Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 61 - Bab 70

121 Bab

働く場所をください②

 帳場の前では、伊織が帳面を見ていた。 黒の作務衣に近い落ち着いた仕事着を着ている。昨夜のコート姿とは違い、袖口から見える手首には、働く男の硬さがあった。髪は軽く整えているが、飾り気はない。帳場の横には、宿泊客の鍵が並んでいる。古い木札に部屋名が書かれ、それぞれの札に少しずつ使い込まれた艶があった。 伊織は、澄乃の足音に気づいて顔を上げた。「起きたのか」 第一声はそれだった。「はい。遅くなって申し訳ありません」「遅くない」 伊織は帳面を閉じた。「顔色は悪い」 澄乃は返事に詰まった。 普通なら「大丈夫です」と言うところだった。久世家では、その言葉が最初に口から出た。体調が悪くても、疲れていても、眠れていなくても、まず大丈夫だと言う。その後で、どう大丈夫にするかを考える。 だが、伊織の前でそれを言ったら、見抜かれる気がした。「……少し、眠りが浅くて」 澄乃は正直に言った。 その言葉を口にした自分に、少し驚く。 伊織は頷いた。「そうだろうな」 それだけだった。 慰めも、驚きもない。眠れないのは当然だと、事実として受け取る声だった。 澄乃は、背筋を伸ばした。「昨夜は、本当にありがとうございました。お部屋も、お食事も」「礼は聞いた」「それでも、申し上げたくて」「そうか」 伊織は短く答えた。 帳場の奥で、電話が鳴った。 伊織は受話器を取り、手短に対応した。予約確認の電話のようだった。日付、人数、到着時間、夕食の有無。声は低く、余計な愛想はないが、不親切ではない。必要なことを漏らさず確認し、最後に「お待ちしております」とだけ言った。 電話を置くと、澄乃の方へ戻る。「で」「はい」「働く話だな」 澄乃は、一瞬だけ息を詰めた。 伊織から切り出されると思っていなかった。いや、昨夜言われていた。働く話は明日でいい、と。だが、実際にその言葉が目の前に来ると、足元が少し揺れる。 泊めてもらうだけではいけない。 それは昨夜から何度も考えていた。 久世家から出てきたばかりの自分が、すぐに働ける状態なのかは分からない。疲れている。傷ついている。手続きも残っている。けれど、ただ保護されるだけの立場にはなりたくなかった。 水篝館に、施しとして置いてもらうのではない。 働く場所がほしい。 対価のある関係として、ここに関わりたい。
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働く場所をください③

 伊織は腕を組んだ。 少しだけ眉間に皺が寄る。 怒っているのではない。考えている顔だった。「即答はしない」 澄乃の胸が一度沈んだ。 だが、伊織は続けた。「お前は今、まともに判断できる状態じゃない可能性がある」 言葉は鋭かった。 澄乃は反射的に背筋を伸ばす。「私は」「働けないと言ってるんじゃない」 伊織は遮った。「昨日の夜、家を出てきた。眠れてない。顔色も悪い。食事も半分しか入ってない。そういう人間が、今すぐ何でもやりますと言っても、そのまま受ける気はない」 澄乃は、言葉を失った。 責められているわけではない。 見られているのだ。 体調を。 疲労を。 無理をしようとする癖を。 伊織は、帳場の木札を一つ直しながら言った。「逃げてきた場所で、すぐ働くと言う人間は二種類いる」 澄乃は黙って聞いた。「本当に働きたい人間と、休むのが怖い人間だ」 胸の奥を、静かに突かれた気がした。 休むのが怖い。 その言葉は、あまりにも正確だった。 澄乃は、休み方を知らない。休めば怠けているように感じる。誰かに世話をされるだけの状態が怖い。何か役に立たなければ、ここにいてはいけないような気がする。 伊織はそれを見抜いている。 甘い言葉で慰めるのではなく、真正面からその危うさを指摘している。 澄乃は、唇を結んだ。「……両方だと思います」 伊織が澄乃を見る。「働きたい気持ちはあります。こちらでできることを探したいのは、本当です。でも、休むのが怖いのも、本当です」 認める声は小さかった。 けれど、嘘ではなかった。 伊織は少し黙った。 帳場の奥から、篠田が一度だけこちらを見た。すぐに視線を戻し、書類を整理している。聞こえているだろうに、口は挟まない。水篝館の人たちは、必要以上に人の話へ割り込まないのだと思った。 伊織は、低く言った。「なら、条件をつける」 澄乃の胸が、静かに鳴った。「はい」「まず、今日は働かせない」 澄乃は思わず顔を上げた。「ですが」「条件一つ目だ。今日は休め」「本当に、何もしないわけには」「何もしないのが仕事だと思え」 澄乃は返事に詰まった。 何もしないのが仕事。 そんな言い方をされるとは思わなかった。 伊織は続ける。「二つ目。しばらくは試用だ。帳場の補助と客室のしつらえから見る。食
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働く場所をください④

