Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 111 - Bab 120

121 Bab

祖母の記憶がつないだ縁⑤

「……少しだけ、座らせていただきます」 篠田がすぐ椅子を引いた。 澄乃は腰を下ろした。膝の上で手を重ねる。指先が少し震えている。 桂木は、そんな澄乃を急かさず待っていた。「ごめんなさいね。懐かしくて、つい話しすぎたわ」「いいえ」 澄乃は首を横に振った。「聞けて、よかったです」 声が震えた。 けれど、崩れずに言えた。「祖母のことを、覚えていてくださって……ありがとうございます」「忘れないわ。とても静かな方だったけれど、目の奥に強い光を持っていらしたもの」 桂木は、懐かしむように目を細める。「最後にお会いした時、お祖母様はこうもおっしゃっていたわ。『この宿の川の音は、急げと言わないから好きです』って」 澄乃は、思わず窓の方を見た。 川の音が聞こえる。 水篝館へ来てから、何度も澄乃を眠らせ、起こし、支えてきた音。 祖母もこの音を聞いていた。 同じように、急がされない音として。 澄乃の中で、時間がつながった。 若い頃の自分。 祖母のそばにいた自分。 久世家へ嫁ぐ前の自分。 そして今、水篝館で帳場の仕事を覚えようとしている自分。 全部がばらばらではなかった。 久世家で妻と呼ばれる前から、澄乃は澄乃としてここにいた。 祖母を支え、廊下を歩き、手拭いを借り、川の音を聞いていた。 その自分を、覚えている人がいる。 それは、失った名前を取り戻すよりも深い場所へ届いた。 伊織は、少し離れた場所で黙っていた。 彼の表情は大きく変わらない。だが、澄乃を見る目がいつもより静かだった。事情を探る目ではない。哀れむ目でもない。 澄乃の過去に対する、敬意のようなものがあった。 この人にも、ここへ来る前の時間がある。 そう認めている目だった。 澄乃は、その視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばした。 恥ずかしさではなく、見られてもいいと思える感覚があった。 久世家での痛みだけが、自分の過去ではない。 祖母との時間がある。 水篝館で過ごした季節がある。 誰かに覚えられている、自分の手がある。 それを伊織に知られることが、嫌ではなかった。 桂木の部屋の準備が整ったと、真帆が戻ってきた。「秋灯、お椅子と膝掛け、用意できました」「ありがとう」 伊織が頷き、桂木へ向き直る。「ご案内します」「ええ。お願いするわ」 桂木は立
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祖母の記憶がつないだ縁⑥

 真帆はそのまま客室の確認へ向かったようで、伊織だけが帳場へ入ってくる。彼は予約台帳を手に取り、いつもの位置へ戻した。それから、澄乃の方を見た。「休むか」 いつもの短い問いだった。 澄乃は少し考え、首を横に振った。「少しだけ、ここにいます」「無理なら言え」「はい」 伊織は帳場の端に立ったまま、少し黙った。 雨上がりの光が、彼の横顔に落ちている。「祖母さんは、いい人だったんだな」 澄乃は、湯呑みを包む手に少し力を込めた。「はい」 短い返事になった。 それ以上言えば、涙が出そうだった。 伊織は、それを分かっているように深く聞かなかった。 ただ、低く言った。「お前がここに来たのは、急に落ちてきたわけじゃないんだな」 澄乃は顔を上げた。「え……」「前から、つながってたんだろ」 伊織は帳場の外の川へ視線を向けた。「祖母さんと。昔の水篝館と。あの常連客とも」 澄乃の胸が、静かに震えた。 急に落ちてきたわけではない。 その言葉が、澄乃の中で形を持つ。 久世家を出た夜、自分は行き場を失って水篝館へ逃げてきたのだと思っていた。もちろん、そういう面もある。傷つき、疲れ、居場所をなくして、この宿へ来た。 けれど、それだけではなかった。 祖母との縁があった。 短く働いた記憶があった。 伊織の手拭いがあった。 桂木の記憶があった。 水篝館は、ただの避難先ではなかった。 澄乃が澄乃だった頃の、細い糸が残っていた場所だった。「そう、かもしれません」 澄乃は言った。 声は小さかった。 だが、確かだった。「私は、久世家へ行く前から……ここに、いたんですね」 伊織は頷いた。「ああ」 その短い肯定だけで、胸の奥に何かが落ち着いた。 澄乃は窓の外を見た。 川はまだ水量が多い。濁りも残っている。けれど、流れは確かだった。昨日の雨も、夜の闇も、すべて抱えたまま進んでいる。 澄乃の時間も、そうなのかもしれない。 久世家の七年だけで、自分のすべてが決まるわけではない。 その前にも、ちゃんと日々があった。 誰かを大切にし、誰かに覚えられ、誰かの言葉の中に残った時間があった。 澄乃は、湯呑みをそっと置いた。「伊織さん」「何だ」「私、祖母のことを少し忘れていたのかもしれません」 伊織は黙っていた。「忘れたつもりはな
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祖母の記憶がつないだ縁⑦

