All Chapters of 捨てられ料理人の逆転繁盛記~潰れかけの店を救っていたら、敏腕社長に執着されました~: Chapter 201 - Chapter 210

239 Chapters

200

 農園の視察を終えると、敷地内に併設された真新しい調理スペースへと案内された。 清潔な白木のカウンターと、使い勝手の良い最新の調理器具、プロ仕様の強力なガスコンロが揃っている。 大きな窓からは、広大な農園の秋景色が一望できた。「ここで採れたての野菜を調理してみないか? 簡単なものでいいから、君の腕前を見せてほしい」 悠斗の提案に、春菜はうなずいた。「ぜひ、やらせてください。これだけ素晴らしい食材を前にしたら、料理人として腕が鳴ります」 春菜はカウンターの内側に入り、丁寧に手を洗う。(さて。何を作ろうかしら) 先ほど収穫したばかりの原木シイタケとバターナッツカボチャをまな板の上に置いた。 レシピを考えるのはわずかな時間。 すぐにこの新鮮な食材が料理に変わるイメージが立ち上がった。 包丁の刃先を入れると、硬いカボチャの皮がサクッと音を立てて割れ、鮮やかなオレンジ色の果肉が顔を出す。 シイタケは手で適度な大きさに裂き、カボチャは火が通りやすいよう薄切りにする。フライパンにバターを熱し、ニンニクの香りを移してから食材を投入した。 ジュワッという音とともに、バターの乳脂肪とキノコの旨味が混ざり合った香ばしい匂いが立ち上る。 火加減を細かく調整し、素材の水分を逃がさないように手早くソテーする。仕上げに少量の岩塩と黒胡椒だけで味を調えた。「お待たせしました。採れたてキノコとカボチャのシンプルソテーです」 レシピとしては極めてシンプルな内容だが、素材の良さを活かすにはこれが一番だと思ったのだ。 春菜が温めた真っ白な皿をカウンターに置くと、悠斗は目を輝かせた。「素晴らしい香りだ。さっそくいただこう」 2人はスツールに腰掛けて、料理を味わう。 シイタケを一口食べると、噛むごとに溢れ出す濃厚な旨味と香りが口いっぱいに広がった。「美味しい……。野菜そのものの味が驚くほど濃いから、余計な味付けがいりませんね」 春菜が自身の作ったソテ
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201

「春菜さん。今日、君をここに連れてきたのは、単に食材を見てもらうためだけじゃないんだ」 悠斗の声は一段と低く、甘い響きを帯びていた。「僕が君に強く惹かれている理由を、ちゃんと伝えたくてね」(惹かれる……?) 春菜は戸惑いながらも、彼の言葉に耳を傾ける。「君の料理人としての才能が素晴らしいのは言うまでもない。だが、僕が心を動かされたのは、連城ホテルの厨房での君の姿だ」 悠斗は春菜の目を見つめ続ける。「副料理長たちから冷ややかな態度を取られ、冷凍庫の奥に食材を隠されるような陰湿な嫌がらせを受けた。普通なら腹を立てて文句を言うか、僕に泣きついてきてもおかしくない状況だ。それでも君は決して折れず、誰にも告げ口することなく、自分の腕と工夫だけで完璧な料理を出し、逆境を跳ね返した」「……ご存知でしたか」「まあね。あのホテルは僕の庭だ。そこで起きていることは、把握している。……それよりも」 悠斗はゆっくりと身を乗り出した。「その仕事熱心で真摯な姿勢。どんな状況でも最高の料理を出そうとするプロとしての強さに、僕はたまらなく惹かれたんだ」 春菜は頬に熱が集まるのを感じた。「連城副社長……」「悠斗と呼んでほしいと言っただろう?」 彼は微笑みを浮かべる。上品でいてどこか蠱惑的な、極上の笑みを。「コストに囚われず、最高の食材を自由に使える厨房が君の居場所だ。料理人としてだけでなく、1人の女性として僕の隣にいてほしい」 明らかな告白だった。 料理人としての最高のステージの提示と、1人の女性に対する真っ向からの求愛。 彼のオファーの大きさと好意に、春菜の心は激しく揺れ動く。(こんなに正面から評価されて、求められるなんて。料理人として、これ以上の喜びはないわ。でも……) 頭の片隅に、ステンレスの調理台の上に残してきた、あの時計
