All Chapters of 捨てられ料理人は諦めない: Chapter 71 - Chapter 80

82 Chapters

71

 礼司は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。「佐伯春菜。君のその頭脳と料理の腕は、こんな郊外の小さなビストロで終わるべきものではない。私の構築する巨大なシステムと掛け合わせることで、飲食業界の常識を根本から変えることができる」 礼司はデスクに戻り、内線電話のボタンを押した。  数回のコールの後、深夜にもかかわらず秘書がすぐに応答した。「社長、いかがなさいましたか」「明日の午後のスケジュールをすべてキャンセルしろ。外出する」 急な通達だったが、秘書は動じない。「承知いたしました。行き先はどちらになさいますか?」「郊外だ。車のキーを用意しておけ。運転手は不要だ、私が運転する」 礼司は電話を切り、ジャケットを手に取った。 モニターに映る『シエル』の所在地データを、自身のスマートフォンに転送する。 前回の『赤狸』ではニアミスだった。  あの時は裏口から声をかけたことで警戒された。女将にうまく居留守を使われてしまった。 その苦い経験から、礼司は同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。 正面から客として入れば、混雑に乗じて厨房の奥へ隠れられる恐れがある。 今回は、事前にポータルサイトに登録されている『シエル』の店舗図面データを読み込んでおいた。  出入り口の位置や建物の構造を完全に把握済みだ。 逃げ道を塞いだ上で、彼女が確実に外へ出てくるタイミングを見計らって接触する。  網の終着点は、すでに定まっていた。「二度も同じ手は食わない。今度こそ、私から逃がしはしない」 明日の予定は確定した。  礼司はモニターの電源を落とし、静まり返った社長室を出た。 ◇  翌日の午後、3時を回った頃。  初夏のはっきりとした日差しがフロントガラスに降り注ぐ中、礼司は自らハンドルを握って郊外の高速道路を走らせていた。 昨夜のうちに、シエルの営業形態と稼働状況はすべて頭に叩き込んである。
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72:2人の邂逅

 ビストロ『シエル』の厨房は、ディナータイムの開始を30分後に控えて、程よい緊張感に包まれていた。 コンロの上では真壁シェフが小鍋を火にかけて、慎重にスパチュラを動かしている。 鍋に入っているのは、メインディッシュに使用するソースだ。 赤ワインとフォン・ド・ヴォーが煮詰まる甘く深い香りが、厨房全体に広がっていた。「春菜さん。前菜に使うセルフィーユの状態はどうだい」 真壁が鍋から目を離さずに声をかける。 セルフィーユとはハーブの一種で、甘くて爽やかな香りが特徴だ。 見た目はイタリアンパセリに少し似ている。「はい、今確認しますね」 春菜は冷蔵庫から取り出したハーブのタッパーを開けて、丁寧にセルフィーユの葉の形を確認した。「葉先まで綺麗に張りがあります。色も鮮やかで、最高の状態です」「よし。予約のリストをもう一度確認してくれるか」「はい。今夜は2名様が3組、4名様が1組。計10名様のご予約で、満席となっております。アレルギーの申告は今のところありません」 春菜が淀みなく答える。 真壁は鍋を火から下ろし、安堵の表情を浮かべた。「満席か。……この店を開いてから、ディナーの予約が毎日のように満席になる日が来るなんて、想像もしていなかったよ」「シェフの料理が素晴らしいからです。一度召し上がったお客様は、必ずリピーターになってくださいます」 春菜は微笑む。 実際、『シエル』の料理の評判は前から高かった。 昼間のデリ販売で知名度が上がり、ディナーの集客に繋がったのだ。 ディナーコースは8000円からと、郊外店としては決して安くはない。 だが、店を出る頃には客の誰もが満足している。リピーターになる率も高い。 そのため客足そのものが増えれば、繁盛するのは当然の帰結だ。 春菜はそれが誇らしかった。(このお店では料理が生きている。いくら私が知恵を絞っても、肝心の料理が駄目ならば上手くいかないもの)
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73

