Todos los capítulos de 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Capítulo 171 - Capítulo 180

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第171話

その親権に関する協議書を目にした瞬間、澪は心臓が止まりそうになった。頭の中が真っ白になり、しばらく何も考えられなかった。征司もゆっくりと目を伏せ、その書類を見つめたまま、指先でカップの縁をなぞった。「これはいらない」そう言って、征司は澪に目を向けた。「俺たち、子どもはいない。親権の争いもない」それを聞いて、高瀬は事情を察したようで言った。「そういうことでしたか。ご結婚されて七年と伺っていたので、お子さんもいらっしゃるものと思い、念のためこちらも用意しておいたのですが……それなら話が早いですね」あらゆる可能性を考慮しておくのが、弁護士の習性というものだ。通常、離婚する夫婦が揉めるといえば、財産分与と親権争いに尽きる。だが、目の前の二人は少し変わっている。一方は、離婚だというのに泣き喚くことも取り乱すこともなく淡々としている。もう一方は、七年間子供に恵まれなかった妻に対して、現金から不動産、株式に至るまで、驚くほど気前よく譲ろうとしている。何とも不思議な夫婦だろう。澪は顔にこそ出さないものの、しばらくの間、心臓が激しく打ち続けていた。だが、征司の「子どもはいない」という言葉を聞いて、ようやく落ち着きを取り戻した。玲衣のことを森宮家に隠してきたことを、改めてよかったと思った。知られていたら、こんなにすんなり離婚できるはずがない。ただでは済まなかっただろう。「離婚するなら、何のしがらみも残さず、きっぱり終わらせたい。だから、こうした条件は受け入れられない」澪もはっきりと自分の意思を伝えた。先ほど提示された条件では、紗耶が征司の不倫相手だという事実を伏せたうえで、離婚後も森宮家の世間体を守るために協力しなければならない。澪には、こうした条件を受け入れるつもりはない。征司がこちらに視線を向け、澪も逃げずにその視線を受け止めた。彼にも澪の目に宿る強い決意は伝わったはずだ。離婚するという決意も、これ以上征司や森宮家と関わりたくないという決意も、彼は確かに読み取ったはずだ。征司の瞳がわずかに動いた。その表情からは、喜んでいるのか怒っているのか、一切感情が読み取れない。澪も一歩も引くつもりはない。互いに譲らず、重苦しい沈黙が流れたその時、突然ドアが開けられた。「澪と離婚するつもり
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第172話

森宮家ほどの名家の嫁になった以上、そう簡単に縁を切れるものではない。「これは俺と澪の問題です。おばあさん、どうか口を出さないでください」と、征司は少しも慌てる様子を見せない。 その態度がかえって美佐子の怒りをあおった。「黙って見ていられるわけがないでしょう。はっきり言っておくけど、どうしても澪と離婚するというなら、絶対に紗耶を許さない!白石家ごときが、ただで済むと思わないことね!」征司はわずかに眉をひそめたが、何も言わなかった。美佐子は澪の前まで歩み寄った。「澪、うちは本当に申し訳ないことをしたね。でも大丈夫だ。おばあちゃんが必ず澪の味方になるから」だが、澪は首を横に振り、真剣な顔で答えた。「おばあ様、離婚したいのは私の方なんです。もうこれ以上、彼と夫婦としてやっていきたくないのです。悔しいなどとは全く思っていません」それを聞いて、美佐子が言葉を詰まらせた。ソファに座っている征司でさえも澪に視線を向けた。その黒い瞳からは何の感情も読み取れない。それまで黙っていた彰人も意外そうな顔をした。まさか澪の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。むしろ少し、可笑しくさえ感じた。以前、澪がどれほど征司に尽くし、心底惚れ込んでいたかを、彼は嫌というほど見てきた。それが今になって突然、もう未練はないと言い切る。にわかには信じられず、思わず小さく笑い声が漏れた。場違いな笑い声は、ひどく耳障りに響いた。彰人は軽く肩をすくめた。「悪い。どうぞ続けて」澪は彰人に目を向けた。彼は自分の言葉を信じていないことくらい、澪にも分かっている。だが、彼女はもうどう思われようと気にならない。美佐子は何か言いかけたものの、結局、力なくため息をついた。「つらい思いをさせたのは分かってる。でも、私たちのような家では離婚は二人だけの問題ではないの。家にも会社にも、あらゆる面に影響が出る。本当に離婚するっていうなら……」そこで美佐子は少し考え、思い切ったように切り出した。「こうしましょう。もう一つ協議書を作る。征司が紗耶との間に子どもをもうけないことを明記する。その代わり、澪ちゃんには森宮家の跡継ぎを産んでもらうわ」その一言で、部屋の空気は凍りついた。澪は自分の耳を疑った。一方、征司はゆっくりと美佐
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第173話

