All Chapters of 捨てられ料理人は諦めない: Chapter 61 - Chapter 70

82 Chapters

61

「客なんてどうせ、味の違いなんて分かりやしないわ。あの春菜が作った料理だって、ただの自己満足の塊よ。あんな女の料理の腕なんて、最初からこの店には不要だったの。追い出して大正解だったわ」(そうだ。春菜などいらない。いらないはずなんだ) 梨沙の言葉は、翔太の傷ついたプライドに心地よく滑り込んでくる。  翔太はすがるような目で梨沙を見た。「じゃあ、どうするんだ? このままじゃ君の父親……九条社長に愛想を尽かされる」「ふふん、そんなこと、とっくに対策を考えてあるわ」 梨沙はバッグから一通の企画書を取り出して、翔太の前に放り出した。「九条不動産の資金力を使って、大々的なプロモーションを仕掛けるの。今の時代、料理が美味しいから店が流行るんじゃないわ。『流行っている店に行っている自分』というステータスが欲しいだけのバカな客が、世の中の大半なのよ」「プロモーション……?」「ええ。美容系やグルメ系で何十万人もフォロワーがいる、有名なインフルエンサーを大量に動員するわ。この店で食事をしている写真をSNSに一斉に投稿させるの。もちろん、見た目がおしゃれできらびやかな料理の写真を添えてね」 梨沙は企画書の一部分を指し示してみせた。「それを見た若い子や見栄っ張りな大人たちが、こぞって予約を入れるように仕向ける。いわゆるステルスマーケティングってやつよ。西園寺のコラムなんて、ネットの派手な流行の波で一瞬で揉み消してあげるわ」 翔太は企画書に目を落とした。  有名なインフルエンサーたちが何人も名前を連ねている。  九条不動産による広告戦略は緻密に計算されて、失敗の余地はないように見えた。 企画書を読み進めるうち、彼は顔を輝かせた。「……これだ。これなら、あいつの料理なんかなくても、俺のブランド力と九条不動産の力があれば、いくらでも客を呼べる。『一ノ瀬』は、日本一トレンディな高級店として復活できるんだ!」 翔太は先ほどまでの焦燥感を忘れて、傲慢な笑みを取り戻した。  それまでごくわずかに残っていた、料理人としてのプライドが完全に消え
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62:デリ販売スタート

 今日はいよいよ、ビストロレストラン『シエル』でデリ(お惣菜)販売が開始される日だ。 春菜は手書きのポップを丁寧に書き上げ、冷蔵ショーケースのガラスに貼り付けた。 ケースに並ぶ料理は3種類。  どれも『シエル』の定番メニューで、オーナーシェフの真壁が毎日仕込んでいるものである。「これでよし、と」 春菜は確認のため、手書きのポップを小さな声で読み上げた。『パテ・ド・カンパーニュ』「豚の粗挽き肉やレバーに数種類の香辛料を練り込み、型に詰めてじっくりと焼き上げた田舎風パテ。  肉の濃厚な旨味が詰まっており、赤ワインのお供やバゲットに最適です」『鴨のコンフィ』「骨付きの鴨肉を、鴨の脂を使って低温のオーブンで長時間煮込んだ伝統料理。  フライパンで表面を軽く焼くだけで、外はカリッと香ばしく、中はホロホロに崩れる柔らかさに仕上がります」『鶏白レバーのムース』「新鮮な白レバーを丁寧に裏ごしし、バターと生クリームを合わせて極限までなめらかにしたペースト。  トーストしたパンに塗るだけで、高級店の前菜がご家庭で完成します」 料理は食べやすいように小分けにして、パックされている。  量が少ないので価格も低めだった。これなら客も手に取りやすいだろう。「春菜さん。準備はどうだい?」 厨房から真壁が顔を出した。「完了しました。デリの分を追加しましたが、シェフの手間はどうでしたか?」「それほど変わらないよ。メニューは同じで、仕込みの量を増やしただけだから」「良かったです。これで売上が上がれば、利益率を改善できます」 張り切る春菜に、真壁は少し苦笑した。  彼も今の『シエル』の苦境はよく分かっている。春菜の作戦が店の行く先を左右することも。「上手くいくよう祈るよ。じゃあ僕は、続きの作業をしてくるから」「はい。私もランチの販売時間はレジにいますが、他の時間はお手伝いします」 こうして、店頭に設けられた小さなデリコーナー
