All Chapters of 捨てられ料理人の逆転繁盛記~潰れかけの店を救っていたら、敏腕社長に執着されました~: Chapter 191 - Chapter 200

239 Chapters

190

「君のその才能を開花させるのは、僕が用意する最高の舞台だ。コストや枠組みに囚われない、世界最高の食材を自由に使える厨房。連城ホテルで、君を待っているよ」 春菜への好意と自信に裏打ちされた宣言だった。 春菜が戸惑っていると、礼司が2人の間に割って入った。  彼は悠斗の手から春菜の腕を引き離し、自分の背後に隠すように立つ。「甘い言葉で彼女を惑わすな。最高の舞台を用意したところで、作業者の負担を軽減する環境がなければ、いずれ才能はすり減る」 礼司は悠斗を冷たく睨み据えた。「彼女の現場での業務を支え、最適な環境を構築するのは私のシステムだ。彼女のポテンシャルを最大限に引き出すのは、私にしかできない」「言ってくれるね」 夕暮れの街角で、2人の男の水面下の宣戦布告が行われた。  視線がぶつかり合い、バチバチと音が鳴りそうなほどの緊張感が漂う。 しかし。  当の春菜本人は、2人の背後で手帳を大事そうに胸に抱きかかえながら、全く別のことを考えていた。(お2人の期待はありがたいけれど、ちょっと重いわね。それより明日の朝は5時に厨房に入って、かぼすと山椒の仕入れを手配しないと。試作は3パターン用意して、ソースの粘度を微調整して……あ、豚肉の筋切りの手順も変えてみようかな) 鈍感な春菜は、2人の言葉をただの「仕事への過剰な期待とサポートの申し出」としか受け取っていなかった。  彼女の頭の中は、明日の厨房での試作手順のシミュレーションで完全に占められている。「それじゃあお2人とも、今日は本当にありがとうございました! 私、明日の仕込みの準備があるので、これで失礼します!」 春菜は深々と頭を下げると、2人の返事も待たずに駅へ向かって足早に歩き出した。  思いついた料理を試してみたくてたまらないのだ。「えっ」「春菜さん?」 後に残された悠斗と礼司は、春菜の遠ざかる背中を呆然と見送る。 やがて礼司がぽつりと呟いた。「……今日のところは引き分けだな」
Read more

191:深夜の厨房

 時刻は深夜1時を回っていた。 ハルナズ・キッチンの営業を終えた後の厨房では、まだ熱気が残っている。  春菜はステンレスの作業台の前に立っていた。休日のレストラン視察で得たインスピレーションを忘れないうちに形にするためだ。(あの味を再現したい。忘れないうちにやり遂げなければ) 休日に訪れた三軒目のレストランを思い出す。  そこで味わった複雑な香りのソースは、春菜の料理人としての魂に火をつけた。  あの味の骨格をベースに、大衆的な親しみやすさと高級感を両立させるコラボメニューを作り上げる。  その決意が彼女を駆り立てていた。 まな板の上には、鮮やかな緑色をしたかぼすがいくつか転がっている。  包丁の刃先を当てて半分に切断すると、シュッという音とともに細かい果汁の飛沫が上がり、ツンとした爽やかな柑橘の香りが弾けた。 コンロの上の小鍋では、ベースとなるフォン・ド・ヴォーがふつふつと泡を立てている。  牛骨をじっくりと煮込んで取った深いコクのある匂いが、厨房の空気を温めていた。 春菜は別のフライパンに少量の醤油を垂らす。  醤油が熱せられた鉄板に触れて一瞬で蒸発し、香ばしい匂いが充満した。(ここに加える酸味は、柚子じゃなくてかぼす。マイルドな酸味が、フォン・ド・ヴォーのコクを引き立てるはずよ) 半分に切ったかぼすを手に取り、果汁を絞り入れる。  果汁が熱いソースと混ざり合い、鍋の中で小さな気泡を生み出した。 次に、陶器の乳鉢に和山椒を入れる。  乳棒を押し当ててすり潰すと、ゴリゴリという硬い音とともに、鼻を抜けるような刺激的な香りが広がった。  ペッパーミルで挽いた黒胡椒と一緒に鍋へ投入する。 木べらで鍋の底をかくように混ぜ合わせる。温度計を差し込み、温度が60度を保っていることを確認してから、冷たいバターをひとかけら落とした。 バターがゆっくりと溶け出して、ソース全体へ広がっていく。  しゃばしゃばとしていた液体に艶やかなとろみがついた。(さあ、ど
Read more

