All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 11 - Chapter 20

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妻の中の中身⑤

 廊下の壁に掛けられた古い鏡に、自分の横顔が映っている。表情は崩れていない。義母の声を受けても、いつものように返せた。だが、胸の奥では一つずつ札が貼られていくようだった。 義母対応。 予定管理。 手土産選定。 親族間の金額調整。 夫の状態報告を求められる役割。 それらをすべて、妻という一語に押し込められてきた。 澄乃は台所へ戻らず、廊下の小机に置いてある便箋箱を開けた。中には礼状用の便箋、季節ごとの一筆箋、封筒、筆ペン、古い住所録が入っている。義母が「こういうものは嫁の字で出す方が収まりがいい」と言ったため、澄乃が管理してきたものだ。 収まりがいい。 つまり、誰の手間か分からなくなる。 澄乃は箱を閉じた。 そのまま二階の小部屋へ向かう。 そこは、名目上は澄乃の裁縫部屋だった。実際には、久世家の細々とした記録を置く場所になっている。季節外の座布団カバー、来客用の膝掛け、古い贈答品の控え、親族写真、会社関係の祝儀袋の予備。陽当たりはよくないが、湿気は少ない。 部屋へ入ると、紙と布の匂いがした。 澄乃は文机の前に座った。 引き出しを開ける。中には、何冊ものノートとファイルが並んでいる。背表紙に小さく貼った紙には、澄乃の字で分類が書かれていた。 食事。 義父母。 親族。 贈答。 会社関係。 来客。 慶弔。 家計。 修繕。 季節のしつらえ。 澄乃は、それらを一冊ずつ机へ出した。 どれも、彼女が少しずつ作ってきたものだった。誰かに命じられたわけではない。だが、作らなければ回らなかった。回らなければ責められる。だから作った。 最初は、本当に小さなメモだった。 義母が好きな花。義父が避ける食材。昌親が朝に探しがちなもの。親戚の子の名前。誰に何を贈ったか。 それが七年で、机に積み上がるほどになった。 澄乃は、一番上の「会社関係」のファイルを開いた。 取引先ごとの項目がある。代表者名、配偶者名、子どもの有無、祝い事、弔事、会食時の注意、贈答品の履歴、相手側からもらったもの、返礼の時期。さらに、過去に失礼になりかけた出来事と、その回避方法まで記してある。 これは、秘書業務ではないのか。 澄乃は、初めてそう思った。 会社員として誰かが担当すれば、給料が発生する。引き継ぎが必要になる。評価もされる。だが、澄乃が家で行う限
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妻の中の中身⑥

 書き終えた瞬間、心臓が強く打った。 大げさだろうか。 細かすぎるだろうか。 自分を正当化しようとしているだけだと、誰かに笑われるだろうか。 そうした迷いが、すぐに浮かんだ。 だが、澄乃はペンを置かなかった。 まず、今朝のことを書く。 五時二十分起床。朝食準備。義父の食事制限に合わせた献立調整。昌親の体調に合わせた白湯準備。会社祝い花の札確認。義母への外出確認電話。手土産手配。入学祝い金額調整予定。会食先への最終確認予定。 文字が紙の上に並んでいく。 一つ書くたび、胸の奥の霧が少しずつ晴れる。 これは日記ではない。 愚痴でもない。 自分の仕事の記録だった。 澄乃は、さらに別のページを開き、項目を作った。 食事管理。 義父母対応。 昌親の業務補助。 会社関係の贈答・来客対応。 親族行事・慶弔。 家計・修繕・季節管理。 社交上の注意事項。 書きながら、澄乃は気づいていく。 久世家における妻の座とは、椅子ではなかった。 それは、膨大な仕事の束だった。 誰かが座っていれば自然に成り立つ場所ではない。座る者が手を動かし、目を配り、耳を澄まし、失敗が起きる前に火種を摘み、相手の不機嫌を先に読んで整え続ける場所だった。 瑠璃花は、それを欲しいと言った。 昌親は、それを渡せば丸く収まると思った。 ならば、澄乃は渡す。 ただし、自分が何をしてきたかまで、彼らに奪わせはしない。 机の上で、携帯電話が震えた。 会社の総務からだった。 画面には、祝い花の写真が届いている。澄乃は画像を開いた。白い胡蝶蘭の鉢に、札が立っている。肩書は正しい。だが、名前の一文字が略字になっていた。 澄乃はすぐに電話をかけた。「写真、確認いたしました。肩書は合っていますが、お名前の倉の字が略字です。先方は旧字体を大切になさる方ですので、差し替えをお願いいたします」『すみません、気づきませんでした。すぐに直します』「まだ受付に出していなければ間に合います。お手数ですが、お願いいたします」『本当に助かりました』 電話を切る。 澄乃は、そのやり取りも記録した。 祝い花札確認。誤字修正依頼。会社受付前に対応。 たった一行だった。 けれど、その一行がなければ、久世家の会社は朝から小さな失礼を犯していた。 誰も知らないところで、防がれた失礼
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見えない労働の記録①

