All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 31 - Chapter 40

121 Chapters

最後の朝食③

 隆成が煮物を口へ運んだ。 少し噛み、飲み込み、新聞の向こうで言う。「今日は少し香りが立っているな」 それは、悪くないという意味だった。 澄乃は頭を下げる。「柚子を少しだけ入れております」「塩は少ない」「はい」「まあ、医者がうるさいからな」 隆成はそれきり何も言わず、また煮物を食べた。 澄乃は、その横顔を見ていた。 彼は味を当然のように受け取る。そこに調整があったことも、昨夜のうちに下茹でし、朝に香りを足したことも、薬の時間から逆算して量を決めたことも、特に知らない。知る必要もないと思っているのだろう。 昌親は、出汁巻きに箸を伸ばした。 スマートフォンから目を離さないまま、一切れを口に入れる。噛む速度が少しだけ遅くなる。好きな味の時の癖だった。澄乃はそれを知っている。だが、昌親は何も言わなかった。 画面を指で滑らせ、別の通知を開く。 出汁巻きは、ただ口に運ばれて消えていく。 澄乃は、その光景を見ていた。 これが、最後なのだ。 そう思っても、昌親は気づかない。 佳枝は味噌汁の椀を持ち上げた。 一口飲み、少しだけ眉を寄せる。「葱が少し太いわね」 澄乃は静かに頭を下げた。「申し訳ありません」「外では褒められる味なのだけれど、家で飲むならもう少し細く切った方が口当たりがいいわ」「承知いたしました」 外では褒める。 家では指摘する。 その差を、澄乃は何度も受け取ってきた。 義母は外で、澄乃の味噌汁を褒める。うちの嫁は味噌汁だけはきちんとしている。そう言って、控えめに笑う。相手も笑う。澄乃はその横で頭を下げる。 だが、家では違う。 葱が太い。豆腐が大きい。香りが弱い。今日は味が少し固い。椀の向きが違う。 完璧であっても、必ずどこかに指が入る。 澄乃は、その指摘を今日も受けた。 けれど、胸は痛まなかった。 不思議なほど、何も削られなかった。 もう、この指摘の中に自分の価値を置いていないからだと気づいた。 佳枝は澄乃を見た。「返事だけはいいのね」「気をつけます」「昨日、汐見さんに渡したあの紙。あれ、本当にあれだけでよかったの」 昌親の手が少し止まった。 隆成が新聞の端から視線を上げる。 朝食の席に、その話題が落ちた。 澄乃は、静かに答えた。「必要なことは記載いたしました」「必要なこと、ね」
Read more

最後の朝食④

 それなのに、今日までどこかで期待していたのかもしれない。いつか、誰かが気づくのではないか。いつか、昌親が振り返るのではないか。いつか、義母が認めるのではないか。いつか、義父が一言でも労うのではないか。 その小さな期待が、最後の朝食の湯気の中で消えていった。 音もなく。 跡もなく。 澄乃は、食卓を見た。 出汁巻き。 減塩の煮物。 味噌汁。 炊きたての米。 それらは、誰かの手がなければ生まれない。 澄乃の手がなければ、この形にはならない。 この家は、私の手を食べて生きていた。 心の中で、その言葉が生まれた。 でも私の名前は見ていなかった。 その瞬間、澄乃の中に残っていた未練が、完全に消えた。 怒りではなかった。 悲しみでも、諦めでもなかった。 ただ、終わったのだと思った。 長い食事が終わったように。 火を落とした鍋が冷めていくように。 もう、温め直す必要はない。 昌親が立ち上がった。「今日は少し早く出る」「はい」 澄乃は答えた。「会食先には確認を入れておいてくれ」 いつものように言った。 澄乃は、夫を見た。 昌親は自分が何を言ったか、深く考えていない。これまで通り、澄乃が確認しておくと思っている。昨夜までに渡した控えも、会社の予定表も、彼の書斎の引き出しにあるはずの連絡先も、探すつもりがない。 澄乃は、静かに言った。「昨日お伝えした通り、連絡先は書斎の右の引き出しにございます」 昌親の顔がわずかに強張った。「だから、確認を入れておけと言っている」「本日はできかねます」 箸の音が止まった。 佳枝が澄乃を見る。 隆成も新聞を下ろした。 食堂に、朝とは思えないほど冷たい沈黙が落ちた。 昌親の眉が寄る。「何だと」「本日は、私用がございます」「私用?」「はい」 澄乃は頭を下げた。「必要なことは、昨日の控えに記載しております」 昌親の口元が固くなる。「澄乃、いい加減にしろ」 その声には、苛立ちだけでなく、戸惑いが混じっていた。 澄乃が断る。 その事実を、彼はまだうまく理解できていないのだろう。「失礼いたしました」 澄乃は形だけ謝った。 だが、言葉は撤回しなかった。 佳枝が冷たく言う。「あなた、朝から何を意地になっているの」 澄乃は義母へ視線を向けた。「意地ではございま
Read more