192

 春菜が右肩をぐるぐると回すと、ゴキリと鈍い音が鳴った。  連日の店舗営業と試作の繰り返しで、筋肉に疲労が溜まっている。手のひらで首筋を揉みほぐした。 と。 コンコン、と裏口の金属扉を叩く音がした。 深夜の訪問者に首をかしげながら、春菜は鍵を開ける。  外の冷たい夜の空気とともに現れたのは、ダークネイビーのスーツを着た御堂礼司だった。「御堂社長? こんな時間にどうされたんですか」 春菜が驚いて尋ねると、礼司は表情を変えずに厨房の中へ足を踏み入れた。革靴が床のタイルを叩く音が響く。「近くで会食があった。その帰り道だ。厨房に明かりが灯っていたので、まだ作業をしているのかと思ってな」「そうでしたか……」(いくら会食の帰りとはいえ、こんな深夜にアポ無しで立ち寄るなんて。徹底したデータ・効率主義の彼にしては、行動パターンが謎すぎるわ) 春菜の疑問をよそに、礼司はスーツの内ポケットから細長い小箱を取り出した。  続いて、別のポケットからガラスの小瓶を取り出す。  2つの品をステンレスの作業台の上に並べた。「試作をしているなら、これを使え」「これは?」「開けてみれば分かる」 促されて、春菜は細長い箱のフタを開けた。 黒い緩衝材に包まれていたのは、刃渡り15センチほどの真新しいペティナイフだった。  小さな包丁で、細かい作業に向いているものだ。  柄の部分は深みのある赤茶色の木材で作られており、手のひらに沿うような独特の波打つカーブを描いている。 春菜は試しに手に取ってみた。木製の柄が吸い付くように肌に馴染んだ。驚くほど軽い。  刃先に向かって絶妙なバランスで重心が調整されているのが、持っただけで伝わってきた。「すごい……。何ですか、このナイフ。私の手にぴったりと合います」「先日、君のスマートウォッチと調理台のカメラから取得した動線データを解析した。君の包丁を握る癖、手首の角度、まな板への体重の掛け方。全てを計算して、最も手首
Read more

193

 有名店の出来合いの料理を差し入れるのではなく、料理人としての春菜の技術を信じ、作業を支えるための道具を用意してくれた。 理屈っぽいけれどしっかりと感じられる彼の気遣いに、春菜は口元をほころばせた。「ありがとうございます。とても使いやすそうです。……隣の小瓶は?」「開けて香りを確かめてみろ」 言われた通り、ガラスの小瓶のコルク栓を抜く。 途端に、複雑で深みのある香りが広がった。シナモンのような甘さに、黒胡椒のピリッとした刺激、さらに柑橘系の爽やかさが混ざり合っている。「コラボメニューの試作に役立つ希少なスパイスのサンプルだ。一般市場には出回らない。私の会社の物流ネットワークを使って独自に取り寄せた」「市場に出回らないほどの高級食材……」 春菜は小瓶を見つめる。(大衆店であるうちの店では、コスト面で到底扱えない高級食材ね。でも富裕層向けのコラボメニューという特別な枠組みなら、この華やかさと深みが必要になる。現場の最適化に徹した、御堂社長らしい的確なアプローチだわ) 春菜は礼司に向き直って、頭を下げた。「明日の試作に、さっそく使わせていただきます。これがあれば、かぼすと山椒のソースがさらに一段階引き上がります」「役に立つなら重畳だ」 礼司は短く答える。「あまり夜更かしをして睡眠時間を削らないことだ。バイタルデータに異常が出れば、システムの検証に支障をきたすからな」「ふふっ、分かりました。お気遣いありがとうございます、御堂社長」 春菜が笑うと、礼司は微かに視線を泳がせた。 彼はそれ以上何も言わず、踵を返して裏口から夜の闇へと去っていった。 ◇◇ 翌朝、春菜は連城ホテルの厨房の一角に立っていた。 広大な厨房は、ステンレスの調理台が何列も並んでいる。数十人の料理人が白いコックコートを身にまとい、慌ただしく立ち働いていた。 巨大なオーブンからは熱気が
Read more