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「社長? いかがなさいましたか。画面をひどく睨みつけておられますが」 専務が不思議そうに尋ねるが、礼司は答えなかった。 画面に表示されているのは、春菜の左腕に装着させたスマートウォッチからのデータだ。 今朝の6時過ぎから、春菜のGPS信号の座標はハルナズ・キッチンから一切動いていない。心拍数や体温を示すバイタルデータも完全に途絶している。 故障の線は薄い。耐久テストをクリアした最新型の端末である。(意図的に外したとしか考えられない。なぜだ。……やはりプライベートの侵害をやりすぎたか……?) 彼とて休日の追跡を行うのはやりすぎとの自覚はある。そのために後ろめたい思いをしていた。 けれど春菜は律儀に付き合ってくれた。だから許してもらえたのだと、礼司は思っていたのだが。 礼司はキーボードを叩き、別ルートからの情報収集を試みる。 連城グループの動向に関するビジネスニュース、関係者のSNS、悠斗のスケジュールが次々と表示された。 数分後、1つの事実が浮かび上がった。連城悠斗が本日、郊外のプライベートファームへ視察に向かっているという情報だ。 ――点と点が繋がる。 春菜は端末を外し悠斗の車に乗り込んで、2人きりで過ごしている。自分の手の届かない場所で。 その事実が突きつけられた瞬間、礼司の胸の奥で、経験したことのない強烈な感情が渦巻いた。 ドクン、と心臓が大きく脈打つ。 胃の腑が鉛のように重くなり、こめかみが不快な熱を持った。拳をきつく握りしめる。(なんだ、この感情は。胸の奥が焼けるようだ) それは紛れもない嫉妬であり、コントロール不能な焦燥感だった。 データやシステムですべてを予測し、最適化してきた礼司にとって、初めて感じる感情だった。 自分の中からわき起こったものの正体を掴みきれず、礼司は小さく唸った。「社長、お時間です。役員たちが会議室でお待ちです」 秘書がドアを開けて声をかける。「&hell
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203:原点のオニオンスープ

 10月半ばの連城ホテル。メインダイニングに併設された広大な厨房は、熱気と多様な香りに支配されていた。 春菜は銀色に光るステンレスの調理台の前に立ち、フライパンの柄を握っている。 ジュワッという甲高い音とともに、肉の表面が焼ける香ばしい匂いが立ち上った。「佐伯シェフ、前菜の提供が完了しました。メインの火入れ、5分前です」「了解です。ソースの温度は80度を保って。付け合わせの根菜は、バターの香りを飛ばさないように手早く和えるようお願いします」 春菜の指示に、ホテルのスタッフたちが「はい!」と声を揃えて動いた。 本日はコラボフェアの前段階、試食会である。 普段のハルナズ・キッチンの数倍はある広い厨房で、春菜は見知らぬ機材と多数のスタッフを指揮していた。 最初は露骨に反発していた神崎副料理長たちも、今ではすっかり春菜の実力を認め、完璧な連携を見せている。「佐伯シェフ、メインの皿上がりました」「ありがとうございます」 神崎が白い皿を並べる。 春菜は肉の横に滑らかなソースを流し込んだ。黒トリュフと赤ワインを煮詰めた濃厚な香りが、厨房の空気を満たしていく。「運びましょう」 向かった先のダイニングフロアは、華やかな空気に包まれていた。 試食会へ招待されたのは、美食家や料理評論家、インフルエンサー、系列ホテルの幹部たちだ。いずれも名だたる顔ぶれである。「このソース、酸味とコクのバランスが絶妙ですね。大衆店の出身と聞いて侮っていましたが、見事なものです」「ええ。肉の火入れも完璧。連城ホテルのブランドにふさわしい一皿ですよ」「見た目の華やかさだけじゃない、確かな技術の裏打ちを感じるわ。野菜の甘みの引き出し方も見事ね」 客たちの好意的なさざめきが、フロアを歩く春菜の耳にも届く。 春菜は安堵の息を吐いた。(よかった。なんとか形になったみたい。これでコラボフェアの本番も乗り切れそう) ふと、会場の隅のテーブルに視線が向いた。 そこに座ってい