 書面。 その言葉に、澄乃の胸がまた小さく震えた。 条件が、紙になる。 雰囲気や恩情ではなく、書面に残る。 それは澄乃にとって、ひどく安心できることだった。久世家では、何もかもが曖昧だった。妻だから、嫁だから、家族だから。そういう言葉の下で、役割と労働と我慢が混ざり合い、境界が見えなくなっていった。 水篝館では、違う。 泊まること。 働くこと。 賃金。 部屋代。 時間。 役割。 それぞれに線が引かれる。 守られるだけではない。 けれど、使い潰されもしない。 澄乃は、久しぶりに誰かと同じ卓の上で条件を交わしているのだと感じた。上から許されるのではない。憐れまれるのでもない。自分の希望を出し、相手が条件を出し、互いに引き受けられる形を探している。 それは、交渉だった。 人と人との関係だった。 澄乃は、喉の奥が熱くなった。「……ありがとうございます」 伊織は、少しだけ眉を寄せた。「礼じゃない。条件だ」「はい」「礼で受けるな。契約として聞け」 澄乃は、その言葉に目を伏せた。 礼で受けるな。 また深いところを突かれた気がした。 澄乃はいつも、何かを与えられると礼で返そうとした。ありがとう。申し訳ありません。助かります。ご迷惑をおかけします。そう言って、相手の厚意を受け取る代わりに、自分を低く置いてきた。 伊織は、それを許さない。 雇う側と働く側として、条件を交わす。 その方が、澄乃を守ると分かっているようだった。「契約として、承ります」 澄乃は言った。 声はまだ少し震えていたが、先ほどよりも芯があった。 伊織は一度だけ頷いた。「なら、明日から試用。今日は休め」「でも、せめて館内を見せていただくことは」「午後だ」「午後」「昼まで寝ろ。飯を食え。午後に三十分だけ館内を回る」 三十分。 その数字が具体的で、澄乃は少しだけ安心した。曖昧に「あとで」と言われるのではない。無制限に働けとも言われない。三十分。それ以上はさせないという線が、言葉の中にある。「承知しました」「朝食は」「まだ、いただいておりません」「食事処で食えるか」 澄乃は少し迷った。 客のいる場所へ出ることに、まだ緊張がある。昨日まで久世家の妻だった自分が、水篝館の食事処で客として座る。その姿を誰かに見られることが怖いわけではな
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働く場所をください⑤