最後の朝食⑤

 これは弔いだ。 そう思うと、片づけの一つひとつまで静かだった。 銅の卵焼き器を洗い、水気を拭き、薄く油をなじませる。手入れをしておかなければ錆びる。誰が次に使うのか分からない。瑠璃花が使うのか、家政婦が使うのか、誰も使わず棚の奥で曇っていくのか。 それでも、澄乃は整えた。 自分の仕事を、最後まで雑にしたくなかった。 片づけが終わる頃には、家の中がそれぞれの朝へ散っていた。 昌親は支度をしている。 義父は書斎へ。 義母は居間で電話をしている。声の調子からすると、友人との外出予定についてだろう。先ほど澄乃を責めた声とは違い、柔らかく上品な声だった。 澄乃は台所の入口で、その声を少しだけ聞いた。「ええ、うちの朝食? いつも通りよ。澄乃さんの味噌汁は、外さないから」 外では褒める。 家では、葱が太いと言う。 澄乃は、もう笑わなかった。 ただ、静かにその場を離れた。 二階の小部屋へ上がる。 窓の外には、雲の切れ間から薄い光が差していた。雨の後の庭は明るく、葉の上の雫が小さく光っている。 澄乃は文机の前に座り、実務記録のノートを開いた。 今日の日付を書く。 久世家で最後の朝食を作る。 そう書きかけて、手を止めた。 最後。 その言葉を自分で書くと、ようやく胸の奥が少しだけ痛んだ。 だが、その痛みは未練ではなかった。 長く使った道具を手放す時のような、静かな痛みだった。どれほど傷つけられた場所でも、そこに費やした自分の時間まで無かったことにはできない。 澄乃は、丁寧に書いた。 日付。朝食準備。 内容。昌親の好みに合わせた出汁巻き、久世隆成の食事制限に合わせた減塩煮物、久世佳枝の好みに合わせた味噌汁。通常通り提供。 反応。昌親、スマートフォンを見ながら食事。礼なし。久世隆成、味を当然のものとして受け取り、塩分について言及。礼なし。久世佳枝、味噌汁の葱の太さを指摘。礼なし。 そこまで書き、澄乃は少しだけ目を閉じた。 礼なし。 その二文字が、妙に重かった。 これまで毎日、その二文字が積もっていたのだ。 ありがとうと言われなかった朝。おいしいと言われなかった朝。助かったと言われなかった朝。それでも澄乃は翌朝も起き、出汁を引き、米を炊き、味噌を溶いた。 愛ではなかったのかもしれない。 少なくとも、最後にはもう愛ではなか
Read more

