All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 131 - Chapter 140

151 Chapters

元夫が現れた日②

 昌親は、薄く笑おうとした。「随分、堅い対応だな」「宿泊のお客様をお迎えしている時間ですので」「少し話がしたいだけだ」 その言葉で、ようやく本音が表に出た。 視察ではない。 館内案内でもない。 澄乃に会いに来たのだ。 澄乃は湯呑みを帳場の上へ置いた。 音は小さかったが、自分には妙にはっきり聞こえた。 伊織は、一歩も退かなかった。「どなたと」「澄乃と」 昌親は、当然のように呼び捨てた。 その音が、玄関の木の空間に落ちる。 澄乃は、ほんの少しだけ息を止めた。 水篝館で、澄乃は「澄乃さん」と呼ばれている。篠田も、真帆も、片桐も、桂木も。伊織も、必要以上に甘くも同情的にもなく、普通にそう呼ぶ。 昌親の「澄乃」は、昔の夫婦の名残ではなかった。 呼び出す声だった。 家の中の用件を渡す時の声。 台所へ向かわせる時の声。 会社関係の確認を頼む時の声。 その響きが、久しぶりに澄乃の胸を掠めた。 だが、以前ほど深くは刺さらなかった。 伊織が、自然に澄乃の前へ立ったからだった。 露骨に遮ったわけではない。 客と帳場の間に立っただけ。 宿の主人として、来訪者へ対応する位置へ移っただけ。 けれど、その背中が、昌親の視線から澄乃を半分隠した。「澄乃さんは勤務中です」 伊織は言った。 昌親の目が伊織へ向く。「さん?」 その一音に、昌親の違和感が滲んだ。 澄乃は、その違和感を聞き取った。 昌親にとって、澄乃は澄乃だった。妻であり、家の中の人間であり、自分が呼び捨てにして当然の女だった。水篝館の人間が彼女を「澄乃さん」と呼ぶこと、その敬意にも近い距離が、彼には馴染まないのだろう。 伊織は表情を変えない。「はい。澄乃さんです」 その返しに、昌親の頬がわずかに硬くなった。 澄乃は、胸の奥で静かに息をした。 伊織は、ことさら庇っているのではない。 ただ、水篝館での呼び方を使っただけだ。 それが、今の澄乃には何より強い線になっている。「少しでいい」 昌親は言った。「仕事の邪魔をするつもりはない。夫婦の話だ」 夫婦。 その言葉に、伊織の目が少しだけ冷えた。 澄乃は、伊織の背中越しに口を開いた。「久世さん」 昌親の視線が、澄乃へ戻る。 久世さん。 その呼び方を聞いた瞬間、彼の顔が変わった。 以前の澄乃は、
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元夫が現れた日③

 宿泊客が玄関へ戻ってきた。 桂木だった。 真帆に付き添われ、杖をつきながらゆっくり石畳を上がってくる。澄乃はすぐに昌親から視線を外した。「桂木様、お帰りなさいませ」 声が変わる。 客を迎える、落ち着いた水篝館の声だった。 昌親は、その変化にさらに動けなくなった。 澄乃は玄関へ出て、桂木の足元へ目を向ける。「足元、大丈夫でしたか」「ええ。真帆さんがいてくれたから助かったわ。灯籠、とても綺麗だった」「よかったです。お部屋に温かいお茶をご用意いたします。お食事までは少しお時間がございますので、どうぞお休みください」 桂木は、澄乃の顔を見て微笑んだ。「澄乃さんも、少し休んでね。ずっと動いていらっしゃるでしょう」「ありがとうございます。休憩表に従っておりますので」「あら、えらいわ」 桂木は楽しそうに言った。 そのやり取りを、昌親は見ていた。 澄乃が年配の客へ自然に声をかける様子。 客が澄乃を名前で呼び、親しみと信頼を見せる様子。 真帆が横で「桂木様、こちらです」と続ける様子。 それは、昌親の知る澄乃の接客に似ていた。久世家の茶会でも、彼女は同じように相手の足元や体調を見ていた。だが、決定的に違う。 今の澄乃は、誰かの背後にいない。 久世家の名を支える透明な手ではない。 水篝館の人間として、客の前に立っている。 客が去ると、昌親は低く言った。「随分、馴染んでいるんだな」 澄乃は帳場へ戻り、桂木の茶の指示を篠田へ伝えてから振り返った。「皆さんに教えていただいています」「澄乃」「久世さん」 澄乃は遮らなかった。 ただ、呼び方で返した。 昌親の顔が、また強張る。 伊織は依然として、澄乃の少し前に立っていた。必要以上に言葉は挟まない。だが、昌親が一歩踏み込もうとすれば、すぐに距離を取れる位置だった。 自然すぎるほど自然な防壁。 昌親は、それに気づいた。 この男は、澄乃を守っている。 けれど、所有しているようには見えない。 澄乃も、庇われるだけの弱い女として立っていない。必要なら自分で言葉を返す。だが、危うい距離には伊織が入る。二人の間には、言葉にしなくても通じる仕事上の呼吸がある。 昌親は、そこに苛立った。 自分が知らない呼吸だった。 自分が入れない間だった。「話をしたい」 昌親は、今度ははっきり
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元夫が現れた日④

