All Chapters of 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Chapter 51 - Chapter 60

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眠れる夜③

 朝食の段取りを考えなくてもいい。 何も責められない夜。 そのはずなのに、身体はまだ信じていなかった。 澄乃は布団に入った。 布団は温かかった。誰かが湯たんぽを入れてくれていたのだろう。足元からじんわりと熱が上がってくる。久世家の寝室の冷えとは違う。掛け布団は軽く、けれど肩をきちんと包む。枕には、干した布の匂いがした。 澄乃は、仰向けになって天井を見た。 木の梁が見える。 古いが、きちんと手入れされている。壁の隅に小さな傷があり、そこに時間が積もっていた。見覚えがあるような、ないような部屋だった。祖母と泊まった部屋ではない。けれど、水篝館の空気は同じだった。 川の音がする。 遠くで、廊下を歩く足音が一度だけ聞こえた。 澄乃の身体が、反射的に強張った。 昌親が帰ってきた。 そう思った。 次の瞬間、自分がどこにいるのか思い出す。 違う。 ここは久世家ではない。 あれは宿の人の足音か、客の足音だ。自分が起きて茶を用意する必要はない。玄関へ出る必要もない。ネクタイを受け取る必要も、会食先の愚痴を聞く必要もない。 澄乃は、掛け布団を握りしめている自分の手に気づいた。 指先が白くなるほど力が入っている。 ゆっくり開く。 布団の布地が掌の中で皺になっていた。 澄乃は息を吐いた。 大丈夫。 声には出さない。 出せば、かえって泣いてしまいそうだった。 少しして、また眠りに落ちかけた。 今度は、携帯の幻の震えで目が覚めた。 枕元に置いた携帯は静かだった。画面も暗い。それでも、身体が先に反応していた。義母からの電話。昌親からの連絡。会社総務からの確認。そういうものを、体がまだ待っている。 澄乃は携帯を手に取った。 通知はない。 ただ、時刻だけが表示されている。まだ日付が変わったばかりだった。 眠ったと思ったのに、ほとんど時間が経っていない。 落胆が胸に落ちる。 眠れると思ったのに。 水篝館へ来たら、安心して眠れると思っていたのに。 体は、そんなに簡単にはほどけなかった。 澄乃は携帯を伏せた。 画面の光が消えると、部屋はまた行灯の柔らかな明かりだけになった。障子の向こうに、廊下の灯りが薄く透けている。誰も澄乃を呼ばない。誰も襖を開けない。誰も、なぜ寝ているのかと責めない。 それなのに、胸がざわつく。 何か忘れて
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眠れる夜④

 澄乃は寝返りを打った。 畳の匂いが少し近くなる。布団の襟が頬に触れ、洗いたての浴衣の袖が腕にやわらかく擦れた。衣擦れの音は小さい。久世家で聞いていた、義母の着物の衣擦れとは違う。あの音を聞くと、澄乃はいつも背筋が伸びた。何か言われる。何か頼まれる。何か直される。 今、聞こえるのは自分の浴衣の音だけだった。 それでも、体は反応する。 澄乃は、苦笑しそうになった。 情けない。 そう思いかけて、すぐにやめる。 情けないのではない。 慣れていないだけだ。 休むことに。 責められない夜に。 自分のために敷かれた布団に。 澄乃は、行灯の灯りを見た。 消そうか迷った。 真っ暗にすれば眠れるかもしれない。だが、暗闇の中で久世家の寝室を思い出しそうで怖かった。昌親が戻らない夜、暗い天井を見上げていた時間。義母から早朝に電話が来るかもしれないと眠れなかった夜。 行灯の小さな光がある方がよかった。 誰かが置いてくれた、眠るための灯り。 澄乃は、その光を残したまま目を閉じた。 また、浅い眠りが来た。 夢の中で、玄関の音がした。 がらり、と久世家の戸が開く。 昌親が帰ってくる。 澄乃は台所へ走らなければならない。湯を沸かし、茶を入れ、夕食を温め直し、ネクタイを受け取り、靴を揃え、鞄から書類を出しておく。義母が奥から「澄乃さん」と呼ぶ。義父が新聞の向こうで咳払いをする。瑠璃花が応接間で笑っている。 妻の座を譲ってください。 その声で目が覚めた。 澄乃は布団の中で上半身を起こしていた。 息が乱れている。 胸が痛い。 部屋は静かだった。 水篝館の部屋だった。障子、行灯、白い椿、川の音。久世家ではない。応接間でもない。瑠璃花はいない。昌親もいない。 澄乃は、両手で顔を覆った。 手が冷たい。 息を整えようとするが、うまくいかない。喉の奥が詰まり、吐く息が短くなる。泣きたいのか、叫びたいのか、自分でも分からなかった。 しばらく、そのまま座っていた。 川の音が、少しずつ耳に戻ってくる。 ざあ、と低く流れる音。 切れ目のない音。 責めない音。 澄乃は、布団から出て窓際へ向かった。足元が少しふらつく。行灯の灯りに照らされた畳を踏み、窓際の椅子に座る。障子をほんの少し開けると、冷たい夜気が入ってきた。 川が見えた。 黒い水面に、
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眠れる夜⑤