 澄乃は、古い裁縫部屋の窓を少しだけ開けた。 朝から降りそうで降らない空だった。灰色の雲が庭の上に低く垂れこめ、湿った風が木々の葉を重たげに揺らしている。開けた隙間から入り込んだ空気には、土と青葉と、遠くで焚かれている何かの煙の匂いが混じっていた。 久世家の二階にあるその小部屋は、もともと澄乃の私室ではなかった。 義母からは裁縫道具や季節外れの布類を置く部屋として使えばいいと言われた。最初は、ほとんど物置のような扱いだった。低い文机、古い桐箪笥、予備の座布団、箱に詰められた手拭い、使わなくなった花器。誰かの気配が薄く、屋敷の中でも少しだけ忘れられた場所だった。 澄乃は、いつの間にかそこに自分の記録を集めるようになっていた。 最初は、ただの逃げ場だったのだと思う。 台所にも食堂にも応接間にも、澄乃の手で整えたものはたくさんあった。けれど、そこに澄乃自身の場所はなかった。いつも誰かのための部屋で、誰かのための道具で、誰かのための支度だった。 この小部屋だけは違った。 ここに置かれているものは、誰にも見られず、誰にも褒められず、それでも澄乃が久世家を回すために必要としてきたものだった。 文机の上には、すでに何冊ものノートとファイルが積まれている。 家事ノート。 贈答記録。 会食先の控え。 義父母の体調メモ。 親族行事の一覧。 会社関係者の避けるべき話題。 それらをひとつずつ並べるだけで、机の上はすぐに埋まった。紙の束が作る影は薄く、けれど重い。窓から入る鈍い光が、ファイルの背に貼られた小さな見出しを照らしていた。 澄乃は、椅子に座らず、しばらくその前に立っていた。 自分が何年もかけて積み上げてきたものが、これほどの量になっているとは思わなかった。 日々の中では、ひとつひとつは小さかった。 朝食の味噌汁を義父用に薄くする。義母の友人へ送る手土産を、季節と相手の好みに合わせる。昌親の会食相手が酒を飲めない日には、店へ事前に伝える。親族の法事では、誰を隣に座らせないか気を配る。会社の受付へ届く祝い花の札を確認する。 小さなこと。 そう呼ばれてきた。 細かいこと。 大げさなこと。 妻なら当然のこと。 けれど、それらは積み重なると、机一つを埋める量になった。 澄乃は、ゆっくり椅子に腰を下ろした。古い椅子がかすかに軋む。その音が
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見えない労働の記録②

