Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 81 - Bab 90

121 Bab

茶会は名前でできていない④

 桐島夫人は、玄関で佳枝に微笑んだ。「今日は、少し趣が変わりましたのね」「若い方に手伝っていただいたものですから」 佳枝は、苦しい笑みを浮かべた。「ええ。新しい風というのは、時に強いものですものね」 桐島夫人の声は穏やかだった。 だが、次の茶会の約束はしなかった。 三倉夫人は、車へ乗る前に言った。「お迎えの件は、どうぞお気になさらず。次からは、こちらで手配いたしますわ」 佳枝は凍りついた。 こちらで手配する。 それは、久世家の手配をもう信用しないという意味に近かった。 相馬夫人は菓子をほとんど残し、帰り際に「お若い方は華やかでよろしいわね」とだけ言った。返礼品が用意されていないことには、誰も触れなかった。触れないことが、かえって重かった。 最後の客が去ると、玄関は急に静かになった。 花器の中で、抜き損ねた百合の香りがまだ微かに残っている。 応接間には、食べ残された菓子、少し冷めた茶、座り直した跡のある椅子、置き場所を変えられた席札が残っていた。誰かが声を荒げたわけではない。だが、部屋全体が細く傷ついているようだった。 佳枝は、応接間の中央に立ち尽くした。 瑠璃花は、目に涙を浮かべていた。「私、頑張ったのに」 その声は小さかった。 佳枝は振り返る。「頑張ればよいというものではありません」「だって、何も分からないんです。澄乃さんがちゃんと教えてくれなかったから」 その言葉に、佳枝の中で何かが切れた。「あなたは、渡されたファイルを読まなかったのでしょう」「全部なんて無理です」「なら、妻の座など欲しがるべきではなかったのよ」 瑠璃花の顔が真っ赤になる。 そこへ、昌親が入ってきた。「母さん、言いすぎだ」 佳枝は昌親を睨んだ。「あなたにも言っているの」「俺に?」「この茶会は、久世家の信用に関わるものだったのよ。澄乃さんが、どれだけ細かく整えていたか、あなたは一度でも見たことがあった?」 昌親は言葉に詰まる。「花も、菓子も、席順も、車も、返礼も、全部あの人がしていた。私たちはそれを受け取っていただけだった」「だからって、今日のことを全部瑠璃花のせいにするな」「では、誰のせいにするの」 佳枝の声は震えていた。「妻の座を譲らせたあなた? その座の中身を知らないまま笑っていた汐見さん? それとも、澄乃さんが
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最初の小さな改革①

 水篝館の帳場には、朝の光が斜めに差し込んでいた。 川沿いの窓から入る光は、古い木の床に細く伸び、帳場の奥に積まれた台帳の端を淡く照らしている。外では川が低く流れ、厨房からは出汁の香りと湯気が少しずつ広がっていた。朝食を終えた客が部屋へ戻る足音、仲居たちが盆を片づける衣擦れ、内線電話の控えめな呼び出し音。水篝館の一日は、静かに、けれど途切れることなく動いていた。 澄乃は帳場の端に座り、昨日から預かった館内案内の紙を広げていた。 紙は上質だった。和紙に近い手触りで、指先にわずかな繊維の凹凸がある。そこに印刷された文字は落ち着いていて、水篝館の古い佇まいによく合っていた。けれど、情報は多く、初めて来た客には少し見づらい。大浴場、食事処、売店、非常口、内線番号、門限、送迎、周辺散策。どれも必要だが、必要な時に必要な情報へ辿り着きにくい。 澄乃は、いきなり作り替えるつもりはなかった。 ここは久世家ではない。 自分が気づいたからといって、黙って全部直す場所ではない。 水篝館には、水篝館の積み重ねがある。篠田が覚えている客の癖、真帆が毎日差し替えている紙、料理長が守ってきた食事の出し方、伊織がぎりぎりの人数で回している現場の流れ。そこに外から来たばかりの澄乃が、善意の顔をして手を突っ込めば、たとえ正しくても傷になる。 それでも、気づいたものを見なかったことにはできなかった。 久世家で身につけた裏方の目は、澄乃の中にまだ残っている。 それは澄乃を苦しめてきたものでもある。 けれど、水篝館では、その目に初めて仕事としての場所が与えられようとしていた。 澄乃は、薄い下書き用の紙に項目を書いた。 館内案内。 客室メッセージ。 食物アレルギー確認表。 記念日対応。 それぞれの下に、問題点と、現場の負担を増やしすぎないための条件を短く記す。久世家で作っていた実務記録とは違う。これは誰かを追い詰めるための記録ではない。自分の働きを証明するためだけのものでもない。 水篝館で働く人が、迷う時間を少し減らすためのものだった。 帳場の奥から、伊織が出てきた。 濃紺の仕事着に袖を通し、手には予約台帳を持っている。いつものように余計な言葉はない。澄乃の前まで来ると、広げられた紙を一瞥した。「進んだか」「まだ、案です」「見せろ」 伊織は当然のように言った。
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最初の小さな改革②

