All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 21 - Chapter 30

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不貞の証拠も残します⑤

 階段を降りると、廊下の途中で昌親と鉢合わせた。 彼は外出の支度をしていた。濃い灰色のスーツに、澄乃が昨夜のうちに出しておいたネクタイを締めている。そのネクタイは、今日の会食相手が好む落ち着いた色味に合わせて選んだものだった。 昌親は澄乃を見ると、少しだけ眉を寄せた。「どこにいた」「二階です」「会食先の番号を探していた。見当たらない」「以前お渡しした控えは、書斎の右の引き出しにございます。会社の予定表にも入っています」 昌親は一瞬、言葉に詰まった。「……そうだったか」「はい」「なら、最初からそう言えばいいだろう」 澄乃は、夫の顔を見た。 以前なら謝っていた。 申し訳ありません。すぐお持ちします。こちらで確認しておきます。 けれど今、澄乃は静かに答えた。「何度か、お伝えしております」 昌親の目が細くなる。「澄乃」「必要でしたら、書斎からお持ちください」 廊下に、短い沈黙が落ちた。 雨音だけが続いている。 昌親は、澄乃の顔を探るように見た。彼はまだ気づいていない。澄乃が何を残し始めているのか。どこまで心を離しているのか。昨日の応接間で、何が終わったのか。 ただ、いつもと違うことだけは感じ取ったのだろう。「何だ、その態度は」 低い声だった。 澄乃は視線を伏せなかった。「事実を申し上げただけです」 昌親の表情に苛立ちが走った。 その時、澄乃は奇妙なほど落ち着いていた。 怒らせたらどうしよう、という恐怖はまだある。身体の奥に染みついている。けれど、その恐怖の上に、別のものが静かに重なっていた。 書いた。 今朝のことも、このやり取りも、必要なら書ける。 その事実が、澄乃の背筋を支えていた。 昌親は何か言いかけたが、義母の声が居間から飛んできた。「昌親、出るなら早くなさい。雨が強くなるわよ」 昌親は舌打ちを飲み込むような顔をして、澄乃から視線を外した。「後で話す」「承知しました」 澄乃は頭を下げた。 昌親が玄関へ向かう。 その背中を見送りながら、澄乃は袖の内側にある鍵を指先で確かめた。 冷たく、小さく、確かな感触。 それは、彼女が初めて握った盾のようだった。 玄関の扉が開く。 湿った外気が廊下へ流れ込む。昌親の革靴が三和土を鳴らし、傘が開く音がした。雨の向こうへ夫の背中が消えていく。 澄乃
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引き継ぎ相手は笑っていた①

 朝から、屋敷の空気は湿っていた。 昨夜の雨は上がっていたが、庭の土はまだ黒く濡れ、苔の匂いが廊下の奥まで忍び込んでいた。障子越しの光は白くぼやけ、畳の目に沿って薄い影を落としている。 澄乃は二階の小部屋で、最後の紙束を揃えていた。 文机の上には、薄い灰色の表紙をつけたファイルが一冊置かれている。厚みは指二本ほど。あれほど膨大だった記録の山から抜き出したものにしては、驚くほど薄かった。 表紙には、澄乃の字でこう書いてある。 久世家生活実務 引き継ぎ控え 飾り気のない、事務的な題だった。 その下に、小さく日付を入れてある。誰へ、いつ渡したかを残すためだった。以前の澄乃なら、こんな表紙にしなかっただろう。もう少し柔らかい題にしたかもしれない。「家のこと」「覚え書き」「日々の支度」などと、相手が受け取りやすい言葉へ変えていた。 今は違う。 これは親切な小冊子ではない。 澄乃がこれまで担ってきたことのうち、最低限だけを渡すための書類だった。 澄乃は、ファイルを開いた。 最初のページには、義父の薬と食事制限についてまとめてある。医師の指示、飲み合わせ、塩分量の目安、診察券と保険証の保管場所。これは命と健康に関わる。どれほど感情が冷えていても、ここを曖昧にするつもりはなかった。 次のページには、義母の通院と外出時の基本事項。 車の手配先、連絡時間、常備している手土産の店、急な来客時に使える茶菓子の場所。だが、義母の友人関係の細かな機嫌取りや、相手ごとの禁句までは入れていない。 さらに、親族行事の年間一覧。 ただし、どの家とどの家が昔揉めたか、誰を隣に座らせない方がよいか、贈答額をどう微調整するかは省いた。必要なら本人たちが聞き、考え、痛い思いをして覚えればいい。 会社関係については、もっと削った。 昌親の会食先、取引先の夫人の好み、祝い花の肩書、香典の名義順、手土産の価格帯。そうしたものは、これまで澄乃が家の中で無償で支えてきた部分だった。だが、それは本来、会社や昌親本人が管理すべきものだ。 妻の役目という名で、これ以上引き受けてやる必要はない。 澄乃は、赤い付箋のついたページを見た。 緊急連絡先。 病院、運転手、出入りの業者、鍵の保管場所、災害時の避難場所。 これだけは、瑠璃花が軽く扱おうが昌親が大げさだと言おうが、残しておく。
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引き継ぎ相手は笑っていた②