 そこまで書いた時、澄乃の手が止まった。 一定の評価。 医師はそう言ったのだ。 前より塩分を控えられていますね。ご家族の協力があるのでしょう。 その時、義母は少しだけ誇らしげに笑った。義父は面倒そうに咳払いをした。澄乃は診察室の端で小さく頭を下げた。 誰の協力かは、口にされなかった。 澄乃はペン先を紙につけたまま、しばらく動かせなかった。胸の奥から熱いものが上がりそうになり、喉元で止まる。 泣くほどのことではない。 そう思う癖が、まだある。 けれど、それは泣くほどのことだったのかもしれない。 自分がしたことが、自分のものとして認められなかった。その小さな欠落が何年も積もり、今の自分をここまで空っぽにしていた。 澄乃は目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。 泣くのは後でいい。 今は書く。 次に、義母の予定帳を開いた。 義母、久世佳枝は社交の多い人だった。友人との昼食、茶会、習い事、親族の集まり、地域の婦人会、会社関係者の夫人との付き合い。どれも義母自身が華やかに見える場だったが、その裏側の手配は澄乃に回ってきた。 車の時間。 手土産。 相手の好み。 贈答の格。 着物と帯の組み合わせ。 話題に出してよいこと、避けるべきこと。 澄乃は、別のページへ記入した。 日付。結婚一年目四月以降、随時。 相手。久世佳枝および交友関係各位。 内容。外出予定管理、手土産選定、移動手配、相手方の好み・禁忌事項確認、礼状下書き。 依頼者。久世佳枝。場合により久世昌親、久世隆成。 理由。久世家としての体裁維持、関係悪化の回避。 対応。相手別に贈答品履歴作成。昼食会、茶会、見舞い、季節挨拶ごとに文面調整。過去に不評だった品、話題、席順を記録。 結果。大きな失礼や贈答重複を回避。義母の外向きの印象維持に寄与。 寄与。 その言葉を書いた時、少しだけ指先が震えた。 これまでの澄乃なら、そんな言葉を使うことにためらったはずだ。自分のしたことを大きく見せているようで、恥ずかしかった。思い上がりだと言われる気がした。 けれど今は、そう書かなければならないと思った。 控えめにしすぎることもまた、自分を消す行為だった。 澄乃は、ペン先を軽く布で拭った。インクの黒が、白い布に小さく滲む。手の震えはまだあった。けれど、震えながらでも字は書けた。 次に
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見えない労働の記録③

 澄乃は、店の個室の広さ、喫煙可否、段差、帰りの車をつけやすい場所か、相手の苦手食材、支払い方法、手土産を渡すタイミングまで控えていた。 ある料亭では、相手側の専務が椎茸を避けていた。別の店では、女将が義父の古い知人で、席の取り方ひとつに気を使う必要があった。フレンチの店では、相手夫人が左耳を少し悪くしているため、座る位置を調整したこともある。 澄乃は、ノートへ書いた。 日付。結婚三年目以降、久世昌親の依頼により継続。 相手。久世昌親、会食同席者、取引先各位。 内容。会食先選定補助、予約確認、苦手食材・宗教上の制限・健康上の注意確認、席次調整、手土産準備、支払い方法確認。 依頼者。久世昌親。場合により久世隆成。 理由。取引先への失礼防止、昌親の対外印象維持、商談前後の関係円滑化。 対応。店ごとの特徴、過去の利用履歴、相手方の好みを記録。前日および当日に最終確認。必要に応じて変更依頼。 結果。苦手食材提供、席次不備、手土産重複等を回避。 書きながら、昌親の声を思い出した。 そこまでしなくてもいい。 細かい。 総務に任せておけ。 彼は、澄乃が確認を怠れば自分が困ることを知っていたのだろうか。 おそらく、知らない。 困ったことがなかったから。 澄乃が困る前に手を打っていたから。 それを理解した時、彼女の手が止まった。怒りが遅れてくる。激しいものではなかった。胸の底に静かに溜まる、重く熱いものだった。 澄乃は、その熱を紙に逃がすようにペンを動かした。 次に、会社関係者の避けるべき話題をまとめる。 これは、もっと厄介な記録だった。 誰がどこの大学出身か。どの家が相続で揉めているか。誰の息子が退職したばかりか。誰の娘の縁談が流れたか。どの会社が最近業績を落としているか。表向きは笑って済ませる話題でも、場を凍らせることがある。 昌親は、そういう空気を読むのが不得手だった。 澄乃は、会食前にそれとなく伝える。今日はその話題は避けた方がよろしいと思います。先方のご長男の件は、まだ触れない方が。奥様のお身体のことは、向こうからおっしゃるまで。 昌親はたいてい、面倒そうに聞いていた。 分かった分かった。 そう言っておきながら、時々忘れた。 澄乃は、そのたびに後から礼状や詫び状の文面で空気を整え直した。 これも、仕事だった。 目
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見えない労働の記録④