194

「おい、佐伯シェフ、今日はものすごいペースで仕込みをしてるぞ」「あの肉の切り分け、筋一つ残してない。ナイフの扱いが熟練の技だ」「大衆店の料理人のはずなのに、相変わらず侮れないな」 料理人たちのヒソヒソ声を背中で聞きながら、春菜は次の工程へ移る。 昨夜ベースを完成させた、かぼすと山椒のソースを火にかける。 温まってきたところで、例のガラス小瓶を取り出した。 希少スパイスを指先でごく少量つまみ、ソースの鍋にパラリと落とす。 熱が加わった瞬間、鍋から立ち上る香りが劇的に変化した。 かぼすの爽やかな酸味と山椒の刺激の奥に、スパイシーで複雑な奥行きが生まれる。 スプーンでソースをすくい、舌に乗せた。(……完璧。大衆的な親しみやすさを残しつつ、高級ホテルの客層を満足させるだけの深い味わいが出ているわ) 春菜がソースの仕上がりにうなずいた時だった。 厨房の入り口付近が、にわかにざわついた。「副社長、お疲れ様です」「視察でしょうか」 ホテルの料理人たちが次々と手を止めて、道を空けていく。 人垣が開かれた道を通って現れたのは、ライトグレーのスリーピーススーツを着こなした連城悠斗だった。 熱気と油の匂いが立ち込める厨房にあって、彼一人だけが別空間から抜け出してきたように爽やかなオーラを放っている。 悠斗は迷うことなく春菜の調理台へ向かって歩いてきた。「やあ、春菜さん。試作の進み具合はどうかな」「連城副社長。ソースがちょうど完成したところです」 春菜が答えると、悠斗は優雅な動作で片手を上げた。 彼の背後から黒服のホテルスタッフがワゴンを押して現れる。ワゴンには、純白のティーカップとソーサーが乗っていた。「休憩を取ろう。君のために特別に淹れさせたハーブティーだ」 スタッフがカップを春菜の横に置く。カチリと陶器が触れ合う音がした。 カモミールとミントが混ざり合った、リラックスを促す香りがふわりと漂
Read more

195

 悠斗の誘いは、料理人であれば誰もが一度は夢に見るだろう。 視線が揺らいだ春菜を見て、悠斗は微笑んだ。「今週末、連城グループが所有するプライベートファームの視察に行く予定だ。そこには一般には出回らない最高の食材が揃っている。ぜひ君にも同行してほしい」「プライベートファームですか。新鮮な食材を直接見られるのは、料理人としてとても魅力的です」 春菜は素直に答える。「期待しているよ。フェアの成功は、君の腕にかかっているからね」 極上の笑みを残して、悠斗は厨房を後にした。 ◇ ◇  悠斗の姿が見えなくなると、厨房内に再びざわめきが戻った。「おい、聞いたか。副社長があんなに目をかけるなんて」「プライベートファームの視察に単独で誘うなんて、破格の待遇だぞ」「うちの総料理長だって、あんな風に直接声をかけられたことはないはずだ」 モブの料理人たちのヒソヒソ声は、先ほどよりも明らかに熱を帯びていた。  春菜を見る目には、単なる外部のシェフに対する好奇心を超えた、畏敬のようなものが混ざり始めている。 春菜は周囲の視線を背中に浴びながら、手元の調理台に目を落とした。  右側には、悠斗が差し入れてくれた上質なハーブティーの入った純白のカップ。  左側には、礼司が用意してくれた特注の赤い柄のペティナイフと希少スパイスの小瓶。 2つの品を交互に見比べる。(連城副社長は、私の料理を芸術として高く評価してくれている。最高の食材と最高の舞台を用意して、私の才能を引き上げようとしてくれる。料理人として、これ以上ないほどの名誉な誘いだわ) 視線を左へ移す。(対して御堂社長は、理詰めで無愛想。でも、手首の負担を減らすナイフや、味を完成させるための希少スパイスを用意してくれた。私の現場での作業環境を的確に支えてくれる。私がどう動くかを一番に考えてくれる気遣いだわ) 全く異なるアプローチである。 華やかなエスコートで引き上げようとする悠斗。
Read more

196:抜け駆け?

