All Chapters of 捨てられ料理人は諦めない: Chapter 31 - Chapter 40

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31:次なる旅立ち

 みやこ食堂の厨房で、春菜はステンレス製のシンクに溜まった泡を水で洗い流した。 蛇口からほとばしる冷水が、長時間の調理で火照った手元を冷やしていく。(ランチタイムのピークは過ぎた。今日の回転率も目標達成ね) みやこ食堂の客席には、昼食を終えて満足げに帰っていった客たちの空き皿が並んでいる。 かつては閑古鳥が鳴いていたこの店も、今では連日満席の繁盛店となっていた。「春菜さん、今日も助かったよ」 背後から足音が近づいてくる。白い割烹着姿の宮本が、ねぎらいの言葉とともにほうじ茶の入った湯呑みを差し出した。 香ばしい茶の香りが、醤油と出汁の匂いが染み付いた厨房に広がる。「ありがとうございます、宮本さん」 春菜はエプロンの紐を解きながら湯呑みを受け取った。温かいお茶を一口飲む。 胃に熱が落ちていく感覚が、仕事終わりの心地よい疲労を際立たせた。 厨房の配置を見直し、メニューを絞り込んだことで、みやこ食堂のオペレーションは完全に安定した。 宮本1人でも、ピーク時の注文を滞りなくさばける仕組みが定着している。 春菜は湯呑みを両手で包み込みながら、宮本に向き直った。「宮本さん。みやこ食堂のシステムはもう完全に回っています。私はそろそろ、お暇しようと思って」 宮本の目が大きく見開かれた。彼の手から布巾が滑り落ちそうになる。「えっ? そんな、まだ春菜さんの力が必要だよ。どうかこれからも、うちで力を貸してくれないか?」 懇願する宮本の声に、春菜は首を横に振った。「いいえ、宮本さんはもう大丈夫です。1人でも十分に店を回せます。私ね、この店でお役に立てて本当に嬉しかったんです。お客さんの笑顔をたくさん見られて、料理人としてのやりがいを再確認できました」 春菜の脳裏に、翔太と梨沙に裏切られ、すべてを奪われた冷たい雨の日の記憶がよぎる。 指先が一瞬冷たくなる感覚を覚えたが、彼女はすぐに過去を意識の外へ追いやった。「それで思ったんです。みやこ食堂以外にも、腕は確かなのに経営のやり方が分か
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「こんなにたくさん、いただけません」 春菜が封筒を返そうとすると、宮本は彼女の手を押し留めた。「いいや、受け取ってくれ。せめてもの気持ちだ。みやこ食堂がこのくらいの金額をポンと払えるようになったのは、春菜さんのおかげで間違いないんだから。胸を張って受け取っていいんだよ」 封筒の紙越しに、宮本の感謝の念が伝わってくる。 春菜は胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。「宮本さん……ありがとうございます」「ああ、次の店でも春菜さんの力を存分に発揮しておいで。でも、うちにも時々は顔を出してくれると嬉しいな。ほら、スマホアプリの使い方の授業も、まだ途中だからね」 照れ笑いを浮かべる宮本に、春菜は満面の笑みで応じた。「はい! また必ず来ますね!」 こうして春菜はみやこ食堂での成功を胸に、新たな戦場を求めて歩き出した。 ◇  夜の繁華街は、ネオンサインの派手な光と行き交う人々の喧騒で溢れていた。 春菜は宮本から受け取った退職金を元手に、当面の生活費を確保した。 もうネットカフェ暮らしではない。古くて小さい部屋だけれど、アパートも借りた。 今は、次のターゲットとなる店舗を探して街を歩いているところだ。(大通りにあるチェーン店は資本力で勝負しているから、私の出番はない。狙うべきは、個人経営で立地は悪くないのに客が入っていない店よ) 焼き鳥の煙とアルコールの匂いが混ざり合う表通りから、一本裏手に入る。 街灯の数が減って薄暗くなった路地裏を進むと、古びた赤提灯が目に入った。 提灯には『大衆酒場・赤狸(あかだぬき)』と筆文字で書かれている。 看板の塗料は剥がれかけ、入り口の引き戸のガラスは長年の油汚れで曇っていた。 時刻は午後8時。居酒屋にとっては一番の書き入れ時であるはずだ。 しかし、ガラス越しに見える店内に客の姿はほとんどない。 春菜は迷いなく引き戸に手をかけた。ガラガラ
