隆成が煮物を口へ運んだ。 少し噛み、飲み込み、新聞の向こうで言う。「今日は少し香りが立っているな」 それは、悪くないという意味だった。 澄乃は頭を下げる。「柚子を少しだけ入れております」「塩は少ない」「はい」「まあ、医者がうるさいからな」 隆成はそれきり何も言わず、また煮物を食べた。 澄乃は、その横顔を見ていた。 彼は味を当然のように受け取る。そこに調整があったことも、昨夜のうちに下茹でし、朝に香りを足したことも、薬の時間から逆算して量を決めたことも、特に知らない。知る必要もないと思っているのだろう。 昌親は、出汁巻きに箸を伸ばした。 スマートフォンから目を離さないまま、一切れを口に入れる。噛む速度が少しだけ遅くなる。好きな味の時の癖だった。澄乃はそれを知っている。だが、昌親は何も言わなかった。 画面を指で滑らせ、別の通知を開く。 出汁巻きは、ただ口に運ばれて消えていく。 澄乃は、その光景を見ていた。 これが、最後なのだ。 そう思っても、昌親は気づかない。 佳枝は味噌汁の椀を持ち上げた。 一口飲み、少しだけ眉を寄せる。「葱が少し太いわね」 澄乃は静かに頭を下げた。「申し訳ありません」「外では褒められる味なのだけれど、家で飲むならもう少し細く切った方が口当たりがいいわ」「承知いたしました」 外では褒める。 家では指摘する。 その差を、澄乃は何度も受け取ってきた。 義母は外で、澄乃の味噌汁を褒める。うちの嫁は味噌汁だけはきちんとしている。そう言って、控えめに笑う。相手も笑う。澄乃はその横で頭を下げる。 だが、家では違う。 葱が太い。豆腐が大きい。香りが弱い。今日は味が少し固い。椀の向きが違う。 完璧であっても、必ずどこかに指が入る。 澄乃は、その指摘を今日も受けた。 けれど、胸は痛まなかった。 不思議なほど、何も削られなかった。 もう、この指摘の中に自分の価値を置いていないからだと気づいた。 佳枝は澄乃を見た。「返事だけはいいのね」「気をつけます」「昨日、汐見さんに渡したあの紙。あれ、本当にあれだけでよかったの」 昌親の手が少し止まった。 隆成が新聞の端から視線を上げる。 朝食の席に、その話題が落ちた。 澄乃は、静かに答えた。「必要なことは記載いたしました」「必要なこと、ね」
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