All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 141 - Chapter 150

151 Chapters

離婚成立④

 真帆が気づいて、にやりと笑う。「澄乃さん、今、完全に厨房の方見ましたね」「いえ、その」「焼き茄子、料理長が作ってましたよ。若旦那が何か言ったんですか」 澄乃は答えに迷った。 篠田が横で穏やかに言う。「今日のまかないに、一品増えるそうです」「珍しい」 真帆は目を丸くした。「料理長、文句言ってました?」 その時、厨房から葛城の声がした。「聞こえてるぞ」 真帆が肩をすくめる。 葛城が帳場に顔を出した。「焼き茄子くらいで騒ぐな。余った茄子を焼いただけだ」 いかにも不機嫌そうな顔だった。 だが、手には小さな器を持っている。そこには、焼き茄子の出汁浸しがきれいに盛られていた。薄く刻んだ茗荷と、ほんの少しの生姜。出汁は透明で、茄子の紫が淡く沈んでいる。 葛城はそれを澄乃の前に置いた。「味見」「私が、ですか」「好きなんだろ」 澄乃は、言葉に詰まった。 誰かが自分の好きなものを覚えて、作ってくれる。 それだけのことが、胸に来る。「ありがとうございます」 澄乃が言うと、葛城は顔をしかめた。「礼は食ってから言え。まずかったら直す」「はい」 伊織が帳場の奥から出てきた。 何も言わない。 ただ、澄乃が器を前にしているのを見て、少しだけ目を細めた。 澄乃は箸を取った。 焼き茄子をひと口、口へ運ぶ。 皮の香ばしさが最初に来て、すぐに出汁のやわらかさが広がった。茄子は柔らかく、けれど崩れすぎていない。茗荷の香りが少しだけ立ち、生姜が後味を締める。祖母と水篝館に泊まっていた頃の記憶が、ふっと胸の奥へ戻ってきた。 窓辺。 川の音。 祖母の細い指。 「急がなくていいわ」と笑う声。 澄乃は、箸を持つ手を一度止めた。「……美味しいです」 声が少し掠れた。 葛城は、ふん、と鼻を鳴らした。「なら食え」 それだけ言って厨房へ戻っていった。 真帆が小さく笑う。「料理長、照れてますね」「言うと怒られますよ」 篠田が静かにたしなめる。 伊織は何も言わなかった。 澄乃も、何も言わずにもう一口食べた。 泣きそうだった。 けれど、泣かなかった。 今日が何の日か、料理長は詳しく知らないだろう。篠田や真帆も、はっきりとは聞いていない。伊織だけが知っている。けれど、誰もそれを大きな出来事として声にしない。 ただ、いつもの夕
Read more

好きになってはいけない人①

 離婚が成立した翌朝、水篝館の川はいつもと変わらず流れていた。 夜のうちに少し冷えたらしく、窓の外には白い靄が薄く漂っている。川面は淡い銀色で、石に当たる水音だけが、宿の奥まで静かに届いていた。廊下には朝食の支度の匂いが満ちている。出汁、焼き魚、炊きたての米、湯気を含んだ木の匂い。すべてがいつも通りで、そのことが澄乃には不思議だった。 昨日、戸籍の上で久世昌親の妻ではなくなった。 七年分の役割が紙の上で閉じられ、慰謝料と財産分与の取り決めも整い、無償で担ってきた実務も記録として残された。澄乃にとっては、確かに大きな日だった。 けれど、水篝館の朝は騒がなかった。 客は朝食へ向かい、真帆は廊下を小走りに進み、篠田は帳場で宿泊客の予定を確認している。料理長は厨房で魚を焼き、伊織は玄関の行灯を片づけていた。誰も、澄乃を特別な悲劇の人として扱わない。かといって、何もなかったように無視もしない。 その距離感が、ありがたかった。 澄乃は帳場の端で、季節膳の献立札を見直していた。 昨日、料理長が出してくれた焼き茄子の出汁浸しの味が、まだ舌の奥に残っている。祖母と水篝館で過ごした季節が、ほんの少し戻ってきたようだった。あれは祝いではなかった。慰めでもなかった。ただ、夕食に一品足された。伊織がそうしてくれた。料理長も何も言わずに作ってくれた。 押しつけではない優しさ。 澄乃は、そのことを考えるたびに、胸の奥が柔らかく痛んだ。 伊織は、帳場の向こうで篠田と話している。「水明の客、送迎は十時半だ。桂木様は十一時まで部屋で休む。足元の確認をしてから玄関へ」「承知しました。真帆さんに伝えておきます」「季節膳の紙は、料理長の確認が済むまで客室に入れるな」「はい」 短い声。 無駄のない指示。 澄乃は、紙へ視線を落とした。 伊織の声を聞くだけで、胸の奥が少し反応するようになっていることに、自分で気づいていた。以前なら、ただ若旦那の声として聞いていた。水篝館を守る人の声。仕事を止める時の声。休めと言う声。今もそれは変わらない。 けれど、それだけではなくなっていた。 昨夜、彼が焼き茄子を用意してくれた時。 「檻から出た人間は、まず食う」と、乱暴なことを言った時。 大げさに慰めず、ただ書類を読んだ澄乃のそばへ湯呑みを置いた時。 そのひとつひとつを思い出すた
Read more

