昌親は、薄く笑おうとした。「随分、堅い対応だな」「宿泊のお客様をお迎えしている時間ですので」「少し話がしたいだけだ」 その言葉で、ようやく本音が表に出た。 視察ではない。 館内案内でもない。 澄乃に会いに来たのだ。 澄乃は湯呑みを帳場の上へ置いた。 音は小さかったが、自分には妙にはっきり聞こえた。 伊織は、一歩も退かなかった。「どなたと」「澄乃と」 昌親は、当然のように呼び捨てた。 その音が、玄関の木の空間に落ちる。 澄乃は、ほんの少しだけ息を止めた。 水篝館で、澄乃は「澄乃さん」と呼ばれている。篠田も、真帆も、片桐も、桂木も。伊織も、必要以上に甘くも同情的にもなく、普通にそう呼ぶ。 昌親の「澄乃」は、昔の夫婦の名残ではなかった。 呼び出す声だった。 家の中の用件を渡す時の声。 台所へ向かわせる時の声。 会社関係の確認を頼む時の声。 その響きが、久しぶりに澄乃の胸を掠めた。 だが、以前ほど深くは刺さらなかった。 伊織が、自然に澄乃の前へ立ったからだった。 露骨に遮ったわけではない。 客と帳場の間に立っただけ。 宿の主人として、来訪者へ対応する位置へ移っただけ。 けれど、その背中が、昌親の視線から澄乃を半分隠した。「澄乃さんは勤務中です」 伊織は言った。 昌親の目が伊織へ向く。「さん?」 その一音に、昌親の違和感が滲んだ。 澄乃は、その違和感を聞き取った。 昌親にとって、澄乃は澄乃だった。妻であり、家の中の人間であり、自分が呼び捨てにして当然の女だった。水篝館の人間が彼女を「澄乃さん」と呼ぶこと、その敬意にも近い距離が、彼には馴染まないのだろう。 伊織は表情を変えない。「はい。澄乃さんです」 その返しに、昌親の頬がわずかに硬くなった。 澄乃は、胸の奥で静かに息をした。 伊織は、ことさら庇っているのではない。 ただ、水篝館での呼び方を使っただけだ。 それが、今の澄乃には何より強い線になっている。「少しでいい」 昌親は言った。「仕事の邪魔をするつもりはない。夫婦の話だ」 夫婦。 その言葉に、伊織の目が少しだけ冷えた。 澄乃は、伊織の背中越しに口を開いた。「久世さん」 昌親の視線が、澄乃へ戻る。 久世さん。 その呼び方を聞いた瞬間、彼の顔が変わった。 以前の澄乃は、
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