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204

 礼司は小さく顎を引いた。評価のサインだと受け取り、春菜も軽く頭を下げる。 だが、彼の目はちっとも笑っていなかった。どこか苛立っているような、あるいはひどく焦燥しているような、名状しがたい光が瞳の奥で揺れている。「佐伯シェフ! 次の皿、上がります!」「はい! すぐ向かいますね!」 春菜はその光には気づかず、慌ただしく厨房へ戻っていった。◇◇ 2時間後になると、試食会は無事に終了した。 客たちが帰路についたホテルの一角で、春菜はホテルの高層階にあるVIPラウンジに招かれていた。 ふかふかの厚い絨毯に、磨き上げられたアンティークの木製テーブル。革張りのソファは体を包み込むように柔らかい。 テーブルの上には淹れたてのコーヒーが置かれて、芳醇な香りが漂っていた。「素晴らしい試食会だった。君の料理は、僕の期待を遥かに超えていたよ」 向かいのソファに座る連城悠斗が、極上の微笑みを浮かべて言った。 ブラウンのジャケットを着こなした彼は、この豪奢な空間に完全に馴染んでいる。「ありがとうございます。神崎副料理長をはじめ、スタッフの皆さんのサポートがあったからです。私一人の力ではありません」 春菜が答えると、悠斗は首を横に振った。「君の実力だよ。どんな環境でも結果を出す、その強さが君の魅力だ。……春菜さん」 悠斗はコーヒーカップを置くと、居住まいを正した。 甘い響きを帯びた声が、春菜の鼓膜をくすぐる。「今回のフェアが終わったら、連城ホテルの総料理長になってほしい。君の才能は、大衆店に収まるものじゃない。コストを気にせず、世界中の最高の食材を自由に使えるこの厨房こそが、君の居場所だ」「えっ……」 春菜は目を見開いた。 先日も似たような話をされた。けれど今日ははっきりと、『総料理長』という地位を示されている。 総料理長。料理人にとって、それは夢のようなオファーだ。
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 ――本当にこれでいいのか。自分が求めているのは、与えられた完璧な舞台で芸術品を作ることなのだろうか。 春菜は答えられない。 悠斗はどこか困ったような笑みを浮かべた。「ごめん。急に伝えて驚かせてしまったようだ。だが、僕は本気だよ。君の才能、君の人柄。短い間だけど、すっかり惚れ込んでしまったんだ」「私は――」 春菜が言いかけた時、ラウンジの扉の外で物音がした。「お客様、困ります! ここは完全予約制のVIPルームでして……」「彼女を連城ホテルに引き抜く件は、出資者としてお断りする」 氷点下の声が響いた。 スタッフの制止を振り切って部屋に入ってきたのは、御堂礼司だった。 彼は悠斗をにらみつけながら、春菜の隣に立った。 ソファの背に手を置く。革の擦れる音が、妙に大きく聞こえた。「御堂社長。出資者として試食会に同席するのは構わないが、ここは連城ホテルのプライベートラウンジだ。無断で入室されるのは困るな」 悠斗が余裕の笑みを崩さずに言う。 礼司は表情を変えない。「ハルナズ・キッチンの事業計画は、私の会社が全面的にバックアップしている。出資先の重要な人事決定に介入する権利はあるはずだ。連城副社長、あなたこそ、私の投資対象に勝手な真似をしないでいただきたい」「投資対象、ね」 悠斗は鼻で笑った。「君は彼女を利益を生む道具としか見ていないのか? 僕は彼女の才能と、彼女自身を愛している。より良い環境を提供できるのは、どちらかな」「愛だの才能だの、非論理的な言葉でごまかすな」 礼司の声が一段低くなる。「彼女のデータと技術は、私が構築するシステムの根幹をなすものだ。彼女の動線、火入れのタイミング、味覚のデータ。それらすべてが我が社の資産だ。出資者として、有益なシステムの一部を他社へ引き渡すわけにはいかない」 理屈で完全武装した言葉だった。 隙のない論理だが、その言葉は春菜の心を鋭くえぐった。(有益
