All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 41 - Chapter 50

121 Chapters

行き先は水篝館③

 水篝館は違った。 祖母の足が思うように動かなくなっても、仲居は急がせなかった。湯上がりに廊下の椅子で息を整えていると、若い従業員が黙って薄い膝掛けを置いてくれた。食事を残しても、料理人は責めず、翌朝には少し量を調整してくれた。 そこにいた澄乃は、久世家の嫁ではなかった。 祖母に付き添う、まだ若い杠澄乃だった。 そして、短い間だけ、宿の手伝いをした。 客室の花を替え、手紙を清書し、湯呑みを並べ、食事処の端で膳の出し方を教わった。失敗もした。部屋番号を間違え、盆の上の小鉢を揺らし、廊下で涙をこらえたこともある。 その時、無愛想な青年が黙って手拭いを渡した。 匂坂伊織。 当時はまだ若旦那というより、現場を走り回る無口な青年だった。言葉は少なく、笑うこともほとんどなかった。けれど、失敗を責める前に割れた器を片づけ、澄乃が火傷しかけた時には黙って冷水の桶を持ってきた。 大丈夫か、と聞く声は硬かった。 優しい言葉ではなかった。 でも、澄乃には救いだった。 あの人は、今も水篝館にいるのだろうか。 電話では、若旦那が今は宿を切り盛りしていると聞いた。 若旦那。 その言葉に、伊織の横顔が浮かんだ。黒髪、鋭い目元、言葉より先に手が動く人。昔の記憶だから、どこまで正確かは分からない。十年以上経っている。彼も変わっているだろう。澄乃も変わった。 会ったところで、覚えていないかもしれない。 それでも、水篝館へ向かうと決めた時、澄乃の中で最初に浮かんだのは、祖母の声と、伊織が置いた手拭いの白さだった。 電車は次の駅へ着いた。 何人かが降り、数人が乗ってくる。向かいの席に座った若い女性が、疲れた顔で携帯を見ていた。隣の中年男性は目を閉じている。誰も澄乃の事情を知らない。 当たり前のことが、少しずつ澄乃をほどいていく。 久世家を出た女。 夫の不貞に傷ついた妻。 妻の座を譲ると言った女。 そんな名前ではなく、ただ夜の電車に乗る一人の人間として、澄乃はそこにいた。 けれど、ほどけると同時に、疲れが押し寄せてきた。 今まで張りつめていたものが少し緩んだせいで、身体の奥から重さが出てくる。肩が痛い。首筋が冷えている。目の奥が熱い。朝から何もまともに食べていないことに気づく。最後の朝食を作ったのに、自分はほとんど口にしていなかった。 澄乃は、鞄から小
Read more

行き先は水篝館④

 窓の外の灯りが減る。高い建物が低くなり、住宅街の明かりが点々と離れていく。やがて、黒い田畑が広がり始めた。雨に濡れた土が、街灯の下で鈍く光っている。遠くの山の輪郭が、夜空よりさらに濃い黒で見えた。 久世家から離れていく。 町から離れていく。 電車の揺れに合わせて、澄乃の肩の力も少しずつ抜けていった。 だが、そこにただの解放感はなかった。 不安がある。 これからどうするのか。 水篝館で働ける保証はない。泊めてもらえるとしても、いつまでも頼れるわけではない。離婚の手続きも、慰謝料も、財産分与も、不貞の証拠も、これから向き合わなければならない。昌親が簡単に署名するとは思えない。義母も、義父も、久世家の体面を守るために何を言うか分からない。 疲労もある。 眠りたい。けれど眠れば、起きた時に全てが夢だったらどうしようと思う。あるいは、夢であってほしいとまだどこかで思っている自分がいるのかもしれない。 罪悪感もある。 義父の薬、義母の外出、家政婦への指示、会社の花。全部置いてきた。必要最低限は残した。ファイルも渡した。けれど、それでも胸のどこかが責める。 本当に置いてきてよかったのか。 誰かが困るのではないか。 自分がもう少し我慢すれば、丸く収まったのではないか。 そのたびに、澄乃は指先を見た。 鍵を置いた感覚が残っている。 冷たい金属。 玄関の台。 澄んだ音。 もう戻らない。 戻れば、また同じことを繰り返す。 昌親は、少し時間を置けば澄乃が戻ると思っているだろう。義母も、朝になれば頭が冷えると思っているかもしれない。義父は、騒ぎを嫌って誰かに収めさせようとするだろう。 だが澄乃は、戻らない。 その決意は、熱いものではなかった。 静かで、固く、少し冷たい。 まるで、文箱の鍵のようだった。 乗り換えの駅に着いた。 ホームへ降りると、空気がさらに冷えていた。ここまで来ると、街の匂いが薄くなる。代わりに、湿った土と草の匂いが強くなった。遠くで虫の声がしている。駅の灯りは少なく、ホームの端は夜に溶けていた。 澄乃は次の電車を待った。 ベンチは少し濡れていたので、立ったままでいた。鞄の重さが腕にかかる。駅の時計を見る。水篝館へ着くのは、やはり遅い時間になりそうだった。 携帯が震えた。 澄乃は一瞬、身体を強張らせた。 昌
Read more