 彼は本気でそう思っていた。久世家の運営も義父母の対応も親族行事も会社関係の補助も、少し説明すれば済むものだと思っている。いや、正確には、深く考えたことがないのだ。澄乃がしてきたことを見ようとしなかった人間に、その重さが分かるはずもない。 澄乃はその場で反論しなかった。 承知しました、とだけ答えた。 そして、ファイルを作った。 最低限のファイルを。 澄乃は立ち上がり、ファイルを胸元に抱えた。紙の角が手のひらに触れる。厚みはない。それでも、そこには七年分のうち、ほんの表面だけが入っている。 階段を降りると、廊下に朝の湿気が溜まっていた。磨かれた板張りに足音が小さく響く。居間の前を通る時、義母の香水の匂いがした。重く、古い花のような匂い。機嫌がよくない日ほど、義母は香りを濃くする。 応接間の障子は開けられていた。 中には、昌親と瑠璃花、そして義母の佳枝がいた。 義父の隆成はいない。会社へ行っているのだろう。あるいは、この件に今は関わらないと決めたのかもしれない。澄乃には分からなかった。 瑠璃花は、今日も明るい色の服を着ていた。 薄い水色のワンピース。昨日よりも清楚に見えるものを選んだのかもしれない。髪は柔らかく巻かれ、耳元には小さな真珠の飾りが揺れている。表情には緊張がある。けれど、それ以上に、自分が特別な場所へ踏み込む期待が滲んでいた。 澄乃が入ると、瑠璃花はすぐに笑った。「おはようございます、澄乃さん」 その声は明るかった。 親しげで、少し甘えるようで、それでいて勝者の余裕を失っていない。昨日よりも澄乃に近づいたつもりでいるのだろう。あるいは、自分はもうこの家に受け入れられる側だと信じようとしているのかもしれない。 義母は、瑠璃花の隣に座ってはいなかった。 少し離れた席に背筋を伸ばして座り、湯呑みに口をつけている。その横顔は硬い。瑠璃花を正式に認めたわけではない。だが、昌親が連れてきた女を頭ごなしに追い払うほど、義母は単純でもなかった。 彼女は世間体を何より重んじる。 怒りも、不快感も、まず家の形を守るために包み直す人だった。 その義母の目が、澄乃の持つファイルに向けられた。「それが、例のもの?」「はい」 澄乃は静かに答えた。 昌親は座卓の脇に座っていた。腕を組み、少し疲れたような顔をしている。自分が作った状況であり
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引き継ぎ相手は笑っていた③