 澄乃がすぐに引き受けると、真帆は少し拍子抜けしたような顔をした。 反論されると思っていたのかもしれない。 澄乃は、真帆の表情を見て、胸の奥で小さく息を吐いた。 まだ警戒されている。 それでいい。 ここで必要なのは、澄乃が正しいことを証明することではない。水篝館の人たちが無理なく使える形へ落とすことだ。 伊織は紙を帳場に置いた。「試す。三部だけ作れ。置く部屋は、水明、山吹、薄氷。迷われやすい導線の部屋だ」「はい」 澄乃は答えた。「ただし」 伊織が続ける。「客室係の手間が増えるようなら戻す」「承知しました」「真帆、置いたあとの反応を見ろ。聞かれた回数も覚えておけ」「はい」 真帆は少し複雑な顔をしながらも頷いた。 最初の案が、小さく動き出した。 大成功ではない。 歓迎されたわけでもない。 ただ、三部だけ試すことになった。 それが、澄乃には十分だった。 次は、客室の手書きメッセージだった。 水篝館では、常連客や記念日の客に、短い手書きの挨拶を置くことがある。だが、文面はその時々で違い、誰が書くかも決まっていない。篠田が余裕のある時は丁寧な一筆が添えられるが、忙しい日は帳場の伝達だけで終わる。真帆は、何を書けばよいか分からず、結局定型の「ごゆっくりお過ごしくださいませ」になりがちだと言った。 澄乃は、その言葉自体を悪いとは思わなかった。 むしろ、水篝館には過度に飾った文より似合う。 問題は、誰が書いても最低限の温度が保てるような下地がないことだった。「文例を作ると、気持ちがこもらなくなりませんか」 真帆が言った。 その声には、先ほどよりもはっきりした不安があった。「手書きなのに、決まった文章を写すだけって、少し冷たいような」 澄乃は頷いた。「その通りだと思います。ですから、全文を固定するのではなく、最初と最後だけ整える形がよいかと」「最初と最後?」「はい。たとえば、常連のお客様には『またお迎えできますことを嬉しく存じます』。記念日の方には『大切な日を水篝館でお過ごしいただき、ありがとうございます』。その後に、一文だけ担当の方がその時の言葉を足す形です」 篠田が、文例の紙を見ながら頷いた。「これなら、書く人の負担も少ないですね」 真帆はまだ少し迷っている。「でも、一文を足すのが難しいです」「そこも
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最初の小さな改革③