 「確かに、その方がいいですね。前に、お客様の枕の高さで少し揉めたことがありましたものね」 澄乃は、わずかに目を見開いた。 覚えている人がいた。 あの時、義母は「澄乃さんが確認していたはずでしょう」と言った。客は直接不満を言わなかったが、翌朝、首が痛いと漏らしていた。澄乃は次から枕の種類まで記録するようになった。 家政婦は、その場にいたのだ。 すべてではなくても、見ていた。「……そうでしたね」 澄乃は静かに言った。「表は、廊下収納の左下、薄紫のファイルです。ただ、後ほど私も確認します」「分かりました」 家政婦は頭を下げ、去っていった。 澄乃は扉を閉める。 今の短いやり取りだけで、胸の奥が少し揺れていた。 自分のしてきたことを、まったく誰も見ていなかったわけではない。 けれど、見ていた人がいても、それが澄乃の権利や評価に変わることはなかった。誰かの記憶に少し残っているだけでは、自分を守れない。 やはり、残すしかない。 日付を。 相手を。 内容を。 誰の依頼だったかを。 澄乃は再び椅子に座った。 今度は、別のファイルを開く。 そこには「引き継ぎ用」と書いた紙を挟んだ。 善意の引き継ぎではない。 自分の技術を、最後まで無償で差し出すためのものでもない。 これは境界線だった。 どこまでを最低限として渡すか。 どこから先を、自分の労働として手元に残すか。 澄乃は、それを決める必要があった。 彼女は紙を三つに分けた。 一つ目は、家の運営に最低限必要なこと。 義父の薬、食事制限、義母の通院、非常時の連絡先、来客用の寝具や茶器の場所。 二つ目は、久世家の社交に必要だが、これまで澄乃が個人的に積み上げたもの。 贈答品の好み、親族間の細
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不貞の証拠も残します①

 雨は、夕方になっても止まなかった。 久世家の屋根を打つ雨音は、時間が経つほど細かく、密になっていった。庭の飛び石は水を含んで黒く沈み、灯籠の足元には小さな水たまりができている。廊下の窓硝子には、雫が幾筋も伝い落ちていた。 澄乃は二階の小部屋で、文箱の鍵を開けた。 金具が小さく鳴る。 その音は、雨音にほとんど溶けた。けれど澄乃の耳には、妙にはっきり響いた。何かを始める音だった。あるいは、これまで閉じ込めていたものを、初めて自分の手元へ取り戻す音だった。 文箱の中には、紺色の実務記録ノートと、何冊かの控えが収められている。 家事ノート。 贈答記録。 会社関係の控え。 義父母の体調メモ。 そして、今日からもう一冊、加えるものがあった。 澄乃は新しい薄いファイルを取り出し、表紙に紙を貼った。 不貞関係記録。 その文字を書いた瞬間、指先がほんの少し止まった。 不貞。 紙の上では、あまりにも冷たい言葉だった。 応接間で瑠璃花が口にした「好きになってしまった」という甘い響きも、昌親が使った「お前を傷つけたいわけじゃない」という曖昧な逃げ道も、この言葉の前では形を失う。 不貞。 婚姻している夫が、別の女と関係を持った。 それだけの事実だった。 澄乃は、少し長く息を吐いた。 胸は痛まなかったわけではない。痛みはある。ただ、痛みの形が昨日までと違った。胸を刺す鋭い痛みではなく、重たいものが肋骨の内側へ押し込まれているような痛みだった。 感情で問い詰めれば、少しは楽になるのかもしれない。 いつからなのか。どこで会っていたのか。なぜ私だったのか。なぜ家に連れてきたのか。なぜ、あの女にあんなことを言わせたのか。 聞きたいことは山ほどあった。 だが、聞いたところで昌親が本当のことを言うとは限らない。瑠璃花が涙を浮かべて「悪気はなかった」と言えば、話はまた気持ちの問題にすり替えられる。昌親は、傷つけるつもりはなかった、話し合うつもりだった、澄乃が大げさに受け取ったのだと言うだろう。 そうなれば、事実は薄まる。 澄乃は、それだけは許せなかった。 自分が傷ついたことを、大げさだったことにされたくない。 自分が蔑ろにされたことを、夫婦のすれ違いという柔らかい言葉で包まれたくない。 何より、二人がしたことを、なかったことにされたくない。 
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不貞の証拠も残します②

