All Chapters of 捨てられ料理人は諦めない: Chapter 41 - Chapter 50

82 Chapters

41

 その日の夜、レストラン『一ノ瀬』へ予約リストにない人物が来店した。 業界で絶大な影響力を持つ料理評論家、西園寺(さいおんじ)だった。 彼の書くコラム一つで、レストランの運命が変わると言わるほどの人物である。「これは西園寺様。当店にご来店くださり、ありがとうございます」「ああ。評判の『一ノ瀬』の実力、堪能させてもらうよ」 西園寺の来店を確認した翔太は、ひどく焦った。 必死に自分に言い聞かせる。(いいや、待つんだ。どうして焦る必要がある? これはチャンスだ。彼のお眼鏡にかなえば、レストラン『一ノ瀬』はもう一段の飛躍が望めるぞ)「あの有名な西園寺氏が来られた。メインは鴨だ。レシピ通り、完璧に仕上げるぞ」 翔太はアシスタントたちに声をかけたが、その声は少し上ずっていた。 厨房には緊張が走る。 翔太はタイマーの数字を何度も確認し、ソースの塩気を慎重に確かめた。 やがて春菜のレシピ通り、寸分の狂いもない一皿が完成した。 メインディッシュが西園寺のテーブルへ運ばれていく。 翔太は厨房の隙間から、ダイニングの様子をうかがった。 西園寺は運ばれてきた鴨のローストをしばらく見つめてから、ナイフとフォークを入れた。 肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼する。 その顔には、美味を堪能したときの喜びも、不満を表す歪みもなかった。 ただ淡々と、無表情に料理を口に運んでいる。(おかしい。西園寺氏は美味しい料理を食べた際は、もっと微笑むはずだ。料理雑誌では、彼自身が「真に美味な料理を口にすれば、自然と顔が緩む」と言っていたじゃないか。ということは……!?) 翔太の予感は的中した。 西園寺は皿の上の料理を半分ほど残したのである。 ナプキンで口元を拭うと、静かに席を立った。 やはり感想は特にない。 翔太は緊張に上ずる声で、立ち去ろうとする西園寺に話しかけた。「西園寺様、何か不備がございましたでしょうか。ご不満は&
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 西園寺の来店から3日後の午前中のこと。 レストラン『一ノ瀬』のオーナー室のドアが、大きな音を立てて開いた。 入ってきたのは翔太の婚約者であり、九条不動産の社長令嬢である九条梨沙だった。 彼女の顔は怒りでこわばっている。 手には1冊のグルメ雑誌と、スマートフォンの画面が握られていた。「翔太、これを見なさい」 バン! 梨沙は机の上に雑誌を乱暴に叩きつけた。 それは西園寺が連載を持っている高名な文芸誌のグルメコラムだった。「梨沙、一体どうしたんだ。そんなに声を荒げて……」「いいから読んで!」 翔太は恐る恐るページを開く。 そこには『レストラン・一ノ瀬の凋落』という刺激的な見出しが躍っていた。『先日、かつて新進気鋭と謳われた高級店「一ノ瀬」を訪れた。提供された料理は、確かに技術的には破綻していない。火入れも正確で、ソースのバランスも整っている。しかし、そこには決定的な何かが欠落していた』『一ノ瀬シェフの料理は、過去の遺物、あるいは誰かが作った完璧なレシピという殻に閉じこもった「死んだ料理」だ。皿の上から、シェフ自身の哲学や、新境地へ挑ようとする独創性が微塵も伝わってこない。ただマニュアル通りに再現されただけの料理に、高額な代金を支払う価値は見出せない』 スマートフォンの画面には、そのコラムが転載されたネットニュースが表示されている。 ニュースはSNSで瞬く間に拡散されていた。 コラムには続きがある。 翔太は青ざめた顔で西園寺のコラムを読み進めた。『実を言えば、私は数ヶ月前に名前を偽ってこの店に来たことがあった。その際の料理は素晴らしいもので、感銘を受けた。レストラン『一ノ瀬』のシェフはまだ若いが、間違いなくこれからの日本料理会を背負っていくと確信したものだ』『だから私は改めて、料理評論家としてあの店に行った。今度はどんな料理を食べられるのかと、内心で楽しみにしていた。ところが結果はどうだ。今、私は失望している。『一ノ瀬』に一体何があったのか。こんな有様では、先日の