行き先は水篝館⑤

 その時の澄乃は、よく分かっていなかった。 誰かが手を食べる、という言い方が少し怖くて、でも祖母らしいと思っただけだった。 今なら分かる。 久世家は、澄乃の手を食べていた。 朝食を、贈答を、社交を、会社の体裁を、義父母の暮らしを。澄乃の時間も、気力も、眠りも、名前も。 そして、食べていることに気づかなかった。 気づかないまま、もっと差し出せと言った。 澄乃は、窓の外の闇を見つめた。 祖母の言葉が、長い時間をかけて今になって届いたような気がした。 離れなさい。 それは逃げろという意味ではなかったのかもしれない。 自分の手を、自分のものとして取り戻しなさい、という意味だったのかもしれない。 電車が小さな駅に停まる。 無人に近い駅だった。ホームには黄色い灯りがぽつんと点いている。駅名標の文字が、夜気の中で白く浮かんだ。乗る人も降りる人も少ない。扉が閉まると、また山の闇へ走り出す。 澄乃の身体は、少しずつ電車の揺れに馴染んでいた。 背中の強張りがほどける。 肩が落ちる。 指先の冷たさが少し薄れる。 それと同時に、空白が広がっていく。 久世家での予定が消えたあとの空白。 妻として、嫁として、誰かの世話をすることで埋めていた時間の空白。 これからその空白を何で満たせばよいのか、澄乃にはまだ分からない。 怖かった。 けれど、少しだけ、その空白を見てみたいとも思った。 何かを入れるためではなく、まず空いていることを確かめるために。 終点に近い駅のアナウンスが流れた。 水篝館のある温泉街までは、そこから車で少し行く。電話で伝えると、宿の者が駅まで迎えに出ると言ってくれた。澄乃は遠慮したが、夜道は暗いので、と穏やかに押し切られた。 久しぶりに聞く、水篝館の人の押しつけない強さだった。 電車が最後の長いトンネルに入った。 窓の外が真っ暗になる。車内の自分の顔が、硝子に濃く映った。疲れて、少し青白くて、それでも前を向いている顔。 澄乃は、その顔に小さく問いかけた。 本当に、出てきてよかったの。 答えはすぐには返らない。 代わりに、指先に残る鍵の感触があった。 置いてきた。 あの音がした。 もう戻らない。 澄乃は、目を閉じた。 短い闇の中で、胸の奥にあった問いが少しだけ静かになる。 トンネルを抜けると、窓の外に温
Read more