 感覚でできるようになるまでに、どれだけ失敗を避け、どれだけ記録を取り、どれだけ相手の顔色を読んできたか。瑠璃花には分からfない。分からないから笑える。 そして、分からせる義務は澄乃にはない。「次の項目は義母の外出予定と通院についてです」 澄乃は説明を続けた。「連絡を入れる時間、車の手配先、診察券やお薬手帳の場所を書いてあります」 義母が湯呑みを置いた。「澄乃さん」「はい」「まるで私が一人では何もできないような書き方ね」 部屋の空気が、わずかに張った。 瑠璃花が顔を上げる。昌親も義母を見る。 澄乃は、静かに義母へ向き直った。「そのような意図はございません。私がこれまで確認していた事項を、必要な範囲でまとめたものです」「必要な範囲ね」 義母の声には棘があった。「あなた、ずいぶん淡々としているのね」 澄乃は、その言葉を受け止めた。 義母は瑠璃花の存在を心から歓迎しているわけではない。むしろ不快なのだろう。昌親が外で若い女を作り、その女を家に入れ、澄乃の前で座らせた。そのことは、久世家の体面を重んじる義母にとっても許しがたいはずだった。 けれど、義母の不快感は瑠璃花だけに向いていなかった。 澄乃にも向いている。 怒鳴らないから。 泣き崩れないから。 取り乱して義母の側に助けを求めないから。 そして、淡々と引き継ぎの準備などしているから。 義母はきっと、澄乃がもっと壊れると思っていたのだ。そうすれば、義母は叱ることも、宥めることも、久世家の母として場を支配することもできた。 だが澄乃は、壊れた姿を差し出さなかった。 だから義母は不快なのだ。「必要なことですので」 澄乃は答えた。 声は静かだった。 義母の目が、細くなる。「あなた、本当にそれでいいと思っているの」 問いの形をしているが、答えを求めている声ではなかった。 澄乃は一瞬、迷った。 義母は、昌親の母だ。家の中で澄乃を苦しめてきた人でもある。けれど、それでも七年の間、毎朝電話をし、通院に付き添い、手土産を選び、体調を気遣ってきた相手だった。 その人が今、自分を見ている。 怒りと、不満と、困惑の混じった目で。 澄乃は、膝の上の指先を一度だけ握った。「私が決めたことです」 その一言で、義母の唇が薄く結ばれた。 昌親が小さく身じろぎする。「母さ
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引き継ぎ相手は笑っていた④

 義母の指先が湯呑みの縁を強く押さえている。形式を軽く見られることを、義母は何より嫌う。だが、瑠璃花はまだそれを知らない。 以前の澄乃なら、ここで助け舟を出していた。 汐見さん、佳枝さんは先方への礼を重んじていらっしゃるので。気持ちはもちろんですが、形も大切にした方が。 そんなふうに、柔らかく間を取り持っていただろう。 今、澄乃は黙っていた。 義母の不機嫌を瑠璃花に向けさせたいわけではない。争わせたいわけでもない。ただ、澄乃がいつも空気を整える必要はもうない。 沈黙は、思っていたより重かった。 瑠璃花はその重さに気づかず、ページをめくる。「親族行事……えっ、多いんですね」「はい」「これ、全部行くんですか?」「昌親さんが出席されない場合でも、贈り物やお手紙が必要なことがあります」「お手紙」 瑠璃花は、少し困ったように笑った。「私、字があまり上手じゃなくて。こういうのって、印刷でもいいんですか?」 義母がついに口を開いた。「久世家の名前で出すものを、軽々しく印刷で済ませるつもり?」 瑠璃花の肩が小さく跳ねた。「す、すみません。そういう意味じゃなくて」「そういう意味に聞こえましたけれど」 空気が冷える。 澄乃は、膝の上で指先をそっと重ねた。 義母の声は、懐かしいほど鋭かった。以前はその声が自分に向いていた。手紙の字が硬い。文面がよそよそしい。菓子の選び方が無難すぎる。派手すぎる。控えめすぎる。相手へ気を遣わせる。 どちらへ転んでも叱られた。 澄乃はそれを避けるため、義母の好みを覚え、親族の反応を記録し、相手ごとに文面を調整してきた。 その技術を、全部は渡さない。 澄乃は、瑠璃花へ視線を戻した。「基本的な文例は、最後の方に入れてあります」「文例」 瑠璃花はほっとしたように笑った。「よかった。じゃあ、それを写せばいいんですね」「必要に応じて、相手に合わせてください」「はい。頑張ります」 返事は明るい。 けれど、その明るさの中に理解はなかった。 昌親が退屈そうに口を開いた。「母さんも澄乃も、少し厳しく考えすぎだ。瑠璃花はまだ慣れていないんだ。最初から全部できるわけがない」 澄乃は昌親を見た。 彼は瑠璃花を庇っているようで、実際には何も見ていない。 瑠璃花が本当に妻の役割を担えるかどうか、確認するつも
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引き継ぎ相手は笑っていた⑤

