Semua Bab 夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜: Bab 71 - Bab 80

121 Bab

老舗旅館の綻び⑥

 帳場へ戻ると、真帆が少し離れたところで書類を整理していた。彼女は澄乃と目が合うと、すぐに視線を逸らした。敵意というほど強くはない。けれど、簡単には受け入れないという硬さがある。 澄乃は、その反応を当然だと思った。 水篝館には、水篝館の時間がある。 澄乃が来たからといって、すぐに場所ができるわけではない。 篠田が帳場の奥から声をかけた。「若旦那、午後のお客様のお迎えは三時でよろしいですか」「ああ。片桐さんの紹介の二名だな」「はい。結婚三十年のお祝いだそうですが、記念日対応の確認がまだ」 その言葉に、伊織の手が止まった。 澄乃も、無意識に顔を上げた。 篠田は台帳を見ながら言う。「電話では、お祝いなので少し静かに過ごしたいとだけ伺っています。お花やお酒の希望は未確認です」 真帆が小さく言った。「前も、記念日ってどこまで聞けばいいか迷ったことがあります。聞きすぎると押しつけがましいですし」 澄乃は黙っていた。 言いたいことはある。 記念日対応には、確認項目が必要だ。花、菓子、食事時の一言、写真の有無、苦手な演出。けれど、聞き方を間違えれば客に気を遣わせる。特に水篝館のような宿では、過度な演出は似合わない。 伊織が澄乃を見る。「何かあるか」 真帆の視線も、篠田の視線もこちらへ向く。 澄乃は、すぐには答えなかった。 ここで長々と話せば、また外から来た人間が急に仕切ったようになる。だが、何も言わなければ、今後も現場が迷い続ける。 澄乃は、できるだけ短く言った。「確認項目を三つほどに絞るとよいかもしれません」「三つ?」 伊織が聞く。「はい。お祝いの内容を宿から大きく演出してよいか。食事の際にひと言添えてよいか。花や菓子など形に残るものを希望するか。この三つだけでも、現場が迷いにくくなると思います」 真帆が少しだけ考える顔をした。「それなら、電話でも聞けそうです」 篠田も頷く。「聞き方を整えれば、お客様にも負担が少ないかもしれませんね」 伊織はすぐに採用とは言わなかった。「篠田さん、今日の客に使えるか」「確認の電話をするなら、今なら間に合います」「真帆、横で聞け。聞き方を覚えろ。杠さん」「はい」「今の三つ、紙に書け。ただし短く。電話口で読める形にしろ」 澄乃は、胸の奥が少し鳴るのを感じた。 初めて、ここで
Baca selengkapnya

老舗旅館の綻び⑦

「……分かりました」 澄乃は頭を下げた。 帳場を離れる時、真帆と目が合った。 今度は、真帆がすぐには目を逸らさなかった。警戒は残っている。けれど、その奥にほんの少しだけ、さっきとは違うものがあった。 値踏み。 あるいは、保留。 まだ受け入れられたわけではない。 それでいい。 澄乃は廊下を歩きながら、深く息を吐いた。 水篝館には綻びがある。 予約導線も、客室案内も、記念日対応も、食事の魅力の伝え方も、整えられる余地がある。 そして澄乃の裏方能力は、ここで価値になるかもしれない。 久世家で、当然のものとして扱われ、感謝も名前も与えられなかった能力。 誰かの機嫌を守るために磨かされ、自分をすり減らしてきた力。 それが、ここでは仕事になるかもしれない。 そう思った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。 だが同時に、怖さもあった。 また抱え込みすぎるのではないか。 また、必要とされることで自分の居場所を買おうとしてしまうのではないか。 伊織はきっと、それを見抜いている。 だから、すぐ採用しない。 だから、止める。 澄乃は、自室の前で足を止めた。 川の音が聞こえる。 久世家にはなかった音だ。 流れていく音。 澄乃は、障子の引き手に指をかけながら、心の中でそっと言った。 ここでは、全部を拾わなくていい。 自分の力を、全部差し出さなくていい。 そう信じられるようになるには、まだ時間がかかる。 けれど今日、ひとつだけ分かった。 澄乃が積み上げてきたものは、無価値ではなかった。 ただ、置く場所を間違えていただけなのかもしれない。 部屋へ入ると、窓の外の川が昼の光を受けて白く光っていた。 澄乃は、座卓の前に座り、伊織に言われた通り休もうとした。 だが、指先がまだ少し熱を持っている。 あの三つの確認項目が、どう使われるのか。 結果が気になって仕方なかった。 それでも、立ち上がらなかった。 今は、待つ。 自分が全部を見届けなくても、仕事は動く。 そのことを覚えるために、澄乃は川の音を聞きながら、静かに膝の上で手を重ねた。
Baca selengkapnya