 だが、その時、水明の若い夫婦が戻ってきた。澄乃はすぐに表情を切り替える。「お帰りなさいませ。お足元は大丈夫でしたか」「はい。案内札のおかげで迷わず行けました」「灯籠、すごく綺麗でした。夕食の時間、少し遅らせていただいてすみません」「お戻りのご連絡をいただいておりますので、ご心配なく。お部屋で少しお休みになってから、食事処へお越しくださいませ」 澄乃は、二人の濡れた足元へ目を向け、真帆に手拭いを頼む。篠田へ夕食確認を伝える。伊織が料理場へ短く声を飛ばす。 流れがある。 昌親が入れない流れだった。 澄乃が、久世家の外で生活している。 働き、判断し、呼ばれ、頼られ、止められ、支えられている。 その現実が、灯籠の明かりよりも強く昌親の目に入った。 夫婦が奥へ入ったあと、伊織は昌親へ向き直った。「お引き取りください」 声は静かだった。「今夜はこれ以上、対応できません」 昌親は伊織を睨んだ。「あなたに言われることではない」「水篝館の玄関で、勤務中の者へ私的な接触を続けるなら、宿としてお断りします」 伊織は一歩も引かない。 昌親は、言葉を探した。 だが、見つからなかった。 久世家の中なら通った言葉が、ここでは通らない。夫の立場も、久世の名前も、澄乃の過去も、伊織の前では宿の規則に変えられてしまう。 澄乃は、伊織の横に立った。 隠れるのではなく、並ぶ位置だった。「久世さん」 澄乃は静かに言った。「追いかけてこないでくださいと、お伝えしました」 昌親の顔が歪む。「あれは電話での話だろう」「同じです」「俺は、ただ」 言いかけて、昌親は言葉を止めた。 ただ、何なのか。 ただ見に来た。 ただ話したかった。 ただ確認したかった。 ただ、澄乃が本当に戻らないのか確かめたかった。 そのどれも、口にすればあまりに身勝手だった。 澄乃は言った。「私の仕事の場を乱さないでください」 その言葉は、静かだったが重かった。 昌親は、初めて完全に黙った。 仕事の場。 澄乃が、自分の場を持っている。 そこへ自分が入り込んではいけないと言われている。 その事実が、彼の中でようやく形を取ったようだった。 外では、灯籠の明かりがまだ揺れている。 温泉街から戻る人々の声が聞こえた。水篝館の玄関には、行灯の明かりが落ちている
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戻る場所はありません①