離婚届と鍵①

 昌親が帰宅したのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。 玄関の外で車の停まる音がして、しばらくしてから門扉の開く低い音が響いた。雨はすでに上がっていたが、庭石にはまだ湿り気が残っている。夜気が冷え、玄関の硝子戸には外の灯りがぼんやり滲んでいた。 澄乃は応接間に座っていた。 座卓の上には、白い封筒を一通置いてある。封筒の下には、薄い書類の控えと、紺色の小さな手帳。手帳にはこの数日で記録したことが、必要なところだけ抜き出して挟んであった。原本は二階の文箱に入れてある。鍵は、澄乃の袂の内側にあった。 膝の上で重ねた手は、冷えていた。 けれど、震えてはいなかった。 今朝、最後の朝食を作った時、澄乃の中に残っていた迷いは静かに消えた。出汁巻きを口にしながらスマートフォンを見ていた昌親。減塩の煮物を当然のように食べた義父。味噌汁の葱の太さを指摘した義母。誰も、ありがとうとは言わなかった。 あの食卓を見て、澄乃はようやく分かった。 この家は、自分の手を食べて生きていた。 けれど、自分の名前は見ていなかった。 その気づきは痛かった。だが、痛みの中に不思議なほど澄んだ静けさがあった。終わったものに、いつまでも火を入れ続ける必要はない。冷めたものは冷めたものとして、膳から下げればいい。 廊下の奥で、昌親の靴音がした。 いつもより少し乱れている。会食で酒を飲んだのか、あるいは機嫌が悪いのか。以前なら、その足音だけで澄乃はお茶の温度を考えた。胃に重くない夜食を用意すべきか、風呂を先に整えるべきか、問いかける声を柔らかくするべきか。 今夜は、何もしなかった。 応接間の障子は半分だけ開けてある。庭の暗がりに、濡れた葉が黒く沈んでいた。遠くで水の落ちる音がする。昼間の雨が雨樋の端からまだ少しずつ滴っているのだろう。 昌親が廊下に姿を見せた。 濃い灰色のスーツに、少し緩んだネクタイ。朝、澄乃が最後に選んだものではない。彼は自分で別のネクタイを選んで出かけたのだ。会食先の好みに合わない色だったが、澄乃は直さなかった。 案の定、彼の表情には疲れと苛立ちが混じっている。 玄関先で家政婦から、澄乃が応接間にいると聞いたのだろう。昌親はそのままこちらへ歩いてきた。「何だ。こんなところで」 声は低かった。 澄乃は立ち上がらず、静かに頭を下げた。「お帰りなさいませ」
Read more

離婚届と鍵②

 彼はそう言った。 妻が夫の愛人から妻の座を譲れと言われたことを、面白くないという言葉で済ませられる程度のことだと思っている。 澄乃は、もう傷つかなかった。 ただ、よく見えた。「私は、結婚を続ける意思がありません」「今はそう思っているだけだ」 昌親は断言した。「しばらく頭を冷やせ。母さんも言っていたが、お前は最近おかしい。急に記録だの書類だの、何でも大げさにしている。今は冷静な判断ができていない」「冷静です」「本当に冷静なら、こんなものを出さない」 昌親は離婚届を指先で叩いた。 紙が、座卓の上で乾いた音を立てる。 澄乃は、その音を聞いた。 軽い紙の音。 けれど、そこに書かれるものは軽くない。「俺は」 昌親は言葉を選ぶように息を吐いた。「お前を追い出すと言ったわけじゃない」「はい」「瑠璃花のことは、確かにお前にはつらかったかもしれない。だが、だからといって家を出るだの離婚だの、極端すぎる」 つらかったかもしれない。 その言い方に、澄乃は少しだけ目を伏せた。 かもしれない。 自分のしたことが妻を傷つけたと、彼はまだ言い切らない。「妻の座は、汐見さんへお譲りすると申し上げました」「それも、売り言葉に買い言葉だろう」「いいえ」「澄乃」 昌親の声が少し強くなる。「お前は、そういう女じゃない。家のことを途中で放り出すような人間ではないだろう」 その言葉は、褒め言葉の形をしていた。 澄乃が七年、縛られてきた言葉だった。 お前はそういう女じゃない。 澄乃なら分かってくれる。 澄乃は怒らない。 澄乃は最後までやる。 そうやって、彼らは澄乃の手を借り続けてきた。 澄乃は、静かに答えた。「家のことは、必要な引き継ぎをいたしました」「紙を渡しただけだろう」「必要なことは記載しております」「瑠璃花が分からなかったらどうする」「汐見さんご自身で確認なさればよいと思います」 昌親の顔色が変わった。「冷たい言い方をするな」「冷たくしているつもりはございません」「同じことだ。お前が分かっていることなら教えればいい。今までできていたんだから、少しくらい」「少しくらい、で済む量ではございません」 澄乃の声は、低く静かだった。 昌親は一瞬、言葉を止めた。 澄乃は座卓の端に置いた紺色の手帳を開いた。そこには
Read more