「こっちは仕込みの時間に追われてる。苦手なもの、アレルギー、量を少なく、油控えめ、柔らかくしろ。言うだけなら簡単だ」 澄乃は、料理長の声に含まれる疲労を聞いた。 怒りだけではない。 現場の負担が増えることへの警戒だった。 この人は料理を軽く扱われたくないのだ。 そして、客の要望が簡単に料理場へ投げ込まれることを恐れている。 澄乃は、紙を差し出したまま言った。「料理場のご負担を増やしたいわけではありません」 料理長の目が鋭くなる。「こういう紙は、だいたいそう言って増える」「はい。だからこそ、最初に料理場で必要な項目を伺いたいです」 料理長は少し黙った。 澄乃は続ける。「今の備考欄ですと、苦手食材とアレルギーが同じ場所に入ることがあります。帳場で聞き取る時に分けられれば、料理場で確認し直す時間が少し減るかもしれません。表を増やすというより、聞き方を揃えるためのものです」「聞き方」「はい。たとえば、食べられない理由を三つに分けます。アレルギー、医師からの制限、好みや苦手。料理場へ回す時には、その違いが分かるようにします」 料理長は紙へ視線を落とした。 そこには、大きく三つの欄がある。 命に関わる食物アレルギー。 健康上の制限。 苦手・希望。 その下に、確認者、確認日、客本人からの申告か代理申告かを書く欄を作ってあった。 料理長は、少しだけ眉を動かした。「代理申告まで書くのか」「はい。ご本人ではなく、ご家族や旅行会社からの場合、当日確認した方がよいこともあると思いました」 伊織が紙を覗き込む。「当日の再確認欄もあるな」「はい。料理場へ回す前に、帳場で確認済みか分かるように」 料理長は黙っていた。 澄乃は、押し切らないように息を整える。「この表が負担になるようなら、形式を変えます。料理場で本当に必要な情報を教えていただければ、それ以外は削ります」 料理長は、ようやく顔を上げた。「好みや苦手まで全部聞くと、客は何でも言うぞ」「はい。ですので、予約時にすべて叶えるとは言わない方がよいと思います。対応できるものとできないものを、帳場で一度受け止めて、料理場に丸投げしない形にしたいです」 伊織が横から言った。「帳場で線を引く。料理場に全部投げない」 料理長は伊織を見た。「若旦那、本当にできるのか」「やる。で
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最初の小さな改革④

 それを紙にまとめた。 真帆は、その紙を見て言った。「これなら、私でも聞けそうです。でも、花の準備は誰がするんですか」「そこを決めなければいけません」 澄乃は答えた。「帳場が聞いて、客室係が飾るとなると、連絡漏れが起きるかもしれません。花を使う場合は、前日までに帳場で札をつけて、客室係へ渡す形がよいかと」 篠田が頷く。「花屋への連絡は帳場ですね」「はい。ただ、数が増えると大変ですので、最初は一日一組までなど、上限を決めた方がよいと思います」 伊織が即座に言った。「上限は必要だ」「はい」「無料で何でもやる形にするな」 その言葉に、澄乃は一瞬、胸を突かれた。 無料で何でもやる。 それは、久世家での澄乃そのものだった。 客へのもてなしと、無償の自己犠牲は違う。 水篝館でそれを混同してはいけない。 伊織は、澄乃の表情の変化を見たのか、少しだけ声を低めた。「宿の厚意は、現場の誰かが潰れて作るものじゃない」 帳場にいた全員が、少しだけ静かになった。 篠田は目を伏せた。 真帆は花の紙を握り直した。 伊織は淡々と続ける。「やるなら、続けられる形にする。続けられないなら、最初からやらない」 澄乃は、深く頷いた。「はい」「澄乃さん」 伊織が、普通に名前を呼んだ。「お前の案は使える。だが、放っておくと増える」 澄乃は言葉に詰まった。 図星だった。「だから、削ることも考えろ」「……はい」「何を足すかだけじゃない。何をしないかも決めろ」 澄乃は、紙の上に視線を落とした。 何をしないか。 久世家では、それを決められなかった。頼まれたらやる。気づいたらやる。誰かが困りそうなら先にやる。やらないという選択肢を持たなかった。 水篝館では、やらないことも決める。 それは、仕事を守るためだった。 澄乃は、記念日対応の紙の端に一文を書き足した。 対応範囲を越える希望は、帳場で確認し、必要に応じて断る。 その文字を書いた時、指先が少し震えた。 断る。 その二文字は、澄乃にはまだ重い。 だが、伊織は何も言わずに頷いた。「それでいい」 その日の午後、最初の小さな改革は、すべて試すだけの形でまとまった。 館内案内は三部。 手書きメッセージは三種類の文例。 アレルギー対応表は平日の予約から。 記念日対応は一日一組
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弁護士からの封書①

