水篝館は違った。 祖母の足が思うように動かなくなっても、仲居は急がせなかった。湯上がりに廊下の椅子で息を整えていると、若い従業員が黙って薄い膝掛けを置いてくれた。食事を残しても、料理人は責めず、翌朝には少し量を調整してくれた。 そこにいた澄乃は、久世家の嫁ではなかった。 祖母に付き添う、まだ若い杠澄乃だった。 そして、短い間だけ、宿の手伝いをした。 客室の花を替え、手紙を清書し、湯呑みを並べ、食事処の端で膳の出し方を教わった。失敗もした。部屋番号を間違え、盆の上の小鉢を揺らし、廊下で涙をこらえたこともある。 その時、無愛想な青年が黙って手拭いを渡した。 匂坂伊織。 当時はまだ若旦那というより、現場を走り回る無口な青年だった。言葉は少なく、笑うこともほとんどなかった。けれど、失敗を責める前に割れた器を片づけ、澄乃が火傷しかけた時には黙って冷水の桶を持ってきた。 大丈夫か、と聞く声は硬かった。 優しい言葉ではなかった。 でも、澄乃には救いだった。 あの人は、今も水篝館にいるのだろうか。 電話では、若旦那が今は宿を切り盛りしていると聞いた。 若旦那。 その言葉に、伊織の横顔が浮かんだ。黒髪、鋭い目元、言葉より先に手が動く人。昔の記憶だから、どこまで正確かは分からない。十年以上経っている。彼も変わっているだろう。澄乃も変わった。 会ったところで、覚えていないかもしれない。 それでも、水篝館へ向かうと決めた時、澄乃の中で最初に浮かんだのは、祖母の声と、伊織が置いた手拭いの白さだった。 電車は次の駅へ着いた。 何人かが降り、数人が乗ってくる。向かいの席に座った若い女性が、疲れた顔で携帯を見ていた。隣の中年男性は目を閉じている。誰も澄乃の事情を知らない。 当たり前のことが、少しずつ澄乃をほどいていく。 久世家を出た女。 夫の不貞に傷ついた妻。 妻の座を譲ると言った女。 そんな名前ではなく、ただ夜の電車に乗る一人の人間として、澄乃はそこにいた。 けれど、ほどけると同時に、疲れが押し寄せてきた。 今まで張りつめていたものが少し緩んだせいで、身体の奥から重さが出てくる。肩が痛い。首筋が冷えている。目の奥が熱い。朝から何もまともに食べていないことに気づく。最後の朝食を作ったのに、自分はほとんど口にしていなかった。 澄乃は、鞄から小
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