離婚届と鍵③

「日付、内容、依頼者を残しております。昌親さんから会食先の確認を求められた日。義母から手土産と礼状を頼まれた日。義父から取引先の法事について確認を求められた日。会社総務から久世家側の確認として連絡を受けた日」 昌親の手が、紙に伸びかけて止まった。 彼はまだ、読みたくないのだ。 読めば、それが事実として目の前に立つ。 澄乃は、その紙を座卓の上へ置いたままにした。「頼まれていないものもあります。けれど、それらは久世家の体裁や会社の信用を保つために必要だったことです。私がしなければ、どなたかがしなければならなかったことです」 昌親は唇を強く結んだ。「お前、誰かに入れ知恵されたのか」 澄乃は、ほんの少しだけ目を細めた。「私が自分で考えました」「そんな言い方、今までのお前ならしなかった」「そうかもしれません」「何なんだ。本当に」 昌親は苛立ちを隠せなくなっていた。「離婚だの記録だの、弁護士だの」 その言葉を聞き、澄乃は静かに手を動かした。 白い封筒の隣に、もう一枚の紙を置く。「必要であれば、弁護士を通します」 昌親の顔から、血の気が引いた。「弁護士?」「はい」「お前、何を大げさな」「大げさではありません」 澄乃は、昌親の目を見た。「不貞の証拠も、保全しております」 その瞬間、昌親の表情が初めて明確に崩れた。 怒りでも、呆れでもない。 狼狽だった。 彼はすぐにそれを隠そうとした。顎を引き、眉を寄せ、低い声を作る。だが、一瞬遅かった。澄乃は見ていた。夫が初めて、自分の足元を見失った顔を。「証拠って、何の話だ」「汐見さんとの関係についてです」「澄乃」「メッセージ、来訪記録、帰宅時間、外泊の申告、贈答品、会食予定との不一致。手元に残っているものを整理しております」 昌親の指先が、座卓の端を掴んだ。「勝手に人のものを見たのか」「見えていたものと、家の管理上私が扱っていた書類です。不正な方法で入手したものではありません。判断が必要なものは、専門の方に確認いたします」 昌親は言葉を失った。 澄乃は、声を荒げなかった。 責める言葉を並べることもしなかった。 ただ、事実を置く。 ひとつずつ。 逃げ道を塞ぐように。「汐見さんが私へ送ってきた連絡文も残しております。応接間での発言についても記録しました。昌親さんが
Read more

離婚届と鍵④

「慰謝料や財産分与については、法に沿って確認いたします。必要なものは請求します。ですが、それは欲ではありません。あなた方が壊したものに対して、必要な手続きを取るだけです」「あなた方、だと」「はい」 澄乃は目を逸らさなかった。「昌親さんと、汐見さんです」 昌親の顔が険しくなった。「瑠璃花を巻き込むな」 その言葉に、澄乃は少しだけ息を止めた。 巻き込むな。 昨日、澄乃の前に座り、妻の座を譲れと言った女を。 昌親はまだ、守るのだ。 澄乃ではなく、瑠璃花を。 その事実は、もう痛くはなかった。 ただ、最後の確認になった。「汐見さんは、私に直接おっしゃいました」 澄乃は言った。「妻の座を譲ってください、と」 昌親は視線を逸らす。「若い子の言うことだ」「若さは、他人を傷つける免許ではありません」 昌親は返せなかった。 その沈黙の中で、廊下の向こうからかすかな物音がした。 誰かが立ち止まっている。 義母か、家政婦か。 澄乃は確かめなかった。今は、目の前の夫へ告げるべきことがある。「署名は、今すぐでなくても構いません」 澄乃は離婚届を封筒へ戻した。「ただ、私はこの家を出ます」 昌親が顔を上げた。「何を言っている」「荷物はまとめてあります」「どこへ行くつもりだ」「今夜は、宿を取ります。その後のことは、私が決めます」「勝手なことをするな」 昌親は立ち上がった。 座卓がかすかに揺れる。湯呑みが小さく鳴った。「夜に女一人で出ていくつもりか。何を考えている。世間体もある。母さんたちに何と言うつもりだ」 世間体。 最後に出てくるのは、それなのだ。 澄乃は、立ち上がった昌親を見上げた。彼の影が座卓に落ちる。以前なら、その影に身体がすくんだかもしれない。怒らせないように、今すぐ言葉を引っ込めたかもしれない。 けれど、今は違う。 澄乃はゆっくり立ち上がった。「義父母には、必要なことだけお伝えください」「必要なこと?」「私が家を出たこと。今後の連絡は書面、または弁護士を通す可能性があること」「お前は本気で言っているのか」「はい」 昌親は、初めて本当に焦った顔をした。 これまでの澄乃は、どれだけ傷ついても朝には台所に立った。どれだけ疲れても義母へ電話をかけた。どれだけ理不尽なことを言われても、最後には頭を下げ
Read more