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 翔太は震える手を押さえて、それらのコメントを眺めた。(クソッ、何も知らない奴らが勝手放題言いやがって!) 怒りを覚えたが、梨沙の前で悪態をつくわけにはいかない。「今朝だけで、今週末の予約が10件もキャンセルになったわ」 梨沙は冷たい声で言い放った。彼女の目は、かつて翔太に向けていた憧れの光を完全に失っている。「九条不動産は、『一ノ瀬』というブランドと、あなたの将来性を見込んで投資しているのよ。パパに恥をかかせないでちょうだい。こんな記事を書かれるなんて、一体どういうこと?」「それは……」 翔太は言葉を詰まらせた。 顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。「西園寺氏の好みに合わなかっただけだ。俺は、店のレシピ通りに完璧に作った。何も間違っていない!」「レシピ通り? それが悪いのよ!」 梨沙の怒りの声が響いた。「西園寺氏の言う通りじゃない。あなたが作っているのは、あの佐伯春菜が残していったレシピの焼き直しでしょう? 彼女がいなくなってから、あなたは新しいメニューを1つでも生み出した? ただ過去の遺産にしがみついているだけじゃない!」 梨沙の言葉は、翔太が一番目を背けたかった事実を容赦なく突き刺した。 春菜がいた頃は、彼女が翔太の曖昧なアイデアを具体的なレシピに落とし込み、厨房のオペレーションを完璧に整えてくれていた。 翔太はオーナーシェフとして、表に立つ。 春菜は副料理長として厨房から出ない。客は誰も彼女を知らない。翔太が隠していた。 翔太はただ、春菜が上げた成果のうち、おいしいところだけを自分の手柄にしていればよかったのだ。「私は、一流のシェフとしてのあなたを支えているの。春菜がいないと何もできないなんて、そんなことは許さない。ただの雇われ料理人のような真似はしないで」 梨沙はそれだけ言うと、冷たく背を向けて部屋を出て行った。 静まり返ったオーナー室で、翔太は机の上の雑誌を睨みつけた。 激しい屈辱と怒りで、顔色が
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44:手作りの改装

 定休日の静かな朝のこと。 朝の繁華街には朝もやが漂い、人の気配が薄い。 いつもは油と出汁の匂いが漂う『赤狸』の店内に、今日は埃っぽい空気が立ち込めていた。 春菜は首にタオルを巻き、動きやすい紺色の作業着姿で入り口近くの小上がり――座敷席の前に立っていた。 隣には同じくジャージ姿の大将・重雄と、頭に手ぬぐいを巻いた女将の芳江が並んでいる。 2人は少々戸惑った顔で、朝から張り切る春菜を眺めていた。「大将、芳江さん。おばんざいとオリジナルサワーのおかげで、一度入ってくれたお客さんの満足度は上がりました。客単価もいい感じです。でも、通りすがりの新規のお客さんには、まだ入りにくい壁があるんです」 春菜は小上がりの畳を指差した。「この座敷席があるせいで、外から店内の様子が見えにくくなっています。それに1人でふらっと飲みたい気分の時に、わざわざ靴を脱いで座敷に上がるのは面倒ですよね。ここを靴のままサクッと飲める『立ち飲み』のスペースに変えたいんです」 重雄は腕を組んで、渋い顔をした。「立ち飲みにするってのは分かるが、改装なんて頼む金はうちにはないぞ。春菜ちゃんのお陰で余裕が生まれてきたが、まだまだ毎日の仕入れで精一杯だからな」「ええ、業者に頼む余裕がないのは分かっています。だから、私たち3人で手作りします」「手作り? 大工仕事なんてやったことないよ」 芳江が不安そうに声を上げる。 春菜は笑顔で首を横に振った。「大がかりなことはしません。畳と床のシートを剥がして、酒屋さんに借りた空のビールケースを積むだけです。その上にホームセンターで買ってきた板を乗せれば、立派なスタンディングカウンターになります」「ビールケースでカウンターを作るのかい? そんな安っぽいのでお客さんが来てくれるのかね」 芳江が首を傾げた。「大衆酒場なら、そのチープさが逆にレトロで入りやすい雰囲気を作ってくれます。お金をかけなくても、工夫次第で空間は変えられます。さあ、始めましょう」「そんなものかねえ」「まあ、