彰人も、話が思わぬ方向に進んだことに驚き、征司のほうを見た。結局、どうするかを決めるのは征司だ。征司は澪と目が合うと、カップを置き、落ち着いた口調で答えた。「この件は、二人で考える」その言葉に澪は眉をひそめた。いったいどういうつもりだ。離婚する気があるかないか、はっきりしてほしい。美佐子は杖で床を強く叩いた。「ごまかそうとしてもだめよ。あなたももう三十なんだから、絶対に子供を作らなきゃ。男の子でも女の子でもいい、とにかく一人は必要だ。私はあなたと澪の子供しか認めないんだ!」「分かった」征司はそれ以上美佐子を説得しようともせず、あっさりと言った。「じゃあ、そうしよう」澪は呆然として征司を見た。まさか彼が承諾するとは思ってもみなかった。怒りが一気にこみ上げ、問い詰めようと口を開かけたが、美佐子が満足そうにうなずいた。「それなら、二人で話し合いなさい。森宮家としても、澪が損をするようなことにはしないから」美佐子は振り返り、澪の手の甲を軽く叩いた。「たとえ離婚しても、征司との間に子どもがいれば、森宮家は決してあなたを粗末には扱わないわ。あなたにとっても、将来の支えになるはずよ。澪なら、きっと分かってくれるでしょう」澪が口を開く前に、美佐子は手を振って言った。「紗耶を守りたいなら、私の言うとおりにすることね」それは征司に向けられたものだ。美佐子はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。扉が閉まった途端、澪は険しい顔で征司を睨んだ。「言ったでしょう。離婚するなら、きっぱり終わらせたいの。こんな条件、絶対に受け入れないから」夫婦でいることさえやめるのに、どうして今さら彼の子どもを産まなければならないのか。征司は離婚協議書を手に取り、怒りで頬を赤らめる澪を見た。彼女がこの話を強く嫌がっているのは明らかだ。「それなら、お前がおばあさんを説得すればいい」その波一つ立たない淡々とした口調が、かえって澪の神経を逆なでした。澪は言葉に詰まった。森宮家で自分の意見が通るなら、玲衣の親権を奪われることを、ここまで恐れる必要はない。彰人はソファに腰を下ろし、首をかしげながら澪を見た。「これって、昔、お前が喉から手が出るほど欲しがってたことじゃないのか?征司との子どもができれば、離婚しても一生何不自由な
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第174話

