All Chapters of 捨てられ料理人の逆転繁盛記~潰れかけの店を救っていたら、敏腕社長に執着されました~: Chapter 181 - Chapter 190

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 後刻、ホテルの副社長室にて、悠斗はデスクに座り、部下からの報告を受けていた。「佐伯シェフへの嫌がらせがあったと」「はい。一部のシェフが食材を冷凍庫に隠したようです。ですが彼女は誰にも助けを求めず、見事な技術で完璧な状態に解凍し、試作を成功させました」「そうか……」 部下の言葉に、悠斗は感嘆の息を漏らす。「あの状況で一人で対処したのか。それでいて僕に告げ口をすることもなく、見事にシェフたちの心まで掴んでみせた。誰にでもできることではない。彼女の芯の強さと実力には、驚かされるばかりだよ」 悠斗は窓の外の景色を眺める。(思った以上に素晴らしい人だ。本気で欲しくなってしまうな……) 悠斗の中で、春菜への評価と好意が高まった瞬間だった。 ◇ ◇  その翌朝のこと。 春菜は仕込みのために、一番乗りでホテルの厨房に入った。  照明のスイッチを入れる。  割り当てられた自分の調理台に向かった春菜は、違和感に気づいた。「あれ?」 まな板を置く台の高さが、足元のマットで数センチだけ上げられている。  右手を伸ばす位置に塩やスパイスのケースが並び、振り返ったすぐの場所にフライパンが整理されていた。 春菜の歩幅と腕の長さに合わせて、ミリ単位で最適化されているのだ。ハルナズ・キッチンの自分の厨房と全く同じ配置だった。  驚く春菜の背後から、複数の足音が聞こえてきた。「おはよう、佐伯シェフ。朝早くから感心だね」 悠斗が近づいてくる。 彼はどこか呆れたような笑みを浮かべていた。 何だろう? と思った春菜は気づいた。 彼の横には、ダークネイビーのスーツを着た御堂礼司の姿があったのだ。  早朝だというのに、礼司の身だしなみには一切の隙がない。「御堂社長。どうしてここに?」 春菜が尋ねると、悠斗が肩をすくめた。「我が社のフェアだというのに、御堂社長がどう
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(御堂社長……。他所のホテルにまで強引に入り込むなんて、無茶苦茶だわ。でも、私が一番求めていた環境をくれるのね) 春菜の胸の奥で、高鳴りが生まれるのを感じた。 春菜のために他社にまで無理を通して、最高の環境を整えてくれた。 春菜の料理人としての誇りが強く刺激される。……その心の奥にある、まだ小さな想いも。(私も頑張らなくては。コラボフェアを成功させて、ハルナズ・キッチンと新AIシステムの名前をもっと高めるの) 最適化された調理台に立ち、春菜は包丁を握る。 手に馴染む感覚が、今日の仕込みをより早く終わらせることを約束していた。◇◇ 数日間にわたる試作と準備期間を経て、厨房の空気は確実に変わっていった。 春菜は礼司が整えてくれた環境で、持てる技術の全てを注ぎ込んだ。 トントンという包丁の規則正しいリズムが、硬い大理石の作業台に響く。 赤ワインを煮詰めるソースの鍋からは、酸味の飛んだ深い香りが立ち上っている。 春菜は小鍋のソースを木べらですくい、とろみを確認した。滑らかな液体が木べらを伝って落ちる様子を見つめる。「神崎副料理長。このソース、ホテルのオーブン設定に合わせてアレンジしたいのですが、皆様の意見を聞かせていただけますか?」 春菜は自分の技術をひけらかさない。常にホテルのシェフたちを立て、彼らの知見を求める姿勢を貫いた。 大衆店とは違う高級ホテルならではの盛り付けの美学や、温度管理のノウハウを貪欲に吸収しようとする。「……ああ。このオーブンの特性なら、設定温度から5度下げてスチームの割合を増やすといい。僕が微調整をしておこう」 神崎の態度は、初日の刺々しさが嘘のように軟化していた。「ありがとうございます。助かります」 春菜が花の咲いたような笑顔を向けると、神崎は照れた笑みを返した。「何でも聞いてくれ。君は飲み込みが早いから、教えがいがある」