 水篝館の午後は、雨の匂いを含んでいた。 空は曇っていたが、まだ降り出してはいない。川面は鉛色に沈み、流れの上を細い風が渡っている。客室の廊下には、湿った木の匂いと、昼食後の茶の香りが淡く残っていた。行灯はまだ灯っていない。昼と夕方の間の、宿全体が少しだけ息を整える時間だった。 澄乃は帳場の端で、館内案内の試作を三部、丁寧に揃えていた。 大浴場、食事処、帳場、非常口。 文字はできるだけ少なくし、初めて来た客が迷いにくいようにした。水篝館の雰囲気を壊さないよう、線は細く、余白を広めに取る。真帆が「紙が増えると読まれない」と言ったことを思い出し、紙の大きさも少し小さくした。目立たせすぎず、けれど見落とされないように。 それは思った以上に難しかった。 強く出せば宿の空気を乱す。控えめすぎれば役に立たない。情報は多ければ親切というわけではない。少なすぎれば不安になる。 久世家で磨かされた裏方の目が、ここでも働いている。 けれど、今は少し違う。 澄乃はひとりで結論を出さなかった。真帆に見せ、篠田に確認し、伊織に止められながら、少しずつ形にしていた。間違いを自分だけで抱え込まなくていい。誰かの負担を増やす前に、聞いていい。 そのことを覚えるだけで、ずいぶん神経を使った。 帳場の奥では、篠田が宿泊予定の確認をしている。真帆は客室へ茶菓子を運び、伊織は電話で町の業者と短くやり取りをしていた。水篝館は、昨日と同じように静かに忙しい。 澄乃は案内紙を揃え、端を指で軽く整えた。 その時、帳場の外で郵便配達員の声がした。「水篝館さん、お届けものです」 篠田が受け取りに出る。 いくつかの封筒と小包を抱えて戻ってきた篠田は、帳場の上で宛名を確かめていた。宿宛ての請求書、地元の商店からの案内、常連客からの手紙らしいもの。その中に、ひとつだけ白い封筒があった。 篠田の手が、そこで止まる。「澄乃さん」 名前を呼ばれ、澄乃は顔を上げた。「はい」「こちら、澄乃さん宛てです」 差し出された封筒を見た瞬間、胸の奥が小さく鳴った。 白い角封筒。 宛名は、杠澄乃。 差出人には、法律事務所の名が印字されている。美緒が紹介してくれた弁護士の事務所だった。電話相談はすでに済ませていた。必要書類を確認し、手元の記録の一覧を送ることになった。その返事が来る頃だとは分かっ
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弁護士からの封書②

 廊下は静かだった。 客室の前を通ると、どこかの部屋から小さな笑い声が聞こえた。湯上がりの客だろうか。洗い立ての浴衣の匂いが廊下に漂っている。窓の外には川が流れている。水面に映る空は暗く、夕方前なのにすでに夜の色を含んでいた。 封筒の角が指に当たる。 冷たい。 自室に戻ると、澄乃は襖を閉め、窓際の座卓の前に座った。 すぐには開けられなかった。 封筒を座卓の上に置き、両手を膝に重ねる。深く息を吸おうとするが、うまく入らない。胸の奥に、久世家の応接間の空気が蘇る。 妻の座を譲ってください。 瑠璃花の声。 お前、そんなに金が欲しいのか。 昌親の声。 あなた、本当にそれでいいと思っているの。 義母の声。 それらが、封筒の白さに重なる。 澄乃は、目を閉じた。 逃げたいと思った。 今、この封筒を開けずに置いておけば、しばらくは静かでいられる。水篝館での仕事だけを考え、館内案内や手書きメッセージや記念日対応に集中していれば、久世家から切り離された時間を過ごせる。 大きく争えば、消耗する。 それは分かっていた。 離婚届を出しただけでは終わらない。昌親が署名するかどうかも分からない。不貞の証拠をどう扱うか。慰謝料を請求するのか。財産分与はどこまで求めるのか。会社や久世家のために無償で担ってきた実務を、どう記録として残すのか。 考えるだけで、体の奥に疲労が戻ってくる。 水篝館でようやく少し眠れるようになった。 名前で呼ばれるようになった。 働く場所を得た。 その小さな足場が、書類の山で崩れてしまうのではないかという怖さがあった。 澄乃は、封筒を見つめた。 何も求めなければ、楽なのだろうか。 慰謝料も財産分与も、最低限で済ませる。無償労働の記録も、胸の中にしまう。昌親たちと関わる時間をできるだけ減らし、静かに離れる。それなら、争いは少し小さくなるかもしれない。 けれど。 澄乃は、久世家の食堂を思い出した。 最後の朝食。 昌親はスマートフォンを見ながら出汁巻きを食べ、義父は減塩の煮物を当然のように受け取り、義母は味噌汁の葱を指摘した。誰も、ありがとうとは言わなかった。 あの家は、澄乃の手を食べて生きていた。 けれど、澄乃の名前は見ていなかった。 何も求めなければ、また同じことになる。 澄乃の七年は、夫婦のすれ違いという
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弁護士からの封書③