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 1人の女性として正面から求めてくれる悠斗の言葉と、ただの「パーツ」として評価する礼司の言葉。 その対比に、春菜は足の力が抜けるような錯覚を覚えた。胸の奥が冷たく締め付けられる。 礼司が春菜の料理を美味しいと食べてくれた時、とても嬉しかった。 元婚約者に報復をしてくれて、春菜の心は救われた。 一緒に長野へ出張に行った時は、意外な一面を見られて楽しかった。(馬鹿みたい。私、期待しすぎていた。御堂社長は恩人でビジネスパートナー。仕事以上の何かを期待するなんて、間違っていた……)「……もう、いいです」 春菜は立ち上がった。 声が上擦らないよう、必死に腹に力を入れる。「連城副社長、過分な評価をいただき、ありがとうございます。ですが、今はまだお返事できません。少し、考えさせてください」「春菜さん。無理に今すぐ答えを出さなくてもいい。ゆっくり待つよ」 悠斗が優しく声をかける。 礼司は無言で春菜を見上げていた。 その視線を振り切るように、春菜は逃げるようにラウンジを後にした。◇◇ その夜のこと。 10月も後半に入り、夜の空気は冬の気配を帯びてきている。 ハルナズ・キッチンの厨房は、すっかり冷え込んでいた。 営業は終了し、スタッフたちも帰宅している。 春菜はステンレスの調理台に向かい、1人で玉ねぎの皮をむいていた。 包丁を動かす単調なリズムだけが、誰もいない客席の静けさを際立たせている。 玉ねぎを半分に切り、薄切りにしていく。 目に染みる成分のせいか、視界がぼやけてきた。(玉ねぎのせいよ。私が泣く理由なんてないわ。出資者にパーツ扱いされたくらいで、落ち込むなんてバカバカしい) 包丁の音が、少しだけ乱れる。 昼間のラウンジでの出来事が、頭の中で何度もリフレインしていた。『有益なシステムの一部を他社へ引き渡すわけにはいかない
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「御堂社長。営業は終わりましたよ」 春菜は包丁を置き、努めて事務的な声で答える。 礼司は勝手口を閉めると、厨房の中へと足を踏み入れた。 そのまま彼はカウンター席の丸椅子に腰を下ろす。「分かっている。だが……」 礼司は言い淀んだ。いつもすらすらと論理を並べ立てる彼が、言葉を探している。「以前作ってくれた、オニオングラタンスープを作ってくれないか」 ほとんど頼み込むような響きだった。「あの時の、システムがダウンした日。君が出してくれたスープだ。チーズがたっぷり入っていた」 春菜は戸惑う。 追い返すべきだと思った。人をパーツ扱いした抗議の一つでも言ってやるべきだ。 けれど彼のぎこちない態度を前にすると、どうしても突き放すことができなかった。「……少し、時間がかかりますよ」 春菜は再び調理台に向き直った。 フライパンをコンロに火にかける。バターをひとかけら落とすと、ジュワリと溶けて甘い香りが漂った。 先ほど薄切りにした玉ねぎを投入する。 木べらで焦がさないように、じっくりと炒めていく。 水分が飛び、玉ねぎの体積が減っていく。白かった玉ねぎが、やがて飴色に変わっていく。 玉ねぎの甘みが凝縮された濃厚な匂いが、冷たい厨房の空気を満たしていった。(私、なんでこの人のために料理を作ってるんだろう) 飴色の玉ねぎに、あらかじめ引いておいた鶏と野菜のコンソメスープを注ぐ。 ふつふつと煮立たせ、塩と黒胡椒で味を調える。 耐熱のスープボウルに注ぎ、軽くトーストしたバゲットを乗せる。 その上から、おろしたグリュイエールチーズをたっぷりとふりかけた。 オーブンに入れる。 数分後、チーズがぷくぷくと泡立ち、表面に香ばしい焦げ目がついた。 熱々のボウルをミトンで掴み、受け皿に乗せる。「お待たせしました。オニオングラタンスープです」 春菜はカウンター越し