 数日前、昌親から「大切な話があるから、午後に家にいてくれ」と言われたあと、見知らぬ番号から澄乃の携帯へ連絡が来ていた。 初めまして。汐見瑠璃花です。突然すみません。昌親さんからお話があると思いますが、私からもきちんとご挨拶したくて、当日はよろしくお願いいたします。 その時の澄乃は、胸の奥に嫌な予感を覚えながらも、意味を測りかねていた。昌親に尋ねても、「当日話す」とだけ言われた。 今なら分かる。 瑠璃花は、その時点ですでに、自分が昌親の隣に座るつもりでいたのだ。 澄乃は、携帯の画面を撮影し、日時が分かるように保存した。さらに、文面をノートへ書き写す。 日付。 送信者。 内容。 受信した経緯。 昌親から事前に説明なし。 手書きの文字は、少しだけ乱れた。 澄乃は、その乱れを見つめる。 綺麗に書かなくてもよい。 これは礼状ではない。誰かの機嫌を損ねないための文ではない。自分を守るための記録なのだから、震えた文字もそのまま残ればいい。 次に、共有タブレットの予定履歴を確認した。 久世家では、家族の予定管理のために共用の端末を使っている。主に澄乃が義父母の通院、来客予定、昌親の会食、親族行事を入力していた。昌親も、自分の会食や出張予定を簡単に入れることがあった。 そこに、奇妙な空白がいくつかあった。 会食とだけ入力されている日。 場所が入っていない夜。 帰宅が深夜を越えた日。 澄乃は、その日付を別紙に写した。 もちろん、それだけでは何も証明しない。仕事だったと言われれば終わる。だが、ほかの痕跡と重なれば、意味を持つかもしれない。 記録とは、ひとつで人を裁くものではない。 点を置き、線を引くためのものだ。 澄乃は、そう自分に言い聞かせた。 次に、帰宅時間の記録を整理した。 家事ノートの裏に、澄乃は昌親の帰宅時間を何となく控えていた。夕食の支度を調整するためだった。帰宅が遅ければ温め直しやすい献立に変え、酒席のあとなら胃に軽いものを出す。終電を過ぎるなら、玄関の灯りを残し、翌朝の朝食を少しずらす。 それは、夫への気遣いとして始めた。 今は、別の意味を持っている。 澄乃は、過去三か月分の記録を抜き出した。 月曜日、二十三時四十分帰宅。会食と本人申告。 木曜日、帰宅なし。翌朝七時十五分帰宅。会社近くのホテルに泊まったと
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不貞の証拠も残します③

