All Chapters of 捨てられ料理人は諦めない: Chapter 51 - Chapter 60

82 Chapters

51

(完璧なだけが接客じゃないのね。こういう温かいやりとりが、料理の味を何倍にも美味しく感じさせるんだわ) 春菜は、芳江の背中を見つめながら心の中で呟いた。 経営の効率化は、あくまで店を回すための土台だ。  その上に店主や女将の人間味が乗ることで、初めて店は客に愛される場所になる。 春菜は料理人として、いつか自分の店を持つことを夢見る者として、大切なことを学んでいた。 ◇  その数日後の午後8時過ぎ。  御堂礼司は、仕立ての良いスーツからカジュアルなジャケットに着替えて、1人で『赤狸』の前に立っていた。 店の外まで客の話し声が漏れ聞こえている。入り口の手作りカウンターはすでに満席に近い状態だった。 礼司は少し離れた場所から店内の様子をうかがった。 前回は裏口から接触を試みて芳江に追い返されてしまった。  今回は一般客として堂々と入り、データと口コミの出所である「佐伯春菜」の正体を、自分の目で確認するつもりだった。 入り口付近の客が1人会計を済ませて出てきたタイミングを見計らい、礼司は店内へ足を踏み入れた。  立ち飲みカウンターの一番端、厨房が少しだけ見える位置に空きスペースを見つけて、そこに立つ。「いらっしゃい! 1人かい? 飲み物はどうするの?」 芳江が愛想よくおしぼりを差し出してきた。 と。「あっ」 彼女は礼司が先日の男――春菜が借金取りだと勘違いしている――と気づいたようで、一瞬だけ身を強張らせた。  が、礼司がそれ以上は何も言わなかったので、芳江も深入りしてこなかった。 礼司はメニューの短冊を一瞥し、短く答える。「生ビールを」「はいよ。すぐ出すね」 礼司はビールを待つ間、視線を厨房の奥へと向けた。 重雄が忙しそうにフライパンを振っている。  その奥の調理台で、一人の女性が背中を向けて仕込み作業をしていた。髪を後ろで束ねて、紺色の作業着を着ている。
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 礼司はジョッキに口をつけ、冷たいビールを喉に流し込んだ。 周囲の客たちは皆楽しそうで、器のハンバークを美味しそうに食べている。  礼司もだんだんと空腹を覚えた。 10分ほど待った頃、芳江が湯気を立てる小さな陶器の器を運んできた。  器の中には濃厚な焦げ茶色のソースの中で煮立つ、丸々としたハンバーグが鎮座している。  上には刻んだ青ネギが散らされていた。 見た目は居酒屋のメニューだ。  けれど立ち上る香りを嗅いだ瞬間、礼司の表情がわずかに変わった。(これは……?) 赤味噌の匂いの中に、和風の出汁の香りが複雑に絡み合っている。ただの家庭料理の延長ではない。 小鍋の中でグツグツと煮立つハンバーグは、いかにも美味しそうだ。  まずは視覚で楽しみ、煮立つ音で聴覚を満足させてくる。 礼司は箸を取り、ハンバーグを半分に割った。  抵抗感なく箸が通り、断面から透明な肉汁が溢れ出してソースと混ざり合う。 一口分を切り取り、たっぷりとソースを絡めて口に運んだ。(……なんだと) 肉は驚くほど柔らかく、それでいて肉本来の旨味と弾力がしっかりと残っている。  ミンチの挽き具合や玉ねぎの炒め具合、火入れの温度管理が緻密に計算されている証拠だ。 そして何より、ソースの完成度が非常に高かった。  赤味噌の塩気と甘みをベースにしながら、隠し味に使われている和風出汁がしつこさを完全に打ち消し、深いコクを生み出している。 肉の味とソースの風味が口の中にあふれて、舌の上でほどける。最後には香りが鼻へと抜けていく。  味覚と嗅覚、触覚を満たす幸せな時間だ。 食べる前の視覚と聴覚と合わせて、五感全てが満足だった。 礼司は思わず口元を緩めそうになり――慌てて引き締めた。(美味い……。大衆酒場で出すレベルの料理ではない) 礼司は箸を止めて、器の中のハンバーグを見つめた。 レストランポータルサイトの運営者として、彼はこれまでに数え切れ