 澄乃は、手すりにそっと手を置いた。 木の表面は磨かれていて、触れるとほんの少し温かい。誰かが毎日拭いているのだろう。久世家でも、澄乃は手すりを拭いていた。義母が客を通す廊下だから。埃があれば恥だから。誰かが触れる場所だから。 ここでは、誰か別の人の手がこの手すりを守っている。 その仕事の中に、自分も明日から少しずつ入れてもらう。 そう考えると、胸の奥に不安と、ほんのわずかな明るさが同時に生まれた。 部屋へ戻ると、川の光がさっきより明るくなっていた。 障子を少し開ける。 朝の水面が、白く揺れている。夜の黒さは消え、川の向こうの山肌に薄い緑が見えた。雨に洗われた葉が光り、遠くで鳥が鳴いている。 澄乃は、窓際の椅子に腰を下ろした。 働く場所をください。 そう言った。 条件を出された。 受け入れた。 それだけのことなのに、身体の奥がじんわりと熱くなっていた。久世家では、労働は澄乃の中から無限に湧くもののように扱われていた。感謝も賃金も境界もなく、妻だからという一言で流し込まれていた。 水篝館では、違った。 働くなら、働く条件がある。 休むなら、休む必要がある。 倒れそうなら止められる。 過去を背負いすぎれば下がれと言われる。 それは、甘やかしではなかった。 澄乃を仕事から遠ざけるものでもない。 むしろ、仕事を仕事として続けるための線だった。 澄乃は、両手を膝の上で重ねた。 久しぶりに、誰かと対等に言葉を交わした気がした。 誰かの機嫌を取るためではなく。 誰かの都合へ自分を折り畳むためではなく。 自分の希望と、相手の条件を、同じ場所へ置いた。 その感覚は、まだ慣れなくて怖い。 けれど、嫌ではなかった。 しばらくして、篠田が朝食を運んできた。 小さな盆に、湯気の立つ味噌汁、柔らかく炊いた米、焼き魚を半分、卵焼きを一切れ、青菜のおひたし。量は控えめだった。無理なく食べられるように、誰かが考えた膳だった。「軽めにいたしました。残されてもかまいません」 篠田はそう言った。 澄乃は、今度はその言葉を少しだけ自然に受け取れた。「ありがとうございます。いただきます」 箸を取る。 味噌汁を一口飲む。 出汁がやさしく、塩は強くない。けれど薄くはなかった。胃にすっと入る味だった。 澄乃は目を伏せた。 久世家で最後の
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老舗旅館の綻び①

 水篝館の朝は、静かに忙しかった。 客室の廊下を歩く足音は柔らかく抑えられている。食事処からは器の触れ合う音が細く届き、奥の厨房では包丁がまな板を叩く一定の音がしていた。川の音はその下にずっと流れている。人の声、木の床の軋み、湯気の匂い、出汁の香り、浴衣の衣擦れ。どれも急き立てるようではないのに、宿全体が目を覚まして働いているのが分かった。 澄乃は、部屋で朝食を済ませたあと、しばらく窓際に座っていた。 食べたものは多くない。だが、体の奥に少し力が戻っている。昨夜、何度も目を覚ましたことを思えば十分だった。久世家で起きる朝とは違う。誰かのためにすぐ台所へ立たなければならない朝ではない。けれど、何もせずにいるには、胸の中が落ち着かなかった。 働く場所をください。 自分でそう言った。 そして伊織は条件をつけた。 無理をしないこと。 時間外に勝手に動かないこと。 過去を客前で背負わないこと。 倒れそうなら止めること。 条件を思い返すたび、胸の奥が少し不思議な感覚になる。縛られたのではない。むしろ、守られる線を引かれた気がした。けれど、その線の内側でどう立てばいいのか、澄乃にはまだ分からない。 昼前、篠田が部屋へ来た。「若旦那が、午後の館内案内を少し早めてもよいかと」 澄乃は立ち上がりかけて、少しだけふらついた。篠田の目がすぐにそれを拾う。「ご無理でしたら、夕方でも」「いえ、大丈夫です」 口から出た言葉に、自分で気づき、澄乃は少しだけ言い直した。「……少し休んだので、歩けます。ただ、長くなりすぎるようでしたら、途中で申し上げます」 篠田の表情が柔らかくなった。「それがよろしいかと。水篝館は、廊下が長いですから」 叱るでも褒めるでもない声だった。 澄乃は軽く頭を下げ、部屋を出た。 廊下には昼の光が差していた。夜に見た廊下とは違う顔をしている。行灯の灯りに沈んでいた柱の傷や壁の補修跡が、昼の光でははっきり見えた。古い宿の趣と言えば聞こえはいいが、目を凝らすといくつもの綻びがある。 廊下の角の板が少し浮いている。 客室名を書いた木札の一部が色褪せている。 非常口の案内はあるが、文字が小さい。 大浴場への矢印は、初めて来た客には分かりにくい位置に貼られていた。 水篝館は美しい。 けれど、疲れてもいた。 それは澄乃にとって意
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老舗旅館の綻び②

