用できるか聞いてくるのだろう。 澄乃は、頭の中で線を引いた。 車の時間。 夕食の時間。 玄関の混雑。 濡れた客の動線。 料理場への伝達。 客室係の準備。 久世家で、会食や茶会の段取りが重なった時に似ている。違うのは、ここでは誰か一人が黙って背負うのではなく、帳場全体で動かすことだった。「若旦那」 澄乃は声をかけた。 伊織がこちらを見る。「水明のお客様へ、四時十五分のお迎えでは遅いでしょうか。薄氷のお客様を三時半にお迎えし、そのまま宿へ戻ってから再度駅へ向かうと、四時ちょうどは厳しいと思います」 伊織はすぐに計算した。「雨なら厳しいな」「水明のお客様へ、駅の待合室でお待ちいただけるか確認します。ご高齢でなければ、十五分程度なら」 篠田が台帳を確認する。「水明のお客様は三十代のご夫婦ですね。荷物は多くないと伺っています」「では、お電話で確認してみます」 澄乃は言いかけ、すぐに篠田を見る。「私からお電話してもよろしいでしょうか」 篠田は頷いた。「お願いします。お詫びと、雨で道路が読みにくいことをお伝えして。お待たせする場所も確認してください」「はい」 澄乃は受話器を取った。 電話口で水明の客へ事情を伝える。声は柔らかく、けれど曖昧にしない。迎えの時間を四時十五分にしたいこと、駅の待合室が利用できること、到着時には運転手が名前を確認すること。相手は少し迷ったが、雨で道が悪いなら構わないと言ってくれた。 澄乃は礼を述べ、受話器を置いた。「水明のお客様、四時十五分でご了承いただきました。駅の待合室でお待ちくださるそうです」 伊織は短く頷く。「篠田さん、車の紙を直してくれ。澄乃さん、料理場に山吹の夕食三十分後ろを伝達。書面も残せ」「はい」 澄乃は伝達用紙を取り、山吹の部屋名、人数、夕食時間変更、理由、確認者を記入した。料理場へ持っていこうとすると、真帆が戻ってきた。「澄乃さん、玄関にお客様です。足元がかなり濡れていて」「お部屋のお客様ですか」「日帰り入浴の問い合わせみたいです。でも、帳場が電話中だったので」「分
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雨の日の帳場③

 伊織がすぐに答えた。「今日は十四時半までなら可。それ以降は宿泊客優先で閉める」 澄乃は玄関へ戻り、男性へ説明した。「十四時半まででしたら、ご利用いただけます。雨でお足元が悪いので、お帰りの際のタクシーも必要でしたら帳場でお呼びできます」「助かります」 男性の表情が少し緩む。 澄乃は受付へ案内し、料金と利用時間を伝え、真帆に浴場までの案内を頼んだ。 そこでまた電話が鳴った。 今度は篠田が別の対応中だった。伊織は業者と話している。澄乃が受話器を取る。「はい、水篝館でございます」 電話の向こうから、少し慌てた女性の声がした。 今日宿泊予定の客だった。雨で列車が遅れ、到着が読めないという。小さな子どもがいて、夕食時間を早めにしたかったが、むしろ遅くなるかもしれない。子どもが車酔いするため、駅からの迎えをできるだけすぐ頼みたい。 澄乃はメモを取る。 部屋名、到着未定、子ども、車酔い、夕食時間調整。 送迎車の予定を見る。 三時半に薄氷。 四時十五分に水明。 その間にこの客が入ると、車が回らない可能性が高い。 すぐ答えられない。「ご不安なところ恐れ入ります。お迎えの時間を確認いたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか」 保留にする前に、相手が「子どもが気分悪そうで」と言った。 澄乃の胸が少し詰まる。 急がなければ。 だが、ここで曖昧に引き受ければ、駅で待たせることになる。 伊織を見る。 まだ業者との話が終わっていない。 篠田は別の電話で、宿泊客へ道順を説明している。 澄乃は一瞬、判断に迷った。 自分で車の予定を組み替えるべきか。 タクシーを提案するべきか。 宿の車で必ず迎えると言うべきか。 迷いは、ほんの数十秒だった。 だが、電話口の客にとっては長かった。「もしもし?」 女性の声が不安を帯びる。 澄乃は、はっとした。「失礼いたしました。確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」 保留にし、伊織の方を見る。 伊織はちょうど電話を切ったところだった。「どうした」 澄乃は状況を簡潔に伝えた。 伊織はすぐに判断した。「その客には、駅からタクシーを提案。費用は宿で一部持つ。子どもが気分悪いなら、車を待たせる方が悪い。夕食は遅らせる。料理場へ伝達」「はい」 澄乃は電話へ戻り、客へ伝えた。 タ
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雨の日の帳場④