 何度か、また目が覚めかけた。 廊下の遠い足音。 風で障子がわずかに鳴る音。 川の流れが強くなる音。 そのたびに身体は反射する。誰かに呼ばれたのか。何かを忘れたのか。起きなければならないのか。 けれど、そのたびに澄乃は布団の中で小さく息を吐いた。 ここは水篝館。 今夜は何もしなくていい。 明日の朝、起きられたらでいい。 伊織の低い声を思い出す。 起きられなかったら寝てろ。 倒れられる方が面倒だ。 ぶっきらぼうな言葉だったのに、今夜の澄乃には薬のようだった。甘くない。飾らない。けれど、確かに効く。 澄乃は、少しだけ口元を緩めた。 こんな時に笑うのは不思議だった。笑ったというより、固まっていた顔の筋肉が緩んだだけかもしれない。それでも、久世家を出てから初めて、胸の奥に小さな空気が通った。 夜が深くなる。 宿の中の気配も、少しずつ静まっていった。 廊下の足音はなくなり、食器の触れる音も消えた。遠くで一度だけ戸の閉まる音がして、それきり水篝館は夜の呼吸に入った。川の音だけが、ずっと続いている。 澄乃は、うとうとと浅い眠りに沈みかけた。 今度は夢を見なかった。 ただ、暗い水の音と、柔らかな布団の温かさだけがあった。 ふと目が開く。 障子の向こうが、ほんの少し白んでいた。 朝にはまだ早い。けれど、夜の黒さが薄くなり始めている。鳥の声はまだしない。川の音は、少しだけ柔らかく聞こえた。 澄乃は、ぼんやりと天井を見た。 眠れたのだろうか。 長く眠った気はしない。何度も起きた。夢も見た。息も乱れた。体はまだ重い。目の奥は熱い。 それでも、久世家を出てから初めて、朝へ向かっていることを怖いと思わなかった。 朝が来れば、味噌汁を作らなければならない。 義母へ電話しなければならない。 昌親のシャツを出さなければならない。 義父の薬を確認しなければならない。 そういう朝ではない。 水篝館の朝だった。 起きられたら帳場へ行けばいい。 無理なら寝ていればいい。 その選択があるだけで、朝の色はこんなにも違うのかと、澄乃は思った。 障子の白さを見ているうちに、また眠気が来た。 今度の眠気は、引きずり込むようなものではなかった。責任から逃げるための気絶のような眠りでもない。川の音と布団の温かさが、ゆっくり体を包み込んでいく。
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久世家の朝は回らない①