好きになってはいけない人②

 澄乃は、ひとつずつ対応した。 桂木には、足元のよい道を案内する。真帆に付き添いの時間を確認する。水明の送迎変更は、伊織に車の状況を確認してから返答する。日帰り入浴は、宿泊客の時間を優先しながら受け入れ可能な範囲を伝える。 忙しい。 けれど、以前のように自分ひとりで抱えようとはしない。 帳場の休憩表もある。 自分の名前の欄もある。 今日は、午後三時から十五分間、澄乃が休憩することになっていた。まだその文字を見ると少し落ち着かないが、伊織に「守れ」と言われている以上、守らなければならない。 仕事として。 その言い方を胸の中で繰り返す。 午後、町の商店から季節膳用の紙見本が届いた。 和紙のような手触りのもの、少し厚みのあるもの、生成りのもの、白すぎるもの、淡い灰色を帯びたもの。澄乃は篠田と真帆と一緒に、それらを帳場の端へ並べた。「白すぎると、料理に添えた時に浮きますね」 篠田が言う。「生成りだと水篝館らしいですけど、文字が薄いと年配のお客様には読みにくいかも」 真帆が紙を持ち上げた。 澄乃は、墨の見え方を確かめる。「こちらの少し厚手の紙なら、黒の文字が沈みすぎません。料理の邪魔もしないと思います」「料理長に見せますか」「はい。紙が安っぽいと料理が負ける、とおっしゃっていたので」 真帆が笑いそうになった。「本当に料理長らしい」 その時、帳場の横を通りかかった伊織が、紙の束を見た。「重いな」「紙ですか」「ああ。料理場まで持っていくなら俺が持つ」 澄乃は思わず首を振った。「いえ、このくらいでしたら」 そう言いかけた手から、伊織は紙束を取った。 強引というほどではない。 ただ、当然のように持った。「お前は献立札の控えを持て」「でも」「重いものを持つことと、仕事をしていることは同じじゃない」 言い返せなかった。 澄乃は、軽い方の控えを持った。 真帆が小さく笑う。「若旦那、最近それよく言いますよね」「必要だから言ってる」「澄乃さん、すぐ全部持とうとするから」 真帆の声は明るいが、そこには本気の心配もある。 澄乃は少し恥ずかしくなり、視線を落とした。「気をつけます」 伊織がすぐに言う。「気をつけるじゃなく、渡せ」「……はい。渡します」「よし」 紙束を持って厨房へ向かう伊織の背中を見ながら、澄
Read more