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「そうだったんですね。この店の料理を是非手軽に試してほしくて、お惣菜の販売を始めたんです。単品からお買い求めいただけますし、お値段もお手頃価格に設定しました。お昼のおかずや、お夕食の一品追加にいかがですか?」「お夕食にねえ……。ええ、じゃあこの鴨のコンフィというのをもらうわ。2つお願い」「ありがとうございます。美味しいお召し上がり方のメモもお入れしておきますね」 主婦は料理の包みを持って、帰っていった。 初日はこの主婦の他、数人の主婦や在宅ワーカーが訪れた。  滑り出しは順調というほどではない。「春菜さん。今日はどうだった?」 厨房でディナーの準備をしながら、真壁が問う。「お客さんは少なかったです。完売に至りませんでした。チラシをポストインしたのは昨日なので、反応が出るまでもう少し時間がかかるかと」「そうか。じゃあ、もうしばらく様子を見てみよう」「シェフの料理は本当に美味しいですから。食べた人はきっと、リピーターになってくれますよ」「ははは。そう願いたいね」 ディナータイムの開始は間もなくだ。 真壁と春菜は予約の客に対応するべく、作業を進めていった。 ◇  その夜のこと。  鴨のコンフィを購入した主婦は、自宅のキッチンでメモの通りに調理を進めていた。 フライパンで皮目を下にして弱火で焼く。  鴨の脂がじわじわと溶け出し、香ばしい匂いがダイニングに広がっていく。「お母さん、なんかすごくいい匂いがする!」 小学生の息子が身を乗り出してくる。 主婦は焼き上がったコンフィを皿に盛り付けて、プチトマトとベビーリーフを添えた。  それだけで、家庭の食卓が高級レストランのようになった。 彼女はSNSアカウントを持っており、食べる前にスマートフォンで写真を何枚か撮影した。「さあ、冷めないうちに食べましょう」 夫と息子と一緒に、主婦も鴨肉にナイフを入れる。
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「SNSで見たんですけど、鴨のコンフィはまだありますか?」「パテ・ド・カンパーニュと、レバーのムースを1つずつください」 翌日以降、女性たちをメインとして客足が増えた。 例の主婦のママ友たちだ。 それだけではない。 SNSの拡散は数日もするとママ友ネットワークの外に出て、さらに広がっていく。 客足は日に日に増え続けた。 数日後には昼休みの時間帯に、ショーケースの前に5、6人の行列ができるまでになった。 用意していた40食分のデリは、販売開始からわずか2時間で完売してしまった。 客足を見込んで多めに用意していたのに、だ。(やったわ。チラシの範囲を広げたのもあるけれど、SNSで拡散されたのが大きい。これもシェフの実力あってのこと。あとは最初の主婦の方に感謝しないとね) 春菜は小さくガッツポーズをした。「春菜さん……。これは一体、どういうことだ」 完売の札を出し終えて戻ってきた春菜に、真壁は信じられないものを見るような目を向けた。「お疲れ様でした、シェフ。今日は昨日よりも早く売り切れましたね」「ああ……。昼のたった数時間で、夜のディナーの売上を超えてしまった。しかも私がやっていることは、夜の仕込みのついでに量を少し増やしただけだ。労働時間は今までとほとんど変わっていないのに」 真壁は手元の計算書を見つめながら、呆然と呟いた。 これまでは、どれだけ身を粉にして働いても赤字から抜け出せなかった。 それが春菜の提案を取り入れただけで、あっさりと黒字に転換してしまったのだ。「春菜さん。君の読みは完璧だった。いや、完璧以上だ」「シェフの料理が素晴らしいからです。一度食べれば、誰もがその美味しさの虜になります。私はただ、それを知ってもらうためのきっかけを作っただけですよ」 春菜が微笑むと、真壁は深く頭を下げた。「ありがとう。君には本当に感謝している。……よし、明日は