 午後、桂木の部屋へ茶菓子を届ける役を、篠田が澄乃に任せた。「無理がなければ、澄乃さんにお願いしても?」「はい」 澄乃は盆を受け取った。 秋灯の部屋へ向かう廊下は、祖母の部屋へ通った記憶と少し重なっていた。廊下の角、川が見える窓、腰掛けられる小さな椅子。昔より傷は増えたが、空気は変わらない。 部屋の前で声をかける。「桂木様、お茶をお持ちしました」「どうぞ」 中へ入ると、桂木は窓際の椅子に座っていた。膝には水篝館の膝掛けがかかっている。まるで、祖母の姿と重なるようだった。 澄乃は盆を置き、茶を差し出す。 桂木はその所作を見て、柔らかく微笑んだ。「やっぱり、よく似ているわ」「祖母に、ですか」「ええ。でも顔ではなくて、手の使い方が」 澄乃は自分の手を見た。 何度も誰かのために動いてきた手。 久世家で使い潰されかけた手。 水篝館で、また仕事として動き始めた手。「お祖母様も、湯呑みを渡す時、相手が熱くないように少しだけ向きを変えていたの」 桂木は茶を受け取った。「あなたも同じことをするのね」 澄乃は、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。 自分の気遣いは、久世家で都合よく使われただけのものではなかった。 祖母から受け継いだものでもあった。 誰かを軽んじるためではなく、誰かが少し楽になるように使うものだった。「祖母から、教わったのだと思います」 澄乃は静かに言った。「覚えていなくても、手が覚えているのかもしれません」「それは、よいことね」 桂木は湯呑みを包み、窓の外の川を見た。「傷ついたことがあっても、よいものまで捨ててしまう必要はないわ」 澄乃は返事ができなかった。 その言葉が、あまりに深く入ってきた。 久世家で使われたからといって、自分の気遣いすべてが悪かったわけではない。 人のことを見る力も、先回りする手も、記録する目も。 それらは澄乃を苦しめた。 けれど、それ自体が悪だったわけではない。 置く場所を間違えた。 受け取る相手が、当然として食べ続けただけだった。 桂木は、澄乃を見た。「水篝館に戻ってきてくれて、嬉しいわ」 澄乃は深く頭を下げた。「ありがとうございます」 それ以上言えば、声が崩れそうだった。 部屋を出ると、廊下の窓から川が見えた。 水は流れている。 祖母のいた季節も、久世家
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季節膳の試作①