「ですが、決めたことです」 義母は口を閉じた。 その横で、瑠璃花がファイルをぱらぱらとめくった。紙をめくる速度が早い。丁寧に読むためではなく、全体の量を確かめているだけの手つきだった。「あの、これって全部覚えないといけないんですか?」 瑠璃花が笑いながら言った。「何だか、試験みたいで」 昌親が苦笑した。「全部じゃなくていい。必要になった時に見ればいいだろう」「ですよね。よかった」 瑠璃花はほっとしたように笑った。「私、こういう細かいメモ、読むの苦手で。家事のコツみたいなものですよね。やりながら覚えます」 家事のコツ。 澄乃は、その言葉を胸の中で受け止めた。 実務ファイルは、彼女にとってその程度のものらしい。 澄乃が七年かけて見つけた火種の避け方も、相手の怒りを起こさない順序も、久世家の信用を守るための小さな調整も、ただのコツ。読み流して、必要なら後で見ればいいもの。 それでいい。 澄乃は思った。 そう思える自分に、少しだけ驚いた。 以前なら、ここで必死に説明したはずだ。ここは大切です。この方にはこの品を送らないでください。義父の薬だけは必ず。義母へはこの時間に。会食先には前日確認を。 けれど、教えれば教えるほど、澄乃の手はこの家に残る。 瑠璃花が困らないように整えることは、昌親が困らないように整えることでもある。義母が怒らないように整えることでもある。つまり、澄乃が去ったあとも、澄乃の技術だけをこの家に残すということだ。 それはしない。 澄乃は、静かにファイルの最後を示した。「最後に、緊急連絡先を入れてあります。病院、運転手、出入り業者、鍵の保管場所です。こちらだけは、早めに確認なさってください」「はい」 瑠璃花は頷いた。 けれど、彼女の視線はすでに別のページへ移っている。文例集のところで止まり、少し面白そうに笑った。「すごい。お手紙の例文まである。こういうの、便利ですね」「そのまま使うものではありません」 澄乃は言った。「相手に合わせて整えるための参考です」「はいはい」 瑠璃花は軽く返事をした。 はい、が二つ重なっただけで、部屋の空気がまた変わる。 義母の目元が険しくなる。 昌親は気づかない。 澄乃は、もう何も足さなかった。 義母が静かに言った。「汐見さん」「はい」「久世の名で出すも
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引き継ぎ相手は笑っていた⑥

 昌親が低い声で言う。「言い方があるだろう」「失礼いたしました」 澄乃は頭を下げた。 謝罪の形だけは、いつもと同じだった。 だが、頭を下げた心は違った。 もう、反省していない。 相手の不機嫌を自分の過失として受け取らない。 ただ、場を進めるために言葉を置いただけだった。 義母が、小さく笑った。 笑いと言うには冷たすぎる息だった。「本当に、淡々としているのね」 澄乃は顔を上げた。「はい」「腹の中では、私たちを笑っているのかしら」 瑠璃花がぎょっとした顔をする。 昌親も義母を見る。 澄乃は首を横に振った。「笑ってはおりません」「では、何を考えているの」 澄乃は少しだけ沈黙した。 何を考えているのか。 自分でも、以前なら答えられなかっただろう。相手の機嫌。家の空気。今日の献立。明日の予定。誰かの体調。誰かの怒り。誰かの恥。 今は違う。 自分がこれ以上消えないためのことを考えている。 だが、それを義母へ言う必要はない。「必要なことを済ませることです」 澄乃は答えた。 義母の表情が険しくなった。 瑠璃花は、場を変えようとしたのか、明るい声を出した。「あの、このファイル、持って帰って読んでもいいですか?」「はい。お渡しするためのものです」「ありがとうございます。助かります」 瑠璃花はファイルを抱え、少し笑った。「でも、本当にすごいですね。私だったら、こんなに細かく書けないです。澄乃さんって、やっぱり真面目なんですね」 真面目。 それは、よく言われた言葉だった。 便利な言葉でもあった。 真面目だからやってくれる。真面目だから怒らない。真面目だから責任を持つ。真面目だから最後まで投げ出さない。 その言葉は、褒め言葉の顔をして、澄乃に仕事を載せる。「ありがとうございます」 澄乃は静かに言った。 もう、その言葉の中へ自分を閉じ込めるつもりはなかった。 昌親が時計を見た。「俺はそろそろ出る。瑠璃花、送る」「あ、はい」 瑠璃花は立ち上がりかけ、慌ててファイルを座卓に置いた。荷物の整理をするためだろう。小さな鞄を開き、ハンカチや携帯を入れ直している。 その間、ファイルは座卓の上に置かれたままだった。 表紙が少し斜めになっている。 澄乃は、それを見ていた。 瑠璃花は鞄の中にファイルを入れようと
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引き継ぎ相手は笑っていた⑦