好きになってはいけない人③

 近づくと、湯呑みの横に小さな紙が置かれていた。 飲め。 たった二文字。 伊織の字だった。 澄乃は、その紙をしばらく見つめた。 温かい飲み物を置いていく。 手紙というほどでもない。 気遣いというには無骨すぎる。 それでも、澄乃の休憩時間を覚えて、熱すぎない茶を置いてくれたのだと分かる。 胸が、また揺れた。 澄乃は椅子に座り、湯呑みを両手で包んだ。 温かい。 その温度だけで、目の奥が少し熱くなりそうだった。 好きになってはいけない。 また、そう思う。 でも、心は命令だけで止まらない。 伊織が押してこないからこそ、余計に揺れるのかもしれない。彼は澄乃の過去を利用しない。弱った隙に甘い言葉をかけたりしない。離婚が成立したからといって距離を詰めてこない。昨日も、今日も、ただ仕事の中で澄乃を支えている。 温かい茶を置く。 重い紙束を持つ。 客前で澄乃の仕事を、澄乃のものとして返す。 それだけ。 それだけなのに、その積み重ねが胸に残る。 澄乃は、茶を一口飲んだ。 香ばしいほうじ茶だった。 胃の奥が温まる。 休憩中は、持ち場へ戻らない。 自分で書いた一文を思い出す。 澄乃は、窓の外の川を見た。 自分は今、再生の途中にいる。 誰かを好きになることが悪いわけではない。だが、好きという言葉を急いで使うと、また自分を見失う気がした。伊織を見ているのか、伊織が与えてくれる安心を見ているのか、今はまだ分からない。 だから、認めない。 少なくとも今は。 けれど、否定しきれない。 そのことも、澄乃はもう分かっていた。 休憩を終えて帳場へ戻ると、ちょうど桂木が会計を済ませているところだった。 篠田が対応し、伊織が隣で荷物の確認をしている。澄乃の姿を見ると、桂木が微笑んだ。「澄乃さん、少しだけよろしい?」「はい」 澄乃はすぐ近づいた。 桂木は、小さな包みを差し出した。「これ、たいしたものではないの。昨日の灯籠まつり、とてもよかったから。案内のお礼に」「そんな、お気遣いなく」「これは私の気持ちよ。受け取ってちょうだい」 澄乃は迷った。 客から個人的なものを受け取ってよいのか。水篝館の規則として確認すべきか。伊織へ視線を向けると、彼は静かに頷いた。「宿への土産として受ける。あとで皆で分ける」 その言葉で、澄乃は
Read more

好きになってはいけない人④

 大きな荷物を持った夫婦が来た時、澄乃は荷物へ手を伸ばしかけた。だが、その前に伊織が自然に近づき、重い鞄を持った。「こちらでお預かりします」 客へ向ける声は、低く落ち着いていた。 澄乃には何も言わない。 ただ、重いものは持たせない。 その横で、澄乃は部屋の案内と食事時間の確認をする。役割が分かれている。客の前で、澄乃は荷物を持つ人ではなく、案内する人として立っている。 そのことに、また胸が揺れた。 客が奥へ進んだあと、澄乃は小さく言った。「ありがとうございます」 伊織は歩きながら返す。「何度も言わせるな。重いものを持つことと仕事は同じじゃない」「はい」「お前の仕事は、客が迷わないようにすることだ」 澄乃は頷いた。 伊織は続ける。「それは、俺にはできない」 意外な言葉だった。 澄乃は彼を見る。「伊織さんには、できないことですか」「ああ」「そんなことは」「俺が言うと短すぎる」 澄乃は、思わず納得してしまった。 伊織の案内は的確だが、確かに短い。必要なことだけを伝える。客によっては、その簡潔さが心地よいだろう。だが、澄乃のように相手の迷いや遠慮を先にほぐす言葉は、伊織の得意なものではない。「だから、澄乃さんがやれ」 伊織は言った。「お前の仕事だ」 澄乃は、しばらく言葉が出なかった。 客前で彼女の仕事を彼女のものとして返す。 それを、伊織は何度もしてくれる。 誰かのために消えていく仕事ではなく、澄乃の名前で残る仕事にしてくれる。 好きになってはいけない。 その言葉は、今日だけで何度も胸に浮かんだ。 けれど、浮かぶたびに少しずつ力を失っている。 夜、仕事が終わる頃には、澄乃は自分の心に疲れていた。 恋をしていると認めるには早すぎる。 でも、何もないと言い切るには遅すぎる。 その曖昧な場所に立っている。 水篝館の帳場には、夜の静けさが戻っていた。行灯の灯りが木の床に落ち、川の音が障子の向こうから聞こえる。真帆は客室へ最後の確認に行き、篠田は台帳を閉じている。料理長は厨房で明日の仕込みの確認をしていた。 澄乃は、灯籠まつりの案内札の控えを文箱へしまうため、自室へ戻ろうとした。 その時、伊織が帳場の奥から声をかけた。「澄乃さん」「はい」「明日の朝、片桐さんが来る。町内会の案内文を見たいそうだ」
Read more