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「彼女の料理の腕は確かだが、それ以上に人を巻き込む力が素晴らしい。たった数日で、うちの気難しいシェフたちを手なずけてしまったよ」 悠斗が感心したように口を開く。 礼司は腕を組み、冷ややかな視線を厨房へ向けた。「彼女の力は、私が誰よりも評価している。大衆店でも高級店でも、彼女の本質は変わらない」「ええ。彼女は本当に魅力的だ」 悠斗は隠すことなく、好意の混じった視線を春菜へ向けている。 礼司の眉根がかすかに寄った。◇◇ 厨房がチームとしてまとまりつつある裏側で、灰谷圭の計画が進行していた。 ホテルの地下にある搬入口では、薄暗い通路には、使い終わったダンボール箱やプラスチックの容器が山積みにされている。 カビと排気ガスの混ざった臭いが漂う中、作業着に帽子とマスクで顔を隠した男女が、配電盤の前にしゃがみ込んでいた。 潜入した一ノ瀬翔太と九条梨沙である。 ゴワゴワとした不慣れな作業着が肌に擦れる。薄暗い照明の下、埃っぽい空気を吸い込みながらの作業だ。 ヤミ金融から借りた金も尽き、ネットカフェを転々とする境遇に身を落としていた2人。 かつて店を追い出した春菜と同じ境遇だったが、彼らには料理の技術も生き抜く気概もない。「あの線につなげばいいのね。早くしてよ」 梨沙が周囲を警戒しながら、甲高い声で急かす。かつての社長令嬢としての華やかさは消え失せて、薄汚れた姿だった。 苛立ちと不安が入り混じった声を立てている。「分かってる。灰谷の指示通りにやるだけだ」 翔太は苛立ちを隠せない声で答え、配電盤のカバーを開けた。 古いプラスチックの匂いが鼻を突く。複雑な配線の中に小型の通信デバイスを取り付けた。「よし、接続した」 翔太がデバイスのスイッチを入れると、緑色のランプが点滅を始めた。 作業着のポケットの中で、翔太のスマートフォンが振動する。画面を見ると、灰谷からのメッセージが表示されていた。『ホテルの物流
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183:休日の視察

 休日の天気は、見事な秋晴れ。 気持ちの良い青空が広がる昼下がりに、春菜は銀座のメインストリートに立っていた。 休日の歩行者天国は多くの買い物客でごった返している。行き交う人々の話し声や、遠くで鳴る車のクラクションが絶え間なく鼓膜を揺らす。 春菜はシンプルなベージュのトレンチコートに、歩きやすいローヒールのパンプスという出で立ちだ。 待ち合わせ場所は、路地を一本入った先にある老舗の高級フレンチレストラン『メゾン・ド・ルミエール』の入り口である。(休日に高級レストラン巡りなんて、何年ぶりかしら。勉強のためとはいえ、少し緊張するわ) ホテルでのコラボフェアに向けた試作が続く中、春菜は連城悠斗から「市場調査と料理研究」を名目にレストラン巡りに誘われた。『春菜さんのセンスと味覚を疑うわけではないが、料理人は常にアップデートが必要だ。僕にそのお手伝いをさせてくれないかな?』 メニュー開発の現場に直結する合理的な提案である。 スマートな申し出に、春菜は二つ返事で快諾した。「すごい高級車……」「誰か乗ってるのかな」 通りすがりの若い女性たちが、ひそひそと声を交わしながら通り過ぎていく。 彼女たちの視線の先には、レストランの車寄せに横付けされた漆黒のリムジンが停まっていた。 磨き上げられたボディが、秋の柔らかな日差しを反射している。 後部座席のドアが開き、ライトグレーのスリーピーススーツを完璧に着こなした悠斗が降りてきた。 仕立ての良さが遠目にもわかるスーツは、彼の洗練された大人の魅力を一層引き立てている。「やあ、春菜さん。待たせたね」 悠斗は春菜を見つけると、スマートな足取りで近づいてきた。 周囲の通行人たちが、彼から放たれる華やかなオーラに目を奪われている。「連城副社長、おはようございます。私も今着いたところですから」「休日は悠斗と呼んでほしいと言っただろう?」 悠斗は穏やかに笑いながら、春菜のコートを預かろうと手を伸ばし