若旦那との再会①

 改札の向こうに立っていた男は、昔の記憶よりもずっと背が高く見えた。 駅舎の灯りは古く、蛍光灯の白さに少しだけ黄色が混じっている。その光を受けて、男の黒髪は濡れたように暗く見えた。無造作に流した前髪の下、切れ長の目が澄乃を見ている。鋭い目元だった。けれど、そこに驚きや好奇心はなかった。 ただ、待っていた者が来たという顔だった。 匂坂伊織。 水篝館の若旦那。 十数年前、祖母の療養に付き添っていた澄乃へ、黙って手拭いを差し出した青年。その人が、今は黒いコートを着て、夜の小さな駅で澄乃を待っていた。 澄乃は、改札の手前で一瞬だけ足を止めた。 電車は背後で扉を閉じ、低い音を立てて走り去っていく。ホームに残された空気は急に冷たくなった。山あいの夜気は街よりも深く、湿った木々の匂いと川の匂いが混じっている。遠くで虫が鳴いていた。 ここまで来た。 久世家から離れ、夜の電車に乗り、山の駅まで来た。 それなのに、改札の前に立った瞬間、澄乃の足は重くなった。 ここを出れば、もう本当に戻れない気がした。 切符を手にした指先が、少し冷える。自動改札などない、小さな駅だった。窓口には年配の駅員が一人いるだけで、改札口には木の柵がある。澄乃は切符を渡し、軽く頭を下げた。 駅員が「お疲れさまです」と言った。 たったそれだけの言葉が、胸に少しだけ沁みた。 疲れていたのだと、誰かの何気ない声で気づく。 改札を出ると、伊織が一歩だけ近づいた。「杠澄乃さん」 低い声だった。 昔よりも少し落ち着いている。けれど、余計な愛想はない。名字と名前をはっきり呼ばれた瞬間、澄乃は思わず息を止めた。 久世の奥様ではなく。 昌親の妻ではなく。 杠澄乃。 自分の名前だった。「はい」 返事をする声が、自分でも分かるほど細かった。 伊織はそれに触れなかった。ただ、視線を澄乃の鞄へ落とす。「荷物はそれだけか」「……はい。大きなものは、後日手配するつもりで」「分かった」 伊織はそう言って、手を差し出した。 澄乃はすぐには動けなかった。 鞄を持つ手に力が入る。これは自分で持たなければならないものだと思った。誰かに持たせるほど重くはない。持てないわけではない。迷惑をかけたくない。そんな言葉が、反射のように胸の中へ浮かぶ。 伊織は急かさなかった。 差し出した手を、そ
Read more

若旦那との再会②

 車が動き出すと、駅の灯りが後ろへ遠ざかった。 山あいの道は暗い。 街灯は少なく、道路脇の木々が黒い影になって迫ってくる。雨に濡れた枝が時折、車の窓をかすめるように見えた。カーブを曲がるたび、遠くで川の水音が聞こえる。夜の川は見えないが、そこにある気配だけは分かった。 澄乃は窓の外を見ていた。 伊織は何も聞かなかった。 なぜ来たのか。 夫はどうしたのか。 今夜、何があったのか。 荷物はなぜ少ないのか。 久世の姓ではなく杠と名乗った理由。 聞こうと思えばいくらでも聞けるはずだった。電話口で名前を告げた時点で、何か事情があることは分かっていたはずだ。夜遅くに突然泊まりたいと連絡してきた女が、何の理由もなく一人で来るはずがない。 それでも伊織は聞かない。 車内には、エンジンの低い音と雨後の道を走るタイヤの音だけがあった。 その沈黙は、久世家の沈黙とは違った。 昌親の沈黙は、澄乃に言葉を飲み込ませるためのものだった。義母の沈黙は、相手へ不安を与え、先に謝らせるためのものだった。義父の沈黙は、家の空気を重くし、誰かが整えるまで動かないものだった。 伊織の沈黙は、ただ置かれていた。 話したければ話せばいい。 話せないなら、それでもいい。 そう言われているようだった。 澄乃は膝の上の鞄を抱え直した。胸が少し苦しい。喉の奥に、言葉にならないものが溜まっている。 事情を話すべきだろうか。 泊めてもらうのだから、最低限は説明しなければならない。夫の不貞。愛人の来訪。妻の座を譲れと言われたこと。離婚届。鍵を置いて家を出たこと。 どこから話せばよいのか分からなかった。 言葉にすれば、惨めになる気がした。 久世家であったことを、伊織の前に広げることが怖かった。自分がどれだけ軽んじられていたかを、自分の口で説明することは、自分自身をもう一度傷つけるような気がした。「あの」 澄乃は、ようやく声を出した。 伊織は前を見たまま、わずかに返事をした。「何だ」「急に、ご迷惑をおかけしてしまって」「部屋は空いてる。」 それだけだった。 澄乃は、言葉を続けられなかった。 部屋は空いている。 迷惑ではないとも、気にするなとも言わない。だが、その一言は十分だった。受け入れられるかどうかの不安を、必要な分だけ取り除く言葉だった。「でも、夜分に
Read more