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 御堂礼司にとって、飲食業界とはビジネスの市場でしかなかった。 ポータルサイトの運営は利益を生み出すための効率的な手段であり、料理の味や客の感情は、データ上の数字やシステムの変数でしかなかった。  食そのものに対する情熱など、彼の中には少しも存在しなかったのだ。 けれど今、顔も知らない1人の料理人が作ったハンバーグが、彼の胃袋と心をガッチリと掴んで離さない。 数字では測れない、圧倒的な技術と熱量。  それが実体として存在することを、彼は思い知らされた。 礼司は目を開けて、スマートフォンを取り出して自社の内部ネットワークにアクセスした。 画面に表示されたのは、彼が極秘に開発を進めている「飲食店総合AIシステム」のプロジェクトファイルだ。  予約の管理、客層の分析、食材の発注、在庫管理からシフト作成まで、経営に必要なすべての業務をAIが自動で最適化するシステム。  これをポータルサイト登録店に一斉導入させれば、御堂ホールディングスは飲食業界のインフラを完全に独占することができる。 これまでは、その試運転を行うためのテスト店舗を探していた。  既存のチェーン店を買収するか、適当なコンサルタントを雇って店を作らせるか。 だが、今の礼司の考えは全く違う方向に進んでいた。(既存の店でテストをしたところで意味はない。最高のシステムには、最高の料理と経営センスを持った人間が必要だ) 礼司の脳裏に、厨房の奥で背中を向けていた女性の姿が浮かぶ。 ――佐伯春菜。 みやこ食堂を蘇らせ、さびれた赤狸を行列店に変えた女。  完璧なまでの料理の腕と、客層の棲み分けまで計算し尽くす経営の才覚を持つ人。(彼女をトップに据え、ゼロからモデル店舗を作る。彼女の料理と私のシステムを掛け合わせれば、業界の常識を根本からひっくり返すことができる) 礼司は画面を見つめたまま、口元に冷たい笑みを浮かべた。 これまで彼女に対して抱いていた興味は、単なるデータ調査の延長だった。 しかし今は違う。「どう
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54:春菜のさらなる挑戦

 深夜の2時を回った頃、大衆居酒屋『赤狸』は本日の営業を終了した。 店内からは完全に客の気配が引いている。 使い込まれたパイプ椅子がすべてテーブルの上へと整然と上げられている。 モップがけが済んだばかりの床は、蛍光灯の淡い光を反射してわずかに輝いていた。 春菜はシンクの隅に置かれた洗剤のボトルを綺麗に拭き、定位置へと戻した。 厨房の奥からねじり鉢巻を外した重雄と、割烹着を脱いだ芳江が並んで歩いてくる。 2人の表情には1日の営業を終えた心地よい疲労感とともに、どこか寂しげな色が混じっていた。「大将、芳江さん。お片付け、これで全部終わりました」 春菜がエプロンを外しながら声をかけると、芳江が小さくため息をついた。 カウンターの椅子を1つ下ろして、腰掛ける。「春菜ちゃん、本当に明日から来なくなっちゃうんだねえ。なんだか、まだ実感が湧かないよ。あんたがこの店に来てくれてから、まだそんなに日にちが経っていない気がするのに」 重雄もカウンターに両肘を突いて、複雑な顔で春菜を見つめた。「ああ。春菜ちゃんの言う通りに立ち飲みを始めてから、店は毎日のように満席だ。仕込みのやり方もガラリと変わって、俺の体もずいぶん楽になった。本当に感謝してもしきれねえよ」「そうそう。おばんざいを出すようになって、お客さんが満足してくれてねぇ。あたしもお客さんと喋る機会が増えて、楽しいのさ」「……だけど、やっぱり寂しいもんだな。もっとうちを助けてもらいてえってのが、本音だけどよ」  重雄の言葉に、春菜は静かに微笑んで深々と頭を下げた。「引き止めてくださって、ありがとうございます。でも大将の料理の腕と、芳江さんの素敵な接客があれば、もう『赤狸』は私がいなくても絶対に大丈夫です。常連さんも新規のお客様も、みんなこの店が大好きなんですから」 春菜が顔を上げる。 重雄はズボンのポケットから、ずっしりと厚みのある茶封筒を取り出してカウンター越しに差し出してきた。「これ、受け取ってくれ。春菜ち