 宿泊予定表、部屋割り、電話予約の控え、料理場への伝達用紙。すべて紙だった。端は少し擦れ、何度も書き込みを直した跡がある。横には古い予約台帳が置かれ、さらに小さな端末が一台ある。新旧の仕組みが、うまく手をつなぎきれずに同じ場所へ置かれているようだった。 伊織は澄乃に気づき、顔を上げた。「歩けるか」「はい。無理はしません」「なら、三十分だけだ」 伊織は腕時計を見る。「過ぎたら戻す」「承知しました」 そのやり取りを、帳場の横で若い仲居が聞いていた。 年は二十代前半くらいだろうか。髪をきちんとまとめ、明るい目をしているが、澄乃を見る視線には少し硬さがあった。胸元の名札には「真帆」とある。 真帆は篠田へ小声で何か言い、すぐに口を閉じた。 澄乃は聞こえなかったふりをした。 外から来た人。 事情のありそうな人。 若旦那が駅まで迎えに行った人。 しかも、急に働きたいと言っている人。 警戒されて当然だった。 澄乃は自分に言い聞かせた。水篝館は、澄乃を癒すためだけに存在しているわけではない。ここにはここで働く人たちの日々があり、守ってきた手順がある。澄乃が久世家で積み上げたものを軽く扱われたくなかったように、水篝館の人たちも、外から来た人間に急に踏み込まれたくはないだろう。 伊織は、真帆の反応に気づいていたようだったが、何も言わなかった。「まず帳場から見る」 伊織は台帳を示した。「予約は電話、旅行会社、紹介、古い常連からの直接連絡が混ざってる。端末にも入れるが、最終確認は紙だ」 澄乃は台帳を覗き込んだ。 きれいに書かれている。部屋名、人数、食事の有無、到着予定、送迎、注意事項。しかし、情報の置き方が古い。例えば、記念日や苦手食材の欄が小さく、備考にまとめて書かれている。複数の注意事項がある場合、見落としやすい。 予約経路も分かりにくかった。 電話なのか、紹介なのか、旅行会社経由なのか。どの段階で客へ何を伝えたかが、一目では追えない。何度も確認すれば分かるが、忙しい時間帯に初見で読むには負担が大きい。 澄乃は口を開きかけ、すぐ閉じた。 今すぐ指摘すれば、外から来たばかりの人間が粗探しをしているようになる。 伊織が視線だけで促す。「言え。見てるだけなら意味がない」 澄乃は、少し迷ってから答えた。「……備考欄に重要な情報が重な
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老舗旅館の綻び③

「篠田さん、備考で見落としたことはあるか」 篠田は少し考えた。「見落としというほどではありませんが、昨年、結婚記念日の小さな祝いを希望されたお客様に、お花の手配確認が遅れたことがありました。間に合いましたが、料理場への連絡が夕方になりまして」「真帆」 伊織が若い仲居を見る。 真帆は少し緊張した顔で答えた。「初めて台帳を見た時、どこを見ればいいか分かりにくかったです。でも、篠田さんに聞けば分かるので」 聞けば分かる。 その言葉に、水篝館の綻びが少し見えた。 人がいるから回っている。 慣れている人が、暗黙のうちに補っている。 その人が忙しい時、休んだ時、新しい人が入った時、仕組みは途端に不安定になる。 澄乃は、久世家を思い出した。 自分がいたから回っていた家。 自分がいなくなった途端、朝食さえ乱れた家。 水篝館は久世家とは違う。だが、見えない補いで回っている部分があることは同じだった。 伊織は台帳を閉じた。「すぐには変えない」 澄乃は頷いた。「はい」「変えるなら、篠田さんと真帆、それから予約を受ける者全員が使える形じゃないと意味がない。紙を増やして現場の手を止めるなら逆効果だ」「おっしゃる通りです」 澄乃は、胸の奥で少し息をついた。 すぐ採用されなかったことに落胆はなかった。むしろ安心した。伊織は、澄乃の言葉を聞き流しているのではない。採用する前に、現場の負担を見ると言っている。 久世家では、澄乃の仕事は増えるばかりだった。 誰かが思いついたことを、澄乃が整える。誰かが困らないように、澄乃が先に動く。現場である澄乃の負担を考える人はいなかった。 水篝館では、違う。 それは小さな違いではなかった。「次」 伊織が歩き出す。 帳場の横を抜け、客室へ向かう廊下へ入る。途中、大浴場への案内板があった。木製で趣はあるが、文字が少し小さい。矢印も控えめで、宿の雰囲気を邪魔しないよう配慮されている。しかし、初めて来た客、とくに高齢の客には見えにくいかもしれない。 ちょうどその時、年配の男性客が廊下の角で立ち止まっていた。 手には浴衣の袖を押さえ、もう片方の手に小さなタオル袋を持っている。周囲を見回し、案内板へ目を細めていた。 真帆がすぐに気づき、声をかける。「大浴場でしたら、こちらでございます」「ああ、すまないね。
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最終番外編 桜の縁側②