「ああ、頼むよ。外はもう暗くなっているから気をつけて」「はい」 真壁の声を背に受けながら、春菜は勝手口へと続く細い通路を歩いた。  両手に提げたゴミ袋の重みを感じながら、これまでの数ヶ月を振り返る。『みやこ食堂』では、多すぎるメニューを絞り込み、作業を効率化することでオペレーションを改善した。 大衆酒場『赤狸』では、立ち飲みスペースを自作し、客層の棲み分けと回転率の向上を図った。 そしてこのビストロ『シエル』では、デリのテイクアウトのオンライン決済を導入し、廃棄ロスを大幅に減らした。 どの店も、最初は慢性的な赤字や人手不足に苦しんでいた。  だが問題の根本を見極めて適切な仕組みを取り入れることで、店は息を吹き返した。そこで働く人々の顔に活力が戻ったのだ。 春菜は元婚約者の一ノ瀬翔太に裏切られて、何もかもを失った状態で放り出された。  そんな彼女が誰かの役に立っている。  その事実が、春菜の冷え切っていた心を少しずつ温めていた。(でも、私はずっとこのままでいいのかな) 春菜はふと立ち止まった。 彼女の経営センスと料理の腕をフル活用して、様々な店を立て直してきた。 けれど1つの場所に長く留まれば、いずれまた自分の過去や、翔太から押し付けられた借金の問題が浮上してくるかもしれない。  借金の取り立ては、いつどこで現れるか分からない。 また翔太と梨沙がばらまいた春菜の悪評も、どこまで広がっているか心配だ。  常に逃げるように場所を変え続ける生活が、いつまで通用するのだろうか。(今までの店主さんたちのご厚意で、まとまったお金が手に入った。一度弁護士に相談してみようかな) 素人の春菜では太刀打ちできなかった借金の契約も、プロに見てもらえば解決策があるかもしれない。  実家の家土地は戻らずとも、借金がなくなれば身の振り方はある。  もしくは最悪、自己破産をして債務を整理してもいいかもしれない。ただそれでは、将来の店を持つ夢が潰えてしまう可能性があるが。
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74

 仕立ての良いダークスーツに身を包んだ、長身の男だった。 薄暗い路地の中でも、彼の冷たい美貌が見て取れる。 その整った顔立ちには一切の感情が浮かんでいない。 しかしながら彼の冷たくも奇妙な熱がこもった視線は、ドアから出てきた春菜を真っ向から見据えている。 男は路地の幅を塞ぐような絶妙な位置に立っており、春菜が逃げ出せる隙間はどこにもなかった。(あの人は誰? どこかで見た覚えがある) 春菜の脳内に、強く警報が鳴り響いた。 この男を知っている。顔を見たのは初めてだが、その威圧感のある佇まいと、路地に落ちる影の形に、強烈な既視感があった。(……赤狸の裏口) あの日、女将の芳江が対応した男だ。 冷蔵庫の陰に隠れて聞いた、低く冷たい声が脳裏に蘇る。『佐伯春菜という人物はここにいるか』 あの声の主が、今、目の前に立っている。 春菜の顔から一気に血の気が引いた。(どうして。どうしてここが分かったの? やっぱり、借金の取り立てなんだ。翔太が押し付けたあの借金の……) 恐怖のあまり後ずさろうとしたが、足がすくんで動かない。 男がゆっくりと一歩、春菜に近づいた。 カツン。革靴がコンクリートを叩く硬い音が、路地に響く。 春菜はゴミ袋を取り落としそうになりながら、声にならない悲鳴をあげて壁際に身をすくめた。 男は春菜から数歩離れた位置で立ち止まった。 春菜が極度に怯えていることを察したのか、彼はそれ以上距離を詰めることはせず、静かに内ポケットへ手を伸ばした。「……私は御堂ホールディングスの御堂礼司だ。怪しい者ではない」 男――御堂礼司の声は、春菜の予想に反して、落ち着いたトーンだった。 決して怒鳴ったりはしない。むしろ低くて艶のある声は耳に馴染む。 彼は革製の名刺入れから1枚の名刺を取り出して、春菜の目の前に差し出した。
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75

