階段を降りると、廊下の途中で昌親と鉢合わせた。 彼は外出の支度をしていた。濃い灰色のスーツに、澄乃が昨夜のうちに出しておいたネクタイを締めている。そのネクタイは、今日の会食相手が好む落ち着いた色味に合わせて選んだものだった。 昌親は澄乃を見ると、少しだけ眉を寄せた。「どこにいた」「二階です」「会食先の番号を探していた。見当たらない」「以前お渡しした控えは、書斎の右の引き出しにございます。会社の予定表にも入っています」 昌親は一瞬、言葉に詰まった。「……そうだったか」「はい」「なら、最初からそう言えばいいだろう」 澄乃は、夫の顔を見た。 以前なら謝っていた。 申し訳ありません。すぐお持ちします。こちらで確認しておきます。 けれど今、澄乃は静かに答えた。「何度か、お伝えしております」 昌親の目が細くなる。「澄乃」「必要でしたら、書斎からお持ちください」 廊下に、短い沈黙が落ちた。 雨音だけが続いている。 昌親は、澄乃の顔を探るように見た。彼はまだ気づいていない。澄乃が何を残し始めているのか。どこまで心を離しているのか。昨日の応接間で、何が終わったのか。 ただ、いつもと違うことだけは感じ取ったのだろう。「何だ、その態度は」 低い声だった。 澄乃は視線を伏せなかった。「事実を申し上げただけです」 昌親の表情に苛立ちが走った。 その時、澄乃は奇妙なほど落ち着いていた。 怒らせたらどうしよう、という恐怖はまだある。身体の奥に染みついている。けれど、その恐怖の上に、別のものが静かに重なっていた。 書いた。 今朝のことも、このやり取りも、必要なら書ける。 その事実が、澄乃の背筋を支えていた。 昌親は何か言いかけたが、義母の声が居間から飛んできた。「昌親、出るなら早くなさい。雨が強くなるわよ」 昌親は舌打ちを飲み込むような顔をして、澄乃から視線を外した。「後で話す」「承知しました」 澄乃は頭を下げた。 昌親が玄関へ向かう。 その背中を見送りながら、澄乃は袖の内側にある鍵を指先で確かめた。 冷たく、小さく、確かな感触。 それは、彼女が初めて握った盾のようだった。 玄関の扉が開く。 湿った外気が廊下へ流れ込む。昌親の革靴が三和土を鳴らし、傘が開く音がした。雨の向こうへ夫の背中が消えていく。 澄乃
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