澪は契約書を見つめたまま、膝の上で手を握りしめ、鼻で笑った。「紗耶を守るため?」美佐子はすでに腹を決めている。二人がどうしても離婚を押し通したら、子どもをつくらないと、紗耶どころか、白石家までただでは済ませないだろう。結局、征司は紗耶を守ろうとしているだけだ。骨董店まで差し出そうとしているのも、澪のためではない。美佐子から愛する女を守るためだ。征司は答えなかった。否定しないということは、認めているのだろう。澪も最初から彼の返答など期待しておらず、唇を引き結んで言った。「うちのものは取り戻したい。でも、そのためにこれからの人生を差し出すつもりはない。離婚だけは絶対にする」征司の表情はほとんど変わらなかった。彼はしばらくの間、澪の顔を見つめていた。その目に迷いがないと分かった。しばらくライターを指先でもてあそんだあと、彼はようやく口を開いた。「離婚は予定どおりする。ただし、うちの人には内緒にしておいてほしい」そこでようやく、澪は征司の意図を理解した。離婚を引き止めようとしているのではなく、離婚していないふりをするということだ。征司は澪の反応を確かめようともせず、話を続けた。「それから、一年間は再婚しないこと。必要があれば、これまでどおり俺の妻として振る舞ってもらう。受け入れるなら、骨董店はお前に渡す」澪は眉を寄せた。一年間再婚しないこと自体は、難しくない。今の澪にとって大切なのは子育てと仕事だ。そもそも、恋愛や再婚を考える余裕などない。そう考えれば、征司の条件を受け入れても、実際に困ることは何もない。ただ、愛人である紗耶を守るために、彼に協力しなければならない。それだけがどうしても気に入らない。澪はしばらく損得を考えたあと、骨董品店の譲渡契約書に目を通した。その契約書には、征司が提示した条件を受け入れてサインすれば、一年以内に骨董店を澪に譲渡すると記されている。ここで意地を張って拒めば、離婚はさらに難しくなるのだろう。澪は顔も上げず、離婚協議書を手元に引き寄せると、一瞬迷いもなくサインした。その瞬間、征司の目が澪の手元に落ちた。彰人も驚いたように姿勢を正した。澪がサインした。本当に離婚協議書に署名し、離婚に同意したのだ。彰人は目を疑った。まさか澪が、本当に
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第175話

澪は目をそらさず、落ち着いた声ではっきりと言った。広い応接室が水を打ったように静まり返り、高瀬まで、思わず息を呑んだ。森宮社長を面と向かって「汚らわしい」と言い放ったのは、澪が初めてかもしれない。彰人は反射的に征司を見た。澪はもともと言うことがきつい。だが、征司とよりを戻したいのなら、さすがに「汚らわしい」とまで言うはずがない。澪がその言葉を口にした瞬間、征司の目がわずかに細められた。一言も発していないのに、その場の空気は目に見えない緊張感で張り詰めている。澪は、自分の言ったことが間違っているとは微塵も思っていない。むしろ、ずっと前から言ってやりたかった言葉だ。征司はしばらく澪を見つめたあと、不意に口元を緩めた。その表情からは、怒っているのか笑っているのかさえ分からない。「この件はうまくやり過ごせばいい。離婚していないふりをすれば、おばあさんもこれ以上騒ぎ立てることはないだろう。心配しなくていい、無理強いするつもりはないから」澪には、その言葉の裏がすぐに分かった。彼には最初からその気などない。だからこそ、離婚していないふりをして済ませようとしているのだ。それで紗耶を美佐子から守れる。しかも自分は確実に独身になれる。そのうえ、紗耶以外の女に触れる必要もない。そこまで先のことを考え、すべて紗耶のために用意しているとは、何と一途なことか。「分かった」澪はその離婚協議書を指した。「サインして。一部もらっていくから」長いこと話し合っていたが、署名したのは澪だけで、征司はまだ何も書いていない。そう言われて、征司は離婚協議書に目を落とした。長いまつげが目元に影を落とす。征司は表情を変えないままペン軸を指で撫で、澪の署名の隣に、さらさらと自分の名を書き入れた。澪は書き終えたばかりの協議書を征司の手元から抜き取って、立ち上がりながらカバンにしまった。「じゃあ、二週間後に区役所で」それだけ言うと、澪は振り返ることなく出口へ向かった。もう話すことなど何もない。この七年で、言うべきことはすべて言い、泣くだけ泣いた。迷い続けた末に、気持ちはもう決まっている。これですべて終わったのだ。扉が開いて再び閉じる。予想外の展開に、彰人は眉を寄せた。以前の澪なら、何もかも我慢して征司に尽くして
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第176話