 10月の早朝、ハルナズ・キッチンの厨房は、ひんやりとした秋の空気に包まれていた。 春菜はガスコンロの前に立ち、仕込み用の寸胴鍋を木べらでかき混ぜている。 鍋の中では鶏ガラと香味野菜が煮込まれて、温かな湯気とともに食欲をそそる匂いが立ち上っている。換気扇の低いモーター音が、誰もいない客席の静けさを際立たせていた。 窓の外はもう木々が紅葉している。けれど春菜はあくまで手元の鍋に視線を注いでいた。 裏口の金属扉が開いた。ホール担当の佐藤が出勤してくる。 彼はウールのカーディガンを脱ぎながら、厨房の熱気にほっとしたように息を吐いた。「おはようございます、春菜さん。今朝も早いですね。外はすっかり冷え込んで、秋が深まってきましたよ」「おはよう、佐藤くん。この前まで夏だったのに、季節が変わるのは早いものね。お店の通常メニューの仕込みは、早めに終わらせておきたかったの」 春菜はコンロの火を弱火に落とし、振り返って笑顔を見せた。 佐藤はエプロンの紐を背中で結びながら、感心したようにうなずいた。「最近、ホテル関連の仕事でずっと忙しそうでしたから。たまの休日なんです、今日はしっかり羽根を伸ばしてきてくださいね」「ありがとう。オープン前の準備は、木崎くんたちにお願いしてあるからサポートよろしくね」「はい、任せてください。バッチリやっておきますから」 佐藤の返事に、春菜は腰に巻いていた前掛けを外した。 佐藤はホール担当だが、ハルナズ・キッチンの従業員は少ない。全員が力を合わせて料理に取り組んでいた。 春菜は休日用の服に着替えるため、スタッフルームへ向かう。 狭いロッカーを開けて、コックコートをハンガーにかけた。 着替えを終えて袖を通したのは、マスタードイエローの薄手のニットと、動きやすいダークブラウンのパンツだ。 今日は郊外のプライベートファームへ行く予定である。土汚れが目立たず、かつ相手に失礼の無い服装を選んだ。 ふと、左腕に視線が落ちる。 黒いシリコンバンドのスマートウォッチが、手首にしっかり
Read more

197

 けれど休日の移動経路まで位置情報として常に把握されるのは、正直言って息苦しい。四六時中、見えない糸で監視されているような感覚だ。(できるだけ協力したかったけど……) 春菜は右手の指を、スマートウォッチのバックルにかけた。 少し迷った後、カチリと留め具を外す。 シリコンバンドが肌から離れると、手首に冷たい秋の空気が触れる。 奇妙なほどの解放感があって、春菜は思わず苦笑した。 彼女はスタッフルームを出て、ステンレスの調理台の上に外した時計を置く。 金属の冷たい表面に時計の裏蓋が当たる乾いた音が、静かな厨房に響いた。(ごめんなさい、御堂社長。プライベートは確保させてもらいますね。仕事上なら、いくらでもデータを提供しますから) 春菜は時計を残したまま、ショルダーバッグを肩にかけて勝手口から外へ出る。 秋の朝の澄んだ空気が、少し火照った頬を涼やかに撫でていった。◇◇ 大通りに出ると、朝の少ない交通量の中、ひときわ目を引く漆黒の高級セダンが停まっている。 磨き上げられたボディが、秋の高い空と朝日を反射していた。 春菜が近づくと、後部座席のドアが滑らかに開いた。 落ち着いたブラウンのジャケットを完璧に着こなした連城悠斗が降りてくる。「おはよう、春菜さん。早いね。秋晴れのいい朝だ」「おはようございます、連城副社長」「今日は休日だ。肩苦しい肩書きは抜きにして、悠斗と呼んでほしいな」 悠斗は優しげな微笑みを浮かべた。 彼の背後から制服姿の初老の運転手が降りてきて、春菜に向かって深く一礼する。「おはようございます。本日は私が運転を担当いたします。どうぞお乗りください」「ご丁寧にありがとうございます。よろしくお願いします」 悠斗に手を取られ、エスコートされて後部座席に乗り込んだ。 車内は広く、本革シート特有の落ち着いた匂いが漂っていた。シートは体を包み込むように柔らかく、座
Read more