崩れる社内評価①

 久世商事の本社受付には、朝から妙な沈黙が落ちていた。 大理石の床はいつも通り磨かれている。受付台の上には、季節の花が飾られていた。空調はほどよく効き、硝子張りの正面玄関から差し込む光も悪くない。けれど、その場を通る社員たちは皆、どこかで足を緩め、受付の花へ視線を向けてから、何も言わずに目を逸らしていった。 花は立派だった。 淡い桃色の百合に、白い蘭、薄紫のトルコ桔梗。花器も大きく、見栄えはする。だが、その組み合わせは、今日の来客には合っていなかった。 午前十時、久世商事には、長年取引のある三倉機工の相談役夫妻が来社する予定だった。社長の隆成が直接迎える相手であり、昌親も同席する。三倉相談役は正式には経営の第一線を退いているが、今も業界内で強い顔を持つ。彼の妻は、久世家の茶会にも来ていた三倉夫人だった。 そして三倉夫人は、強い花の香りが苦手だった。 澄乃がいた頃、受付花は必ず香りを抑えたものにしていた。見栄えよりも、来客が受付で最初に呼吸する空気を整えること。花の大きさより、相手の体調や記憶に触れないこと。澄乃はそのために、花屋へ細かな指示を出していた。表に出る名義は久世商事でも、実際に電話を入れ、前日の変更まで確認していたのは澄乃だった。 その澄乃はいない。 受付の若い社員は、花器の前で困ったように立っていた。「これ、替えた方がいいですよね」 隣の先輩社員が眉を寄せる。「今からじゃ間に合わないわ。花屋に頼んでも、到着は昼前になる」「でも、三倉様、香りが苦手なんですよね」「それを知っている人が、今ここにいないのよ」 小さな声だった。 けれど、その言葉は、受付の奥にいた総務課の社員にも届いた。 以前なら、こういう時、誰かが澄乃へ連絡していた。会社の正式な社員ではなかったのに、なぜか彼女は取引先夫人の好み、退任後の肩書、祝い花の札の書き方、会食先の禁句を知っていた。社員たちは深く考えず、「奥様に確認しておきます」と言って済ませてきた。 それが、どれほど不自然なことだったか。 今になって、廊下のあちこちで気づき始めていた。 総務課長の大戸は、受付花の写真を撮り、昌親へ確認を入れようとして、手を止めた。 確認しても、返事が来るとは限らない。 返事が来たとしても、役に立つとは限らない。 ここ数日で、それを嫌というほど思い知っていた
Read more

崩れる社内評価②

 その翌朝、別の取引先夫人から、久世家の母である佳枝へ連絡が入った。 柔らかな口調だった。 しかし、要するに「最近、少し行き違いが多いようですね」という探りだった。 夫人同士の関係は、会社の会議室では見えない。 だが、見えないから軽いわけではない。 隆成は、それを知っていた。社長として、表の交渉だけで会社が動かないことを嫌というほど知っている。会議で交わす契約書の裏には、食事、花、見舞い、弔意、家族への配慮、夫人同士の空気がある。それらがすぐ金になるわけではない。けれど、信用の底を支えている。 その底が、今、細かく崩れ始めていた。「家が乱れるというのは、食卓が荒れることだけではない」 隆成は言った。 昌親が顔を上げる。「こういうところに出るんだ」 社長室の空気が重くなった。「受付花ひとつ、見舞い品ひとつ、会食先の段差ひとつ、弔事の名義ひとつ。そんなもの、とお前は思っているのだろう」「そんなものとは」「思っているから、こうなる」 隆成の声に、怒鳴るような強さはなかった。 それがかえって重かった。「澄乃さんは、そういう細い糸を見ていた。お前は、その糸の上を歩いていた。自分の足場だと思ってな」 昌親の手が、わずかに握られた。「澄乃は、妻としてやっていただけです」「妻として、だと?」 隆成の目が冷えた。「会社の受付花の手配まで、妻として当然か」 昌親は言い返せなかった。「取引先夫人の体調を覚えておくことも。会食先の段差を避けることも。見舞い品を相手の病状に合わせることも。祝い花の札の肩書を直すことも。社員の慶弔に、こちらの出方を整えることも。全部、妻として当然か」 昌親の喉が動く。「……頼んでいたわけでは」「頼んでいなければ、受け取っていなかったことになるのか」 隆成は、静かに問うた。 その言葉は、社長室の木の壁に低く響いた。 昌親は視線を逸らした。 頼んでいない。 それは、澄乃に対して何度も心の中で使ってきた言葉だった。勝手にやっていた。細かすぎただけだ。そこまで求めていない。そう思えば、澄乃がいなくなった後の不便も、彼女の過剰さのせいにできた。 だが、会社はもうその言い訳を許してくれなかった。 頼んでいなくても、受け取っていた。 支えられていた。 失って困っている。 それが事実だった。 社長室
Read more