 澄乃は確認書を読み始めた。 不貞関係に関する資料の整理。 財産分与に関する資料。 慰謝料請求の意向。 婚姻期間中に家庭内および会社関連で担っていた無償の実務についての記録。 それぞれの項目に、説明が添えられている。 不貞については、手元の資料だけでどこまで認められるか、追加確認が必要であること。相手方へ通知する場合、弁護士名で文書を送ることも可能であること。感情的な直接連絡は避けること。 財産分与については、預貯金、保険、婚姻後の資産形成、家計への関与の確認が必要であること。 慰謝料については、請求する場合の相手、金額、証拠の扱い、交渉の進め方。 無償労働については、直接すべてを金額化できるとは限らないが、婚姻中の貢献、会社関連実務への関与、相手方の主張に対する反証として記録を整理する意義があること。 澄乃は、その一文で手を止めた。 直接すべてを金額化できるとは限らない。 分かっていた。 朝食の段取りに値段をつけることは難しい。義母の友人関係の禁句を覚えていたことに請求書を出すこともできない。会食先の手土産、親族の席順、祝い花の肩書、礼状の文面。ひとつひとつは、紙幣に変えられるものではない。 だが、金額にならないから無かったことにはできない。 澄乃は、確認書の文字を指でなぞった。 記録を整理する意義。 その言葉が、深く胸に落ちた。 水篝館で作った案内紙も、記念日対応の流れも、アレルギー表も、澄乃は今、仕事として扱われている。伊織は条件をつけ、篠田は確認し、真帆は現場の負担を伝え、料理長は必要な情報を求めた。 同じようなことを、澄乃は久世家でもしていた。 ただ、そこでは名前も賃金も境界もなかった。 それを、少なくとも記録として残す。 澄乃の七年は、空気ではなかったと。 紙の上に置く。 それが、自分の報いを求めることなのか、仕返しなのか、まだ澄乃には分からなかった。 けれど、これは必要な清算だった。 澄乃は、記入用紙を広げた。 項目ごとに、意向を書く欄がある。 まず、不貞関係。 証拠として保全しているものを一覧にする必要がある。瑠璃花からの連絡文、応接間での発言記録、昌親の帰宅時間、外泊の申告、贈答品、会食予定との不一致、手元のレシートや包装紙。 澄乃は、別紙にすでに整理してある。文箱に原本を保管し、写しを
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弁護士からの封書④