あなたの名前で呼ばれる①

 翌朝、澄乃は水の音で目を覚ました。 川の流れが、障子の向こうから低く届いている。久世家の柱時計の音でも、義母からの電話でも、昌親の帰宅を知らせる玄関の開閉音でもない。絶えず流れているのに、誰も急かさない音だった。 目を開けると、天井の木目が見えた。 水篝館の部屋。 そのことを思い出すまで、昨日よりは少し早かった。胸が一瞬だけ強張り、すぐにほどける。まだ完全ではない。朝が来ると、体は勝手に台所へ向かおうとする。義父の薬、義母の電話、昌親の朝食。頭の奥に残る古い予定表が、目覚めと同時にめくれようとする。 けれど、今日は違う。 ここには久世家の台所はない。 澄乃は布団の中で、ゆっくり息を吐いた。 昨日、伊織から試用の条件を聞いた。今日から帳場の補助と客室のしつらえを少しずつ見る。時間外に勝手に動かないこと。倒れそうなら止められること。気づいたものを全部拾わないこと。 そのどれも、澄乃にとってはまだ慣れない規則だった。 けれど、胸の奥に小さな支えもあった。 今日は、水篝館で働く最初の日だ。 その言葉を心の中で置くと、緊張が腹の底へ沈んだ。怖い。けれど、逃げたい怖さではなかった。自分が何者でもないまま漂っているのではなく、試される場所へ向かう怖さだった。 澄乃は起き上がり、布団の襟元を整えた。 篠田から昨夜のうちに借りた仕事用の簡素な着物へ袖を通す。淡い灰色で、派手さはない。帯も動きやすいものだった。鏡の前で髪を結い直す。久世家の嫁として客前へ出る時のような、崩れのない硬いまとめ方ではなく、水篝館の仕事に合わせて低く整える。 鏡の中の自分は、まだ頼りなかった。 けれど、久世家の食卓に立っていた時とは少し違う。 誰かの後ろに控えるためではなく、自分の足で帳場へ向かう顔だった。 廊下へ出ると、朝の水篝館はすでに動き始めていた。 木の床に、仲居たちの足音が控えめに響く。厨房からは出汁の香りが漂い、食事処の方から器の触れる音が聞こえる。障子の向こうを通る光は薄く金色を帯び、川沿いの窓には朝靄が淡く残っていた。 澄乃は廊下の途中で、真帆と出会った。 昨日、少し硬い視線を向けていた若い仲居だった。今日は両手に畳んだ手拭いを抱えている。澄乃を見ると、一瞬だけ足を止めた。 澄乃も立ち止まる。「おはようございます」 先に頭を下げたのは澄乃だっ
Baca selengkapnya