 久世家の朝は、いつもより遅れて始まった。 最初に異変に気づいたのは、台所の時計だった。もちろん時計が何かを言ったわけではない。ただ、いつもの時刻になっても鍋に火が入らず、米の炊ける匂いも立たず、出汁の湯気も上がらないまま、針だけが無情に進んでいった。 五時半。 六時。 六時半。 台所は暗かった。 流しは昨夜、家政婦が片づけたまま冷えている。磨かれたまな板は乾き、布巾はきちんと畳まれている。冷蔵庫の中には食材があった。白身魚、卵、小松菜、大根、豆腐、若布、鶏肉、昨日のうちに戻された干し椎茸。米櫃には米もある。味噌も、出汁用の昆布も、鰹節も、すべて所定の場所に収まっていた。 だからこそ、台所はよけいに不自然だった。 材料はある。 道具もある。 場所も整っている。 けれど、朝食はなかった。 この家では長い間、朝食は時間になると現れるものだった。台所に火が入り、出汁の香りが広がり、義父の膳には減塩の煮物が置かれ、義母の椀には細く切った葱が浮かび、昌親の皿には出汁巻きが並ぶ。それはあまりにも毎日のことで、誰もその前段階を見ていなかった。 見ようとしなかった、と言った方が正しいのかもしれない。 最初に起きてきたのは、家政婦だった。 彼女は通いで、いつも七時前に屋敷へ入る。普段なら、澄乃がすでに台所に立っていて、必要な下ごしらえはほとんど終わっている。家政婦は洗い物や掃除、食器出しの補助に回ればよかった。 ところが、その朝、台所には誰もいなかった。 家政婦は入口で足を止めた。 出汁の匂いがしない。 それだけで、台所がひどく広く見えた。「……奥様?」 呼びかけてから、すぐに自分の声が浮いたことに気づく。 澄乃はもういない。 昨夜、玄関に鍵を置いて出ていった。 家政婦は、玄関の台の上に置かれた鍵束を見ていた。奥様、と呼んでいいのかどうかも分からないまま、それでも彼女の中で澄乃はまだ奥様だった。久世家の誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで台所や廊下を整えていた人。 その人が、いない。 家政婦は冷蔵庫を開けた。 食材は揃っている。だが、どれをどう使うのかまでは分からなかった。白身魚は人数分ある。下味はついているようだが、義父用にどれだけ塩を落とすべきか分からない。小鉢用の小松菜もある。卵もある。味噌汁の具もある。 けれど、献立が組
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久世家の朝は回らない②

 家政婦は迷った末に、義母へ知らせることにした。 久世佳枝は、いつもより不機嫌な顔で居間にいた。 昨夜のことを、ほとんど眠れないまま朝まで考えていた。澄乃が本当に出ていったこと。玄関に鍵が置かれていたこと。離婚届という言葉。弁護士という言葉。昌親が応接間で言葉を詰まらせていたこと。 どれも、久世家の中にあってはならないものだった。 だが、佳枝が最初に口にしたのは、それらではなかった。「朝食は?」 家政婦は、目を伏せた。「それが、まだ……」「まだ?」 佳枝の声が鋭くなる。「澄乃さんは」 言いかけて、佳枝自身が唇を閉じた。 澄乃はいない。 その事実が、朝の空気の中で初めて現実味を持った。 夜のうちは、怒りや混乱で見えなかった。出ていくと言っても、朝には戻るのではないか。もしくは宿を取っただけで、昼には連絡してくるのではないか。長年この家にいた嫁が、本当に何もかも置いて出ていけるはずがない。 どこかで、佳枝はそう思っていた。 けれど、朝食がない。 それは、澄乃がいないという事実を、どんな言葉よりもはっきり突きつけてきた。「汐見さんは」 佳枝は言った。 声には苛立ちが滲んでいる。「来ているの」「いえ。まだでございます」「昌親を呼びなさい」 家政婦が頭を下げて出ていく。 佳枝は居間の柱時計を見た。すでに七時を過ぎている。夫の隆成はいつも七時半には食堂へ来る。血圧の薬は朝食後に飲む。食事の内容に気を遣わなければならないことは、佳枝も分かっていた。 分かってはいた。 だが、実際に何を出せばよいのかは分からない。 澄乃がいたからだ。 澄乃が、薄味でも箸が進むように煮物を作り、味噌汁を分け、薬の小皿を用意し、隆成が文句を言いながらも食べる形へ整えていた。 佳枝は、それを嫁の役目だと思っていた。 嫁の役目なら、誰か別の女が来れば埋まると思っていた。 その考えが、朝の台所の前でひどく頼りなく揺れている。 やがて、昌親が顔を出した。 寝不足なのか、目元が少し重い。昨夜、澄乃が出ていった後も、彼はしばらく玄関に立っていた。その後、応接間に戻り、離婚届の入った封筒を何度も見た。署名などするつもりはない。澄乃は一時的に感情的になっているだけだ。そう考えようとした。 けれど、証拠を保全している、と言った澄乃の声が何度も耳に戻っ
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久世家の朝は回らない③