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「ご苦労。アラートの設定条件は間違いないな?」「はい。単なる口コミの高評価や予約数の急増ではなく、『慢性的に赤字で推移していた店舗が、新たな収益モデルを導入し、ごく短期間で損益分岐点を突破したケース』をリアルタイムで検知するように設定しています」 礼司はマウスを動かし、テスト用のダミーデータを走らせてアラートが正常に作動することを確認した。 礼司は理解していた。 佐伯春菜という女性は、単に料理の腕が立つだけの料理人ではない。 みやこ食堂の時はメニューのシンプル化による回転率の向上。  赤狸の時は客層の棲み分けと立ち飲みによる空間の最大化。 彼女はその店が抱える非効率な部分を的確に見抜き、論理的なアプローチで経営を根本から立て直す人物なのだ。「彼女は必ずまたどこかの店に現れ、システムを変える。今度こそ、その痕跡を見逃すつもりはない」 礼司は無数のデータが流れる画面を睨みつけた。  今までは後手後手に回って、彼女を取り逃がしてしまった。今度こそ捕まえなければならない。 単なる調査対象の確認ではない。  御堂ホールディングスが構築しようとしている巨大な飲食業界のネットワーク。  その頂点に立たせるべき唯一の才能として、彼女を自分の手元に引き入れる。 春菜への強い執着が、礼司の中で静かに燃え上がっていた。 ◇  一方その頃。  都心の一等地にある高級フレンチ『一ノ瀬』のダイニングは、異様な熱気に包まれていた。 テーブル席には着飾った若い男女が座り、運ばれてきた料理に向けてあちこちでフラッシュが焚かれている。「ちょっと、こっちの角度から撮ってよ」「これすぐアップしよう。ハッシュタグは『一ノ瀬』で」 ダイニングに響き渡るのは、写真の構図やSNSの話題ばかりだ。  料理の味についての感想は、1つも聞こえてこない。 オーナー室では、一ノ瀬翔太と九条梨沙がソファに並んで座り、シャンパングラスを傾けてい
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『一ノ瀬』の厨房では、客席の賑わいと真逆の空気が漂っていた。 下げられてきた皿を受け取ったスーシェフ(料理長の補佐)は、ゴミ箱の前で立ち尽くしていた。 皿の上には、彼らが丹精込めて焼き上げた和牛のローストが、ほぼそのままの状態で残されている。  一口だけかじられた肉の塊を、スーシェフは悔しさに奥歯を噛みながらゴミ箱に捨てた。 厨房のゴミ箱は、高級な食材の残骸であふれかえっていた。 そこに翔太がオーナー室から戻ってくる。「おい、次のオーダーはどうなってる?」「シェフ……」 スーシェフは耐えきれずに口を開いた。「お客様が、料理を全く食べてくれません。写真を撮るだけで残していきます。これじゃあ、僕たちは何のために料理を作っているのか分かりません」 彼の言葉を翔太は鼻で笑った。「何を甘いことを言っているんだ。残して早く帰ってくれた方が回転率が上がって都合がいいだろう」「しかし、食材がもったいないです! 料理を食べていただいてこそのレストランなのに!」 食い下がるスーシェフを、翔太は冷たく睨みつけた。「うるさい。どうせ客は味なんて分からないんだ。だったら、見えない部分の食材の原価を限界まで下げろ。見栄えさえ良ければそれでいいんだ」 その言葉を聞いた瞬間、スーシェフの中で何かが冷え切って崩れ落ちる音がした。 かつて佐伯春菜が副料理長としてこの厨房を仕切っていた頃、彼女は食材への敬意を忘れず、客が皿を空にしてくれることを喜んでいた。  その春菜を追い出して料理への愛を捨てた翔太に、これ以上ついていく理由はなかった。(ああ……もう駄目だな) 営業終了後の深夜、更衣室で私服に着替えた翔太が帰ろうとした時、スーシェフを先頭に、数名の若手スタッフが通路を塞ぐように立ちふさがった。 彼は無言で白い封筒を差し出した。  他のスタッフたちも、次々と封筒を差し出す。 翔太は訝しげな顔で封筒を開けて、眉を寄せた。「……退職届? おい、何の冗談だ」
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67:オンライン化