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 次に、下に敷かれていた古いクッションフロアを剥がしていく。 床にしゃがみ込んだ重雄が首を振った。「あーこりゃあ、接着剤が固まっちまってるな。手じゃ剥がすのは無理だ」「あんた、これを使って」 芳江がバールを持ってきて、重雄と一緒にせっせと剥がした。 春菜も手を貸した。なかなかの力仕事である。「よし、剥がれましたね。下地にはこれを塗りましょう」 剥き出しになった下地の板の間に、春菜が買ってきた焦げ茶色のペンキを3人で塗っていく。「ははっ。ちょっと地味だが、いい色じゃないか」「何だか楽しくなってきたわ」 午後になり、ペンキが乾いてくる。 そこへ酒屋から無料で借りてきた、赤いプラスチック製のビールケースを運び込んだ。 入り口から見える位置に二段に重ねて並べて、結束バンドでしっかりと固定する。 その上に、ホームセンターで3000円で買ってきた分厚いパイン材の板を乗せた。 ケースと板は、電動ドライバーで金具を使って裏から固定した。「よし、これで完成です」 春菜は額の汗を手の甲で拭い、手作りのカウンターを見渡した。 入り口のガラス戸を開け放つと、外からビールケースの赤い台座と木目の天板がよく見えた。 靴を脱ぐ必要がなくなって、通りからそのままスッと立ち寄れる開放的な空間が出来上がっていた。「へえ……。本当にそれっぽくなったね。なんだか屋台みたいでワクワクするよ」 芳江がカウンターの板を手で撫でながら、感心したように言う。 重雄も少し離れた場所から眺めて、満足そうに頷いた。「これなら外を歩いてる連中にも、声がかけやすそうだ。で、春菜ちゃん。ここで何を出すんだ?」「ここで立ち飲みしてくれるお客さん限定で、『晩酌セット』を出します。お好きなお酒1杯と、芳江さんのおばんざい3種盛り合わせで、1000円ポッキリです」 春菜は手書きのポップをカウンターの端に貼り付けた。『晩酌セット。10
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 翌日の夕方になると、営業を再開した赤狸の入り口には、手作りの立ち飲みカウンターが待ち構えていた。 春菜の狙いは見事に的中した。 午後6時を過ぎると、駅へ向かう帰宅途中のサラリーマンや、若い男女のグループが、開け放たれた入り口から中の様子を覗き込み始めたのだ。「おっ、立ち飲みやってるみたいだぞ」「本当だ。晩酌セット1000円だって。ちょっと1杯だけ飲んでいかない?」 スーツ姿の男性2人組が、ふらりとカウンターの前に立った。「いらっしゃいませ! 立ち飲みですか? 晩酌セット、すぐ出ますよ!」 芳江が明るい声で出迎える。「うん、晩酌セットをお願い。酒はビールで」 男性たちは生ビールを2つ注文した。 芳江はすぐにジョッキにビールを注ぎ、カウンターに並んでいたおばんざいの中から、大根と豚肉の煮物、ポテトサラダ、小松菜のお浸しを小さな皿に盛り合わせて提供した。 注文からわずか1分もかかっていない。「おお、早いな。乾杯」 男性たちはジョッキを合わせ、すぐにおばんざいに箸を伸ばした。 大根の煮物を口に入れた途端、1人の男性の動きが止まった。「……うまっ。なんだこれ、立ち飲み屋のレベルじゃないぞ。出汁がしっかり染みてて、高級な和食屋みたいだ」「本当だ。このポテトサラダも、マヨネーズだけじゃなくて何か隠し味が入ってる。マスタードかな? 酒が進む味だ」 2人は顔を見合わせ、驚きの声を上げた。 芳江が人懐っこい笑顔で笑いかける。「美味しいでしょう? うちの自慢の料理なの。ビール以外にも合うお酒があるから、良ければ試してくださいな」 ベース仕込みの技術とフレンチの知識を応用した春菜のレシピは、手軽なセットメニューであっても一切の妥協がなかった。 重雄と芳江の2人と相談を繰り返し、赤狸の味を活かしながらさらに洗練させたのだ。 その後も、次々と客が立ち飲みカウンターに吸い込まれてきた。「すみません、このハーブレモン