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 春菜はカウンターの中央に腰を下ろした。「生ビールと、もつ煮込みをお願いします」「あいよ」 大将がビールサーバーのレバーを引く。  ジョッキに注がれたビールは泡の比率が悪く、グラスの洗浄も甘いのか気泡が内側に張り付いていた。 春菜はビールを一口飲む。(サーバーの洗浄不足ね。ビールの風味が落ちているわ) 続いて提供されたもつ煮込みを箸でつまむ。(味自体は悪くない。下処理もきちんとされている。でも、注文が入ってから小鍋で温め直しているから、提供までに時間がかかりすぎているわ) 春菜の視線は、壁一面に無造作に貼られた短冊メニューに向けられた。  焼き鳥、刺身、揚げ物、炒め物、サラダ、煮物、締めの麺類まで。ざっと数えただけでも100種類近いメニューが壁を埋め尽くしている。 ちょうどその時、奥の座敷に4人組の客が入ってきた。「大将、生4つ。あと唐揚げ、だし巻き卵、豚キムチ、ポテトサラダね」「あいよ、ちょっと待っててくれ」 大将は慌てた様子で厨房を右往左往し始めた。  卵を割り、ボウルでかき混ぜる。同時に隣のコンロでフライパンを熱し、豚肉を炒め始める。さらに奥のフライヤーに火を入れ、冷凍のポテトを解凍する。  女将と2人で、ワタワタと作業している。 2人ですべての調理をこなそうとしているため、動きに無駄が多く、明らかにキャパシティを超えていた。  座敷の客はビールだけを出されたまま、10分以上も料理を待たされている。(これだわ。メニューが多すぎるせいで仕込みが分散し、注文ごとの都度調理が発生している。これでは回転率が落ちるし、大将の体力も持たない。典型的な経営不振のパターンね) 春菜はカウンターの端に、裏紙に手書きされた『アルバイト募集』の貼り紙を見つけた。  時給の記載すらない、切羽詰まった様子が伝わる紙切れだ。 春菜は空になったジョッキをカウンターに置き、大将に向かって声を張った。「大将。私をここで働かせてください!」「えっ?
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「分かりました。メニューの数はそのまま維持しましょう。その代わり、調理のプロセスを根本から変えませんか?」「プロセスを変える? どうやってだ?」 春菜は手元のまな板に、豚ひき肉と大量のニンニク、生姜を用意した。「フレンチには『マザーソース』という考え方があります。基本となる数種類の強力なソースをあらかじめ仕込んでおき、注文が入ってから別の食材と組み合わせることで、数十種類の料理へ瞬時に展開させる技術です。これをこの居酒屋に応用します。……ちょっと食材を借りますね」 春菜は中華鍋に油を熱し、ニンニクと生姜の香りを引き出した後、豚ひき肉を一気に投入した。  強い火力が肉の表面を焼き、脂の甘い匂いが厨房に充満する。(この店の味は、この配分で) そこに赤味噌、醤油、砂糖、酒をブレンドした調味料を流し込んだ。  春菜の舌は確かだ。一度食べた赤狸の料理のソースを、正確に再現していく。  ジュワーッという派手な音とともに、水気が飛んで艶やかな照りが出る。「これが一つ目のソース、『特製・肉味噌ベース』です。大将、味見を」 小皿に取り分けた肉味噌を口に運んだ重雄は、目を丸くした。「こりゃあ……ニンニクが効いてて、味噌のコクが深い。白飯が欲しくなる味だ」「本当に。でもこれ、確かにうちの味よ!」 芳江も驚きながら食べている。「このベースがあれば、注文ごとの味付けは不要です」 春菜は素早く3つのフライパンをコンロに並べた。 1つ目のフライパンで豆腐を温め、肉味噌と鶏ガラスープを加えて水溶き片栗粉でとろみをつける。  2つ目のフライパンでは、ざく切りにした生のキャベツの上に熱々の肉味噌を乗せて、ごま油を回しかける。  3つ目の鍋では出汁でうどんを煮込み、仕上げに肉味噌とネギを乗せた。「麻婆豆腐、肉味噌キャベツ、ピリ辛肉うどん。3品上がりです」 調理開始からわずか3分。湯気を立てる3つの料理がカウンターに並べられた。 重雄と芳江は信じられないといった表情で料理を交互に見つ