あなたの名前で呼ばれる②

 今、真帆は少しぎこちない顔で、けれど確かに名前を呼んだ。 澄乃さん。 役目ではなく、個人名で。 澄乃は一拍遅れて返事をした。「はい」 真帆は、少し不思議そうに首を傾げる。「あの、帳場へ行かれるんですよね。若旦那が、先に篠田さんのところへって言ってました」「ありがとうございます」「いえ」 真帆は手拭いを抱え直し、急いで廊下の向こうへ歩いていった。 その背中を見送りながら、澄乃は胸に残った小さな揺れを確かめていた。 ただ名前を呼ばれただけ。 それだけのことだった。 それなのに、足元の畳の感触が少し違って感じられた。 帳場へ行くと、篠田が書類を整えていた。 宿泊客の一覧、食事時間、送迎の予定、記念日対応の確認メモ。昨日、澄乃が提案した三つの確認項目は、篠田の手で短く整えられていた。 篠田は顔を上げる。「おはようございます、澄乃さん。よく眠れましたか」 まただった。 澄乃さん。 今度は篠田の落ち着いた声で呼ばれた。 澄乃は、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。だが、ここで泣くわけにはいかない。朝の帳場だ。仕事が始まっている。「おはようございます。昨日よりは眠れました」「それは何よりです。朝食は召し上がれそうですか」「はい。軽くいただければ」「では、後ほど。先に、今日の流れをご説明しますね」 篠田は、当然のようにそう言った。 澄乃を弱りきった客として扱うのではなく、今日から少し仕事に入る人として扱う。けれど、体調も確認する。その二つが矛盾せず並んでいた。 澄乃は、背筋を伸ばした。「よろしくお願いいたします」 篠田は帳場の中の棚を示した。「今日は、予約台帳の見方と、客室に置く案内の確認だけです。若旦那からも、長く立たせないようにと言われております」 澄乃は苦笑に近い息を漏らした。「そこまでお気遣いいただかなくても」「それを言うと、若旦那に叱られます」 篠田は少しだけ目元を笑わせた。「ここでは、倒れられる前に申告していただくのも仕事のうちです」 仕事。 その言葉に、澄乃は頷いた。「承知しました」 帳場の奥から、伊織が出てきた。 今日は黒に近い紺の羽織を着ている。余計な飾りはなく、手には古い鍵束を持っていた。久世家の玄関に置いてきた鍵束とは違う。こちらは宿の部屋の鍵で、木札がついている。揺れるたび
Baca selengkapnya

あなたの名前で呼ばれる③

 午前の仕事は、帳場の棚の確認から始まった。 篠田は宿泊予定表を広げ、部屋名と鍵の場所を説明する。水篝館の客室には数字ではなく、川や季節にちなんだ名がついていた。水明、千鳥、秋灯、山吹、薄氷。どれも古い木札に墨で書かれている。「常連の方は、お好きなお部屋が決まっていることもあります。ですが、必ずしも毎回同じ部屋とは限りません。足腰の具合や、食事処までの距離も考えます」「はい」「こちらが記念日やお祝いごとの控えです。昨日、澄乃さんが出してくださった確認項目は、今のところ使いやすそうですね」 澄乃は、反射的に言いかけた。「いえ、そんな」 途中で止める。 篠田が穏やかに見ていた。 澄乃は言葉を選び直した。「お役に立てたなら、よかったです」「ええ。真帆も聞きやすいと言っていました」 名前を出された真帆が、少し離れたところで客室案内の紙を揃えていた。こちらの話が聞こえたのか、少し顔を上げる。「昨日のは、分かりやすかったです」 真帆は少しぶっきらぼうに言った。「でも、全部変えるのは大変だと思います」 その声には、まだ警戒があった。 澄乃は頷いた。「はい。私も、すぐ全部を変えるべきではないと思います。今あるやり方を知らないまま触るのは、かえってご迷惑になりますから」 真帆は、少し意外そうな顔をした。「……そうですか」「はい。教えていただけたら、まず覚えます」 真帆は視線を落とした。 しばらく黙ってから、小さく言った。「じゃあ、客室案内の差し替え、見ますか。澄乃さん」 最後に、名前がついた。 澄乃さん。 さっきより少しだけ自然な声だった。 澄乃の胸がまた静かに揺れる。「お願いします」 真帆について、客室準備の棚へ向かった。 棚には、部屋ごとの案内紙、茶葉、菓子の在庫、便箋、封筒、小さな裁縫道具、浴衣の紐などが並んでいた。整っているが、年季もある。何度も補われ、直され、使われ続けてきた棚だった。 真帆は手際よく説明した。「これが通常の案内です。こっちが大浴場の時間が変わる時に差し替える紙。季節の催しは、この小さい紙を入れます。でも、たまに抜き忘れます」「催しが終わったあとですか」「はい。前に、終わった灯籠流しの案内が一部屋だけ残っていて、お客様に聞かれました」 真帆は少し気まずそうに言った。 澄乃は責める気に
Baca selengkapnya