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 春菜は厨房からその様子を見つめて、注文をさばき続けた。 お客たちはみんな笑顔だ。 とても楽しそうに料理と酒を味わっている。(良かった。お酒と食事は、楽しくなければね) それが嬉しくて、春菜も笑みをこぼした。 ◇  数日後、春菜がスマートフォンのレストランポータルサイトを確認すると、赤狸の口コミページには新しいレビューがいくつも書き込まれていた。『駅裏の古い居酒屋だけど、入り口の立ち飲みが最高。晩酌セットのコスパと味が異常』『料理の提供が早くて、何を食べてもハズレがない。自家製のサワーも絶品でした』『大将と女将さんの接客も温かい。次は座敷でゆっくり飲みたい』 星の数は急激に上昇し、連日満員の状態が定着しつつあった。 店を立て直す春菜の目標は、着実に形になっていた。 ◇  同じ頃、御堂ホールディングスの社長室にて。 御堂礼司は無駄の一切を省いた黒いデスクに向かい、大型モニターに映し出されたデータ群と睨み合っていた。 彼が開発を主導したレストランポータルサイトの管理画面が、映っている。 そこには、全国何万もの飲食店のアクセス推移や予約状況、口コミの点数変動がリアルタイムで集計されてグラフ化されていた。 礼司の鋭い視線が、ある1つのグラフに釘付けになった。 それは都内の特定のエリアに絞り込んだ検索結果の中で、異常な角度で急上昇している赤い折れ線だった。「店舗名、大衆酒場『赤狸』……。数週間前まで、アクセス数も評価も底を這っていた夫婦2オペの居酒屋か」 礼司はマウスをクリックし、赤狸の詳細データを開いた。 口コミのテキストデータをAIで解析した結果が画面の右側に表示される。「提供スピードが早い」「メニューが整理されている」「立ち飲み席の導入」「料理のクオリティが価格に見合わないほど高い」。 そ
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 彼女がみやこ食堂を離れた後、次のターゲットとしてこの『赤狸』を選び、再び手腕を振るっているのだと、礼司は確信した。「これほどの才覚を持つ人間が、なぜこんな路地裏の小さな店を渡り歩いているんだ? 目的は何だ」 疑問と、それを上回る強い好奇心が礼司を動かした。 彼はモニターの電源を落とし、スーツのジャケットを羽織った。「直接行って、確かめるしかない」 礼司は秘書に指示を出し、社用車を下町へと向かわせた。 ◇  午後5時。日が傾き始めた繁華街の裏通りに、礼司は立っていた。 スマートフォンに表示された地図を頼りに路地を進むと、赤提灯がぶら下がる古い建物が見えてきた。 開店時間の少し前だというのに、店の前にはすでに5、6人の客が列を作っていた。 入り口にはビールケースで作られた即席のカウンターが見える。店の中では開店準備に追われる人影が慌ただしく動いていた。(この客の入り。データ通り、完全に息を吹き返しているな) 今回のデータにも、不正やエラーはない。 正面から入ってゆっくり話を聞く余裕はないと判断した礼司は、店の横の細い路地を通り、裏口へと回った。 油汚れのついた鉄のドアを、短く二度ノックする。「はいはい、業者さんかい? 今開けるよ」 内側から鍵の開く音がして、エプロン姿の芳江が顔を出した。 芳江は、目の前に立っているのが業者ではなく、仕立ての良いスーツを着た長身の男だと気づき、怪訝な顔をした。 芳江は男の冷たい美貌に一瞬だけ見とれて、すぐに我に返った。「あの、どちら様で?」「突然申し訳ない。1つ聞きたいことがある」 礼司は冷徹な声で用件を切り出した。「佐伯春菜という人物は、ここにいるか」 その声は、裏口から厨房の奥にまで響いた。 厨房で仕込みの最終確認をしていた春菜は、彼の低くて威圧感のある声を聞いて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