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「注文が入ってからの作業は『加熱と組み合わせ』だけになります。お客さんに素早く料理を提供できますよ」 実に合理的な証明を前にして、重雄は感服したように深く頷いた。「分かった。春菜ちゃんの言う通りにやってみよう。わしの腕とこの店のメニュー、あんたのやり方で変えてみてくれ」「はいっ!」 春菜は力強く頷いた。赤狸の改革が、ここから本格的に始まる。 ◇  時は少しさかのぼる。都心の高層オフィスビルにある御堂ホールディングス社長室にて、午前中。 徹底的に無駄を削ぎ落としたガラス張りの空間で、御堂礼司はレザーチェアに深く腰掛けて、手元のタブレット端末を凝視していた。「社長。先日ご指示いただいた下町の『みやこ食堂』のデータ解析結果が出ました。アルゴリズムのエラーや、業者による不正なレビュー操作の痕跡は一切検出されませんでした。すべて実在する顧客からの正当な評価です」 秘書の報告を聞き、礼司は冷徹な切れ長の瞳をわずかに細めた。(不正がないだと? 倒産確率98パーセントと弾き出された老朽店舗が、たった1ヶ月でエリアトップの評価を獲得するなど、市場の法則から外れている) 礼司はタブレットをデスクに置き、立ち上がった。 疑惑は今やはっきりと、疑念へと姿を変えている。このまま放置はできない。「予定を変更する。みやこ食堂へ行く。私の目で直接確認する」「はい」 黒塗りの社用車に乗り込み、礼司は下町へと向かった。 夏の強い日差しがアスファルトを熱し、乾いた土埃の匂いが漂う通りへとたどり着く。 意外に活気のある商店街の外れに、みやこ食堂はあった。 礼司がみやこ食堂の前に到着すると、昼時ということもあり、店の前には作業着姿の男たちやスーツ姿の会社員が行列を作っていた。 礼司は行列に並び、順番を待って店内へ足を踏み入れた。「え、誰、あの人……」 下町の食堂は客層のほとんどが庶民だ。
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(肉が驚くほど柔らかい。事前の筋切りと温度管理が完璧に行われている証拠だ。タレは醤油の角が取れ、生姜の香りが極限まで引き出された状態で乳化している。大衆食堂の味ではない。これは、計算し尽くされた高度な料理理論に基づいた一皿だ) あまりの完成度に、礼司は無言のまま定食を完食した。 昼のピークが過ぎていく。  客足が落ち着いたタイミングを見計らい、礼司は厨房で洗い物をしている店主の宮本に声をかけた。「店主。1つ教えてくれ。この店は以前、経営難に陥っていたはずだ。どうしてここまで劇的にV字回復したんです?」 宮本は手を拭きながら、誇らしげな笑顔を見せた。「そりゃあ、春菜さんのおかげだよ。あの人はわしとこの店の救世主さ」「春菜? それはどういう人物です?」 礼司の問いに、宮本は嬉しそうに答えた。「佐伯春菜っていう、腕利きの料理人で、経営の頭も切れる人だ。メニューの絞り込みから厨房の動線まで、全部彼女が作ってくれたんだよ」 礼司の目に鋭い光が宿る。「その人物と連絡は取れますか? ぜひ直接話がしたい」「はいよ。あんたも店の経営者かい? 彼女に頼れば確実だよ。ええと、スマホの連絡帳に電話番号があるはずなんだが……」 宮本はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出して、画面を不慣れな手つきで操作し始めた。  しかし指先が濡れているためか上手くスワイプできず、カメラアプリや電卓が次々と起動してしまった。「あれ? 連絡帳はどこにいったんだ? おかしいな、春菜さんに教えてもらったのに。すまないね、これだから年寄りは……」 画面をタップするたびに見当違いの画面が開き、宮本は完全に混乱してしまった。 礼司は内心で舌打ちをしつつ、腕時計に視線を落とした。次の会議の時間が迫っている。「こりゃ駄目だ。すまない。春菜さんはまた店に顔を出すと言っていたから、彼女が来たら連絡するように伝えておくよ」 恐縮しきった宮本の言葉に、礼司は感情を隠して短く応じた。「頼みます」 宮本に