 次に、贈答品。 瑠璃花が応接間に来た日、彼女は小さな紙袋を持っていた。澄乃には渡さなかった。昌親へ渡したのだろう。けれど、その紙袋と同じ店の包装紙を、澄乃は以前にも見たことがある。 昌親の書斎のごみ箱。 そして、彼の鞄の底。 淡い銀色のリボンが特徴的な菓子店だった。 若い女性に人気があり、義母の付き合いではまず選ばない店。会社の得意先へ贈るには少し軽い。昌親が自分のために買うとも思えない。 澄乃は、過去の包装紙の一部を保管していた。 理由は、贈答記録をつけるためだった。昌親が誰かへ贈ったものなら、重複を避ける必要がある。そう思って、何となく残していた。 今、それが別の意味を持つ。 澄乃は包装紙とリボンを袋へ入れ、日付を書いた。 見つけた場所。 状況。 昌親から説明なし。 さらに、瑠璃花が来訪した日の記録を作る。 日付。時間。応接間使用。昌親同席。汐見瑠璃花来訪。本人より妻の座を譲るよう発言。昌親、否定せず。 そこまで書いた時、澄乃の手がまた震えた。 昨日の応接間の空気が、紙の上に戻ってくる。 瑠璃花の甘い香水。 昌親の面倒そうな沈黙。 紅茶の冷めた匂い。 ぽたりと庭に落ちた雫。 妻の座を譲ってください。 あの言葉を、手書きで残すのは思ったより苦しかった。 澄乃はペンを置き、両手を膝の上で握った。指先が冷えている。爪の根元が白くなるほど力が入っていた。 ここで泣いてしまえば、楽になるだろうか。 いや、たぶんならない。 泣いたあとも、事実は残る。ならば先に事実を残す。 澄乃は万年筆を取り直した。 昌親の発言も書く。 お前を傷つけたいわけじゃない。 このまま三人とも嫌な思いをするのは違う。 お前には感謝している。 揉めたいわけじゃない。 澄乃は、できるだけ正確に思い出して書いた。 書いてみると、彼の言葉の中に、澄乃への謝罪がないことがはっきり分かった。 傷つけたいわけではない。 感謝している。 揉めたいわけではない。 彼は、どこまでも自分の印象を守る言葉を選んでいた。澄乃の傷に触れる言葉ではなく、自分が悪く見えないための言葉を。 紙に書くと、言葉の温度がよく分かる。 澄乃は、しばらくその行を見つめた。 怒りが湧いた。 けれど、その怒りは声にならなかった。代わりに、ペン先へ集まった。 
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不貞の証拠も残します④

 だが、哀れにされることを恐れて何も残さなければ、最後に傷を引き受けるのは自分だけだ。 澄乃は、短い文を打ち始めた。 お久しぶりです。突然の連絡でごめんなさい。家庭のことで、法律相談が必要になりそうです。信頼できる方をご存じでしたら、紹介していただけないでしょうか。 打ち終えてから、何度も読み返した。 家庭のこと。 それだけでは曖昧すぎる。 けれど、最初から全てを打つ勇気はなかった。 澄乃は迷った末に、もう一文加えた。 夫の女性関係と、離婚の可能性についてです。 その文字を見た瞬間、胸が大きく鳴った。 離婚。 まだ昌親へはっきり告げたわけではない。だが、澄乃の中ではもう終わっている。妻の座は譲る。けれど自分の人生までは渡さない。 送信ボタンに指を置く。 ためらいが、もう一度だけやって来た。 これを送れば、外の人に知られる。 久世家の中で飲み込んできたものが、家の外へ出る。 義母なら眉をひそめるだろう。昌親なら、内輪のことを外に出すなと言うだろう。義父なら、家の恥だと言うかもしれない。 だが、恥じるべきなのは澄乃なのか。 違う。 澄乃は、息を吸った。 送信した。 画面に送信済みの表示が出る。 それだけのことなのに、身体の力が抜けそうになった。澄乃は携帯を机に置き、両手で顔を覆いかけた。けれど途中で止める。泣くのはまだ早い。 ほどなくして、美緒から返信が来た。 短い文だった。 大丈夫? 詳しく聞く前に、まず相談先を探すね。信頼できる先生がいるから、都合を確認してみる。無理に一人で抱えないで。 澄乃はその文を見て、初めて目の奥が熱くなった。 大丈夫、とは返せなかった。 大丈夫ではない。 けれど、崩れているだけでもない。 澄乃は、ゆっくりと返信した。 ありがとう。手元にある記録を整理しています。必要なものを確認したいです。 送ると、美緒からすぐに返事が来た。 記録しているなら、そのまま保管して。日付と経緯が分かるように。無理に相手を問い詰めないで。相談日が決まったら連絡する。 澄乃はその文を何度も読んだ。 無理に問い詰めない。 それは、今の澄乃に必要な言葉だった。 感情を相手へぶつければ、相手は逃げる。言い訳を作る。証拠を消す。話をすり替える。 澄乃が今すべきことは、問い詰めることではない。 残
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