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(もしかして、ついに借金取りが店まで押しかけてきたの? ここで見つかったら、大将や芳江さんたちにまで迷惑がかかる! 隠れなきゃ!) 春菜は咄嗟に身をかがめる。必死の思いで冷蔵庫の死角に隠れた。 入り口の芳江が、困惑したように振り返る。 芳江と春菜の目が合った。 春菜は息を殺し、芳江に向かって両腕で大きなバツ印を作った。 必死の形相で「居留守を使って」とアイコンタクトを送る。(芳江さん。お願い、伝わって!) 芳江は一瞬目を丸くしたが、すぐに事情を察したように向き直った。「佐伯春菜? さあ、そんな名前の人はうちにはいないねえ。人違いじゃないのかい?」「……いない、と」「ええ。うちは大将と私の2人だけでやってる小さな店だからね。アルバイトも雇ってないんだよ。営業前で忙しいから、悪いけど帰っておくれ」 芳江はそう言うと、礼司の返事を待たずに裏口のドアをピシャリと閉めて、鍵をかけた。 ドアの外に立たされた礼司は、閉ざされた鉄の扉を静かに見つめた。 芳江の態度は明らかに不自然だった。 それにドアの隙間から見えた奥の冷蔵庫の影に、微かな気配を感じた。(嘘をついているな。確実にこの中にいる) 無理やり押し入ることもできたが、営業妨害をして警察を呼ばれるような事態は避けるべきだ。 目的は彼女の才覚を確かめることであり、トラブルを起こすことではない。 礼司は短くため息をつき、スーツのポケットに手を入れた。「……また来る」 誰にともなくそう言い残し、礼司は路地を後にした。 ◇  厨房の冷蔵庫の陰で、春菜はドアが閉まる音を確認した。 ようやく強張っていた肩の力が抜けていく。「春菜ちゃん、大丈夫かい? なんだかえらいイケメンの、怖い顔の男だったけど」 芳江が心配そうに声をかけてくる。「すみま
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50:礼司の執着

 客層の棲み分けが成立したことで、大衆酒場『赤狸』の営業はかつてないほどの安定を見せていた。 午後7時を回ると、入り口の立ち飲みスペースには仕事帰りの会社員たちが肩を寄せ合い、ジョッキを傾けている。 回転は速く、次から次へと新しい客が入ってくる。 一方で奥のテーブル席や座敷には、昔からの常連客が腰を下ろしている。腰を据えてゆっくりと料理を楽しんでいた。 新規客の中には、赤狸の料理と酒に魅了されて常連へ変わる者も少なくない。 常に新規客が入り、そのうちの何人かは常連へ変わる。 好循環の中で、赤狸はいつも満席の状態だった。「芳江さん、晩酌セット2つと、追加でレモンサワー!」「はいよ! すぐ出すからね。今日のおばんざいは、大根の煮付け。よく味が染みてるよ」 女将の芳江が、立ち飲みカウンター越しに明るい声を張り上げる。 客たちはネクタイを緩めて、芳江の言葉に笑い声を返した。「ほんと、この店の料理は美味いよなあ。何を食べてもハズレがない」「あらあら、嬉しいこと」 芳江は笑顔を向ける。「大将、こっちも追加で串焼き頼むわ。今日のモツ煮も最高にうまいよ」「あいよ! 盛り合わせ一丁! モツ煮は仕込みのやり方を少し変えたからな、どんどん食べてくれ」 厨房の奥で頭に手ぬぐいを巻いた大将の重雄が、威勢よく答える。 コンロの前でフライパンを振る腕の動きは滑らかで、料理を皿に移すタイミングにも迷いがない。 以前のような100種類ものメニューに追われて疲弊しきった姿はそこにはない。 重雄は自分の料理が客に喜ばれていることを実感している。やりがいを持って調理場に立っていた。 春菜は重雄の横で、次に提供する冷菜の盛り付けを進めていた。 手元を動かしながら、ホールの様子に目を向ける。 芳江は両手にジョッキを持ちながら、立ち飲みカウンターと奥の座敷を忙しく行き来している。「お兄さんたち、初めてかい? うちのレモンサワーは自家製だから、一度飲んでみてよ」「じ
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