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「御堂社長? どうしてここに」 春菜が驚きに目を丸くすると、礼司は表情を崩さずに答えた。「近隣店舗のデータ収集の帰りだ。ハルナズ・キッチンのプロトタイプ検証のためには、競合他社の動向把握も欠かせないからな」(東京の人口密度で偶然会うなんて、すごい確率ね。なんだか気まずいけれど、挨拶はしておかないと) 春菜はこれを奇跡的な偶然と解釈した。 けれど実は違う。 春菜のスマートウォッチのGPS機能が、休日の現在位置まで礼司の端末にリアルタイムで送信している。 まさかそのようなことになっているとは、彼女は夢にも思っていない。 礼司は業務上のデータ収集と称して春菜の動線を監視していた。 最初は本当に店での動きだけを見ていた。 健康管理などは春菜自身に任せて、デバイスの提供だけをやっていた。 だが、今となってはどうだ。 私的な追跡などというコンプライアンス違反を行っている。そのことに、礼司は強烈な罪悪感を覚えていた。 それでも、悠斗に春菜を取られたくないという抜き差しならない執着が、彼の理性を凌駕してしまったのだ。 彼はその後ろめたさを、鉄仮面のような無表情の奥に固く閉じ込めていた。「データ収集ですか。休日にご苦労なことですね、御堂社長」 悠斗が上品な笑みを浮かべたまま、礼司に言葉を返す。 その口調には、明らかな牽制の色が混じっていた。「連城副社長こそ。貴重な休日に、他社の大切な総料理長を連れ回すとは。余暇の使い方がずいぶんと優雅なご身分だ」「彼女の才能に相応しいインスピレーションを得るための、重要な市場調査ですよ。あなたのような無味乾燥なデータ収集とは違う」 2人の大物経営者の間で、見えない火花が散る。 春菜は周囲の空気が数度下がったような錯覚を覚えた。 通行人たちが、何事かと遠巻きに3人を見ている。「あの、立ち話もなんですし、お店に入りませんか?」 見かねた春菜が割って入ると、2人は同時に春菜へ視線を向け
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『メゾン・ド・ルミエール』の店内は、外の喧騒が嘘のように落ち着いた空間だった。 足音が吸い込まれる深いワインレッドの絨毯が敷かれ、天井からは照明の上品な光が落とされている。 入り口で待機していた初老の支配人が、恭しく頭を下げた。「連城様、お待ちしておりました。本日は奥のプライベートルームをご用意しております」「ありがとう。急で申し訳ないが、1名追加でお願いできるかな」「かしこまりました。ただちにお席を整えさせていただきます」 支配人の案内で、3人は奥の個室へ通された。 円形のテーブルに、純白のテーブルクロスがかけられている。 悠斗が春菜のために椅子を引いた。春菜が座るのを見届けてから、悠斗と礼司がそれぞれ向かい合うように着席する。「今日は視察で何軒も回る予定だから、各店舗で提供される料理は少量ずつに抑えてもらっている。本来であれば一人前に満たない量を注文するのはマナー違反だが、各店舗の支配人には事前に話を通してあるよ」 悠斗が春菜に説明する。 高級レストランにとって、一人前をシェアするような真似は歓迎されない。 それを可能にするのは、連城グループ副社長という悠斗の圧倒的な権力と人脈のなせる技だった。「ご配慮ありがとうございます。おかげでたくさんの味を勉強できます」 春菜が頭を下げると、すぐにギャルソンがワゴンを押して現れた。「本日の前菜でございます。北海道産ホタテ貝柱のミ・キュイ、キャビアとカリフラワーのムースを添えて」 黒服のギャルソンが、手首の動きだけで滑らかに皿をテーブルに置く。 純白の皿の中央に、表面だけを軽く炙った肉厚のホタテが鎮座していた。 その上には黒真珠のようなキャビアが乗せられ、周囲を淡いクリーム色のムースが囲んでいる。「美しい盛り付けだね」 悠斗がシャンパングラスを傾けながら語り始めた。「フランス料理の真髄は、非日常の芸術性にある。この白と黒のコントラストは、まるで一枚の絵画のようだ。それに、この銀のカトラリーの重みを感じてみてほしい