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「あの男は妙に冷たい感じがした。惚れた腫れたのトラブルじゃないね。……借金があるんだろう? 若い女の子が1人でそんなものを背負って、あちこちの店を転々とするなんて、どれだけ大変なことか。少しでも、その足しにしておくれ」 春菜が表立って借金を口に出したことはない。  心配や迷惑をかけるわけにはいかなかったからだ。  それでも芳江は、春菜が漏らした断片的な言葉や状況を継ぎ合わせて、正解にたどり着いていた。 芳江の温かい眼差しが、春菜の胸の奥にじわりと染み込んでいく。  重雄も大きく頷きながら、言葉を重ねた。「うちみたいな小さな居酒屋で、春菜ちゃんの才能を潰しちゃいけねえってことは、俺たちにも分かってるんだ。あんたはもっと大きな場所へ行くべき人間だ」 重雄はニヤリと笑った。「なあに、心配するな。今のうちの店なら、このくらいの金はすぐに稼ぎ直せる。それよりも春菜ちゃんの助けになることの方が、俺たちにとってはよっぽど大事なんだよ。だから、遠慮せずに行っておいで」 2人の優しさと彼女を信じてくれる言葉に、春菜は視界がにじむのを止められなかった。  涙がこぼれるのをこらえながら、差し出された封筒を両手でしっかりと受け止める。「大将……芳江さん。本当に、本当にありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」 春菜は何度も何度も頭を下げた。 亡き両親の残した実家を奪われ、多額の負債を押し付けられて始まった放浪の旅だった。  けれどこの下町の片隅で得た温もりは、彼女の心の傷を癒やしてくれた。(前へ進もう。私はもう、立ち止まっていられない。いつか私の店を出して、お世話になった人たちを招待しよう。そして、最高の一皿をご馳走するんだ) 春菜は改めて決意した。  赤狸や、みやこ食堂でもらった力を糧にしながら。 ◇  それから1週間後。  春菜は表通りの喧騒から遠く離れた、郊外の閑静な住宅街に身を置いていた。 並木道が続く穏やかな街並みの一角に、
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(良かった。ここのオーナーに迷惑をかけないよう、しっかり頑張らないとね) ディナータイムの営業が終盤を迎え、店内にはクラシックの落ち着いた音楽が流れている。  しかし12席あるテーブルのうち、埋まっているのはごくわずか。  年配の夫婦が1組と女性の2人連れが一組の、計2組だけだった。 厨房ではオーナーシェフの真壁が、黙々とメインディッシュの仕上げを行っていた。  50代半ばの真壁は、フランスの名店で長年修業を積んだという、職人気質の料理人だ。「春菜さん、鴨のソースの準備を。温度を急激に上げないように」「はい、シェフ。60度を維持しています」 春菜は、小鍋の中のボルドーワインをベースにしたソースをスパチュラで静かにかき混ぜる。  自身の作業は止めずに、真壁の手元に視線を走らせた。 真壁が皿の上に盛り付けた『鴨のコンフィ』は、皮目が完璧な黄金色に焼き上げられ、肉の弾力を残したまま均一に火が通っている。  添えられた温野菜のカットの美しさ、色彩のバランスに至るまで、元高級フレンチレストラン副料理長である春菜の目から見ても、非の打ち所がない完璧な仕上がりだった。(本当に素晴らしい技術。真壁シェフの料理は、どこに出しても恥ずかしくない一流の味だわ。それなのに……) 春菜は、ガラ空きの客席を悲しい気持ちで見つめた。 今日の客はたったの2組だが、これでもマシな方である。日によっては客足がゼロの時も珍しくなかった。 やがて最後の客が満足げな表情で店を後にし、夜10時の閉店時間を迎えた。 客席の片付けを終えて厨房に戻る。 すると真壁が調理台の上に広げた古びた帳簿を前に、深くため息をついているのが見えた。  その背中は昼間の堂々とした調理姿とは裏腹に、ひどく小さく見える。「シェフ、お疲れ様でした。明日の分の仕込みの片付け、終わりましたが、何か他にお手伝いすることはありますか?」 春菜が声をかけると、真壁は帳簿をパタンと閉じた。眼鏡を外して眉間のあたりを指で揉む。「ああ、春菜さん。ありが