賢一の気性を考えれば、どうなるかは目に見えている。午後、映像の編集を終えて、伊織は澪の家にやって来た。ドアを開けるなり、彼女は慌てた様子で尋ねた。「話し合い、どうだった?無理な条件を出されたりしなかった?それとも、よりを戻そうとしたらして?」なにしろ七年も夫婦だったのだから。よりを戻す?澪は離婚の話をしていた時、征司の様子を思い出した。彼は始終、まるでビジネスの交渉でもしているかのような態度だった。ここまで他人行儀な夫婦も、そうはいないだろう。澪は伊織に離婚協議書を見せた。「思ったよりすんなり決まったよ。お互い離婚に異議はないし、私も金持ちになり、玲衣もこれで裕福な家の子供の仲間入りよ。あの子が将来結婚して子どもを育てるお金どころか、何代先まで遊んで暮らせるくらいあるよ」離婚協議書に、庭園付きの豪邸まで澪に譲ると書かれているのを見て、伊織は思わず顔を覆った。「この屋敷、この街でもトップクラスの物件じゃない!現金より、むしろこっちのほうが高いんじゃない?そのうえ森創の株まであるなんて。配当だけで、何代先まで遊んで暮らせるよ!」征司みたいなやり手の経営者とあの森宮家が、離婚する時にあなたにこんなにも甘い汁を吸わせてくれるなんて、ありえるの?」森宮家ほどの名家は、入るのも難しければ、離婚となればなおさらだ。家柄の釣り合う相手でさえ、離婚には大きな代償が伴う。まして澪には、頼れる実家も後ろ盾もない。普通なら、何も持たされずに追い出されてもおかしくない。澪も、それはよく分かっている。だからこそ七年前、時雄は澪に離婚協議書に署名させた。そこに記されていた財産分与は、わずか六千万円だった。森宮家の一日の支出だけでもそれ以上になる。彼らにしてみれば、その程度は端金も同然だ。それが今では……澪は軽く口角を上げた。「征司と紗耶のことが、森宮家にとって表に出せないほどの不祥事だから。従弟の婚約者になるはずだった女と不倫してるなんて、騒ぎになったら困るでしょう?だからこそ口止め料を弾んでくれたのよ。森宮家に非がある以上、私がこれだけ受け取っても、文句は言えないでしょう」もし征司の浮気相手が別の女だったら、澪がこれほど有利な条件で離婚できることはないだろう。よりによって、相手は従弟の婚約者になるは
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第177話

これはまさに腐れ縁というものだろうか。この店には、澪も伊織も何年も前から通っている。よりによって、征司がここで離婚を祝おうとは。「あいつ、離婚祝いまでする気?」伊織は怒りのあまり、かえって笑いがこみ上げてきた。「あなたと別れられて嬉しくてたまらないみたいじゃない!悪いのがあいつらなのに!」彼女は今すぐ殴り込んでこのパーティーをぶち壊してやりたい衝動に駆られた。今日は澪にとって新しい人生の始まりになる日だ。気分転換に食事に来たのに、よりによってこんなことになるなんて。澪はいつもと違う店内の雰囲気を見渡した。あちこちにロマンチックな花が飾られている。これを見れば、パーティーの主催者がどれほど浮かれているかも伝わってきた。そこへ自分が顔を出せば、せっかくの祝いのムードを台なしにしてしまうだろう。「別の店にしよう」飾りつけにかなり手がかかっているのを見て、澪は伊織の肩を軽く叩いた。元夫婦が同じ場所で食事をするなんておかしい。しかも、これから玲衣も来る。こんなことで意地を張っても仕方がない。伊織もそれがわかっているが、怒りはまだ収まらず、征司がいる二階を睨みつけ、店を出て車を取りに向かった。澪は店の前でしばらく待っていて、そろそろ路地を出ようと歩き始めたところで、向こうから肩を並べて歩いて来る征司と紗耶の姿が見えた。話しているのはほとんど紗耶だったが、征司は真剣に耳を傾け、時折わずかに笑みを見せている。その表情には、紗耶への優しささえにじんでいるように見えた。視線に気づいたのか、征司がこちらを向いた。不意に二人の目が合って、彼は足を止めた。紗耶も眉をひそめたが、すぐに表情を和らげた。「偶然ね。でも今日は貸し切りで、ほかのお客さんは入れないみたい。よかったら、一緒にどう?」その誘いは、まるで自分と征司が夫婦で、澪はただの通りすがりの知人にすぎない、と言わんばかりの口ぶりだった。澪の瞳の奥に冷ややかな笑みが浮かんだ。誘ってどうするつもり。征司が離婚を喜ぶ姿を見せつけ、そのうえ紗耶との結婚話まで聞かせるつもりなのか。「結構よ。人の食べ残しには興味がないの。食べたら胸がやけそうだわ。好きなだけ召し上がれば?」澪は淡々とした口調で、ゆっくりと言った。紗耶の顔から笑みが消え
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第178話