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37:ドリンク開発

 赤狸の厨房に、午後6時を告げる壁時計の音が響いた。 ベース仕込みシステムの導入によって、注文を受けてからの大将・重雄の調理時間は劇的に短くなっていた。 春菜は注文を確認しながら、あらかじめ仕込んでおいた特製出汁醤油ベースを小鍋に注ぐ。冷奴にかけるための肉味噌をすくい上げた。 重雄も以前のように慌てることはなく、手際よく注文をさばいていた。(今の所は順調。でも……) しかし春菜の目は、カウンター席に座ったばかりの会社員の2人組に向いていた。 彼らは席についてから、おしぼりで手を拭き、壁のメニュー短冊を見上げている。「はいよ、生2つ!」「ああ、どうも」 重雄がビールをジョッキに注ぎ、彼らの前へ運んだ。 その間、およそ3分。 ビールが手元に届いたが、テーブルの上にはまだ何も食べるものがない。 彼らは手持ち無沙汰そうな様子で、ビールの白い泡を見つめていた。 春菜はビールが届いてから、最初の一品が出るまでの時間に目を留めた。(最初の料理が出るまでに5分以上かかっているわ。これではビールを早く飲み干してしまうか、待つ間に手持ち無沙汰になってしまう。お客様が一番お腹を空かせている瞬間の満足度が、下がってしまうわね。あとはビールサーバーの徹底洗浄。きちんと洗っておけば、泡立ちが違うもの) 春菜は心の中の『改善メモ』に、この点を書き込んだ。 ◇ その日の営業終了後の深夜、片付けを終えた厨房にて。 春菜は大将の重雄と、女将の芳江に向き合った。 芳江は温かいお茶の入った湯呑みを片手に、少し疲れた顔でパイプ椅子に腰掛けている。「大将、芳江さん。ベース仕込みのおかげで、メインの料理が出る時間は早くなりました。でもお客さんが席についてから、最初の一杯と一皿が出るまでの『初速』がまだ遅いです」 重雄は頭の鉢巻を緩めながら、首を傾げた。「初速? ビールはすぐに出してるだろ?」「1
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「あらかじめ作っておくのかい?」「はい。小魚の南蛮漬けや、おからの煮物、季節の野菜の煮浸しなど、冷めても美味しくて、すぐに出せるものです。注文が入ったら、芳江さんがその場で小皿に盛り付けて出すんです。これなら大将の手を煩わせることもありませんし、その場で料理を提供できます」 重雄は腕を組んで考え込んだ。「確かに、それなら俺がコンロを塞がれることもねえな。芳江、やってみるか?」「ええ、私、お客さんと話しながらお皿に盛るくらいなら得意だよ。やってみましょ」 芳江が笑顔で答えた。「あとはビールサーバーの洗浄ですね。これは私がやっておきます」 春菜が手を挙げるが、重雄は首を振った。「いや、何から何まで春菜ちゃんに押し付けるわけにはいかん。それは俺がやるよ。言われてみれば、ビールの泡立ちが今一つだと思っていたところだ。春菜ちゃんはおばんざいのレシピを考えてくれ」「そうですか? では、そうします」 気力を失っていた重雄だが、少しずつ活力を取り戻している。(良かった。この調子で前へ進んでいかないと) 春菜は内心でぐっと拳を握った。 ◇  翌日から、カウンターの上には大きなガラス皿が3つ並んだ。 春菜が午前中に仕込んだナスとシシトウの煮浸し、大豆とひじきの煮物、それにアジの南蛮漬けだ。 午後6時、最初の客である常連の男性が入ってきた。「大将、とりあえず生ね」「はいよ!」 重雄がビールを注ぐのと同時に、芳江がカウンター越しに声をかけた。「木村さん、いらっしゃい。今日はいいアジが入ったから、南蛮漬けを作ったのよ。ビールにぴったりなの。すぐ出せるけど、どう?」 芳江は手際よくトングでアジを小皿に盛り、ビールのジョッキと同時に木村の前に置いた。「おお、早いね。じゃあそれもらうよ」 木村はビールを一口飲み、すぐにアジの南蛮漬けを口に運んだ。「うまい! 酸味がきい