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 真壁は毎朝、朝の6時から店にこもって夜のディナーのためだけに8時間以上を費やして仕込みを行っている。 たとえ予約が入っていなくても、飛び込みで客が来ることもある。予約ゼロだからといって店を閉めるわけにはいかない。 だから毎日テリーヌの肉を練り、スープを何時間も煮込み、自家製のパンを焼く。  確かに味は素晴らしい。 けれどその労働量に対して、夜の数組だけの売上では利益など出るはずがなかった。 現に真壁は疲れ切っている。気力で補うのもそろそろ無理が出ている。 シェフ1人の労働だけでは、とうに限界に達しているのだ。 ◇  翌日の午前10時。  厨房には、真壁が豚のレバーや挽き肉を大振りのボウルに入れ、特製のスパイスとともに力強く練り上げる音が響いていた。  フレンチの伝統的な食肉加工技術、シャルキュトリーの一つである『パテ・ド・カンパーニュ』の仕込みだ。 春菜は隣の調理台で玉ねぎを刻みながら、真壁の無駄のない手の動きをじっと観察していた。(シェフのシャルキュトリーの技術は絶品だわ。テリーヌもコンフィも、どれも保存性が高くて、冷めても信じられないほど美味しい。これだけのものを作れるのに、夜の数人のためにしか使わないなんて、あまりにももったいない) 何か良い手はないだろうか。  春菜は懸命に思考を巡らせる。(……待って、保存性が高いということは。これだわ!) 春菜の頭の中で、バラバラだったパズルの一片が1つの絵を結んだ。 包丁を置き、まな板の前に立つ真壁に向かって迷いなく歩み寄る。「シェフ。このお店の赤字を解消するための方法を思いつきました。私たちの働き方を、少しだけ変えてみませんか?」 真壁は肉を練る手を止めて、不思議そうな顔で春菜を見た。「働き方を変える? どういうことだい、春菜さん。ディナーの価格をこれ以上上げたら、ただでさえ少ないお客様が完全に離れてしまう。かといって、この席数では客数を増やすのにも限界があるよ」
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「シェフが今作っているパテやテリーヌ、あるいは鴨のコンフィや自家製のリエットは、どれもフレンチの伝統的な保存食ですよね。これを夜のためだけに小分けにするのではなく、一度に少し多めに仕込んでいただきたいんです。そして、それを瓶詰めや真空パックにして、昼間の空いている時間に店頭でテイクアウト用の『高級フレンチデリ』として販売するんです」 真壁は見開いて、練り肉の入ったボウルを見つめた。「デリの販売……? だが、うちは惣菜屋じゃない。格式あるビストロとして店を開いたんだ。そんな安易な物販を始めたら、店のブランドが崩れてしまうんじゃないか?」 職人特有の拒絶反応だった。  春菜としても気持ちは分かる。彼女もまた、本質は料理に情熱を燃やす職人なのだから。 けれどこのままでは、この店は本当に立ち行かなくなってしまう。  だから春菜は一歩も引かずに、エプロンのポケットからノートを取り出して広げた。「ブランドは崩れません。むしろ、本物のフレンチの味を気軽に家庭で楽しめる店として、認知度が上がります。この地域は閑静な住宅街で、お昼時にはちょっとお金を持っている主婦層や、在宅ワークをされている方たちがたくさん行き交っています。でも、1人でわざわざ格式高いフレンチのランチを食べるのはハードルが高い。そこに、シェフの作った本物のパテやコンフィが1000円程度で手に入るとしたら、どうでしょうか?『今日の夕食は、家で少し贅沢をしよう』という需要に完璧にマッチします」 春菜はノートに書き留めた近隣の人口動態を示した。『シエル』で働き始めてからの日数を、彼女は無駄なく調査に充てていた。  周辺にどんな人が住んでいて、どんな行動を取っているのか。  それさえ分かれば、より適切な戦略が打てる。 春菜はそれらのデータを元に、予想される原価計算の数字を真壁に示した。「仕込みの工程は、夜の分と一緒にやるので新しく増える手間は最小限です。新しく調理器具を増やす必要もありません。店頭に小さな冷蔵ショーケースを1つ置くだけで、今まで1円も生み出していなかった『昼の時間』と『シェフの仕込み技術』が、そのまま新しい売上の柱に変わる