 次に、財産分与。 婚姻期間は七年。澄乃は専業の妻として扱われていたが、実際には家計管理、義父母対応、会社関係の補助まで担っていた。久世家の資産の全てを知っているわけではない。だが、婚姻後の生活の中で積み上げられたものについて、確認する権利はある。 以前の澄乃なら、遠慮したかもしれない。 お世話になった家だから。 争いたくないから。 お金のことで揉めたくないから。 けれど、それは久世家に都合のよい遠慮だった。 澄乃は、財産分与についても請求する意向に丸をつけた。 手が少し震えた。 だが、止まらなかった。 最後に、会社の無償労働記録。 この欄は自由記述だった。 金銭請求として扱うか、貢献記録として整理するか、相手方の主張に対する反証資料として保存するか。弁護士の説明では、すべてを直接請求に結びつけることは難しいかもしれないと書かれていた。 澄乃は、しばらくペンを持ったまま動けなかった。 ここが一番、痛かった。 慰謝料も財産分与も、言葉としては分かりやすい。 けれど、無償労働は違う。 久世家の朝食、義父の減塩食、義母の通院、茶会の席順、贈答の記録、会社の祝い花、会食先の禁句、取引先の家族構成。澄乃が自分の時間と感覚と記憶を使って支えてきたものは、数字にしにくい。 数字にできないものは、価値がないのか。 違う。 澄乃は、はっきりと思った。 価値がないのではない。 久世家が、それを価値として扱わなかっただけだ。 だからこそ、記録として残す。 金銭化しきれないとしても、消さない。 澄乃は、ゆっくり書いた。 会社関連を含む無償実務については、直接の金銭請求が困難なものもあると理解しています。ただし、婚姻期間中の実質的な貢献と、相手方から「何もしていなかった」と主張された場合の反証として、日付、依頼者、内容、結果を整理した記録を残したいです。 書きながら、喉の奥が熱くなった。 何もしていなかった。 その言葉を、いつか誰かが言うかもしれない。 昌親かもしれない。義母かもしれない。瑠璃花かもしれない。久世家の親族かもしれない。 だが、その時、澄乃には紙がある。 実務記録がある。 それは怒鳴り声より静かで、涙より冷たく、言い訳より強い。 正式な書類にする。 澄乃は、自分の中でその方針が固まっていくのを感じた。 騒
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弁護士からの封書⑤

 澄乃は、伊織が何か聞くかと思った。慰謝料を請求するのか。夫は何と言っているのか。不貞の証拠はあるのか。会社の無償労働とは何なのか。聞こうと思えば、いくらでも聞ける。 けれど、伊織は聞かなかった。 代わりに、低く言った。「今日の仕事は終わりだ」 澄乃は思わず顔を上げた。「まだ、夕方の記念日対応の確認が」「真帆と篠田さんでやる」「ですが、最初の」「書類を読んだあとに働ける顔じゃない」 伊織の声は淡々としていた。 澄乃は反射的に「大丈夫です」と言いかけた。 だが、言わなかった。 伊織がこちらを見ている。 言えば、止められる。 そして、止められることに少し安心している自分もいた。「……分かりました」 澄乃は、小さく答えた。 伊織は頷いた。「茶を飲め。飯はあとで持たせる」「そこまで」「仕事を止めた分、休め」 命令のような言い方だった。 けれど、澄乃を下に置く響きはなかった。 水篝館の条件。 働くなら休む。 倒れる前に止める。 それが今、実行されているだけだった。 澄乃は湯呑みを手に取った。 茶は熱すぎず、手のひらにちょうどよい温度だった。篠田が淹れたのか、伊織が淹れたのかは分からない。少なくとも、今の澄乃が飲みやすいように運ばれてきたものだった。 一口飲む。 温かさが喉を通り、胃へ落ちる。そこで初めて、自分の体が強張っていたことに気づいた。「怖いか」 伊織が不意に言った。 澄乃は湯呑みを持ったまま、少し目を伏せた。「……怖いです」 正直な声だった。「大きく争えば、消耗すると思います。けれど、何も求めなければ、また何もなかったことにされる気がします」 伊織は黙って聞いていた。 澄乃は続けた。「私は、叫びたいわけではないんです。誰かを壊したいわけでもありません。ただ、私がしてきたことや、されたことを、なかったことにされたくないだけです」「なら、残せ」 伊織は短く言った。 澄乃は顔を上げた。「紙にしたんだろ」「はい」「なら、残る」 それだけだった。 慰めではない。 優しい励ましでもない。 ただ、事実だった。 紙にしたものは残る。 澄乃が残すと決めたものは、久世家の都合で簡単には消せない。 その単純さが、今はありがたかった。「……はい」 澄乃は、湯呑みを両手で包んだ。 伊
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