水篝館の厨房には、朝の川よりも濃い匂いが満ちていた。 出汁の湯気、焼き網に残る魚の脂、木のまな板に染みた青菜の匂い、煮含めた根菜の甘さ。帳場や客室の静けさとは違い、厨房は水篝館の奥で熱を持っている場所だった。鍋の蓋が鳴り、包丁が一定の調子でまな板を叩き、誰かが水を流す音が低く続いている。 澄乃は、厨房の入口より一歩手前で足を止めた。 勝手に踏み込まない。 それは、料理長に最初に言われたことではなかったが、彼の態度から十分に伝わっていた。料理場には料理場の呼吸がある。帳場や客室の都合で、簡単に中へ手を伸ばしてよい場所ではない。 手には、数枚の紙を持っている。 地元食材を使った季節膳の案。 女性客向けの記念日プランの案。 どちらも、昨夜遅くまで考えていたものだった。とはいえ、夜更かしをしたわけではない。伊織に言われた時間で手を止め、あとは朝に回した。まだ完全には慣れないが、仕事を途中で置く練習を少しずつしている。 厨房の奥から、料理長の葛城が振り返った。 白い調理着の袖を肘までまくり、太い指で包丁を握っている。眉間にはいつもの皺。見た目だけなら、提案を聞く気がある顔には見えない。だが、伊織は「本当に嫌なら厨房に入る前に追い返す」と言っていた。 だから、これは聞く気がない顔ではない。 たぶん。 人間の顔面表示、もう少し分かりやすく設計してほしいところだった。「何だ」 葛城が言った。 声は低く、湯気の中でもよく通る。 澄乃は深く頭を下げた。「お忙しいところ失礼いたします。お時間を少しいただいてもよろしいでしょうか」「少しならな」 その返事だけで十分だった。 厨房の中には、若い板前が一人、黙って里芋の皮を剥いている。隅では、炊き上がった米を移す木桶が湯気を立てていた。濡れた床板に、昼前の光が細く落ちている。 伊織は、澄乃の斜め後ろに立っていた。 腕を組み、いつも通り余計な言葉はない。ただ、料理長と澄乃の間に立つでもなく、完全に下がるでもない位置にいる。提案は澄乃のものだが、現場との調整は自分も見るという姿勢だった。 その距離が、澄乃を少し落ち着かせた。 澄乃は紙を差し出した。「季節膳と、記念日のお客様向けの小さなプランについて、案を作りました」 葛城は包丁を置かず、目だけを動かした。「また紙か」「はい」「紙で飯がう
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季節膳の試作②

 その言葉を口にした瞬間、厨房の湯気の中で、空気が少しだけ変わった。 葛城の目が、紙から澄乃へ移る。 澄乃は逃げなかった。「料理長のお料理は、届けば強いと思います。昨夜のお粥も、朝食の味噌汁も、強く主張する味ではありませんでした。でも、食べる人の体調や時間を見て作られていました。そういう丁寧さが、初めて来る方にも伝われば、水篝館へまた来たいと思っていただけるのではないかと」「褒めて通そうとしてるのか」「通したいなら、もっと上手に褒めます」 言ってから、澄乃は少しだけ固まった。 言い過ぎただろうか。 厨房の若い板前が、里芋を剥く手を止めた。 伊織が片眉をわずかに上げた。 葛城は、しばらく澄乃を見ていた。 それから、鼻で短く息を吐いた。「言うようになったな」 怒ってはいない。 澄乃は、胸の中でそっと息を吐いた。「失礼いたしました」「謝るなら最初から言うな」「はい」「で、何をしたい」 葛城は紙を帳場側の小さな作業台に置いた。 話を聞く姿勢になってくれた。 澄乃は、もう一枚の紙を出した。「まず、季節膳の名前です。今は『本日の季節膳』とだけ案内されていますが、少しだけ季節や土地が見える名前にできないかと考えました」「名前で味が変わるか」「変わりません。でも、選ばれる理由にはなります」 葛城の眉間が少し深くなる。 澄乃は急いで続けた。「料理名を飾りすぎる必要はありません。たとえば『雨あがりの山膳』や『川音の夕膳』のように、宿の景色と料理を結ぶ程度です。お客様が予約時や館内案内で見た時に、水篝館らしい食事だと分かるように」「女向けだな」「女性にも届きやすいと思います。ただ、ご夫婦や年配の常連の方にも、季節を楽しみにしていただけるのではないかと」「常連は名前なんか見ない」 葛城はすぐに言った。「出されたものを食べる」「常連の方は、そうかもしれません」 澄乃は認めた。「けれど、初めてのお客様や、久しぶりに来られる方は、何を楽しみにすればよいか探しています。お食事が水篝館の魅力なら、予約前からそれを少し見えるようにしたいんです」 伊織が、ここで初めて口を開いた。「料理の写真が古い」 葛城が伊織を見る。「若旦那まで何だ」「事実だ。今の案内に載ってる写真は、二年前の夏膳だ。今の料理とは違う」 葛城は苦い顔を
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季節膳の試作③