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「君の料理の根底にあるのは、食べる者を笑顔にする温かさだ」 礼司の言葉に、春菜は動きを止める。「私は、その温かさに救われた。仕事とデータに忙殺され、食事の味すら分からなくなっていた私を、君の料理が引き戻してくれた」 彼は両手をカウンターの上で組んだ。「最初に君の料理を食べた日は、今でも良く覚えている。例の君が立て直した店、みやこ食堂だったか。あそこで生姜焼き定食を食べた。――衝撃だったよ。ただの家庭料理がこれほどの美味、しかも価格は安く抑えられ、料理人の手間は効率化されている。あの時私は、ずいぶんと久しぶりに食事を美味いと感じた」「…………」「君は料理で客を笑顔にするのはもちろん、志のある料理人たちをも救ってきた。それは間違いなく君の経営の才能だが、それだけではない。才能とか、そんな言葉では言い表せない……温かさだ」 礼司は少し言葉を切った。 何度か口を開いては閉じて、ようやく続ける。「昼間、私は君をシステムのパーツだと言った。連城副社長に対抗するため、ビジネスの理屈で武装するしかなかった。だが、それは嘘だ」 礼司の瞳が、かすかに揺れている。「システムのためではない。他社に利益を奪われるからでもない。私は、1人の人間として、君のその温かさを失いたくない」 洗練されていなくて、理屈っぽくて、どうしようもない告白だった。 完璧な舞台を用意して、芸術品を求める悠斗のスマートな言葉とは正反対の。 なりふり構わず、必死に自分の本心を探り当てたような言葉。 それでも彼は、ひたむきに春菜を見つめていた。――春菜だけを見つめていた。(この人は、私の料理の『本質』を見てくれているんだわ) 芸術品としての価値や、システムの一部としての機能ではない。 食べてくれる誰かのために作る、そして料理の作り手として、その根底にある思いを。 ビジネスの盾の裏に隠されていたのは、彼の強烈な独占欲だった。計算の立たない好意が、ひどく
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209:仕組まれた炎上

 10月も後半になって、外の空気は秋の終わりを告げ始めている。 連城ホテルのコラボ用厨房は、仕込みの熱気に包まれていた。 春菜はコンロの前に立って、信州ポークのブロック肉を焼いていた。 肉の表面が油と反応し、ジュウッと甲高い音を立てる。上質な豚の脂が溶け出して、濃厚な香りが厨房の空気に漂っていた。「佐伯シェフ。ブラムリーリンゴのピューレ、仕上がりました。確認をお願いします」 ホテルの若手スタッフが、銀色のボウルを両手で掲げるようにして持ってきた。 春菜はフライパンの火力を微調整し、ボウルの中身を覗き込む。「ええ、いい状態です。酸味を飛ばさないよう、これ以上の加熱は避けて粗熱を取ってください」「承知いたしました」 若手スタッフがキビキビとした動きで持ち場へ戻る。 隣の調理台では、神崎副料理長が青いかぼすの皮を極細のゼスターでおろし、山椒の実を丁寧にすり鉢であたっていた。 かぼすの鼻を抜けるような清涼感と、山椒のピリッとした刺激が混ざり合い、豚肉の重たい脂の匂いに複雑な奥行きを与えていく。 コラボフェア本番に向けた準備は、ホテルのスタッフたちの完璧な連携によって順調に進んでいた。 と。 厨房の自動ドアが開いて、ホテルのホールマネージャーが血相を変えて駆け込んできた。 彼は息を切らし、手にした業務用のタブレット端末を震わせている。「神崎副料理長、佐伯シェフ! 大変です! これをすぐにご確認ください!」「何事ですか? これって……」 差し出された画面を見て、春菜は目を細めた。 表示されているのは、大手SNSのタイムラインだ。『連城ホテル・コラボ厨房の実態。外部のシェフが施設を私物化、衛生管理は最悪の泥沼状態』 悪意に満ちた煽り文句とともに、数枚の画像が貼り付けられている。 床には肉の血や野菜のクズが散乱している。油まみれの調理台の上でスタッフが私服姿で座り込み、だらしなく談笑している。 背景の機材の配置
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