あなたの名前で呼ばれる④

 だが、真帆の声には押しつける響きはなかった。ただ、見たものを言っただけだった。 澄乃は、ゆっくり答えた。「得意というより、必要で覚えたことが多いです」 真帆は一瞬、何かを察したように黙った。 それ以上は聞かなかった。 代わりに、棚から一組の案内紙を取り出す。「じゃあ、この部屋の分、一緒に確認してもらえますか。澄乃さん」「はい」 また名前で呼ばれた。 それは三度目か、四度目か。 澄乃は、数えるのをやめた。 呼ばれるたびに胸が揺れるのは、傷があるからだ。けれど、その揺れは痛みだけではなかった。少しずつ、自分の輪郭へ触れているような感覚があった。 午前の仕事は短かった。 伊織の言った通り、長時間は許されなかった。帳場で予約台帳を見て、真帆と客室案内の差し替えを確認し、篠田から館内電話の取り次ぎ方を教わったところで、伊織が帳場の奥から顔を出した。「澄乃さん」 普通に呼ばれた。 澄乃は顔を上げる。「はい」「今日はそこまで」「まだ二時間も経っておりませんが」「最初から長く入れる気はない」「でも」 言いかけた澄乃を、伊織が見た。「条件を忘れたか」 澄乃は口を閉じる。 倒れそうなら止める。 無理をしない。 時間外に勝手に動かない。 条件として受け入れたことだった。「忘れていません」「なら休め」「承知しました」 頭を下げると、真帆が少しだけ笑った。「若旦那、容赦ないですよね」「真帆」 篠田が軽くたしなめる。 真帆は慌てて口を押さえた。 伊織は特に気にしていないようだった。「容赦して倒れられる方が困る」 そう言って、帳場の書類へ視線を戻す。 澄乃は、そのやり取りに少しだけ心が緩んだ。 久世家では、誰かが自分の体調を理由に仕事を止めることはなかった。倒れたら責められる。なら倒れる前に、倒れないように自分で調整するしかない。 ここでは、止められる。 それはまだ少し悔しくもあった。働きたいのに、役に立ちたいのに、休めと言われる。けれど、その悔しさの奥には、安心もあった。 澄乃は、帳場の皆へ頭を下げた。「お先に失礼いたします」 篠田が答える。「お疲れさまでした、澄乃さん」 真帆も少し遅れて言った。「お疲れさまです、澄乃さん」 伊織は書類から目を上げずに短く言った。「昼は部屋に持たせる」 
Baca selengkapnya

あなたの名前で呼ばれる⑥

 久世家の「奥さん」。 親族の「昌親さんの奥さん」。 会社関係者の「久世さんの奥様」。 義母の、用件を含んだ「澄乃さん」。 それらは、澄乃を誰かの付属物として呼ぶ音だった。夫の隣、家の中、役割の中。名前があっても、そこには澄乃自身がいなかった。 水篝館で呼ばれた「澄乃さん」は違った。 篠田の声。 真帆の少しぎこちない声。 伊織の何でもない声。 それぞれ温度は違う。距離も違う。けれど、そのどれもが、澄乃を澄乃として呼んでいた。 過去を知らなくても。 事情を全部聞かなくても。 久世家の妻という役割を外しても。 澄乃という名前は、まだここに残っていた。 その事実が、静かに胸へ落ちていく。 澄乃は、膝の上で両手を重ねた。 自分の名前が、自分のものだったことを忘れていた。 忘れたつもりはなかったのに、いつの間にか遠くへ追いやっていた。役割を呼ばれ、用件を呼ばれ、責任を呼ばれるうちに、名前はただの音になっていた。 でも、消えていなかった。 呼ばれれば、ちゃんと胸が反応する。 澄乃は、静かに目を閉じた。 涙が出そうになった。 けれど、泣かなかった。 泣かないように我慢したのではなく、涙の代わりに、息が深く入った。 その時、襖の外で足音が止まった。「澄乃さん」 伊織の声だった。 澄乃は目を開ける。「はい」「入るぞ」「どうぞ」 襖が開き、伊織が盆を持って入ってきた。 澄乃は慌てて立ち上がろうとした。「若旦那が直々に、そのような」「篠田さんが手を離せなかった」 伊織は淡々と言い、卓に盆を置いた。 昼食は小さな握り飯と味噌汁、薄味の煮物、香の物だった。朝より少ししっかりした量だが、無理なく食べられそうだった。「食えそうなら食え。無理なら残せ」「ありがとうございます」 伊織は、すぐには出ていかなかった。 窓際に立ち、川を少し見てから言う。「真帆が、お前の案内紙の話をしていた」「何か、問題がありましたか」「いや。分かりやすいと言っていた」 澄乃は少しだけ目を見開いた。「そうですか」「調子に乗るなよ」 言葉はきつい。 けれど、声は平らだった。 澄乃は少しだけ笑いそうになった。「はい。乗りません」「あと、抱え込むな」「はい」 伊織はそこで、澄乃を見た。「返事はいい」 久世家でもよく言わ
Baca selengkapnya