崩れる社内評価③

 会議で話す数字なら分かる。 契約条件なら分かる。 だが、夫人が椅子へ座る前に鞄を置く台が必要かどうか、足元が冷えないか、香りの強い花が苦手か、食事の量が重すぎないか。そういうものを、昌親は見てこなかった。 澄乃が見ていた。 その事実が、応接室の静かな空気の中で、昌親の喉を締めつけた。 昼過ぎ、三倉夫妻が帰ったあと、社内には疲れた空気が残った。 大きな失敗は避けられた。 だが、それは隆成と秘書室、総務が慌てて穴を塞いだからだった。すでに空いた穴を、急場で隠しただけ。相手が気づかなかったはずはない。 総務課では、大戸が見舞い品の一覧を前に頭を抱えていた。「これ、誰が最終確認するんですか」 若い社員が尋ねる。「私が見るしかないでしょう」「でも、夫人関係の好みまでは」「そこが問題なのよ」 大戸は、澄乃の残したファイルの写しを見た。 久世家から総務へ正式に共有されたものではない。以前、確認のために澄乃から一部だけメールで送られていた資料を、大戸が保存していた。今となっては、それが貴重な控えになっている。 ただ、全てではない。 澄乃の頭の中にあったものまでは残っていない。 相手夫人同士の微妙な関係。 どの話題を避けるか。 誰が誰と昔揉めたか。 祝い事の時に何を送れば、相手が気を遣いすぎないか。 そういうものは、澄乃がその場で調整していた。 大戸は深く息を吐いた。「今まで、奥様に頼りすぎていたんですね」 若い社員が小さく言う。「でも、奥様って、社員じゃないですよね」「そうよ」「じゃあ……それ、まずくないですか」 誰もすぐには答えなかった。 まずい。 その一言では足りない。 会社が社員ではない女性の記憶と気遣いに、対外信用の一部を乗せていた。本人に正式な役割も報酬も与えず、家庭内の延長のように扱っていた。その上で、彼女がいなくなった途端、社内評価の歪みが露わになっている。 大戸は、机の上のファイルを閉じた。「まずは、社内で持てる形にしましょう。属人的すぎました」「誰の業務にするんですか」「総務と秘書室。それから、昌親さんにも覚えていただかないと」 若い社員は、少しだけ表情を曇らせた。 昌親が覚える。 それが一番難しいのではないかと、口には出さなかった。 午後三時、昌親は社長室へ呼ばれた。 隆成は窓
Read more