 灯籠まつりの夜が明けると、水篝館には薄い疲れと、穏やかな余韻が残っていた。 川沿いの石畳には、昨夜の灯籠の跡がところどころ淡く残っている。火を消したあとに回収された紙灯籠の一部が、町内会の者たちの手で広場から運ばれてきて、玄関脇の長机に並べられていた。紙に残った願いの文字は、夜の灯りを失っても、まだどこか温かかった。 水面は朝の光を受けて白く光っている。 昨夜、あれほど揺れていた灯りはもうない。けれど川は変わらず流れていた。夜に見た光の記憶だけが、水の底に沈んでいるように、澄乃には思えた。 水篝館の帳場は、早朝から忙しかった。 灯籠まつりに参加した客への礼状、忘れ物の確認、町内会へ返す椅子、休憩所に貸し出した膝掛け、夕食時間をずらした客の会計処理。小さな後片づけが、朝の仕事の隙間にいくつも挟まっている。 澄乃は、帳場の端で案内札の残りをまとめていた。 使用したもの、予備として残したもの、来年も使える文面、修正が必要な箇所。片桐から、町側でも参考にしたいと言われていたため、宿用と町内会用を分けて写しを作る必要があった。 真帆が横で、回収した膝掛けを確認している。「澄乃さん、桂木様の膝掛け、少し湿っていたので干しておきますね」「お願いします。あと、足湯横の縁台に置いた案内札は片桐さんが回収してくださるそうです」「片桐さん、朝から元気でしたね」 真帆が少し笑った。「まつりの翌日なのに、声が大きいのは才能だと思います」「町内会には必要な才能かもしれません」 澄乃がそう返すと、真帆は楽しそうに肩を揺らした。 こんな会話を、自分が自然にできるようになったことが、まだ少し不思議だった。久世家では、会話の多くに目的があった。相手の機嫌を取るため、場を壊さないため、用件を済ませるため。水篝館で交わす短い言葉は、仕事の中にありながらも、少しだけ息ができる余白を持っている。 伊織は帳場の奥で、町内会へ返す貸出品の一覧を見ていた。 片桐が広場から持ってきた灯籠の残りを、昼前に町内会の倉庫へ戻すことになっている。水篝館からは、使わなかった膝掛けと簡易椅子も返す。澄乃がその確認を申し出ると、伊織は一度だけ顔を上げた。「ひとりで行くな」「近くの倉庫ですよね」「近くでも、ひとりで行くな」 声は短かった。 昨夜のことがあるのだと、澄乃にも分かった。
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戻る場所はありません②

 倉庫の前には、片桐の姿がなかった。 古い木戸は閉じられ、軒先に雨水が少し残っている。川風が吹くと、蔦の葉がかすかに擦れた。人気は少ない。昼前の温泉街は、宿泊客が部屋や湯にいる時間で、外を歩く人はまばらだった。 伊織は周囲を見た。「片桐がいないな」「先に広場でしょうか」「少し待つ」 伊織は倉庫の軒下に椅子を下ろした。 澄乃も紙灯籠の箱を足元へ置く。 その時、背後から車の音がした。 澄乃の背中が、わずかに強張った。 ゆっくり近づいてきた黒い車が、石畳の手前で停まる。昨夜と同じ車だった。運転手が降りる前に、後部座席の扉が開いた。 昌親が降りてきた。 昨日と同じ紺のスーツではない。今日は少し色の薄い上着を着ている。仕事用というより、私用に近い姿だった。それでも手には鞄を持っている。何かのついでだと言えるように、言い訳の小道具を手放せないのだろう。 伊織が、すぐに澄乃の前へ出ようとした。 だが、その瞬間、倉庫の横道から声がした。「若旦那、すみません、鍵が別の箱で」 片桐だった。 手に鍵束を持ち、慌てて走ってくる。彼は昌親の姿を見て、足を止めた。 空気が一瞬で張りつめる。 昌親は伊織と片桐を見た。「少し、澄乃と話がしたい」 伊織の目が冷える。「昨日もお伝えしました」「二人で話したいんだ」「お受けできません」 伊織の声は低かった。 片桐は状況を読んで、鍵束を握り直す。「若旦那、俺は倉庫を開けておきます」 そう言いながら、彼は澄乃の近くから離れすぎない位置に残ろうとした。 だが、倉庫の奥から別の町内会員が片桐を呼んだ。どうやら灯籠の一部が濡れてしまったらしく、確認が必要らしい。片桐は迷った顔をした。 伊織は短く言う。「片桐さん、先に見てくれ。ここは俺が」 その時、温泉街の方から水篝館の若い仲居が駆けてきた。「若旦那! 料理長が、町内会に貸した大鍋が戻っていないって」 伊織が眉を寄せた。「今か」「すみません、料理長がすぐ確認しろって」 間の悪さが、場を分断した。 片桐は倉庫の奥へ呼ばれ、伊織は大鍋の確認へ行かなければならない。だが、澄乃を昌親と二人きりにするわけにはいかない。 澄乃は、伊織を見た。「私は大丈夫です」 言ってから、すぐに付け足す。「……大丈夫というより、ここでお話を終わらせます。近く
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戻る場所はありません③