「家政婦に作らせればいいだろう」 昌親は言った。 佳枝の目が細くなる。「あなた、お父様の食事制限を分かっているの」「減塩だろう」「どのくらい」 昌親は答えられなかった。 佳枝は、苛立ったように扇子を閉じた。「そういうことを、澄乃さんがしていたのよ」 それは責める言葉だったが、どこかで自分自身にも刺さっていた。 昌親は不快そうに視線を逸らした。「だからといって、朝食くらいで大騒ぎするな」 その時、玄関の方で若い女の声がした。「おはようございます」 場違いなほど明るい声だった。 家政婦に案内されて、瑠璃花が居間の近くまで来ていた。淡い黄色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、髪も綺麗に整えている。昨夜のことがあったにもかかわらず、彼女の顔には、どこか期待に似た表情があった。 久世家で初めて迎える朝。 そういう思いが、彼女の中にはあったのかもしれない。 だが、居間の空気は歓迎とはほど遠かった。 佳枝は、瑠璃花を見るなり眉をひそめた。「汐見さん。あなた、昨日ファイルを受け取ったわね」「はい」 瑠璃花は少し戸惑いながら頷いた。「朝食について、何か書いてあったでしょう」「朝食、ですか」「お父様の食事制限のことよ」 瑠璃花は手に持っていた小さな鞄を抱え直した。「えっと、ファイルは家に置いてきてしまって」 沈黙が落ちた。 佳枝の顔から、表情がすっと消えた。「置いてきた?」「はい。あとでちゃんと読もうと思って。昨日は帰ったら少し疲れてしまって」 昌親が口を挟む。「母さん、瑠璃花を責めるな。急に全部は無理だ」 佳枝は昌親を見た。「急に全部は無理? では、今日の朝食はどうするの」「外で食べればいいだろう」 それを言ったのは、瑠璃花だった。 明るく、あまりにも簡単な声だった。 佳枝がゆっくり瑠璃花へ視線を戻す。 瑠璃花は、自分の言葉がそれほど重く受け止められるとは思っていなかったのだろう。少し笑って、取りなすように続けた。「朝食くらい、外でいいと思います。近くにカフェとかありませんか? 昌親さんも忙しいでしょうし、お義父様もたまには気分転換に」「お義父様?」 佳枝の声が冷えた。 瑠璃花の顔が強張る。「あ、すみません。まだそう呼ぶのは早いですよね。えっと、久世社長」「そういう問題ではありません」
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久世家の朝は回らない④

「勝手に…」 佳枝は低く繰り返した。「あなた、本当にそう思っているの」 昌親は苛立ったように髪をかき上げた。「昨夜、離婚届まで出してきたんだぞ。普通じゃない。しばらく頭を冷やせば戻る。今はあいつも感情的になっている」 瑠璃花が不安そうに昌親を見る。「戻るんですか?」 その声には、隠しきれない焦りがあった。 昌親はすぐに答えなかった。 その沈黙が、居間の空気をさらに悪くする。「戻るというより」 昌親は言葉を探した。「話し合えば、落ち着く。澄乃は昔から責任感が強い。家のことを途中で放り出すような女じゃない」 その言葉に、佳枝は何も言わなかった。 以前なら、それは澄乃を評する当然の言葉だった。責任感がある。家のことを放り出さない。よく気がつく。黙ってやる。久世家にとって都合のよい美徳として、何度も使ってきた言葉だった。 けれど今朝、その言葉は空っぽに響いた。 家のことを放り出さない女だからこそ、あのファイルを残したのだ。 そして、必要以上は残さなかった。 それが今、朝食の膳の空白として現れている。 食堂の方から、隆成の咳払いが聞こえた。「朝食はまだか」 全員が動きを止めた。 佳枝は目を閉じる。 昌親は舌打ちを飲み込む。 瑠璃花は小さく肩を縮めた。 家政婦が慌てて食堂へ向かおうとすると、佳枝が制した。「待ちなさい。何か用意しなければ」「お粥でしたら、作れます。ただ、減塩の加減が」 家政婦が言いにくそうに言う。「薄くすればいいだろう」 昌親が言った。 佳枝が即座に返す。「薄いだけでは食べないのよ」 その一言に、昌親は黙った。 薄いだけでは食べない。 その調整を、澄乃はしていた。 塩分を抑えながら、出汁や香りで満足できるようにする。義父が不機嫌にならない程度に、けれど医師の指示から外れすぎないように。そんな細い針の上を、毎朝歩いていた。 昌親は、それを考えたことがなかった。 卵を焼けば卵焼きになる。 味噌を溶けば味噌汁になる。 魚を焼けば朝食になる。 そう思っていた。 だが、冷蔵庫には卵があり、味噌も魚もあるのに、朝食は出てこない。 勝手に生えてくるものではなかったのだ。 その当たり前のことに、昌親は今さら気づいた。 だが、気づきは浅かった。 胸の中に浮かんだ最初の言葉は、謝罪ではなか
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久世家の朝は回らない⑤