 彼は借金取りではない。その事実だけで、心臓の早鐘が少しだけ落ち着きを取り戻す。  けれど安堵と同時に、さらに大きな疑問が膨れ上がった。 御堂ホールディングスの社長。  そんな雲の上の存在が、なぜこんな郊外の小さなビストロの、しかも裏口の路地裏で自分を待ち伏せしているのか。 赤狸でも春菜を探していた。偶然ではない。  彼は明確な目的を持って、彼女を追いかけているのだ。「あの……私に、何かご用でしょうか」 春菜が戸惑いながら尋ねると、礼司は差し出していた手を下ろした。春菜の目を正面から見据える。  その瞳の奥には表面に見える冷徹さとは違う、熱のようなものが宿っていた。「みやこ食堂、赤狸、そしてこの店。ずっと君のデータと料理を追っていた」「……えっ」 礼司の口から出た言葉に、春菜は衝撃を受けた。(赤狸だけでなく、みやこ食堂まで知っている?) 彼女が転々としてきた店の名前。そのすべてを、この男は把握している。「最初はみやこ食堂だ。あの定食屋の異常なまでの提供スピードの改善と、メニューの整理。次は赤狸での立ち飲み席の自作と、見事な客層の棲み分け。最後はこのシエルで君が導入した、テイクアウトのオンライン決済による廃棄ロスの排除」 礼司は1つ1つの店の変化を、正確な言葉で並べ立てていく。「君は、その店が抱える構造的な欠陥を瞬時に見抜き、最小限のコストで最大限の利益を生み出すための論理的な仕組みを構築した。私が管理するポータルサイトのデータは、君の手腕を完璧な波形として記録していた」「データ……」 春菜は呆然と呟いた。  この人は、彼女の放浪の軌跡を全て把握している。「そうだ。飲食店の経営において、君のアプローチはあまりにも美しく正確だ。だが、それだけではない」 礼司は言葉を区切り、少しだけ声のトーンを下げた。「……赤狸で、君が作ったハンバーグを食べた」 春菜の肩がびくりと跳ねた。「私は今まで、料理の味などという不確かなものは
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76

「……ようやく捕まえたぞ、佐伯春菜」 その一言に、春菜は自分がずっと彼の手のひらの上で泳がされていたような、不思議な感覚に陥った。  決して逃れられない、巨大な網の終着点に立たされている。そんな気がする。「御堂社長……。あなたが私を評価してくださっているのは分かりました。でも、どうしてそこまでして私を探していたんですか。私みたいな、店を転々としているだけの料理人を」「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だからだ」 礼司は一歩前へ踏み出した。「私は今、飲食業界のインフラを完全に自動化し、最適化する『飲食店総合AIシステム』の開発を進めている。予約、決済、発注、在庫管理、そのすべてを掌握するシステムだ。だが、どれだけ完璧なシステムを作っても、それを動かす人間のレベルが低ければ機能しない。既存の店でテストをするのは限界がある」「それは……?」「そうだ。私は、君をトップに据えた全く新しいモデル店舗をゼロから作りたい。君の料理と経営センス、そして私のシステムを掛け合わせれば、この国の飲食業界の常識を根本からひっくり返すことができる」 礼司のスケールの大きすぎる提案に、春菜は言葉を失った。 これまでの春菜は、目の前の困っている店を自分の手の届く範囲で助けてきただけだ。 しかし目の前の男は、業界全体を変えようとしている。  そして、そのためのパートナーとして自分を選んだのだと言う。「佐伯春菜。私と一緒に来い。君の才能を、こんな裏通りでくすぶらせておくつもりはない」 礼司は強い熱を宿して、春菜に迫った。  視線は揺るがずに春菜だけを見つめている。 ただの仕事の申込みではない。  まるで恋をしているような、焦がれているような瞳。 春菜もまた、目を逸らすことができなかった。 翔太に裏切られて全てを失ったあの日から、春菜はずっと逃げ続けてきた。 借金取りの影に怯えながら自分の名前すら隠すようにして、日陰の道を歩いてきた。  けれど今、目の前に立つこの男は、彼女
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77:裏口のスカウト