 ビストロ『シエル』の入り口に設けられた小さな冷蔵ショーケースは、夕暮れ時を迎える前にすでに空っぽになっていた。 最近のデリ販売は完売が続いている。 しかしその好調さは、1つの問題を産んでしまっていた。(今日もしっかり完売したわ。いいことだけど、でも……) 春菜がショーケースのガラスを拭いていると、スーツ姿の女性が足早に近づいてきた。「すみません、鴨のコンフィはもうないんですか? SNSで見て、仕事帰りに寄ってみたんですけど」 女性がショーケースの中を覗き込みながら、残念そうに尋ねてくる。 春菜は頭を下げた。「申し訳ありません。本日の分はすべて完売してしまいまして……」「そうなんですか。パテ・ド・カンパーニュも?」「はい、そちらも昼過ぎには売り切れてしまいました」「うーん、残念。明日は買えるかしら」 女性は肩を落として駅の方向へ歩いていった。 春菜は「完売しました」と書かれた札をショーケースの上に置くと、厨房へと戻った。 ディナーの営業開始まであと1時間。 厨房では、真壁が明日のデリ用の鴨肉を下処理していた。「シェフ、今の方で5人目です。夕方になると、仕事帰りのお客様がデリを買いに来てくださるんですが、いつも売り切れてしまっていて」 春菜がエプロンの紐を結び直しながら報告する。 真壁は手を止めて深く息を吐いた。「そうか。せっかく来てくれたのに、申し訳ないことをしたな。しかし、これ以上仕込みの量を勘で増やすのは危険だ。今日はたまたま売れたとしても、明日も同じように売れる保証はない。売れ残ってしまえば、品質が落ちるし廃棄ロスになる」 真壁の表情には、料理人としての責任感と経営者としての悩みが両方見て取れた。 確かにここしばらくは完売が続いているが、少し前は売れ残る日も珍しくなかった。 今の勢いがいつまで続くか、悩ましいところである。「昼間のデリ販売がうまくいっているのは間
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「はい。レストランポータルサイトに備わっている、『テイクアウトの事前予約・オンライン決済機能』です。これを導入しましょう」 春菜はスマートフォンの画面を真壁に見せた。  そこには、御堂ホールディングスが運営する大手ポータルサイトの店舗管理画面が表示されていた。 ビストロ『シエル』もこのポータルサイトに加入している。  ただ、使いこなせているとは言いがたかった。  ディナーの予約はサイト経由よりも直接の電話が多い。  デリ販売が成功するまでのシエルは、とにかく知名度がなかったのだ。 春菜は続ける。「これまでは、店頭に並べたものを買ってもらう『待ち』の販売でした。これを、お客様のスマートフォンから事前に予約してもらう形式に変えるんです」 真壁は怪訝そうな顔で画面を覗き込んだ。「予約してもらうのはいいが、ドタキャンされたらどうするんだ? 結局ロスになるじゃないか。そういう話は同業者から聞くよ」「そこでオンライン決済が活きます。予約の段階でクレジットカードで代金を支払っていただくんです。そうすれば、ドタキャンのリスクはゼロになります」「なるほど……。お金を先に頂くのか」「はい。そして店側にとっては、最大のメリットがあります。お客様が受け取りに来る前日までに、注文の数量が完全に確定することです」 春菜の言葉に、真壁の目が大きく見開かれた。「作る前に、売上と必要な製造個数が100パーセント確定する。つまり、予約が入った分だけを仕込めばいいということです。余分な食材を仕入れる必要も売れ残って廃棄するリスクも、ゼロになります。完璧なキャッシュフローが完成するんです」「廃棄ロスが、ゼロに……」「それに、お客様にとってもメリットは大きいです。仕事が終わってから店に来ても、確実に商品を受け取ることができます。売り切れでがっかりさせることはもうありません」 言ってから、春菜は「あ、しまった」という顔で付け加えた。「すみません。廃棄ロスゼロではないかもしれません。全てを予約決済にするのではなく、ふらりと立ち寄っ