若旦那との再会③

 祖母と見た、夜の川。 水面に映る灯り。 水篝館の名の由来。 車が橋を渡りきると、道は少し上りになった。石垣と古い木塀が見え、その向こうに大きな木造の屋根が現れる。玄関の灯りが、雨に濡れた石畳を柔らかく照らしていた。 水篝館。 古い看板の文字は、昔と同じだった。 澄乃の胸の奥で、何かが静かに震えた。 車が玄関前に停まる。 伊織が先に降り、後部座席の扉を開けた。外へ出ると、冷たい夜気とともに、木の匂い、温泉のかすかな硫黄の匂い、川の湿った匂いが一度に澄乃を包んだ。 久世家の匂いではない。 出汁や味噌、磨いた廊下、義母の香水、昌親のシャツに残った外の匂いではない。 別の場所の匂いだった。 玄関の引き戸の向こうには、柔らかな灯りがある。白い暖簾がかかり、床には水を打ったような艶があった。古びてはいるが、丁寧に磨かれている。木の柱には細かな傷があり、その傷すら宿の時間として馴染んでいた。 澄乃は、玄関前で足を止めた。 入っていいのだろうか。 急に、そんな思いが胸をよぎった。 ここは久世家ではない。 自分の役目がある場所ではない。 誰かの妻として、嫁として、管理者として入るわけではない。今の澄乃は、離婚届を置き、鍵を置き、夜に家を出てきた女だ。肩書も、立場も、何も整っていない。 そのまま、この暖かい灯りの中に入っていいのだろうか。 澄乃は、鞄の持ち手を握った。 指先が冷たい。 伊織は、玄関の引き戸を開けたまま、少しだけ振り返った。「入れ」 短い言葉だった。 だが、その声には不思議な強さがあった。 許可というより、寒い場所に立っているなという実務の声。けれど、その実務の中に、押しつけない温度があった。 澄乃は、ゆっくり一歩を踏み出した。 玄関の内側へ入ると、床の温かさが足元に伝わった。外よりも空気が柔らかい。雨に濡れた木の匂いと、温泉の湯気の匂い。どこかで小さく水が流れている音がする。奥の方から、かすかに食器の触れる音も聞こえた。 水篝館は、眠っていなかった。 夜遅くでも、客を迎えるための静かな息づかいがあった。 帳場の奥から、年配の女性が出てきた。 白髪をきちんとまとめ、落ち着いた色の着物を着ている。澄乃はすぐには思い出せなかったが、相手の方は澄乃を見るなり、目元を柔らかくした。「杠様。よくお越しくださいまし
Read more

若旦那との再会④

 肩が広くなり、声が低くなり、顔つきにも宿を背負う者の重さがある。けれど、無愛想さはそのままだった。必要以上に笑わず、言葉を飾らず、相手に踏み込みすぎない。 そして、見ていないようで見ている。 澄乃が鞄を持ち直した時、伊織はすぐに戻ってきた。「部屋へ案内する」「はい」「荷物は」 伊織が一度だけ聞く。 澄乃は、今度は少しだけ迷ってから、鞄を差し出した。「……お願いいたします」 伊織は、何も言わずに受け取った。 軽い、とも、これだけか、とも言わない。ただ、当然のように持つ。澄乃の手から鞄の重さが消えた瞬間、肩の力まで少し抜けた。 こんなに力を入れていたのかと、自分で驚いた。 廊下を進む。 水篝館の廊下は、昔の記憶より少し古びて見えた。柱には細い傷が増え、壁の一部には補修の跡がある。けれど、床は磨かれている。足音が柔らかく返ってくる。窓の外には川があり、夜の水音が廊下へ低く響いていた。 行灯の灯りが、等間隔に続いている。 廊下の角を曲がる時、澄乃はふと立ち止まりそうになった。 昔、祖母の部屋へ向かう時も、この角を通った気がする。湯上がりの祖母を支え、ゆっくり歩いた。祖母はいつも途中で息を整え、窓の外の川を見た。 ここは変わっていない。 でも、自分は変わった。 久世家の妻として傷つき、記録を残し、鍵を置いて、今ここにいる。 その事実が、急に胸の中で重くなった。 伊織が少し先で足を止めた。「どうした」 澄乃は慌てて顔を上げた。「いえ。懐かしくて」 伊織は短く頷いた。「祖母さんの部屋は、奥だったな」 澄乃は驚いた。「覚えていらっしゃるんですか」「少しは」 それだけ言って、伊織はまた歩き出す。 少しは。 たったそれだけの言葉なのに、澄乃の胸が静かに揺れた。 久世家では、澄乃の祖母の話はほとんど出なかった。祖母が水篝館で療養していたことも、澄乃が短い間ここで手伝ったことも、昌親は知っていたはずだが、興味を持ったことはない。義母にとっては、嫁の実家の細かな過去など重要ではなかった。 けれど、伊織は覚えていた。 部屋の場所まで。 澄乃は、何か言おうとした。 ありがとうございます、では足りない。 覚えていてくださったんですね、と言えば涙が出そうだった。 結局、何も言えなかった。 伊織も、それ以上聞かなかった
Read more