 ビストロ『シエル』の厨房は、ディナータイムのピークに向けて一気に熱気を帯び始めていた。 コンロの上では真壁シェフがフライパンをリズミカルに振っている音がする。  オリーブオイルとニンニクの香ばしい匂いが立ち上っている。 ホールからは、グラスが触れ合う音や客の弾むような笑い声が絶え間なく聞こえてきた。 春菜が立て直したこの店は、今日も満席。  客たちはみな、真壁の料理を楽しんでいる。 春菜は裏口の鉄扉を半開きにしたまま、目の前に立つ男を警戒と驚きが入り交じった目で見上げていた。 ――御堂ホールディングス社長、御堂礼司。 薄暗い路地裏には全く不釣り合いな、仕立ての良いダークスーツを着こなす長身の男。  薄闇の中でも、彼の美貌と瞳の熱はよく目立った。 彼の口から放たれた「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だ」という言葉が、夜風の中で静かに響いていた。「私の、頭脳と腕……ですか」 春菜がオウム返しに尋ねる。まだ意味がよく理解できない。  彼女の言葉に、礼司は顎を引いて肯定した。「そうだ。君がこれまでやってきたことは、すべてデータとして私の手元にあると言った」「データ、ですか」 ぼんやりとしている春菜に、礼司はもう一度繰り返した。「みやこ食堂での仕込みのモジュール化。限られた人員で回転率を上げるための見事なメニュー再構築だった。赤狸における立ち飲み客と座り客の動線分離もそうだ。客の滞在時間を計算し尽くした見事な采配だ。そしてこのシエルでの、事前決済システムを用いた廃棄ロスの排除。どれもが単なる料理人の域を超えた、実務的で極めて論理的な経営手腕だ」 礼司は淡々とした口調で、春菜がこれまでの店舗で行ってきた改善策を並べ立てた。(すごい。本当に全部筒抜けじゃない) 春菜は内心で戸惑った。 彼女としては、その場その場で店が抱える課題を解決するために、当たり前の工夫をしてきただけだ。特別な魔法を使ったわけではない。  それが大企業の社長か
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78

 礼司は画面を数回タップし、春菜の前に提示する。  そこにはスタイリッシュな店舗の内装パース図や、複雑なシステム構成図が映し出されていた。「先ほども言ったが。君が飲み込むまで、何度でも説明しよう」 タブレットの画面を指で示して見せる。「現在、我が社は社運を賭けて『次世代・飲食店統合AIシステム』を開発中だ。客の予約管理、オンライン決済、需要予測に基づいた食材の自動発注から在庫管理、さらにはダイナミックプライシングまで、店舗運営の裏側をすべてAIが自動化する」「すべて自動化……」 シエルのデリ販売で、春菜は予約決済システムを活用した。 それをもっと高度にした仕組みが、店の業務全体を支援するのだという。「そうだ。料理人は経営の雑務から解放され、料理を作ることだけに集中できる。だが、このシステムを世に出すための、ショーケースとなるプロトタイプ店舗が必要なんだ。システムが完璧でも、提供する料理が凡庸では客は納得しない」 礼司はタブレットの画面を消し、再び春菜の目を捉えた。「だからこそ、君にその店の総料理長を任せたい」「私が……総料理長」「場所は銀座の一等地を押さえてある。最新鋭の厨房設備を用意しよう。メニューの決定権も、厨房の人事権もすべて君に委ねる。君の理想とする店を、好きに作ってくれて構わない」 銀座に自分の店。最新鋭の設備を完備。 現実離れした言葉が春菜の脳裏で踊る。 料理人であれば誰もが飛びつくような、夢のような提案だった。(銀座で、私のお店。スチームコンベクションオーブンも真空包装機も、その他の最新機器も、何でも揃っている厨房……。そこで、私の考えた料理を最高のアシストを受けながら作れるなんて!) 春菜の胸の奥で、料理人としての情熱が熱く燃え上がりそうになった。 みやこ食堂も赤狸もシエルも、やりがいはあった。  けれどやはり自分自身の城を持ち、自分の料理で勝負したいという欲求は、料理人である以上消し去ることはできない。「資金援助と設備投資は、うちのシステム
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79

