高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫ですか?」「色? 見せて」 春菜は、アシスタントの若手スタッフが差し出したフライパンを覗き込んだ。 不安そうなスタッフを安心させるように微笑んでみせる。「これくらいなら許容範囲。でも次はもう少し早めに上げてくださいね。余熱で火が入るから」「すみません、気をつけます」 スタッフたちの声が飛び交う中、副料理長である春菜は、3つのフライパンを同時に操りながら全体の進行を管理していた。 彼女の視線は手元の食材だけでなく、厨房全体の動きを的確に捉えている。 指示を飛ばしつつ、手元の真鯛のポワレに白ワインを回しかける。 アルコールが飛ぶ一瞬の香りを確かめて、すぐに火から下ろした。 その絶妙なタイミングに、周囲のスタッフから思わずため息が漏れる。「さすが春菜さん。素晴らしいタイミングです」「褒めても何も出ませんよ」 春菜は少し照れたように笑った。 と。 そこに、ホールスタッフが飛び込んできた。ひどく慌てた様子である。「春菜さん! VIP席の九条様から特別オーダーが入りました!」 春菜はフライパンを保温スペースに移しながら、眉を寄せた。「特別オーダー? コースのアレルギー変更なら事前に聞いてるけど。何か追加ですか?」「違います。その、『私の舌を驚かせる、今まで食べたことのない一皿を出して』と」 その言葉を聞いて、春菜は作業の手を少しだけ止めた。 九条梨沙(くじょう・りさ)。九条不動産の社長令嬢であり、春菜の高校時代からの親友だ。 この店のオープン当初からひいきにしてくれている常連でもある。(また梨沙の気まぐれか。相変わらずね) 春菜は苦笑した。
Dernière mise à jour : 2026-06-10 Read More