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「やったな。春菜ちゃんの思惑通りだ」 厨房の中で重雄は春菜に向かって小さく目配せをして、満足そうに頷いた。 芳江がお客と楽しそうに会話を交わしながらおばんざいを勧めることで、店内の雰囲気も格段に明るく、温かくなっていた。 ◇  初速の最適化により、赤狸の客数は確実に増え始めた。 けれど春菜は現状に満足していなかった。(客数は増えたけれど、利益率をさらに上げるにはどうすればいいかしら。居酒屋の経営を安定させるには、原価率の低いドリンクの売り上げが鍵になるわ) 春菜は壁のドリンクメニューを眺めた。 生ビール、日本酒、焼酎、臨時のウイスキー、さらには市販のレモンシロップや巨峰シロップを使ったサワー類が並んでいる。 どれも一般的な居酒屋にあるものばかりだ。 価格は一杯500円と安い。利益率は高いものの、客一人あたりの単価を押し上げるほどの魅力はない。(市販のシロップは甘すぎて、2杯、3杯と飲み続けるには向かない。おばんざいやうちの料理に合う、すっきりとしていて、ここでしか飲めないドリンクが必要ね) 春菜はフレンチレストランでの経験を応用することにした。 フレンチではデザートの果物をマリネしたり、ハーブの香りをシロップに移したりする技法が日常的に使われる。 これをサワーのベースに応用するのだ。 赤狸の営業が終わった後のミーティングで、この話をする。「なるほど、サワーねえ。春菜ちゃんが言うなら試す価値はありそうだ。是非やってくれ」 すっかり春菜を信用するようになった大将と芳江は、二つ返事で許可をくれた。 翌朝、春菜は八百屋で大量のレモンと新鮮なローズマリー、ミントを仕入れてきた。 厨房でレモンの皮を丁寧に剥き、果汁を絞る。 苦味が出ないように白い皮の部分は綺麗に取り除いた。 氷砂糖と絞り汁、臨時のハーブの茎を瓶に入れて、じっくりと漬け込んでいく。「春菜ちゃん、それは何を作ってるんだい?」
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「これなら、うちの濃いめの肉味噌料理の後味をきれいに流してくれる。いくらで出すんだ?」「一杯700円です。市販のシロップより原価は数十円高いだけですが、価値はそれ以上あります。メニューには『自家製ハーブレモンサワー』として、少し目立つように書きましょう。季節の果物を使ったサワーも月替わりで出せます」「よし来た。お客を驚かせてやろう」 その夜から、新しいサワーをメニューに加えた。 価格は従来のサワーより高いが、カウンターに置かれたグラスの見栄えが良いこともあり、すぐに注目を集めた。「大将、その綺麗なサワー、こっちにもちょうだい」 隣の席の客が飲んでいるのを見て、若い女性の客が注文した。「うわ、美味しい! レモンの味が濃くて、ハーブの香りがすごくいい。普通の居酒屋のサワーと全然違う」「本当だね。これなら飽きずに飲めるわ。すみません、おかわり!」「自家製なんですね。甘すぎずに美味しい!」 一杯700円のオリジナルサワーが次々と売れていく。利益率は8割を超えていた。「おばんざいに良く合う!」「飲みすぎちゃいそうだな」 客たちは明るく笑い合っている。 客単価は以前より数百円上昇し、店の利益は大幅に向上した。 おばんざいとオリジナルサワーの相乗効果で、赤狸は路地裏の隠れた名店として、少しずつ口コミが広がり始めていた。 ◇  同じ頃、都心の中心部に位置する高級フランス料理店『一ノ瀬』の厨房には、重苦しい空気が漂っていた。 シェフの一ノ瀬翔太は、盛り付け台の前で、仕上がったばかりの鴨のローストを睨みつけていた。(完璧だ。火入れの時間も、ソースの煮詰め具合も、春菜がノートに残していったレシピと寸分違わない。見た目も美しい。これで文句を言われる筋合いはない) 春菜が店を去ってから、翔太は彼女が作成した詳細なレシピを頼りに厨房を回していた。 アシスタントたちへの指示も、レシピの数値をそのまま読み上げるだけだ。
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