若旦那との再会⑤

 夫に裏切られました。愛人が家に来ました。妻の座を譲れと言われました。離婚届を置いて出てきました。そんな言葉を、この静かな部屋に置きたくなかった。けれど、何も言わずに世話になるのも、失礼な気がした。 澄乃は、言葉の続きを探した。 伊織は、少しも急かさなかった。 ただ、短く言った。「今じゃなくていい」 澄乃は息を止めた。「でも」「泊まる部屋は空いてる。働く話は明日でいい」 その言葉は、澄乃の胸に静かに落ちた。 働く話。 電話で、澄乃は少しだけ伝えていた。しばらく泊めてほしい。もし可能なら、宿で働かせてもらえないか。急な話で無理は承知している、と。 伊織は、その話も急かさなかった。 今夜、働けるかどうかを確かめない。 どんな事情で出てきたのかを聞かない。 過去を掘り返さない。 ただ、部屋は空いていると言う。 話は明日でいいと言う。 澄乃は、目の奥が熱くなるのを感じた。 泣きそうだった。 今度こそ、本当に。 玄関では耐えた。車でも耐えた。廊下でも耐えた。けれど、この短い言葉が一番危なかった。 事情を話さなくても、今夜だけはここにいていい。 そう言われた気がした。 久世家では、澄乃は常に理由を求められた。 なぜ遅い。なぜできていない。なぜ気づかない。なぜそんな顔をしている。なぜ怒っている。なぜ泣くのか。なぜ出ていくのか。 ここでは、今は言わなくていいと言われた。 その差が、あまりにも大きかった。 澄乃は唇を強く結んだ。 涙を落とさないよう、深く頭を下げる。「ありがとうございます」 声は震えていた。 けれど、泣かなかった。 伊織は少しだけ黙った。 それから、低く言った。「明日の朝、八時に帳場へ来い。起きられたらでいい」 澄乃は顔を上げた。「はい」「起きられなかったら寝てろ」「それは」「倒れられる方が面倒だ」 ぶっきらぼうな言い方だった。 けれど、その奥にある気遣いは隠しきれていなかった。 澄乃は、ほんの少しだけ息を緩めた。「承知しました」「敬語、無理に整えなくていい」「……癖です」「そうか」 伊織はそれ以上言わなかった。 戸口に手をかける。「粥が来るまで、座ってろ。立ってる顔じゃない」 澄乃は思わず、自分の顔へ手を当てそうになった。 顔色が悪いのだろう。 体は、思っている
Read more