「征司、何をするの?」背後から紗耶の声が聞こえ、征司は足を止めて振り返った。車に忘れたバッグを手にした紗耶が、笑顔でこちらに歩いてくるところだった。蓮は紫煙をくゆらせながらニッと笑い、澪のことには触れずに言った。「何でもないよ。ちょっと無駄話をしてただけ」征司は再び、澪とあの女の子の方へと視線を向けたが、そこにはもう誰もいなかった。 先ほど女の子と目が合ったことさえ、錯覚だったかのようだ。征司は気づかれないほどわずかに眉を寄せた。喉の奥に何かが引っかかったような感覚が一瞬よぎったが、それが何かは自分にも分からない。紗耶は、征司が遠くを見つめて考え込んでいることに気づいた。そばまで来ると、彼の袖をそっと引いて言った。「征司?何を見てるの?」征司はそこでようやく我に返り、紗耶の手に目を落とした。「いや、なんでもない。気にするほどのことじゃない」そうだけ言うと、彼は背を向けて店に向かい、紗耶も笑顔でそのあとを追った。今日、店に集まっているのは親しい友人ばかりだ。彰人は蓮の隣に座ていて、先ほど澪が店に来ていたことを初めて聞かされた。「俺たちの集まりなのに、ずいぶん都合よく現れたよな。支配人が貸し切りだって断らなかったら、平然と居座ってたかもな」蓮は肩をすくめ、からかうように言った。彰人はグラスを傾ける手がわずかに止まった。「澪が来たのか?」「ああ。征司を追ってきたんじゃないか?」彰人は黙って眉をひそめた。澪のやつ、いったい何を考えているのだろう。つい先日、離婚の話をしたばかりではないか。あれほどきっぱり別れると言っておきながら、今度は征司の予定を調べて、わざわざここまで来たというのか。まさか離婚も、征司の心を取り戻すための手段だったのか。そう思うと、彰人の口元に薄い笑みが浮かんだ。だが、なぜか気分は晴れなかった。「どうしたの、彰人さん?今日はあまりお元気がなさそうだね」紗耶は気遣うように声をかけた。征司は椅子の背にもたれ、ブランデーをゆっくりと口に運びながら、彰人をちらりと見た。彰人は征司と目を合わせ、グラスを置いた。「何でもない。それより、澪との件はどうなった?研究チームを抜けたって聞いたんだけど」その話になると、紗耶の顔から笑みが少し引いた。「ええ。自分
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第179話