「ひいおばあちゃま、あとで桜見ようね!」「ひいおじいちゃま、起きててね!」 廊下の方から、灯希の孫の声が響く。 すぐに、燈理の声がした。「走らない」 続いて、莉都の声。「花籠に近づかないの」 さらに灯希の声。「俺が昔言われたこと全部言われてるな」 誰かが笑った。 伊織が、わずかに目を細める。「賑やかだ」「ええ」 澄乃は微笑んだ。「昔よりずっと」「昔から賑やかだった」「灯希が生まれてからね」「あいつはよく泣いた」「まだ言うの?」「事実だ」 澄乃は声を立てて笑った。 その笑い声は、細くなっても澄乃らしかった。 伊織は、その笑い声を聞いていた。 何十年も聞いてきた声。 泣いた後の笑い。 照れた時の笑い。 子どもたちに囲まれた時の笑い。 朝、髪を直してやった時の笑い。 森本様にからかわれた時の笑い。 水篝館の若女将として、客を迎えた後の静かな笑い。 この声を聞くために、自分は長く生きてきたのかもしれない。 伊織は、そんなことを思った。 もちろん、口には出さない。 出したら澄乃が泣く。 いや、きっと笑って泣く。 それも悪くないと思う自分がいるから、伊織は少しだけ困った。「伊織さん」「何だ」 澄乃は、ふと彼を見た。 白い髪。 皺の刻まれた横顔。 若い頃より少し細くなった肩。 けれど、目だけは変わらない。 澄乃を見る時の、あの静かな目。 澄乃は、ゆっくりと言った。「生まれ変わっても、私のこと見つけて好きになってくれる?」 伊織は、すぐには答えなかった。 風が吹いた。 桜の花びらが、二人の間を流れていく。 水篝館の庭の向こうで、川が光った。 伊織は澄乃を見た。 その目は、若い頃と変わらなかった。 無愛想で。 頑固で。 短くて。 けれど、澄乃だけをまっすぐ見ている目。「当たり前だろ」 その声も、若い頃と変わらなかった。 澄乃は、ゆっくり笑った。 涙が頬を伝った。「そう言うと思った」「聞くまでもない」「でも、聞きたかったの」「そうか」「ええ」 澄乃は、伊織の手を握り直した。「私もね」「ああ」「生まれ変わっても、あなたに見つけてほしいわ」「見つける」「きっと?」「必ず」 その言葉に、澄乃は目を閉じた。 胸の奥が、静かに満ちていく。 生まれ変
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老舗旅館の綻び④