 廊下に、二人の足音が遠ざかる。 瑠璃花の靴音は軽い。昌親の足音は少し乱れている。玄関の扉が開き、外の空気が流れ込む。遠くで車の鍵が鳴った。 応接間には、澄乃と義母だけが残った。 義母は湯呑みに手を伸ばさなかった。 しばらく、庭だけを見ていた。 澄乃も黙っていた。 庭では、葉の先に残った雫が光っている。雨は上がったが、湿気はまだ重い。空の雲は切れかけているのに、屋敷の中だけが暗く沈んでいるようだった。「あなた」 義母が言った。「本気で出ていくつもりなの」 澄乃はすぐには答えなかった。 義母の声には、怒りがあった。だが、その奥には、先ほどよりもはっきりした不安があった。 澄乃は、畳の目に視線を落とす。「妻の座はお譲りすると、お伝えしました」「そういう言い方をしているのではありません」「では、どういう意味でしょうか」 義母は唇を引き結んだ。 その顔を見て、澄乃は初めて少しだけ胸が痛んだ。義母もまた、久世家という家に囚われてきた人なのかもしれない。家の形を守ることだけを自分の価値としてきた人。だから、澄乃が静かに手を引こうとすることが許せないのだろう。 だが、それは澄乃が残る理由にはならない。「あなたがそんなふうに淡々としていると」 義母は言葉を探すように、少し間を置いた。「まるで、こちらが取り返しのつかないことをしたみたいじゃない」 澄乃は顔を上げた。 義母の目と合った。 その瞬間、澄乃の中で、何かが静かに決まった。 責めない。 教えすぎない。 けれど、自分の傷を相手の都合のよい形へ変えない。「取り返しがつくかどうかは、私には分かりません」 澄乃は静かに言った。「ただ、起きたことは起きたことです」 義母の表情が凍った。 澄乃は一礼した。「失礼いたします。昼食の支度がございますので」 義母は何も言わなかった。 澄乃は応接間を出た。 廊下へ出ると、玄関の方から微かに瑠璃花の笑い声が聞こえた。昌親に何かを話しているのだろう。軽く、弾む声だった。すぐに車の扉が閉まる音がして、その声は遠ざかった。 澄乃は廊下の途中で立ち止まった。 胸の奥に、痛みはある。 けれど、それよりも強く残っているものがあった。 手放した。 今、確かにひとつ手放した。 瑠璃花が持っていったファイルは、久世家の生活を完全には
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最後の朝食①