「ほら、下ごしらえしてあります。これなら何とかなりそうです」 家政婦は表情を曇らせた。「ただ、仕上げの加減が」「薄めでいいんですよね」 瑠璃花は軽く言った。「じゃあ、味付けしないくらいでいいんじゃないですか」 佳枝の目が鋭くなった。「味付けしない食事を、あなたは出すつもりなの?」「だって、減塩ってそういうことじゃ」「違います」 佳枝は短く言った。 その声には、澄乃に向ける時と同じ棘があった。だが、澄乃ならその棘を受け止めて、場を整えた。瑠璃花は受け止め方を知らない。 目元が赤くなる。「私、まだ何も分からないんです。昨日ファイルをもらったばかりですし」「読まなかったのでしょう」「疲れてたんです」「誰が疲れさせたのかしら」 瑠璃花は黙った。 そこに、隆成の声が食堂から飛んできた。「いつまで待たせる」 家政婦が慌てて返事をする。「すぐにお持ちします」 すぐに。 けれど、すぐに出せるものはなかった。 炊飯器には米が炊けていない。澄乃はいつも土鍋で炊いていたが、今朝は誰も火を入れていない。昨夜の残り飯は少しあるが、人数分には足りない。冷凍の米を温めるにしても、義父はその匂いに敏感だった。 味噌汁もない。 出汁も引いていない。 卵はあるが、誰も昌親の好む出汁巻きの加減を知らない。 冷蔵庫の中に揃った食材は、主を失った道具のように沈黙していた。 家政婦は、せめて粥を作ることにした。 残り飯を使い、湯を足し、薄く出汁を加える。義父用には塩を控える。だが、香りをどう足せばよいか分からない。澄乃なら柚子皮か生姜を少し使っただろう。今日は柚子の場所が分からなかった。 瑠璃花は、卵を割ろうとして殻を落とした。「あ」 短い声が出る。 佳枝の視線が刺さる。 瑠璃花は慌てて殻を取ろうとするが、うまくいかない。箸の持ち方は悪くないが、手元が震えている。昌親は台所の入口でそれを見て、眉間を押さえた。「もういい。外で何か買ってくる」「お父様はどうするの」 佳枝が言う。「だから、粥があるだろう」「それで召し上がると思うの」「食べるしかないだろう」 昌親の声が荒くなる。 その瞬間、台所の中の空気が冷えた。 澄乃がいれば、こうなる前に何かを出していた。 父に文句を言わせながらも食べさせ、母をなだめ、昌親の前には別の皿
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久世家の朝は回らない⑥

