「……少しだけ、座らせていただきます」 篠田がすぐ椅子を引いた。 澄乃は腰を下ろした。膝の上で手を重ねる。指先が少し震えている。 桂木は、そんな澄乃を急かさず待っていた。「ごめんなさいね。懐かしくて、つい話しすぎたわ」「いいえ」 澄乃は首を横に振った。「聞けて、よかったです」 声が震えた。 けれど、崩れずに言えた。「祖母のことを、覚えていてくださって……ありがとうございます」「忘れないわ。とても静かな方だったけれど、目の奥に強い光を持っていらしたもの」 桂木は、懐かしむように目を細める。「最後にお会いした時、お祖母様はこうもおっしゃっていたわ。『この宿の川の音は、急げと言わないから好きです』って」 澄乃は、思わず窓の方を見た。 川の音が聞こえる。 水篝館へ来てから、何度も澄乃を眠らせ、起こし、支えてきた音。 祖母もこの音を聞いていた。 同じように、急がされない音として。 澄乃の中で、時間がつながった。 若い頃の自分。 祖母のそばにいた自分。 久世家へ嫁ぐ前の自分。 そして今、水篝館で帳場の仕事を覚えようとしている自分。 全部がばらばらではなかった。 久世家で妻と呼ばれる前から、澄乃は澄乃としてここにいた。 祖母を支え、廊下を歩き、手拭いを借り、川の音を聞いていた。 その自分を、覚えている人がいる。 それは、失った名前を取り戻すよりも深い場所へ届いた。 伊織は、少し離れた場所で黙っていた。 彼の表情は大きく変わらない。だが、澄乃を見る目がいつもより静かだった。事情を探る目ではない。哀れむ目でもない。 澄乃の過去に対する、敬意のようなものがあった。 この人にも、ここへ来る前の時間がある。 そう認めている目だった。 澄乃は、その視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばした。 恥ずかしさではなく、見られてもいいと思える感覚があった。 久世家での痛みだけが、自分の過去ではない。 祖母との時間がある。 水篝館で過ごした季節がある。 誰かに覚えられている、自分の手がある。 それを伊織に知られることが、嫌ではなかった。 桂木の部屋の準備が整ったと、真帆が戻ってきた。「秋灯、お椅子と膝掛け、用意できました」「ありがとう」 伊織が頷き、桂木へ向き直る。「ご案内します」「ええ。お願いするわ」 桂木は立
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