 胸が、すっと冷えた。「はい」「判断に迷ったら、保留にする前に相手へ何を確認するか言え。今は、無言の間が長かった」 澄乃は、唇を結んだ。 確かにそうだった。 相手の不安が大きい時に、沈黙は不親切になる。自分の中で必死に考えていても、電話口には何も伝わらない。久世家では、沈黙を恐れてすぐに引き受ける癖があった。今は逆に、失敗しないよう考えすぎて、一瞬止まった。「申し訳ありません」 澄乃は頭を下げた。 伊織はすぐに言った。「謝るより、次を決めろ」 澄乃は顔を上げた。 伊織の声は責めていなかった。 ただ、次の手順を求めている。「次は……送迎の判断が必要な場合、まず到着駅、人数、体調、待てる場所の有無を確認します。そのうえで、こちらの車の状況を見て折り返すか、タクシーの提案をします」「長い」 伊織は言った。 澄乃は一瞬、言葉に詰まる。 伊織は帳場の紙を一枚取り、鉛筆で短く書いた。 駅。人数。体調。待てるか。荷物。折り返し先。「雨の日の送迎確認はこれでいい。電話の横に置く」 澄乃は、その紙を見た。 短い。 けれど、必要なことが入っている。「はい」「今の失敗は、紙で防ぐ」 その言葉が、澄乃の胸の奥へ落ちた。 失敗は、紙で防ぐ。 久世家では違った。 失敗すれば責められた。なぜできなかったのか。どうして気づかなかったのか。あなたらしくない。気が利かない。嫁なのに。妻なのに。謝って、次から気をつけますと言うしかなかった。けれど、次にどう防ぐかを一緒に考える人はいなかった。 水篝館では、失敗が手順になる。 澄乃は、胸が少し痛くなった。 痛いのに、救われるような感覚だった。 その後も、雨は容赦なく予定を崩した。 薄氷の客は予定より早い列車に乗ったと連絡してきた。 水明の客は駅の待合室が混んでいるため、到着後すぐ外で待ちたいと言った。 日帰り入浴の客が予想より増え、玄関の床が濡れやすくなった。 客室からは、雨で冷えたので早めに湯へ入りたいという内線が入る。 料理場からは、夕食時間変更はまとめて知らせてくれと料理長の低い伝言が来る。 篠田の手は電話対応でふさがり、真帆は客室と玄関を行き来した。 澄乃は、帳場の端で雨の日の臨時メモを作った。 送迎変更。 夕食変更。 玄関対応。 濡れた靴、傘、タオル。 体調
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雨の日の帳場⑤

 玄関に、予定より早く一組の客が到着した。高齢の夫婦で、足元が悪く、奥方の靴がかなり濡れていた。真帆は別の客を大浴場へ案内していた。篠田は電話中。伊織は送迎車の運転で外に出ている。 澄乃は帳場で、料理場への夕食時間変更をまとめていた。 玄関の鈴が鳴った。 気づいた。 本来ならすぐ行くべきだった。 だが、その時、料理場から内線が入った。山吹の客の夕食時間について、料理長が確認したいという。澄乃は受話器を取ったまま、玄関へ視線を向けた。客の姿は見えている。濡れている。座ってもらわなければ。 けれど、料理場への伝達も急ぎだった。 ほんの少しだけ、判断が遅れた。 受話器を置き、玄関へ向かった時には、夫婦は上がり框の前で立ったままだった。奥方は濡れた裾を気にしながら、少し震えている。夫が不安そうに帳場の方を見ていた。 待たせてしまった。 胸が冷たくなる。 澄乃はすぐに頭を下げた。「大変お待たせいたしました。足元の悪い中、お越しいただきありがとうございます。すぐにお掛けいただける椅子をご用意いたします」 乾いた手拭いを出し、椅子を玄関脇へ寄せる。奥方に座ってもらい、濡れた靴元へ敷物を移す。温かい茶を用意するよう、戻ってきた真帆に頼む。 対応はした。 けれど、最初の一歩が遅れた。 客は怒らなかった。 むしろ「大丈夫ですよ」と言ってくれた。 それが、かえって澄乃の胸に刺さった。 大丈夫と言わせてしまった。 足元の悪い中来た客に、気を遣わせた。 澄乃は、胃のあたりが重くなるのを感じた。 その後、伊織が送迎から戻り、夫婦を部屋へ案内した。澄乃は帳場で夕食変更の紙を持ったまま、しばらく動けなかった。 真帆が横から小さく言った。「澄乃さん、今のは私が玄関に戻るのが遅かったのもあります」「いえ、私が先に気づいていました」「でも」「私の判断が遅れました」 声が硬かった。 真帆は少し困った顔をした。 澄乃は、その顔を見て、自分がまた悪い癖に入りかけていることに気づいた。全部を自分の責任として抱えようとしている。けれど、事実として、判断が遅れたことは確かだった。 帳場の空気が落ち着いたのは、夕食前の短い時間だった。 雨はまだ降っていたが、到着予定の客は全員入った。送迎も終わり、料理場への伝達もどうにか通った。玄関の濡れた床も拭かれ、
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