「客室案内か」「はい。今のお部屋の案内を拝見してからでないと、何とも言えませんが」「見るか」 近くの空き部屋へ案内された。 川沿いではない、山側の落ち着いた部屋だった。畳はきちんと整えられ、窓辺には低い椅子が置かれている。床の間の花も控えめで美しい。だが、卓の上に置かれた館内案内は古かった。 紙は上質だが、情報が散らばっている。 大浴場の時間、食事処の場所、売店、非常口、周辺散策、送迎、内線番号。どれも書いてある。けれど、文字が多く、初めて読むには少し疲れる。地図はあるが、縮尺が曖昧で、今いる部屋からの動きが分かりにくい。 澄乃はそっと手に取った。 紙の端が少し擦れている。何度も使われているのだろう。手入れはされているが、更新が止まっているように見えた。 真帆が後ろで口を開いた。「あの案内、読まないお客様も多いんです。結局、聞かれるので」 少しだけ、言い訳のような響きだった。 澄乃は振り返った。「分かります。旅先では、細かい文字を読む気力がないこともありますから」 真帆は一瞬、意外そうな顔をした。 責められると思っていたのかもしれない。 澄乃は続けた。「読むものというより、見てすぐ分かるものにできれば、従業員の方も少し楽になるかもしれません。たとえば、大浴場と食事処だけを大きくした小さな紙を別に置くなど」「紙が増えると、客室係の準備が増える」 伊織がすぐに言った。 澄乃は頷く。「はい。ですので、増やすなら差し替えが少ないものに。季節の情報とは分けた方がよいと思います。毎回替える紙と、常に置く紙を分けないと、管理が大変になります」 伊織は何も言わず、案内を受け取った。 目で文字を追っている。 その横顔は真剣だった。採用するかどうかは別として、聞いている。考えている。現場へ返そうとしている。 そのことが、澄乃には少し嬉しかった。 久世家では、澄乃が何かに気づいても、それは澄乃が黙って直すものだった。誰かと相談し、現場の負担を考え、仕組みに変えることはなかった。全てが澄乃の頭と手の中に閉じ込められていった。 ここでは、違うかもしれない。 そう思いかけて、澄乃はすぐに自分を戒めた。 まだ早い。 水篝館に来て一日も経っていない。 何もかもがうまくいくと信じるには早すぎる。 部屋を出ると、廊下の向こうから厨房の気
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老舗旅館の綻び⑤

 真帆が気まずそうに視線を落とす。 篠田は少し離れて見ていた。 澄乃は、緊張で喉が乾くのを感じた。 ここで言い方を間違えれば、料理場との関係が悪くなる。久世家であれば、相手の機嫌を損ねないように曖昧に笑って引いたかもしれない。けれど、それでは意味がない。 澄乃は、料理長へ向き直った。「料理そのものを飾り立てたいわけではありません」 声が少し硬くなる。「ただ、水篝館のお料理がどのようなものか、宿へ来る前のお客様には見えにくいのではないかと思いました。昨夜いただいたお粥も、今朝の朝食も、とても丁寧でした。けれど、外の案内だけでは、その丁寧さが伝わりにくいように感じます」 料理長の目が少し動いた。「粥を食ったのか」「はい」「半分残しただろう」 澄乃は一瞬、言葉に詰まった。 見られていたのか。 料理長は腕を組んだまま言う。「篠田さんが、胃に入らなかっただけだと言ってたが」「申し訳ありません」「謝れって言ってるんじゃない」 料理長は不機嫌そうに眉を寄せた。「食べられない人間に食べろとは言わん。ただ、半分残した人間に丁寧と言われると、どう受け取ればいいか迷う」 言葉は鋭かったが、怒鳴ってはいなかった。 澄乃は、胸を突かれたような気がした。 久世家では、料理を残される側だった。今度は自分が残した。どんな理由があっても、作った側には何かが残る。そのことを、料理長は隠さず言った。 澄乃は深く頭を下げた。「昨夜は、身体が受け取れる量が少なく、残してしまいました。でも、出汁の香りも、塩の加減も、食べられるよう考えてくださったことは分かりました。少ししかいただけなかったからこそ、余計に分かりました」 料理長は黙った。 厨房の奥で、鍋の蓋が小さく鳴った。 澄乃は続けた。「その丁寧さを、まだ来ていない方にも伝えられたらと思いました。派手な言葉ではなく、たとえば地元の野菜を使っていることや、川魚の焼き方、出汁へのこだわりを少しだけ案内に入れるなど」「こだわり、ね」 料理長は鼻で息を吐いた。「そういうのは、口で言うと安っぽくなる」「はい。言い方を間違えると、そうなると思います」 料理長の目が、また少し動く。 澄乃は一歩も詰めないまま、静かに言った。「だから、料理場の方に確認せず、勝手に書くべきではありません」 その言葉に、場
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