 澄乃は静かに遮った。「昌親さんが止めなかったことです。私が傷つくと分かっていて、面倒そうに黙っていたことです。あの時、私の尊厳は、あの応接間に置き去りにされました」 昌親の顔色が変わった。 尊厳。 その言葉が、彼には重すぎたのかもしれない。 夫婦の揉め事。 浮気。 家出。 嫉妬。 そういう言葉で処理していたものが、澄乃の口から別の名前で呼ばれた。 尊厳。 それは、昌親が見ようとしてこなかったものだった。「大げさだ」 昌親は、ようやく言った。 だが、その声には以前ほどの強さがなかった。「瑠璃花は、少し言い方を間違えただけだ。俺も、あの場でどうすればいいか分からなかった。母さんも混乱している。みんな、急なことで」「私は急ではありませんでした」 澄乃は言った。「ずっと少しずつ、終わっていました」 昌親の顔が強張る。「終わっていた?」「はい」 澄乃は頷いた。「私が話しかけても、スマートフォンから顔を上げなかった時。義母の通院調整をしても、当然のように予定を増やされた時。会食先の確認をした私へ、細かいと言った時。風邪を引いても、朝食はどうするのかと聞かれた時。瑠璃花さんの香水の匂いがついた上着を、何も言わずに私へ渡した時」 ひとつずつ。 穏やかな声で。 澄乃は、積み上がった終わりを言葉にしていく。 昌親は黙っていた。「そのたびに、私は少しずつ終わっていました。あの日、突然壊れたのではありません。あの日は、最後に形が見えただけです」 昌親は、視線を逸らした。 その仕草を、澄乃は見逃さなかった。 彼は覚えているのだ。 全部ではないかもしれない。けれど、いくつかは心当たりがある。上着の香水。スマートフォン。細かいという言葉。自分が軽く流したひとつひとつが、澄乃の中で終わりとして積もっていたことを、今初めて突きつけられている。 それでも、彼は謝らなかった。 昌親は、苦い声で言った。「そろそろ頭を冷やしただろう。戻ってこい」 澄乃は、ほんの一瞬、言葉を失った。 謝罪ではなかった。 弁明でもなかった。 懇願ですらなかった。 当然の命令だった。 頭を冷やしただろう。 戻ってこい。 その言葉の中で、澄乃はまだ家出した妻だった。怒りが収まれば帰る女。久世家の実務が恋しくなり、自分の役割を思い出せば戻る女。
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戻る場所はありません④

 昌親はそれに気づき、足を止める。 澄乃は後ろを振り返らなかった。 伊織が近くにいる。 それだけで十分だった。「私は、水篝館で働いています」 澄乃は言った。「ここで、私の仕事は仕事として扱われます。休むことも条件に入っています。失敗すれば責められるだけではなく、どう直すかを話します。私の名前を、皆さんが呼んでくださいます」 昌親の表情に、痛みのようなものが浮かぶ。「久世家でも、名前くらい」「呼ばれていました」 澄乃は認めた。「でも、私を呼んでいたのではありません。用件を呼んでいたのだと思います」 風が吹き、川の匂いが届いた。 倉庫の軒先に絡んだ蔦の葉が揺れる。「私はもう、用件として呼ばれる場所へ戻りません」 昌親は、拳を握った。「そんなに、俺が悪いのか」 子どものような声だった。 責任を問われた大人の声ではない。 自分だけを悪者にされたくない男の声だった。 澄乃は、しばらく黙って彼を見た。 彼を責め尽くしたい気持ちは、不思議と薄かった。 怒りはある。 悲しみもある。 けれど、今の澄乃に一番強くあるのは、戻らないという確信だった。「誰がどれだけ悪いかを、ここで決めるつもりはありません」 澄乃は言った。「それは手続きの中で、必要な形にします」 書面で。 記録で。 感情ではなく、残る形で。「ただ、私が戻らない理由は、私の中ではもう決まっています」「何だ」「あの家には、私の場所も尊厳もなかったからです」 昌親は、完全に黙った。 その沈黙は、これまでと違った。 怒りで言葉を探す沈黙ではない。 初めて、拒絶の重さを受け止めた沈黙だった。 澄乃は、ゆっくり息を吸った。「戻る場所はありません」 その言葉で、空気が切れた。 遠くで、片桐が誰かと話す声が聞こえる。 伊織の低い声も、倉庫の入口近くにある。 水篝館の方から、真帆が呼ぶ声がかすかに届いた。 澄乃の周りには、もう久世家だけではない音があった。 昌親は、その音の外側に立っていた。「……本当に、戻らないのか」 昌親の声は、ひどく低かった。「はい」「俺が、迎えに来ても」「戻りません」「母さんが謝ると言っても」「戻りません」「瑠璃花と別れたら」 その言葉に、澄乃は少しだけ目を伏せた。 瑠璃花と別れる。 それを切り札のように
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離婚成立①