茶会は名前でできていない①

 久世家の茶会は、午前十一時から始まることになっていた。 義母の久世佳枝にとって、その茶会はただの集まりではなかった。古くから付き合いのある家の夫人たちを招き、季節の菓子と茶を出し、近況を語り合う。表向きは穏やかな午前のひとときだが、その内側では、家同士の距離、会社の評判、親族の噂、次に声をかけるべき相手が静かに測られている。 茶会とは、茶と菓子だけでできているものではない。 そのことを、久世家の者は知っているようで、知らなかった。 少なくとも、澄乃がいる間は知らなくても済んでいた。 澄乃はいつも、招待客の顔ぶれを聞いた時点で座席表を作った。誰と誰が昔、贈答の件で気まずくなったか。誰が最近、娘の縁談で神経を尖らせているか。誰の夫が会社を退いたばかりで、肩書に触れられるのを嫌がっているか。 菓子も同じだった。 ただ高級なものを選べばよいわけではない。餡の重いものを避ける人、歯が弱い人、持病で甘いものを控えている人、季節感を重んじる人、流行の洋菓子を軽いと見る人。花もそうだ。白百合を嫌う夫人がいる。赤い包み紙を不吉だと避ける家がある。蘭を喜ぶ家もあれば、見栄を張りすぎだと眉をひそめる家もある。 車も、席順も、帰りの手土産も、茶碗の出し方も。 すべて、目に見えない細い糸でつながっていた。 その糸を、澄乃がずっと結んでいた。 だが、その朝、澄乃はいなかった。 茶会の日程は、澄乃が出ていくより前から決まっていた。招待状も出してある。相手の返事も受けている。いまさら取りやめることはできない。取りやめれば、久世家に何かあったのだと余計な憶測を呼ぶ。 佳枝は、昨夜から何度も扇子を開いては閉じていた。 居間には、まだ薄い苛立ちが漂っている。朝食の混乱が収まったわけではない。義父の隆成は不機嫌なまま会社へ行き、昌親は会食先への確認を忘れていた件で朝から電話に追われた。瑠璃花は、台所で卵を崩したことをまだ根に持つような顔をしていた。 それでも、茶会は来る。 客は待ってくれない。「汐見さん」 佳枝は、応接間の中央に立つ瑠璃花を呼んだ。 瑠璃花は振り返る。 今日は明るい薄藤色のワンピースを着ていた。髪も綺麗に巻き、耳には小さな揺れる飾りをつけている。彼女なりに、久世家の茶会にふさわしい装いを考えたのだろう。若々しく、愛らしい。だが、佳枝の目には、その
Baca selengkapnya