あまりにも突然の質問に、彰人は驚いたが、すぐに首を横に振った。「いない。知之は一人息子だ。結婚もしてないのに、子どもがいるわけないだろ」征司は目を伏せ、グラスの中の氷を見つめた。「なら、穂積家の子か」先ほどの女の子は、おそらく少し前、律樹のせいで危うく事故に遭い、けがをして入院した子だろう。その子のことで、澪は征司に激しく怒ったこともある。蓮には、征司が誰のことを言っているのかすぐに分かり、そこで説明を添えた。「さっき下で、澪と知之が一人の女の子を連れてるのを見たんだ。澪なんて、あの子をまるで自分の子のように可愛がってたぞ。よほど母になりたいんだろうな」「穂積家?」彰人は、若くして当主となった宇一のことを思い浮かべた。「澪が親しいのは伊織くらいだろ。伊織には大学生の弟がいるだけで、あの子は伊織の家の子じゃないはずだ。どうして穂積家の親戚が澪に子どもを預けてるんだ?」彰人は納得できない様子で、もう一度尋ねた。「本当に穂積家の子なのか?」征司は何か考えているように、「ああ」とだけ答えた。以前、病院のナースステーションで確認したとき、あの子の名字は穂積だと聞いている。名前は玲衣だと。つまり、伊織の親戚で間違いない。征司がよその子に関心を示しているのを見て、紗耶は唇を噛み締めながら尋ねた。「征司、どうして急に穂積家の子なんか気にするの?」紗耶の知るかぎり、征司はそれほど子ども好きではない。律樹にさえ、これほど関心を示したことはない。紗耶がそう尋ねると、彰人たちも征司に目を向けた。征司は椅子に背をもたれ、いつもと変わらない表情で答えた。「ふと思っただけだ」紗耶は少し考えて、それもそうかと納得した。さっき下で出くわしたというし、それに澪もその場にいたのなら、きっと澪がその子を使って征司の関心を引こうとしたのだろう。 自分は子どもが欲しいのだと、それとなく伝えるために。その程度の企みなら、紗耶にもすぐに見抜けた。そう考えると、紗耶は無言のまま眉をひそめた。 澪も、ずいぶん恥知らずな真似をするものだ。ー出勤してすぐ、澪はデスクのカレンダーで、離婚届を出す日を丸で囲んだ。久しぶりに、先のことを考えるのが楽しみになった。その一方で、アカリ製薬は心・脳血管疾患治療薬の臨床
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第180話

フェイは今、業界で最も注目を浴びる存在だ。澪がフェイだと知れ渡れば、これまでとは比べものにならないほど世間の関心を集めることになる。そうなれば、澪の過去を探ろうとする者も大勢出てくるだろう。しかし今の澪には玲衣という、絶対に知られてはいけない存在がある。何しろ離婚もまだ正式に成立していないのだから、慎重になった方がいい。そのため当面、澪はアカリ製薬の研究員として表に立つことにした。知之も納得したように頷いた。「それがいい。今さら急ぐ必要もないからな」その後、澪と知之は何度か候補を絞り込み、出資を希望する企業を選別した。午後、澪は臨床試験の進捗を確認するため、再びS総合病院に向かった。病院に着くなり、蓮と鉢合わせた。澪はすぐに目をそらし、そのまま通り過ぎようとした。あからさまに無視され、蓮の顔に気まずさが浮かんだ。まさかここまで嫌われているとは思っていなかった。それでも、今日ここへ来た目的を考えると、このまま帰るわけにもいかない。「蓮、こんなところで何してるんだ?」そこへ、紗耶がゆっくりと下りてきた。律樹は検査で数値に異常が見つかり、入院してしばらく様子を見ることになっている。だから紗耶はここ最近、ほぼ毎日病院に通っている。紗耶のそばには征司もいる。蓮は二人に向けて、困ったように肩をすくめた。「アカリ製薬の資金調達の件、知ってるだろ?」その話を聞いた途端、紗耶は眉をひそめ、信じられないといった顔をした。あのプロジェクトは、どう考えても現実離れしている。もし本当に実現できれば、難易度の高い脳腫瘍手術の問題を、一気に解決することになるだろう。まるで医学界の救世主にでもなるつもりなのか。「投資するつもりか?」征司は一秒足らずで蓮の意図を見透かし、淡々と尋ねた。「俺じゃなくて、じいちゃんだよ。どこからか噂を聞きつけて、絶対に投資しろって何度も念を押してきてね。これから大きく伸びる分野だとか、業界の先駆けになるかもしれないとか言ってさ。俺はそこまで思ってないけど」祖父がなぜあれほど確信しているのか、蓮にはさっぱり分からない。さらに、できるだけ多く投資しろとまで言われた。蓮自身は乗り気ではないが、宗一郎に何度も言われ、仕方なく来たのだ。ところが、来て早々澪に冷たくあしらわれ、わずかにあった
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