「特別料理を増やす気か」「いいえ。増やしすぎません」 すぐに答える。「通常の季節膳に、小さな選択肢を一つだけ足します。甘味を少し整えるか、食後のお茶を変えるか、部屋へ小さな菓子を置くか。その程度です」「その程度でも手間は増える」「はい。ですので、有料にします」 葛城が意外そうに澄乃を見た。 伊織も少し目を動かした。 澄乃は続ける。「無料の厚意にすると、現場の負担が見えなくなります。お客様にも、宿が正式に用意したものとして受け取っていただく方がよいと思います。価格は高くしすぎず、けれど原価と手間を含める形で」 葛城が腕を組み直す。「前は、客が言えば何でもやってた宿が多いんだよ。うちも昔はそうだった。小さい宿だから、できる範囲でな」 その声には、少しだけ過去への重さがあった。「でも、人が減った。材料費も上がった。何でもやると、どこかが潰れる」 伊織が静かに言った。「だから、範囲を決める」 澄乃は頷く。「はい」「客に冷たいと思われるかもしれないぞ」 葛城が言う。「何でも無料でしてくれる宿を、よい宿だと思う人もいます」「それは、誰かが無理をしていることに気づいていないだけかもしれません」 澄乃の声は、自然に低くなった。 久世家での七年が、胸の奥に沈んでいる。「私は、そういう無理をよいものとして出したくありません。お客様に喜んでいただくためにも、続けられる形にしたいです」 伊織の視線が、静かに澄乃へ向いた。 その目には、何かを確認するような色があった。 澄乃は、少しだけ息を吸った。「私は、久世家で、相手に届くように整えることをずっとしてきました。贈答も、食事も、手紙も、席順も。けれど、それはいつの間にか、誰にも見えない無償の仕事になっていました」 厨房の空気が、静かになった。 葛城は何も言わない。 澄乃は続けた。「ここでは、同じ力を、誰かが当然に使うものにはしたくありません。水篝館の料理が、必要な方へきちんと届くように整える。そのための仕事として扱っていただきたいんです」 言い終えると、喉が少し乾いていた。 自分の過去を話しすぎたかもしれない。 だが、今の言葉は必要だった気がした。 料理を軽く見せるためではない。 現場を潰すためでもない。 搾取ではなく、創造へ変えたいのだと伝えたかった。 葛城は、
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季節膳の試作④

「はい」「塩は強くしない。皮を食わせる」 澄乃は素早く書き取った。 葛城は続ける。「山椒は少し。香りだけでいい。川魚が苦手な客にも、臭みを感じにくいはずだ」 澄乃は頷きながら書く。 その横で、伊織が低く言った。「十分だな」 澄乃は紙を見た。 雨のあとで身が締まった川魚を、皮目まで香ばしく焼きます。山椒は香りだけを添え、川の涼しさを残しました。 書いてから、少し考え、言葉を削る。 雨のあとで身が締まった川魚を、皮目まで香ばしく。山椒は香りだけを添えました。 短い。 押しつけがましくない。 料理の邪魔をしない。「いかがでしょうか」 澄乃が紙を差し出すと、葛城は読んだ。「川の涼しさ、とか書かないのか」 澄乃は少し驚いた。「入れた方がよろしいですか」「いや。恥ずかしいからいらん」 葛城は紙を返した。「これくらいなら、まあ」 それは、かなり大きな前進だった。 試作の魚が焼かれる。 炭火ではないが、焼き台の上で皮が少しずつ音を立てる。脂が落ち、香ばしい匂いが厨房に広がった。葛城は魚を何度も触らない。火の通りを見る目が鋭く、無駄な動きがなかった。 澄乃は、その手元を見ていた。 料理は、軽くない。 紙にした瞬間、軽く見えてしまう危うさがある。だからこそ、言葉は料理より前へ出てはいけない。届く道を整えるだけで、料理そのものを飾りで隠してはいけない。 そのことを、葛城の手が教えているようだった。 焼き上がった魚は、小さな皿にのせられた。 添えられたのは、蕗を炊いたものと、酢を控えめにした大根。派手ではない。けれど、雨上がりの山と川の匂いがした。 葛城は、箸を添えて言った。「食え」 澄乃は少し躊躇した。「私が、ですか」「提案したのはお前だろう」 伊織が横から言う。「食べられる分だけでいい」 その一言があったので、澄乃は箸を取った。 川魚の皮を少しだけほぐし、口に運ぶ。 香ばしさの後に、身の淡い甘さが来た。塩は強くない。山椒の香りがほんの少し鼻に抜ける。重くないのに、印象が残る味だった。 澄乃は、しばらく言葉を探した。「……美味しいです」「それしか言えないなら紙なんか作るな」 葛城が即座に言った。 澄乃は、少し慌てて首を横に振る。「すみません。まず、それが出てしまって」「まず?」「はい。皮が
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季節膳の試作⑤