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(さすがは老舗ね。火入れの技術が完璧だわ) 春菜が味の分析をしていると、向かいの席から硬質な声が響いた。「料理の見た目や歴史も結構だが、ビジネスとしての本質を見誤るべきではない」 礼司はナイフとフォークを正確な角度で動かしながら、淡々と口を開く。「この店の厨房から個室までの動線は約15メートル。ギャルソンの歩幅と移動速度から計算して、提供時間は最適化されている。だが、このホタテとキャビアの原価率を推定するに、コース全体の利益率は決して高くない。場所代とブランド料で採算を合わせている古いビジネスモデルだ」 悠斗は薄く笑った。「御堂社長は、料理をただの数字としか見ていないようですね。お客様は、この空間と時間にお金を払っているのですよ」「数字こそが顧客満足度を裏付ける唯一の客観的指標だ。雰囲気だけでリピーターは育たない」 礼司は悠斗の反論を一蹴すると、ギャルソンを呼び止めた。「次の鹿肉のローストだが、彼女の分はベリーのソースを通常より3割増しで添えてくれ」「は、はい。かしこまりました」 ギャルソンが戸惑いながら下がる。春菜は驚いて礼司を見た。「どうしてソースの量を?」「君のスマートウォッチから得た過去1ヶ月の食事データと、先ほどの前菜を食べた際の咀嚼回数の偏りから分析した。君の味覚は現在、疲労の蓄積により強い酸味と果実味を欲している。ベリーのソースを増やせば、最も君の舌に合う一皿になるはずだ」(食事データと咀嚼回数???) 礼司の言葉に、春菜は目を丸くした。 まさかそんなデータを取られていたとは。(あっ。でも一応、以前説明は受けていたっけ。健康管理と味のデータ取りを兼ねて、スマートウォッチに入力するって。でも咀嚼回数はやりすぎじゃない……?) 大いに疑問を持つ春菜であった。 とはいえ、確かに連日の試作で疲労が溜まっており、無意識のうちに酸味のあるものを欲していた自覚はある。 だが、それをデータから読み取り、最適な味付けを指示するなど
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(気まずい。お料理、早く来ないかしら) 春菜は無心になって時間をやり過ごす。 やがて運ばれてきた鹿肉のローストは、礼司の指示通りソースがたっぷりと添えられていた。 春菜がナイフを入れる。中心は美しいロゼ色に仕上がっていた。 鹿肉のローストを口に含むと、赤身肉の野性味溢れる旨味と、ベリーソースの鮮烈な酸味が絶妙に絡み合う。疲れた体に染み渡るような美味しさだった。(連城副社長は料理を非日常の芸術として、御堂社長は徹底した実務とデータとして見ている。アプローチの仕方が全く違うのね) 春菜は鹿肉を味わいながら、両極端な2人の意見を観察する。(どちらの言い分も聞くべきところが多い。料理人として、お店の経営者としてとても参考になるわ) 彼らがテーブル上で火花を散らす原因が、自分への好意にあるとは特に考えていない。 ただ純粋に、2人の視点の違いが料理開発の参考になると感心していた。◇◇ 二軒目に訪れたのは、革新的な調理法を取り入れたモダンフレンチの店だった。 白を基調としたシンプルな内装は、まるで実験室のような清潔感がある。「いらっしゃいませ、連城様。本日はご来店いただき光栄です」 席につくやいなや、白いコックコートを着たシェフ自らが挨拶に訪れた。 悠斗は立ち上がり、にこやかに握手を交わす。「君の新しい挑戦を楽しみに来たんだ。今日は特別に少量での提供をお願いしてしまって申し訳ない」「とんでもございません。全力を尽くさせていただきます」 シェフが下がり、運ばれてきたのはガラスのドームに覆われた皿だった。「桜のチップの煙を閉じ込めた、サーモンの瞬間燻製です」 ギャルソンがガラスドームを持ち上げると、白い煙がふわりと広がり、燻製の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。 皿の上には、色鮮やかなサーモンと、エスプーマと呼ばれる泡状のソースが乗っている。「素晴らしい演出だ」 悠斗が感嘆の声を漏らした。