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 その心が通じたのだろう。 あるいは自身も料理人である春菜が、真壁の技術を高く買っているのが伝わったのかもしれない。 真壁の頑なだった表情が少しずつ和らいでいった。 彼は練り肉のついた手袋を外し、深く息を吐いた。「……君の言う通りかもしれないな。頑固にこだわり続けて店を潰してしまっては、元も子もない。余計な手間が増えないというのも魅力的だ。分かった、春菜さん。君を信じて、まずは2週間、試験的にやってみよう」「はい! ありがとうございます、シェフ!」 春菜は力強く頷いた。 新たな挑戦への第一歩が踏み出されたのだ。 ◇  同じ時刻、都心の一等地。 ガラスと大理石で美しく彩られた高級フランス料理店『一ノ瀬』の厨房には、重苦しい空気が漂っていた。 オーナーシェフの一ノ瀬翔太は、盛り付け台の前に立ち、手元のタブレット端末に表示された今週末の予約表を睨みつけていた。 画面に並ぶのは、白抜きの空白ばかりだ。 かつては数ヶ月先まで予約で埋まっていたリストが、今や見る影もない。 先日の料理評論家、西園寺による『死んだ料理』という酷評コラムの影響は、想像以上に深刻だった。『一ノ瀬』の名前を検索してみれば、出てくるのは悪評ばかり。 かつての常連たちはもう顔も見せない。「おい! この仔羊のロースト、火入れが甘いぞ! レシピには百度のオーブンで20分と書いてあるだろうが!」 翔太は激しく声を荒らげた。 若手アシスタントの青年が、怯えたように肩をビクつかせる。「す、すみません、シェフ! でも肉の個体差があって、水分量が多かったので……」「言い訳をするな! レシピ通りにやれば完璧に仕上がるように作ってあるんだ! お前たちが余計なことをするから味が落ちるんだよ!」 翔太は手元のトングを調理台に叩きつけた。 ガシャーン! 高い金属音が厨房に響き渡る。スタ
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 レストラン『一ノ瀬』が有名になったのは、間違いなく春菜のおかげだった。  彼女の作り出すレシピは独創的で、料理の腕も非常に高い。  朗らかな人柄はスタッフたちに慕われて、店の中心はいつも春菜がいる。 オーナーシェフは翔太なのに、いつしか誰も彼を見なくなった。 翔太もサボっていたわけではない。  料理人として日々精進して、経営者として勉強も欠かさなかった。 それでも春菜との距離は開いていくばかり。  翔太も料理人として相応の実力があったばかりに、その距離が正確に理解できてしまった。(なぜだ。俺と春菜の何が違うと言うんだ。俺の何が春菜に劣ると言うんだ!!) 口に出せない思いは、抑圧されたままにどんどん育っていった。 その頃、梨沙と知り合った。  梨沙と春菜は高校時代からの親友なのだという。 翔太はすぐに梨沙の本性を見抜いた。  親友と言いながら、梨沙の目には嫉妬と憎しみばかりが浮かんでいた。  翔太と同じだったから、すぐに理解できたのだ。この女は自分と同類だ、と。 そうして翔太は、自分のプライドを守るために彼女を裏切り、梨沙と結託して店から追い出したのだ。 しかし彼女がいなくなった今、自分1人では新しい料理のアイデアを1つも生み出せない。  過去の遺産のレプリカを作るのが精一杯だという残酷な事実を、毎日突きつけられていた。 追い出したはずなのに、踏みつけて捨ててやったはずなのに、これっぽちも気が晴れない。  むしろ苦しさが増している。「ちくしょう……あいつさえ、あいつさえいなければ、俺は完璧な天才シェフのままでいられたのに……!」 翔太は奥歯をギリギリと噛み締めて、誰にも聞こえない声で呪詛のように呟いた。  彼の目は嫉妬と焦りで血走っていた。 ◇ 「いつまでそんな情けない顔をしているの、翔太」 営業終了後、誰もいないオーナー室。  重い足取りで戻
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