 伊織が横で紙を見た。「軸になるな」 澄乃は顔を上げる。「季節膳ですか」「ああ。料理が届けば、宿は強い」 伊織は厨房の奥へ視線を向けた。「今までは、届く前に止まってた」 その声には、悔しさが少しだけ混じっていた。 水篝館を守りたい男の声だった。 澄乃は、紙を丁寧に持ち直した。「届くように、整えます」「ひとりで抱えるなよ」 すぐに言われた。 澄乃は少しだけ苦笑しそうになりながら、頷いた。「はい。料理長と、篠田さんと、真帆さんと、伊織さんに確認します」「それでいい」 伊織は短く言った。 厨房の外へ出ると、廊下には午後の光が差していた。 雨上がりの湿気を含んだ木の匂い。川の音。遠くで客の笑い声がする。帳場では篠田が電話を取り、真帆が客室案内の紙を揃えていた。 水篝館は、まだ綻びの多い宿だった。 古い台帳。 分かりにくい案内。 統一されていない記念日対応。 外へ届ききらない料理の魅力。 けれど、その綻びは直せるかもしれない。 壊すのではなく、縫い直すように。 誰かひとりの手を食べるのではなく、仕事として分け合いながら。 澄乃は帳場へ戻り、試作の一行を書いた紙を篠田に見せた。 篠田はそれを読み、目元を柔らかくした。「水篝館らしいですね」 真帆も横から覗く。「お客様に言いやすそうです」「まだ試作です」 澄乃は言った。「料理長の確認が必要ですし、紙質も考えないと」 真帆が笑った。「料理長、紙質まで言ったんですか」「はい」「それ、かなり本気ですね」 澄乃は少し驚いた。「そうなんですか」「本当に嫌なら、紙なんて見ませんよ」 真帆の言葉に、篠田も頷いた。 澄乃は、厨房の方を振り返った。 葛城の怒ったような横顔が思い浮かぶ。 ぶっきらぼうで、手厳しくて、紙が嫌いで、けれど料理が客へ届くことを誰より真剣に考えている人。 水篝館には、そういう人たちがいる。 澄乃は、その中へ少しずつ入れてもらっている。 そのことが、まだ不思議で、ありがたく、怖くもあった。 夕方、帳場の仕事が落ち着いた頃、伊織が小さな紙片を澄乃へ渡した。「これ、料理長から」「料理長から、ですか」 澄乃は受け取った。 そこには、無骨な字で短く書かれていた。 豆腐屋の湯葉。明日見る。 それだけだった。 澄乃は、その紙を
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名前のない疲れ①