 春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある) 春菜は奥歯を強く噛み締めた。 今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。 もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。 御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。 話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。 ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない) せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。 春菜は込み上げてくる無念さを飲み込むと、ゆっくりと頭を下げた。「……御堂社長。私を高く評価してくださり、本当にありがとうございます。料理人として、これ以上ないほど光栄なご提案です」「ならば」「ですが、お受けできません」 きっぱりとした拒絶に、礼司の眉がピクリと動いた。「理由はなんだ。報酬に不満があるなら、希望額を言えばいい。初期費用だけでなく、売上に対するインセンティブも弾む用意がある」「お金の問題ではありません。私個人の、極めて個人的な問題です」 春菜は顔を上げて、礼司の目を見返した。 この鋭い目を持つ男に隠し事をしても、すぐに見破られるだろう。 それならば、変な誤解をされる前に正直に話すしかない。「私には、元婚約者から不当に押し付けられた多額の借金があります。彼が自分の店を出す際、私を騙して連帯保証人にし、その後私を店から追い出しました。実家を抵当に入れたけど、払いきれなくて……何千万円という
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80

 言い終えると、春菜は再び深く頭を下げた。(これで終わりだ。せっかくのチャンスだったけれど、今の私の状況じゃどうしようもない) 悔しかった。  翔太の裏切りは、いつまで経っても春菜を縛り付ける。 けれど仕方のないことなのだ。 九条不動産が作った契約書はよくできていて、素人の春菜では太刀打ちできない。 借金の利子が膨らんでいくのを恐れながら、生活費を削って少しずつ返していくしかない。 コンクリートの地面を見つめて、春菜は礼司が踵を返して去っていく足音を待った。 大企業の社長が、わざわざトラブルを抱えた人間を起用する理由はない。 しかし予想に反して、足音はいつまで経っても聞こえなかった。  代わりに聞こえてきたのは、短く鼻を鳴らす音だった。「……ふん」 春菜が恐る恐る顔を上げると、礼司はひどく呆れたような顔で彼女を見下ろしていた。「な、何がおかしいんですか」「いや。君があまりにも悲痛な顔で言うものだから、どれほど致命的な問題かと思えば」 礼司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を素早くタップし始めた。「たかが借金か。……君の価値は、そんなはした金で測れるものではない」「たかがって……何千万円ですよ? しかも、元婚約者のバックには大手の九条不動産がついているんです。彼らの法務部が絡んでいるらしくて、素人の私じゃどうにも……」「額の問題ではない。君が『騙されて不当に押し付けられた』と言ったことが重要だ。それに、不動産屋の法務部程度がなんだというんだ」 礼司はスマートフォンを耳に当て、数秒待ってから口を開いた。「私だ。法務部のトップチームを明日の朝一番で社長室に集めろ。個人の債務トラブルに関する案件だ。……ああ、詐欺的手段による連帯保証契約の解除と、錯誤無効を立証して、債務を本来の持ち主に差し戻す。相手は九条不動産の関連だ。コンプライアンス違反も徹底的に洗え。一切の妥協は許さん」 極めて事務的で指示を出し、礼司は通話を切った。
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