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「驚きを持続させるには、安定した品質の提供が不可欠だと言っているんだ。一過性のエンターテインメントでは長続きしない」 悠斗と礼司の口論がヒートアップしていく。  互いに声を荒げることはない。あくまで理詰めで、相手の見解の矛盾を突こうとしている。  だが、その声色には明らかな敵愾心(てきがいしん)が込められていた。(……困った) 春菜は板挟みになってしまった。  なまじどちらの言い分も正しいだけに、片方に肩入れもできない。 ふとレストランのシェフの様子を見ると、意外なことに熱心にメモを取っていた。  春奈と目が合うと、彼はこう言った。「僕は連城副社長のお言葉の通り、芸術性に重きをおいてこの料理を作りました。しかしあちらの方のおっしゃる効率と品質の安定も、なるほどと思いまして。よりよい料理をお客様に提供するための、貴重なご意見です」 シェフは言いながらも、興味深そうな顔で礼司と悠斗の議論に聞き入っている。 春菜は思わず苦笑した。(彼は料理人の鑑(かがみ)ね。でもさすがに、ちょっと疲れてきたかも) 次の店はどんなところだろうか。  2人の大物に挟まれて、春菜は現実逃避をした。 ◇ ◇  三軒目に訪れたのは、路地裏にひっそりと佇む隠れ家的なレストランだった。  クラシックなフランス料理をベースにしながらも、和の食材を大胆に取り入れることで知られている。 案内されたのは、庭の見える落ち着いた個室だった。  悠斗の事前の根回しのおかげで、ここでも少量の注文がスムーズに通る。  礼司と悠斗の間に流れる空気は相変わらず険悪で、無言のまま水だけを飲む時間が続いた。 やがて、メインディッシュの肉料理が運ばれてきた。 黒毛和牛のフィレステーキ。  その上にかけられたソースを見た瞬間、春菜の料理人としてのスイッチが強烈に入った。 ソースは深い飴色をしており、微かに焦がしバターの甘い香りが漂う。
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 この味こそが、連城ホテルの客層を満足させて、かつハルナズ・キッチンの独自性を出せるコラボメニューにふさわしい。  その決定的なピースが、パズルのようにはまった瞬間だった。 春菜はカバンから手帳とボールペンを引っ張り出した。  テーブルマナーなど気にする余裕はない。  ソースの香りを何度も嗅ぎ、舌の上の記憶を頼りに、必要な食材と分量を猛烈な勢いで書き留め始める。「ベースはフォン・ド・ヴォーと焦がし醤油。そこに加える酸味は柚子じゃなくて、もっとマイルドな……すだち? いや、かぼすの果汁ですね。スパイスは和山椒と、隠し味に黒胡椒を少々。バターの乳化のタイミングは温度を60度に保って……」 口の中でブツブツと呟きながら、ペンを走らせる。  白いページがあっという間に文字と図解で埋め尽くされていく。  頭の中では、厨房での調理手順が既にシミュレーションされていた。 火加減、食材を投入するタイミング、ソースを裏ごしする回数。  全ての工程がクリアに視覚化されていく。 ◇ ◇  料理のインスピレーションを得て、春菜は手帳に没頭している。  その鬼気迫るほどの集中力と、料理への貪欲な探求心を前にして、悠斗と礼司は互いへの牽制をピタリと止めた。 2人は言葉を失い、ただ春菜の横顔を見つめている。  いかなる状況下でも、決してプロフェッショナルとしての芯をぶらさない。  板挟みの気疲れの中でも、料理のヒントを見つければ全てを忘れて没頭する。 春菜の芯の強さと、現場の実務に向き合う真摯な姿勢に、2人の経営者は改めて惚れ直していた。  芸術性だの、データだのといった理屈を超えた、純粋な料理人としての魂がそこにあった。「……そろそろ店を出ようか」 悠斗が静かに声をかけた。  春菜はハッとして顔を上げ、手帳を閉じた。「あ、すみません! 私としたことが、食事中にはしたない真似を」「構わないよ。君が素晴らしいひらめきを得たのなら、今日の視
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