(完璧なだけが接客じゃないのね。こういう温かいやりとりが、料理の味を何倍にも美味しく感じさせるんだわ) 春菜は、芳江の背中を見つめながら心の中で呟いた。 経営の効率化は、あくまで店を回すための土台だ。 その上に店主や女将の人間味が乗ることで、初めて店は客に愛される場所になる。 春菜は料理人として、いつか自分の店を持つことを夢見る者として、大切なことを学んでいた。 ◇ その数日後の午後8時過ぎ。 御堂礼司は、仕立ての良いスーツからカジュアルなジャケットに着替えて、1人で『赤狸』の前に立っていた。 店の外まで客の話し声が漏れ聞こえている。入り口の手作りカウンターはすでに満席に近い状態だった。 礼司は少し離れた場所から店内の様子をうかがった。 前回は裏口から接触を試みて芳江に追い返されてしまった。 今回は一般客として堂々と入り、データと口コミの出所である「佐伯春菜」の正体を、自分の目で確認するつもりだった。 入り口付近の客が1人会計を済ませて出てきたタイミングを見計らい、礼司は店内へ足を踏み入れた。 立ち飲みカウンターの一番端、厨房が少しだけ見える位置に空きスペースを見つけて、そこに立つ。「いらっしゃい! 1人かい? 飲み物はどうするの?」 芳江が愛想よくおしぼりを差し出してきた。 と。「あっ」 彼女は礼司が先日の男――春菜が借金取りだと勘違いしている――と気づいたようで、一瞬だけ身を強張らせた。 が、礼司がそれ以上は何も言わなかったので、芳江も深入りしてこなかった。 礼司はメニューの短冊を一瞥し、短く答える。「生ビールを」「はいよ。すぐ出すね」 礼司はビールを待つ間、視線を厨房の奥へと向けた。 重雄が忙しそうにフライパンを振っている。 その奥の調理台で、一人の女性が背中を向けて仕込み作業をしていた。髪を後ろで束ねて、紺色の作業着を着ている。
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