 朝の水篝館には、湯気の匂いが静かに満ちていた。 厨房から出汁の香りが流れ、廊下の古い木に柔らかく染みていく。川は昨日よりも穏やかで、夜のうちに冷えた水が石の間を細く鳴らしていた。障子越しの光は薄く、まだ少し青い。宿泊客が朝食へ向かう足音が、畳敷きの廊下に吸い込まれていく。 澄乃は帳場の端で、宿泊予定表の差し替えをしていた。 水明の客は朝食後に早めの出発を希望している。桂木は足の具合を見て、昼前までゆっくり過ごす予定だった。季節膳の献立札は、昨夜のうちに料理長の確認を受けた。記念日対応の花も、町の花屋から時間通り届くことになっている。 ひとつずつ、確認する。 部屋名。 人数。 食事時間。 送迎。 注意事項。 小さな項目を台帳に写していくたび、心はいつもより少しだけ落ち着いた。紙に書かれた仕事は、澄乃の手元で形を持つ。誰かの顔色を見て先回りするだけではなく、共有できるものになる。水篝館へ来てから、そのことを何度も教えられてきた。 帳場の奥で、篠田が郵便物を確認していた。 朝の配達は、たいてい請求書や町内会の連絡、常連客からの手紙である。今日もいつも通りの束に見えた。けれど、篠田の手が一通の白い封筒で止まった。「澄乃さん」 名前を呼ばれ、澄乃は顔を上げた。「はい」「こちら、法律事務所からです」 差し出された封筒を見た瞬間、指先がわずかに冷えた。 厚みはそれほどない。 だが、手に取ると紙以上の重さがあった。封筒の表に、杠澄乃の名が印字されている。久世ではない。杠澄乃。その文字を見ただけで、胸の奥が静かに鳴った。 伊織は帳場の奥で台帳を見ていたが、澄乃の手元へ視線を移した。 何も聞かない。 だが、見ている。 澄乃は封筒を両手で持ち、少しだけ頭を下げた。「部屋で確認してまいります」「行け」 伊織が短く言った。「帳場は回る」 その一言が、澄乃の背中を押した。 以前なら、まず自分の不在で誰かが困らないかを考えた。手元の台帳を最後まで整え、篠田に細かく引き継ぎ、客の動きが落ち着くまで待っただろう。だが今は、必要な時に席を外していいと教えられている。 澄乃は帳場を離れた。 廊下の板が、足元でわずかに鳴る。川の音が少し近づく。部屋へ向かう間、封筒の角が指に当たり続けた。その硬さが、これから開くものの現実を知らせているようだ
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離婚成立②