崩れる社内評価④

 派手な失敗なら、挽回の場もある。 大きな謝罪をし、対応を見せればいい。 だが、今起きているのは小さなずれだった。 受付花。 見舞い品。 会食先。 慶弔対応。 夫人同士の関係。 それらが少しずつずれる。相手は怒鳴らない。ただ次から、少し慎重になる。誘いを一度断る。別の会社へ先に声をかける。夫人同士の集まりで、久世家の名が少し軽く扱われる。 見えないところで、信用が削れる。 その怖さを、昌親は初めて現実として感じた。「どうすればいいんですか」 口から出た声は、思ったよりも弱かった。 隆成はしばらく昌親を見ていた。「まず、知ったふりをやめろ」 昌親は顔を上げた。「知らないことは知らないと認める。総務と秘書室に頭を下げて、教わる。夫人同士の関係は佳枝にも確認する。ただし、佳枝も澄乃さんに頼っていた部分が大きい。全部は分からないだろう」「澄乃に」 言いかけた瞬間、隆成の目が厳しくなった。「それは許さない」 昌親は口を閉じた。「澄乃さんは、もう久世家の人間ではない。会社の無償補助者でもない。離婚成立の書面にも、直接接触は控えることが記されている。お前が連絡を取れば、会社としても問題になる」 昌親は、唇を噛んだ。「では、残った記録を使うしかない」「そうだ」「足りない部分は」「自分たちで積み直せ」 隆成は言った。「それが本来、会社がすべきことだった」 昌親は、机の上のファイルを見つめた。 澄乃の字。 整った文字。 見やすく分類された項目。 そこには、彼が軽んじていたものが、会社の信用の裏側として残っていた。 彼は、以前その文字を何度も見たことがある。 朝、食卓の隅に置かれたメモ。 会食前、ネクタイの横に置かれた小さな紙。 車に乗る前、鞄へ入れられていた先方の好みの控え。 昌親は、それをほとんど読まなかった。 必要な時だけ見た。 そして、うまくいけば、自分の調整がよかったのだと思っていた。 背中に、冷たい汗が滲んだ。 夕方、昌親は総務課を訪れた。 大戸は少し驚いた顔をしたが、すぐに立ち上がった。「何かご確認ですか」 昌親は、一瞬だけ言葉を探した。 これまでなら、当然のように指示しただろう。 この件を確認しておいてくれ。 先方へ花を出しておけ。 会食先を取っておけ。 そう言えば、誰か
Read more

水篝館、満室の日①

 水篝館の朝は、いつもより早く動き出していた。 夜明けの川はまだ薄青く、山の端には白い靄がかかっている。川面を渡る風は少し冷たく、玄関先の石畳には夜露が淡く光っていた。普段なら、宿全体がゆっくり息を整えるような時間だった。厨房の火が入り、帳場の灯りがつき、廊下を拭く音が少しずつ宿の中へ広がっていく。 けれど、その朝は違った。 水篝館は満室だった。 連休の初日。季節膳と記念日プランの案内が少しずつ評判になり、灯籠まつりの案内札をきっかけに温泉街の小さな催しを楽しみにする客も増えた。大きな広告を打ったわけではない。派手な宣伝文句を並べたわけでもない。ただ、泊まった客が帰り際に「案内が丁寧だった」「食事の一言が嬉しかった」「足元の不安まで見てもらえた」と話し、町の人がそれを拾い、片桐が観光組合で少し大げさに話した。 そうして、気づけば連休の予約表はすべて埋まっていた。 帳場の台帳には、部屋名がきれいに並んでいる。 水明、山吹、薄氷、秋灯、花筏、夕霧、千鳥、青葉。 それぞれの横に、到着予定時刻、食事時間、アレルギーの有無、記念日対応、送迎希望、足元への配慮、客室への希望が書き込まれている。赤い印は食物アレルギー、青い印は足元や体調に関する注意、薄い黄色の印は記念日対応。最初は澄乃が作った仮の印だったが、今では帳場の誰もが使える形に整えられていた。 澄乃はその台帳を前に、深く息を吸った。 墨と紙の匂い。古い木の匂い。朝の冷えた空気。厨房から上がり始めた出汁の香り。 忙しくなる。 それは分かっていた。 けれど、胸にあったのは恐怖だけではなかった。いい緊張感がある。宿が動く。人が来る。準備してきたものが、実際の客の時間へ触れる。その重さと喜びが、同時に澄乃の背筋を伸ばしていた。 帳場の横では、篠田が客室係への連絡表を確認している。「水明のお客様は、ご結婚三十年の記念日。お花は小さく、お食事時の声かけは控えめに。写真はご希望なし」「はい」 真帆が書き留める。「山吹のお客様は、小麦のアレルギーがあります。料理場へ赤印で伝達済み。お部屋のお茶菓子も変更済みです」「確認しました」 澄乃は、台帳の赤印に指を添えた。「秋灯の桂木様は、今回はお連れ様がいらっしゃいます。足元への配慮をお願いします。椅子と膝掛けは、いつもの場所に」「分かりました」 
Read more
PREV
1
...
111213141516
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status