眠れる夜①

 粥は、白い湯気を立てていた。 小さな盆の上に、土鍋ではなく一人分の椀で運ばれてきたそれは、澄乃が久世家で作ってきた朝の粥とは少し違っていた。出汁の香りが強すぎず、米の甘さが残っている。添えられているのは、細く刻んだ梅と、ほんの少しの塩昆布。胃に重くならないように、けれど味気なくならないように、誰かが加減を見てくれたものだった。 篠田は、盆を窓際の低い卓に置くと、余計なことは聞かなかった。「熱いうちに少しだけでも。召し上がれないようでしたら、そのままでかまいません」 そう言って、静かに頭を下げた。 澄乃は椅子に座ったまま、両手を膝の上で重ねていた。立って礼を言おうとしたが、足に力が入らなかった。無理に立てば、かえって篠田に気を遣わせる。そのことに気づき、澄乃は座ったまま深く頭を下げた。「ありがとうございます」「お茶は、少しぬるめにしております。夜ですから、濃くはしておりません」 篠田の声は穏やかだった。 気遣いが、押しつけになっていない。 澄乃は、湯呑みから立ち上る湯気を見た。久世家では、誰かのために湯の温度を考えるのはいつも自分だった。昌親の帰宅時間、義父の薬、義母の喉の調子。熱すぎないか、薄すぎないか、濃すぎないか。そういう小さな調整を、朝から晩まで続けていた。 今、目の前にある湯呑みは、澄乃のために温度を調整されている。 それだけのことが、胸に引っかかった。 篠田は、澄乃の顔を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。「夜具は敷いてあります。浴衣は棚の上に。大浴場へ行かれるなら、廊下を出て右手でございます。けれど、今夜はお疲れでしょうから、無理はなさらず」「はい」「若旦那から、明日の朝は起きられたらでよいと」 若旦那。 匂坂伊織の顔が、澄乃の中に浮かんだ。 泊まる部屋は空いてる。働く話は明日でいい。 それだけ言った低い声。 甘い慰めでも、同情の言葉でもなかった。けれど、その短さが今の澄乃にはありがたかった。事情を聞かれない。答えを急がされない。涙を求められない。そういう距離の取り方が、こんなにも人を休ませるものだと、澄乃は今まで知らなかった。 篠田が部屋を出ていく。 襖が静かに閉まった。 残された部屋に、川の音が戻ってきた。 低く、絶えず、夜の底を流れている音だった。久世家の廊下で聞こえていた時計の音とは違う。夫の
Read more

眠れる夜②

 澄乃は、自分が久世家でどれほど「残される側」を引き受けてきたかを思い出した。義父が口に合わないと言って残した煮物。義母が少し重いわねと箸を止めた副菜。昌親が会食が入ったと言って手をつけなかった夕食。澄乃はそれらを片づけ、時には自分の食事として口に入れていた。 残すことにも、残されることにも、こんなふうに心が動いていたのだろうか。 考えると、急に疲れが押し寄せた。 澄乃は盆をそのまま卓の端へ寄せ、湯呑みを両手で包んだ。 湯はまだ温かい。 窓の外では、川面に灯りが揺れている。雨で増した水の流れは少し速いのか、映った光はすぐに崩れ、また形を変えた。水篝館の灯りは、久世家の照明よりもずっと柔らかかった。眩しすぎず、暗すぎず、古い木の色に馴染んでいる。 部屋には、畳の匂いがした。 新しすぎない畳の、乾いた草のような匂い。その奥に、洗いたての浴衣の匂いが混じっている。棚の上に畳まれた浴衣は、白地に淡い紺の縞が入っていた。糊の強すぎない、肌に柔らかそうな布だった。 澄乃は、しばらくそれを見つめていた。 久世家の寝間着は、自分で用意していた。季節ごとに入れ替え、洗い、畳み、引き出しへしまう。昌親のものも、義父母の寝具も、客用の浴衣や寝巻きも、澄乃が管理していた。 ここでは、用意されている。 自分で何もしていないのに。 そのことに、また心が追いつかなかった。 澄乃は、ゆっくり立ち上がった。 身体が重い。足裏が畳を踏む感覚が、少し頼りない。大浴場へ行く気力はなかった。篠田が無理をしなくてよいと言ってくれたことを思い出す。 無理をしない。 その言葉を、心の中で何度か繰り返した。 着替えだけはしよう。 澄乃は棚から浴衣を取った。布は乾いていて、手に触れると少しひんやりしていた。袖を通すと、洗い立ての匂いがふわりと立つ。水と石鹸と、日当たりのよい部屋で乾かした布の匂い。 久世家の匂いではない。 そのことに、ほっとした。 同時に、胸が少し痛んだ。 自分は本当にあの家を出てきたのだと、肌に触れる布が教えてくる。コートも、スカートも、久世家を出る時のままの服も、今は部屋の隅に畳んである。浴衣に着替えるだけで、役割を一枚脱いだような心許なさがあった。 帯を結ぶ手が、途中で止まる。 昌親の寝間着を畳んだ回数。 義母の羽織を用意した回数。 客用の浴
Read more
PREV
1
...
34567
...
13
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status