茶会は名前でできていない②

 応接間へ戻ると、今度は菓子の箱が置かれていた。 瑠璃花が選んだのは、色とりどりの小さな洋菓子だった。見た目は華やかで、若い女性が好みそうなものだった。淡い桃色、薄緑、白、黄色。宝石のように並んでいる。 佳枝は箱を開けた瞬間、顔をこわばらせた。「これは何」「可愛いでしょう? 今、人気のお店なんです。見た目も綺麗だし、写真にも映えるって」「今日のお客様は、写真を撮りに来るのではありません」 瑠璃花の顔が赤くなる。「でも、お茶会ならお菓子は華やかな方が」「三倉夫人は、クリームの重い菓子をあまり召し上がりません。相馬夫人は、最近甘いものを控えていらっしゃる。桐島夫人は洋酒入りを避けるの」「じゃあ、何ならいいんですか」 瑠璃花の声が少し尖った。「澄乃さんがいつも使っていたお店は、どこですか」 佳枝は返事に詰まった。 店の名前は知っている。 だが、どの季節に何を頼み、誰が来る時に何を避けるかまでは分からない。菓子店へ電話しても、何を注文すればいいのかすぐには浮かばない。 澄乃は、秋なら栗の蒸し菓子、春なら桜の香りを抑えたもの、夏前なら葛菓子、冬なら日持ちのする干菓子を選んでいた。佳枝はそれを外で褒めた。うちの嫁は菓子選びだけは外さないのよ、と。 だけ。 そう言っていた自分の声が、今になって耳に残る。 瑠璃花は、菓子の箱を抱えたまま困ったように言った。「でも、もう買い直しは無理ですよね。これでいいんじゃないですか。見た目は綺麗ですし」 佳枝は黙った。 時間がない。 買い直しに行けば、客の到着に間に合わない。出さないわけにもいかない。急きょ別の菓子を用意できるほど、台所にも余裕はない。 佳枝は、苦いものを飲み込むように言った。「出すしかありません」 瑠璃花の顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。 その安堵が、佳枝の苛立ちをさらに深くした。 次に、席順だった。 応接間には、座卓と椅子が用意されていた。年配の客が多いため、最近は正座ではなく椅子を使う。澄乃が数年前に提案した形だった。佳枝は最初、茶会らしくないと眉をひそめたが、客から楽でよいと言われて以来、外では自分の配慮のように語っていた。 今日の席札は、瑠璃花が書いていた。 丸みのある可愛らしい字だった。紙も淡い花柄で、見た目は綺麗だ。 だが、席順は悪かった。 桐島夫人と相馬
Baca selengkapnya

茶会は名前でできていない③

 瑠璃花は蒼白になる。「そんなこと、ファイルに」「読んでいないのでしょう」 責める声だった。 しかし、その責めはもう瑠璃花一人に向かうものではなかった。佳枝自身にも、昌親にも、久世家全体にも返っていた。 昌親は舌打ちをした。「今から車を出せばいいだろう」「謝罪の電話を入れなければなりません」 佳枝は言った。「誰が」 昌親が一瞬黙る。 いつもなら、澄乃が電話をしていた。 失礼のない言葉で、相手の気持ちを損ねないように、こちらの不備を認めつつ、過剰にへりくだりすぎず、久世家の体面も保つ。佳枝の言い訳を柔らかく整え、昌親の不手際を直接言わずに済ませる。 その電話を、誰がかけるのか。 家政婦が受話器を持ってきた。 佳枝は、一瞬だけそれを見つめた。 自分でかけるしかない。 当然のことなのに、指先が重かった。 電話は、短く済まなかった。 三倉夫人の家の者は丁寧だった。だが、丁寧であるほど、向こうが不快を押し殺していることが分かる。佳枝は何度も謝り、車をすぐに向かわせることを伝えた。受話器を置いた時、手に汗が滲んでいた。 瑠璃花は黙っていた。 昌親も黙っていた。 茶会の開始まで、あと三十分もない。 そこからの準備は、崩れた積み木を布で覆うようなものだった。 白百合を抜いた花は、庭の枝物を急いで足したが、まとまりが悪い。菓子は華やかすぎ、客の年齢や体調に合わない。席順は佳枝が慌てて直したが、席札の文字は消せず、置き直した跡が残った。返礼の品は、瑠璃花が可愛い包装のハンドクリームを用意していたが、香りの強いものだった。香料を嫌がる夫人がいることに気づき、結局、出せなくなった。 返礼品がない。 佳枝は、ただ扇子を握っていた。 澄乃なら、予備を用意していた。 無難で、季節に合い、相手を選ばず、それでいて粗末に見えないものを。 その予備の場所も、もう分からない。 茶会の客は、予定より少しずつ遅れて到着した。 最初に来たのは桐島夫人だった。玄関に入るなり、花器へ一瞬だけ目を向ける。白百合は抜かれていたが、香りは残っていた。夫人の表情が、ほんのわずかに硬くなる。 佳枝は気づいた。 気づいたが、取り繕う言葉がすぐには出なかった。「ようこそお越しくださいました」 笑顔を作る。 桐島夫人も笑った。「お招きありがとうございます
Baca selengkapnya
Sebelumnya
1
...
678910
...
13
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status