 瑠璃花は食堂の端に立ったまま、居場所を失っていた。可愛らしい服も、整えた髪も、朝の混乱の中では浮いて見える。彼女は妻の座が欲しかった。けれど今、その座の最初の朝に、彼女は卵の殻ひとつうまく取れず、義母の怒りと義父の沈黙の間で立ち尽くしている。 昌親はその横で、苛立ちを隠せずにいた。 朝食くらい。 そう思っていた。 だが、その朝食くらいが回らない。 彼は食卓を見た。 薄い粥。 形の崩れた卵。 薬を置く小皿はあるが、水がない。 父の箸が進まない。 母の顔が強張っている。 瑠璃花は泣きそうだ。 家政婦は困っている。 これが、澄乃がいなくなった朝だった。 昌親の胸に、かすかな不安が生まれた。 けれど彼は、まだその不安へ名前をつけなかった。 澄乃は細かすぎた。 そう思う。 あいつが何でも自分でやりすぎたから、急にいなくなると困るだけだ。もっと早く共有しておけばよかった。もっと簡単にしておけばよかった。大げさなファイルではなく、誰でも分かるようにしておけばよかった。 だが、心のどこかで別の声がした。 共有しようとした澄乃の言葉を、自分は何度流しただろう。 大げさだと笑ったのは、自分ではなかったか。 その声は小さく、すぐに昌親の苛立ちに押し潰された。 食堂の空気は、ますます重くなる。 誰も、朝食をおいしいとは言わない。 誰も、ありがとうとは言わない。 ただ、澄乃がいないという事実だけが、空席のようにそこへ座っていた。 その時、廊下の電話が鳴った。 家政婦が顔を上げる。 佳枝が眉を寄せる。 昌親が反射的に言った。「澄乃、出て」 言ってから、食堂の全員が黙った。 澄乃はいない。 電話は鳴り続ける。 家政婦が慌てて廊下へ走った。受話器を取る声が遠くから聞こえる。「はい、久世でございます」 少しの沈黙。 それから、家政婦の声が困惑を帯びた。「あの……本日の会食先の、最終確認のお電話とのことですが」 食堂の空気が、またひとつ冷えた。 昌親は、手元の箸を置いた。 会食先。 昨日、澄乃に確認を頼もうとして、断られたものだった。 書斎の右の引き出しにあると、彼女は言っていた。 会社の予定表にも入っていると。 けれど昌親は、確認していなかった。 電話は、まだ廊下で続いている。 誰もすぐに動けなかった
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働く場所をください①

 澄乃が目を覚ました時、障子の向こうはすでに明るかった。 白い光が、障子紙を通してやわらかく部屋へ満ちている。夜の行灯は消えていて、畳の目には朝の光が細く伸びていた。川の音は昨夜より少し澄んで聞こえる。雨で増えていた流れが落ち着いたのか、低く荒かった水音が、朝には穏やかな呼吸のようになっていた。 しばらく、澄乃は自分がどこにいるのか分からなかった。 天井の梁。 床の間の白い椿。 窓際の低い椅子。 湯呑みの残った卓。 久世家の寝室ではない。 水篝館だ。 そう思い出した瞬間、胸が一度だけ大きく鳴った。 澄乃は布団の中で息を詰めた。寝過ごしたのではないか。朝食の支度は。義母への電話は。義父の薬は。昌親の会食先への確認は。次々に浮かんだ考えが、寝起きの頭を一瞬で責め立てる。 けれど、そのどれも、もう澄乃がすることではなかった。 それを思い出すまでに、少し時間がかかった。 枕元の携帯を見る。時刻は八時を少し過ぎていた。 八時。 伊織は昨夜、八時に帳場へ来いと言った。起きられたらでいい、とも言った。起きられなかったら寝てろ、とも。 それでも、澄乃は反射的に布団から起き上がった。 身体が重い。肩も首も痛い。睡眠は深かったはずなのに、目の奥に熱が残っている。久しぶりにまとまって眠れたからこそ、今まで溜め込んでいた疲れが一度に表へ出たようだった。 それでも、寝ているわけにはいかないと思った。 世話になっている。 泊めてもらっている。 何もしないまま朝を迎えることが、どうしても落ち着かなかった。 澄乃は浴衣の袖を整え、布団から出た。足元の畳は少し冷たい。昨夜、湯たんぽがあった場所はもうぬるくなっている。布団を上げようとして手を伸ばしかけ、ふと止まった。 宿の布団を、客が勝手に片づけていいのだろうか。 久世家では、布団も寝具も客用のものまで管理していた。敷き方、畳み方、干す時間。何もかもが自分の手順の中にあった。けれどここでは違う。ここにはここの仕事がある。 澄乃は、布団の襟元だけを整えた。 それだけでも、少し落ち着いた。 棚に用意されていた着替えを取り、昨夜の服へ袖を通す。少し皺がある。けれど、誰かの妻として整う必要はない。そう思っても、髪だけはきちんとまとめた。鏡台の前で櫛を通すと、黒髪が指先に冷たく触れた。 鏡に映る顔は、ひ
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