 水篝館の帳場には、朝から紙の匂いがしていた。 雨天時玄関対応の手順書、館内案内の試作、記念日対応の確認表、料理長から預かった季節膳の一行。古い台帳の紙の匂いと、新しく書き足された紙の匂いが混ざり、帳場の空気に少しだけ新しい熱が生まれている。 川は穏やかに流れていた。 雨のあと膨らんでいた水音も少し落ち着き、朝の光を受けて白く揺れている。川沿いの窓から入る風は冷たすぎず、湿った木の匂いを運んできた。廊下では真帆が客室案内を差し替える足音がして、厨房の方からは豆腐屋の湯葉を確かめる料理長の低い声が聞こえてくる。 澄乃は帳場の端に座り、記念日対応の紙をもう一度見直していた。 花の有無。 食事時のひと言。 記念写真の声かけ。 部屋に置く小さな菓子。 前日までの予約。 一日の上限。 無料にしないこと。 無理な希望は帳場で止めること。 文字のひとつひとつを確認していく。水篝館の空気を壊さず、客に押しつけず、けれど現場の負担も隠さない。そう考えると、短い文を書くにも何度も迷った。強く言いすぎれば冷たい。柔らかくしすぎれば、何でも受けるように見えてしまう。 澄乃は、鉛筆の先を紙の端に置いたまま、目を細めた。 もう少しだけ整えたい。 昨日、料理長が言っていた甘味の件も、篠田に確認したい。食後のお茶を変えるなら、茶葉の在庫も見なければならない。真帆が言っていた客室案内の置き場所も、三部屋だけでなく、廊下の曲がり角が多い部屋でも試せるかもしれない。 頭の中に、次々と仕事が浮かぶ。 どれも急ぎではない。 そう分かっているのに、浮かんだものをその場で拾わずにいると、落ち着かなかった。放っておけば誰かが困るかもしれない。先に整えれば、現場が楽になるかもしれない。少しでも役に立てば、ここにいていいと自分に言える。 そこまで考えて、澄乃はふと手を止めた。 ここにいていい。 その言葉が胸の奥に引っかかった。 水篝館の人たちは、そんなふうに言ったことはない。伊織は雇用として条件を出した。篠田は仕事として教えてくれた。真帆は不安も意見も口にするようになった。料理長は文句を言いながらも試作を始めた。 ここでは、役に立たなければ捨てられるとは言われていない。 それなのに、澄乃の身体はまだ信じきれていなかった。 役に立たなければ。 気づかなければ。 
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名前のない疲れ②

 短い言葉だった。 澄乃は、口を閉じた。 篠田が穏やかに続ける。「花屋への確認は、いつも帳場でしております。澄乃さんは、文面の下書きを見ていただけますか」「はい」 澄乃は頷いた。 そうだった。 自分が全部をする必要はない。 そう分かっていても、一度立ち上がりかけた身体が、少し遅れて座り直す。まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、動け、動け、と背中を押しているようだった。 午前中は、次々と細かな仕事が重なった。 水明の花の確認。 秋灯の桂木へ出す茶菓子の内容。 季節膳の献立札の紙質。 大浴場の案内紙を置いた部屋で、客が迷わなかったかの聞き取り。 日帰り入浴の問い合わせ。 アレルギー対応表の赤い欄の位置。 どれも、水篝館を大きく変える仕事ではない。 けれど、小さな紙と小さな確認が、帳場の上に積もっていく。ひとつひとつは軽い。まとめると重い。澄乃はそれを知っていた。だからこそ、早めに片づけなければと思う。 昼前、真帆が帳場へ戻ってきた。「澄乃さん、水明のお客様、大浴場の場所は案内紙で分かったって言ってました」「本当ですか」「はい。ただ、食事処の場所は、もう少し絵の方が分かりやすいかもって」「分かりました。矢印を少し直します」「今すぐじゃなくていいですよ」 真帆が言った。 その言葉に、澄乃は少しだけ驚いた。「え?」「今日の分はもう置いてありますし。急がなくても」 真帆は何でもない顔で言う。 以前なら、澄乃の提案に身構えていた真帆が、今は澄乃を止める側に回っている。そのことが少しおかしくもあり、胸に染みもした。 だが、澄乃の手はすでに紙へ伸びていた。「下書きだけ、しておきます」「澄乃さん、朝からずっと書いてますよ」「大丈夫です」 口から自然に出た。 真帆の表情が少し曇った。 帳場の奥で、伊織の手が止まる。 澄乃は、その空気に気づいた。 また言ってしまった。 大丈夫です。 久世家で、自分を消すために使ってきた言葉。 水篝館では、少しずつ別の言葉に置き換えようとしていた。それなのに、忙しくなると真っ先に戻ってくる。 澄乃は笑おうとした。「いえ、本当に、少しだけですから」 真帆はまだ何か言いたげだったが、篠田に呼ばれて客室へ向かった。 伊織は何も言わなかった。 その沈黙が、逆に澄乃を落ち
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