198

「最高の料理をお客様に提供するには、食材の生産過程から徹底的にこだわる必要があるからね。連城ホテルのメインダイニングで使うハーブや希少な野菜は、ほとんどあそこで専用に栽培しているんだよ」 車は滑らかに走り出した。 窓を流れる景色が、コンクリートのビル群から、徐々に木々が赤や黄色に色づき始めた郊外の風景へと変わっていく。 春菜は窓の外を眺めながら、腕の時計がない手首の軽さを感じていた。(御堂社長、今頃GPSの信号が途絶えてパソコンの前で眉間にシワを寄せているかしら。それとも、休日はデータ収集をお休みしているから気付かない? ……まあ、たまにはこういう日があってもいいよね) 春菜は少しだけ罪悪感を覚えたが、そもそも休日まで束縛されるのがやりすぎなのだと思い直した。 悠斗は春菜の視線が手首に落ちたことに気づいたのか、優しく話しかけてくる。「どうしたんだい? 少し考え事をしているようだけど」「いえ、なんでもありません。秋の農園を見るのが楽しみで、少し緊張しているのかもしれません」「それは良かった。現場の空気と土の匂いは、きっと君のインスピレーションを刺激するはずだよ。期待していてくれ」 車はいつしか町並みを抜けていた。 ビル群が去って視界が開けると、秋の紅葉が目に入る。 小高い丘を越えて、高いフェンスに囲まれた広大な敷地へと入っていく。 重厚なアイアンゲートを抜けると、視界いっぱいに広大な畑の風景が広がった。 車の窓を開ければ、秋の乾いた冷たい風が吹き抜ける。足元には落ち葉がカサカサと音を立てて舞っていた。 野菜の収穫も終盤に差し掛かり、冬の足音を感じさせる景色だ。 車が管理棟の前に停まると、作業着姿の農園長が数名のスタッフを引き連れて駆け寄ってくる。「連城副社長、お待ちしておりました。本日はどちらのエリアからご案内いたしましょうか」 農園長が深く頭を下げる。「まずは秋野菜の畑と、キノコの栽培棟を見たい。彼女は連城ホテルのメインダイニングで、コラボフェアをお願い
Read more

199

 対して悠斗は、仕立ての良いジャケット姿のまま、足元の土汚れなど全く気にせずに奥へずんずんと足を踏み入れた。「副社長、お足元が汚れてしまいます。シートを敷きましょうか」 農園長が慌てて声をかけるが、悠斗は気にする素振りも見せない。「構わないよ。美味しい食材を生み出す豊かな土だ。決して汚いものじゃない」 悠斗はそう言うと、手を伸ばして棚から吊り下がっている作物を取った。ぱちんとハサミで根本を切る。丸々とした立派なバターナッツカボチャだった。 彼の手から、見事なカボチャが春菜に手渡される。「持ってみてごらん。ひょうたんのような独特の形をしているが、中身が詰まっていて重いだろう」 春菜は両手でカボチャを受け取った。見た目以上のずしりとした重みがある。「すごい……。こんなに張りがあって重いカボチャ、市場でも滅多に見かけません」「土壌の栄養をしっかりと管理して、野菜自身が甘みを蓄えるよう仕向けているんだ。旨味が凝縮されている。手間と時間がかかるから、原価率は度外視だよ」 悠斗は微笑んだ。どこか少年のような誇らしげな笑みだった。「ここでは、利益よりも品質を最優先している。最高の料理を作るには、最高の素材が必要不可欠だからだ。君のような本物の料理人に使ってもらうためだけに、育てているようなものさ」 悠斗は料理人としての春菜のアイデンティティを深く理解し、収穫の終盤であっても品質を落とさない食材の生育環境やこだわりを語る。 彼の料理に対する姿勢と、食材への敬意に、春菜は心を動かされた。(原価率を気にせず、こんなに質の高い食材を使えるなんて。ここは料理人にとって、まさに宝の山だわ) 春菜の表情が明るくなるのを見て、悠斗も嬉しそうに目を細めた。「他にもサツマイモの畑や、シイタケの原木がある。好きなだけ見て回るといい」「はい、ありがとうございます!」 春菜は農園長の案内で、様々な秋野菜の生育状況を観察した。 すれ違う農作業員たちも、手を休めてこちらを見ている。
Read more
PREV
1
...
1819202122
...
24
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status