帳場の前では、伊織が帳面を見ていた。 黒の作務衣に近い落ち着いた仕事着を着ている。昨夜のコート姿とは違い、袖口から見える手首には、働く男の硬さがあった。髪は軽く整えているが、飾り気はない。帳場の横には、宿泊客の鍵が並んでいる。古い木札に部屋名が書かれ、それぞれの札に少しずつ使い込まれた艶があった。 伊織は、澄乃の足音に気づいて顔を上げた。「起きたのか」 第一声はそれだった。「はい。遅くなって申し訳ありません」「遅くない」 伊織は帳面を閉じた。「顔色は悪い」 澄乃は返事に詰まった。 普通なら「大丈夫です」と言うところだった。久世家では、その言葉が最初に口から出た。体調が悪くても、疲れていても、眠れていなくても、まず大丈夫だと言う。その後で、どう大丈夫にするかを考える。 だが、伊織の前でそれを言ったら、見抜かれる気がした。「……少し、眠りが浅くて」 澄乃は正直に言った。 その言葉を口にした自分に、少し驚く。 伊織は頷いた。「そうだろうな」 それだけだった。 慰めも、驚きもない。眠れないのは当然だと、事実として受け取る声だった。 澄乃は、背筋を伸ばした。「昨夜は、本当にありがとうございました。お部屋も、お食事も」「礼は聞いた」「それでも、申し上げたくて」「そうか」 伊織は短く答えた。 帳場の奥で、電話が鳴った。 伊織は受話器を取り、手短に対応した。予約確認の電話のようだった。日付、人数、到着時間、夕食の有無。声は低く、余計な愛想はないが、不親切ではない。必要なことを漏らさず確認し、最後に「お待ちしております」とだけ言った。 電話を置くと、澄乃の方へ戻る。「で」「はい」「働く話だな」 澄乃は、一瞬だけ息を詰めた。 伊織から切り出されると思っていなかった。いや、昨夜言われていた。働く話は明日でいい、と。だが、実際にその言葉が目の前に来ると、足元が少し揺れる。 泊めてもらうだけではいけない。 それは昨夜から何度も考えていた。 久世家から出てきたばかりの自分が、すぐに働ける状態なのかは分からない。疲れている。傷ついている。手続きも残っている。けれど、ただ保護されるだけの立場にはなりたくなかった。 水篝館に、施しとして置いてもらうのではない。 働く場所がほしい。 対価のある関係として、ここに関わりたい。
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