 中には、合意書の写しと、弁護士からの短い添え状が入っていた。手続きが正式に整ったこと。慰謝料と財産分与が、相手方から支払われる形で確定したこと。支払時期。今後の連絡窓口。戸籍上の手続きについての案内。 そして、別紙として、婚姻期間中の実務記録が添付されていた。 澄乃は、その別紙をそっと手に取った。 何十枚もの膨大なものではない。弁護士が整理した要約だった。けれど、そこには確かに、澄乃が久世家で行ってきたことが項目として残されていた。 家庭内実務。 義父母対応。 親族行事。 贈答および返礼。 会社関係補助。 会食準備。 慶弔管理。 社交記録。 直接の金額にできない部分が多いこと。 しかし、婚姻期間中の生活および久世家側の対外的信用維持に一定の実質的貢献があったこと。 その文面を見た瞬間、澄乃の指が止まった。 一定の実質的貢献。 冷たい言葉だった。 とても事務的で、柔らかくはない。祖母の言葉のように温かいわけでも、伊織の声のように支えてくれるわけでもない。 それでも、澄乃の目の奥が熱くなった。 あったことになった。 誰かのために朝早く起きたこと。 冷めた味噌汁を一人で飲んだこと。 義母の茶会のために白百合を避けたこと。 昌親の会食先の禁句を覚えたこと。 義父の減塩食を整えたこと。 会社の祝い花の肩書を確認したこと。 親族の席順を何度も書き直したこと。 すべてが金額になるわけではない。感謝に変わるわけでもない。失った時間が戻るわけでもない。 けれど、無かったことにはならなかった。 澄乃は、紙の上に指先を置いた。 文字が滲みそうになり、慌てて目を瞬く。 泣きたいのかもしれない。 でも、泣くほどの悲しみとは少し違った。 長い間、胸の奥で押し込めていたものが、ようやく外の空気を吸ったような感覚だった。 合意書には、昌親側が慰謝料と財産分与について一定の支払いをすること、今後は澄乃へ直接接触しないこと、必要な連絡は代理人を通すことが記されていた。澄乃の無償労働については、金銭評価を全面的に認める文言ではない。だが、別紙記録の存在と、婚姻期間中の貢献については、合意内容の確認資料として残されている。 完全な謝罪ではない。 久世家が心から悔いたという証でもない。 それでも、澄乃には十分だった。 少なくとも
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離婚成立③

「顔色は悪くないな」「そうでしょうか」「泣いた顔でもない」「泣いては、いません」「ならいい」 澄乃は、少しだけ目を伏せた。「悲しいより、ほっとしています」 ぽつりと、言葉が落ちた。 自分でも、その言葉を誰かに言うのは少し怖かった。薄情だと思われるだろうか。七年も夫婦だったのに、安堵が先に来るなんておかしいと言われるだろうか。 だが、伊織は眉ひとつ動かさなかった。「そうか」 また、それだけ。 澄乃は胸の奥が緩むのを感じた。「おかしいでしょうか」「何が」「離婚が成立して、悲しみより先に、安心していることが」 伊織は少しだけ考えた。「檻から出て、檻が恋しい方がおかしいだろ」 その言い方は、あまりに伊織らしかった。 澄乃は思わず息を止め、それから少しだけ笑ってしまった。 笑うとは思わなかった。 口元に手を当てる。「檻、ですか」「違うのか」「……いいえ」 違わない。 久世家は、家だった。 けれど、澄乃にとってはいつしか檻でもあった。 そこには食卓も、寝室も、庭もあった。親族の写真も、茶器も、贈答記録もあった。だが、澄乃の尊厳が座れる椅子はなかった。 伊織の言葉は乱暴だ。 けれど、妙に正確だった。「檻から出たのだと、思います」 澄乃は言った。 伊織は頷いた。「なら、飯を食え」「なぜ、そこで食事に」「檻から出た人間は、まず食う」 澄乃は、また少し笑いそうになった。「そういうものですか」「知らん。だが、お前はすぐ食わなくなる」 反論できなかった。 伊織は立ち上がる。「夕食、料理長に一品足させる」「そんな、私のために」「今日のまかないだ」「まかない」「ああ。客に出すものじゃない。従業員用だ」 その言い方で、澄乃が恐縮しすぎないようにしているのだと分かった。 祝宴ではない。 特別な席でもない。 けれど、何もなかったように流すわけでもない。 水篝館の夕食に、澄乃の好きな一品を足す。 その程度。 その程度が、今の澄乃にはちょうどよかった。「何が好きだ」 不意に問われ、澄乃は少し考えた。 好きなもの。 久世家では、誰かの好みを優先することが多かった。昌親の好きな出汁巻き。義父の減塩の煮物。義母が外では褒める味噌汁。自分の好みを聞かれることは、あまりなかった。 水篝館へ来てからも
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