離婚届と鍵⑤

「こんな時間に。馬鹿なことを言わないで。朝になってからでも」「手配は済ませております」 義母は言葉を失った。 澄乃の後ろから、昌親が出てくる気配がした。「母さん、澄乃が勝手に」「勝手?」 義母が昌親を睨んだ。 その声には、初めて昌親へ向かう怒りがあった。「あなたが勝手をしたからでしょう」 昌親は口を閉じた。 澄乃は、二人の間に立たなかった。 以前なら、すぐに取り成していた。義母をなだめ、昌親へ目配せし、場を収めるために言葉を差し出していた。 今は、しない。 この怒りは、彼らのものだ。 澄乃が片づけるものではない。「失礼いたします」 もう一度だけ言い、澄乃は廊下を進んだ。 玄関には、すでに小さな鞄を置いてあった。大きな荷物は送る手配をするつもりだった。今夜持っていくのは、必要な身分証、通帳、印鑑、数枚の衣類、記録の写し、祖母の万年筆、そして文箱の鍵だけ。 たくさん持ってきたつもりだったのに、持って出るものは驚くほど少なかった。 下駄箱の上には、久世家の鍵がある。 澄乃は袂から鍵束を取り出した。 玄関の鍵。 勝手口の鍵。 書庫の鍵。 茶道具をしまう棚の鍵。 義母から預けられていた、古い蔵の鍵。 七年の間に増えていった鍵だった。 渡された時は、信頼されたのだと思った。 けれど今は分かる。 任されたのは、家を守る仕事だった。信頼というより、管理だった。鍵を持つ者が、いつも最後まで残って片づける。誰かが忘れたものを閉め、誰かが開けた場所を確認する。 澄乃は、鍵束をそっと玄関の台へ置いた。 金属が触れ合い、小さく澄んだ音を立てた。 その音に、義母が息を飲む。 昌親が、廊下の途中で立ち止まった。「澄乃」 呼び声は、少し掠れていた。 澄乃は振り返った。 夫だった男が、そこに立っている。 まだ離婚は成立していない。書類も出していない。法的には、彼はまだ夫だ。けれど澄乃の中では、もう終わっていた。「本当に出ていくのか」 昌親は言った。 今さらのような問いだった。「はい」「戻る気は」「ございません」 即答だった。 昌親の顔が、苦しげに歪む。 だが、そこにも謝罪はなかった。 澄乃は最後に、玄関の中を見た。 磨かれた三和土。 いつも自分が整えていた花。 来客用の草履。 雨の日に濡れた傘を
Read more