 澄乃は、いつもより早く目を覚ました。 まだ夜の底に朝が沈んでいる時刻だった。障子の向こうは薄墨色で、庭の形もよく見えない。遠くで鳥が一声だけ鳴き、それきり静かになった。屋敷全体が眠っている。柱時計の音だけが、廊下の奥からかすかに届いていた。 布団の中で、澄乃はしばらく天井を見つめていた。 眠りは浅かった。けれど、不思議と身体は重くなかった。疲れが消えたわけではない。胸の奥には、まだ冷たい塊がある。けれど、その塊は昨夜までのように心を塞ぐものではなく、むしろ体の芯を支える石のようにそこへ沈んでいた。 今日は、久世家で最後の朝食を作る。 そう決めたのは、昨夜、台所の棚を閉めた時だった。 未練ではない。 昌親にもう一度振り向いてほしいわけでも、義父母に自分の価値を思い知らせたいわけでもない。そんなものは、もう食卓へ出すには遅すぎる。 ただ、自分がこの家で果たしてきた仕事に、区切りをつけたかった。 誰にも見られなくても、誰にも礼を言われなくても、澄乃自身だけは知っている。この七年、彼女は毎朝この台所に立ち、家族の体調と機嫌と予定を考え、食卓を整え続けた。その日々を、乱暴に投げ捨てて出ていくことはできなかった。 それは久世家への義理ではない。 自分の手への礼だった。 澄乃は布団を出た。早朝の空気が足首に冷たく触れる。身支度を整え、髪を低い位置でまとめる。鏡の前に立つと、そこにはいつもの静かな顔があった。 墨を含んだような黒髪。 疲れの残る目元。 唇は薄く結ばれている。 派手な怒りも、泣き腫らした跡もない。そのことを、昨日の自分なら少し冷たいと感じたかもしれない。けれど今は違う。静かでいられることは、諦めではなかった。最後まで自分の形を崩さないための力だった。 澄乃は、箪笥の引き出しを開けた。 中には、薄い封筒が入っている。昨日のうちに用意した書類だった。まだ取り出さない。ただ、そこにあることを確かめる。封筒の角に指先が触れる。紙は冷たく、硬かった。 その感触を胸の中にしまい、澄乃は部屋を出た。 廊下は暗い。 足袋越しに板の冷えが伝わる。古い屋敷の朝は、いつもこうだった。結婚したばかりの頃、澄乃はこの冷たさに慣れず、冬の朝には足の指先が痛むほどだった。義母からは「台所に立つなら、身体を冷やさない工夫くらいしなさい」と言われた。以来、
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最後の朝食②

 味噌汁は、義母の好みに合わせる。 白味噌を少し、合わせ味噌を少し。朝には重すぎず、けれど薄いとは言わせない程度。具は豆腐と若布、最後に細く切った葱。義母は外ではこの味噌汁を褒めた。 うちの嫁は、味噌汁だけは上手なのよ。 だけ、という一文字を、澄乃は何度も聞いた。 褒められているのか、刺されているのか分からなかった。分からないまま、澄乃は毎朝味噌を溶いた。義母が外で恥をかかないように。久世家の食卓が整っているように。 味噌を溶きながら、澄乃はふと手を止めた。 湯気が顔に触れる。 熱く、湿っていて、優しい。 この湯気を、何度浴びてきただろう。 熱で頬を赤くし、冬の朝には指をかじかませ、夏には汗を拭いながら、彼女はここに立ってきた。台所の窓から見える庭の色で季節を知り、味噌汁の具材で月の移ろいを測った。 ここは、澄乃の職場だった。 誰もそう呼ばなかっただけで。 彼女は土鍋の米を火にかけた。鍋肌に水滴がつき、やがて小さく震え始める。米の匂いが立ち上る。台所全体が、朝の支度の匂いで満ちていった。 出汁巻き用の銅の卵焼き器を火にかける。 油を薄くなじませ、卵液を流す。じゅ、と音がする。薄い卵の膜が、端から固まっていく。澄乃は箸でそっと巻いた。ひと巻き目、二巻き目、三巻き目。手首が自然に動く。何百回も繰り返した動きだった。 巻き上がった出汁巻きは、きれいな層を作っていた。 焦げ目はほとんどない。ほんのり黄色く、箸を入れれば出汁が滲む柔らかさ。昌親が好む形だった。 澄乃は、それを巻き簾に取り、形を整えた。 未練ではない。 胸の中で、もう一度言う。 これは、最後まで自分の仕事をするためだ。 誰かのためではなく、自分がしてきた仕事を自分で見届けるために。 魚を焼き、漬物を切り、義父の薬を小皿に用意する。義母の湯呑みは、いつもの向きで置く。昌親の箸は黒檀のもの。隆成の膳には新聞を置く余白を空け、佳枝の膳には小鉢の位置を少し右寄りにする。 すべて、身体が覚えている。 そして、それを覚えている自分が、少し悲しかった。 朝食の時間が近づくと、屋敷が動き始めた。 廊下の奥で襖が開く音。義父の咳払い。義母が家政婦に何かを指示する声。昌親の足音は少し遅れて聞こえた。革のスリッパが板を擦る音で分かる。昨夜、帰宅は遅かった。会食だと言っていたが、澄
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