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 その日の夜、ディナー営業の合間を縫って、春菜はポータルサイトの管理画面からテイクアウト予約の設定を行った。 デリのメニューごとに写真と説明文を登録し、1日に受け付けられる販売数の上限を設定する。「これでよし、と。意外に簡単だったわね。このサイト、よくできているわ」 設定をオンにして公開ボタンを押すと、ほどなくして春菜のスマートフォンの通知が鳴った。『テイクアウトの新規予約が入りました。鴨のコンフィ2個、パテ・ド・カンパーニュ1個』 続いて、また通知が鳴る。『テイクアウトの新規予約が入りました。鶏白レバーのムース1個』 通知は止まらない。予約が入り続けていく。 それだけ『シエル』の料理を望んでいる人がいるのだと、春菜は感じた。「シェフ、すごいペースで予約が入ってきます。明日と明後日の分は、もう上限に達しました」 春菜が報告すると、オーブンの前で肉を焼いていた真壁が驚きの声を上げた。「本当か? まだ公開して数時間だろう」「はい。SNSで話題になっていたので、気になっていた方たちが一斉に予約を入れてくださったんだと思います。これで、明日の仕込みの数が決まりました」 それから数日後。 ビストロ『シエル』のデリ販売は、事前予約メインへと移行した。 夕方、仕事帰りの客が次々と店を訪れる。「予約していた佐藤です」「お待ちしておりました。鴨のコンフィとムースですね。決済は完了しておりますので、こちらをお受け取りいただくだけで大丈夫です。ありがとうございます」 春菜が紙袋を手渡すと、客は嬉しそうに微笑んだ。「これ、ずっと食べてみたかったんです。いつも売り切れだったから、予約できるようになって本当に助かりました」「そう言っていただけて嬉しいです。またのご利用をお待ちしております」 店頭での現金のやり取りがないため、受け渡しも非常にスムーズだった。 ディナーの準備をしながらでも、まったく負担にならない。 真壁は予約のリストを見
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70

 礼司は即座にキーボードを叩く。  別ウィンドウで開いていた、レストランポータルサイトの管理システムを最前面に表示させた。 彼が自社のエンジニアチームに命じて特別に組み込ませていた、独自の監視アルゴリズム。  それが特定の条件を満たすデータ変動を検知したのだ。 画面に表示されたのは、郊外の住宅街にある小さなフレンチ・ビストロのデータだった。  店舗名、『シエル』。 礼司はマウスのホイールを回し、詳細な数値を解析していく。 ディナー営業のみで、席数はわずか12席。客単価は8000円前後だ。 ここ数年のアクセス数と予約状況を見る限り、典型的な一人シェフの赤字店舗だった。  シェフの技術が高いため口コミの評価は悪くないが、立地と営業時間の短さが足枷となり、売上が伸び悩んでいた形跡がある。 けれど1週間前のデータから、その波形が劇的に変化していた。 昼の時間帯のアクセス数が異常なまでの角度で跳ね上がり、SNS経由の流入が急増している。 さらに、数日前からポータルサイトのテイクアウト事前予約・決済機能が有効化されていた。 礼司は予約の履歴を開いた。 鴨のコンフィ、パテ・ド・カンパーニュ。鶏白レバーのムース。  いずれもディナーのメニューで使われている定番の品だ。 公開直後から予約が殺到している。1週間先の上限枠までがあっという間に埋まっていた。「……なるほど。夜のディナーのための仕込み時間を、昼間のデリ販売としてマネタイズしたか。しかも事前予約と決済を導入することで、製造数をコントロールした。食材の廃棄ロスを限りなくゼロに抑え込んでいる」 礼司はモニターの青い光を浴びながら、低く呟いた。『シエル』で行われた手腕は、あまりにも鮮やかだった。 ただ美味しい料理を作るだけではない。  その店が抱える構造的な欠陥を見抜いて、最小限の手間で最大限の利益を生み出すためのシステムを、極めて論理的に構築している。 みやこ食堂でのメニューの単純化しかり、赤狸での客層の棲み分けし
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