行き先は水篝館①

パート1 車の窓に、夜の町の灯りが細く流れていった。 雨上がりの道路は黒く濡れ、街灯の光を長く引き延ばしている。水たまりを踏むたびに、タイヤの下で薄い水音がした。車内は静かだった。運転手は余計なことを聞かず、前だけを見ている。バックミラーの中に映るその目元は、職業的な穏やかさを保っていた。 澄乃は、後部座席で鞄を膝に抱えていた。 大きな荷物はない。必要な衣類を少し、身分証、通帳、印鑑、祖母の万年筆、記録の写し、文箱の鍵。たったそれだけだった。七年暮らした家を出るには、あまりにも少ない荷物だった。 けれど、その軽さが今は不思議と重かった。 久世家の玄関に鍵を置いた時の音が、まだ指先に残っている。 金属が触れ合う、かちりとした小さな音。 玄関の台の上に置かれた鍵束。家の鍵、勝手口の鍵、書庫の鍵、蔵の鍵。七年の間にひとつずつ増えていった役目の重さ。あれを置いた瞬間、澄乃の手は空いたはずだった。 なのに、指先にはまだ冷たい感触がある。 澄乃は膝の上で手を握った。 自分は本当に出てきてよかったのだろうか。 問いは、車が走り出してから何度も胸に浮かんでいた。 よかったに決まっている、と言い切るほど、心は単純ではない。昌親が裏切った。瑠璃花が妻の座を求めた。義父母は澄乃の労働を当然のものとして受け取った。記録もある。証拠もある。弁護士へ相談する道筋もつけた。 それでも、家を出る時、人の心は証拠だけでは支えられないらしい。 玄関の灯り。 義母の揺れた目。 昌親の掠れた声。 七年かけて覚えた廊下の軋み。 台所の棚の高さ。 朝に味噌を溶いた時の湯気。 自分を傷つけてきたものの中に、自分の手の跡があまりにも多く残っていた。そのことが、澄乃を少しだけ苦しくさせた。 車は駅へ向かっていた。 宿を取る、と昌親には言った。 嘘ではなかった。 ただし、適当に泊まる場所を探すつもりではない。行き先は決めている。久世家を出ると決めた時から、頭の奥に一つだけ浮かんでいた場所があった。 水篝館。 山あいの温泉地にある、古い旅館。 祖母が療養のために滞在していた、川沿いの宿。 澄乃がまだ久世家の妻になる前、短い間だけ手伝いに入った場所。 そこへ行く。 逃げ込むのではない。 縋りつくのでもない。 ただ、行き先として選んだ。 選ぶという感覚が、
Read more

行き先は水篝館②

 電光掲示板には、山あいの温泉地へ向かう電車の時刻が表示されていた。 最終に近い便だった。 水篝館のある町までは、乗り換えを含めて二時間ほどかかる。到着は遅くなる。事前に連絡は入れていた。電話に出た年配の女性は、少し驚きながらも「お待ちしております」と言ってくれた。 名前を告げた時、一瞬だけ間があった。 杠澄乃です。 そう言うと、電話口の声が少し柔らかくなった。 ああ、杠様。昔、お祖母様といらしていた。 その言葉だけで、澄乃はしばらく声が出なかった。 久世の妻ではなく、杠澄乃として覚えている場所がある。 それだけで、足元に小さな板が一枚渡されたようだった。 ホームに降りると、湿った風が吹いた。 線路の向こうには、夜の町が広がっている。ビルの窓明かりが点々と並び、遠くの信号が赤く光っていた。ホームの端には、雨に濡れたベンチがある。自動販売機の音が低く鳴り、誰かの靴音が間遠に響く。 澄乃は、柱のそばに立った。 鞄の持ち手を握る手に、力が入る。 自分は本当に出てきてよかったのだろうか。 また、同じ問いが浮かんだ。 昌親は今頃、どうしているだろう。 義母は何と言っているだろう。 義父は怒っているだろうか。 朝食はどうするのだろう。義父の薬は、誰が確認するのだろう。義母の外出の車は、手配されていただろうか。明日の会食先の確認は、昌親が自分でできるだろうか。 考え始めると、胸が苦しくなった。 あれほど傷つけられたのに、まだ心配している。 自分のそういうところが、少し嫌だった。 けれど、嫌だと思ったところで、すぐには変われない。七年分の習慣は、鍵を置いたくらいで消えない。家を出ても、澄乃の頭の中には久世家の予定表が残っている。義母の通院日、義父の薬、昌親の会食、親族の祝い、会社の花。 まるで、体の中にまだ見えない鍵束が残っているようだった。 澄乃は目を閉じた。 違う。 もう自分が閉める扉ではない。 自分が開ける扉でもない。 鍵は置いてきた。 指先の記憶が、そう教えている。 電車がホームへ入ってきた。 風が先に届き、コートの裾を揺らす。車輪の音が近づき、鉄の匂いと湿った空気が混ざる。扉が開くと、中から暖房の少し乾いた空気が流れ出した。 澄乃は乗り込んだ。 車内は混んではいなかった。帰宅する人々がまばらに座っている
Read more
PREV
123456
...
13
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status