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第191話

澪に通話を切られ、聡祐は逆に興味が湧いた。多少気が強いほうが面白い。簡単になびく女では張り合いがない。聡祐は気にした様子もなく、もう一度かけた。蓮は、聡祐が何度も電話をかけていることには気づかず、声を落として彰人に言った。「澪、どうかしてるんじゃないか?征司に見せつけるために、陸原さんと付き合おうとしてるのか?」彰人は顔を曇らせたが、何も言わず、少し離れた場所にいる征司に目を向けた。征司はソファにもたれ、いつもと変わらない冷ややかな表情で、隣にいる紗耶の話に耳を傾けている。澪のことなど、まるで気にしていないように見える。澪は離婚を後悔し、征司の気を引くために、わざと聡祐と付き合おうとしているのだろうか。だからといって、そこまで自分を粗末にする必要があるのだろうか。「征司、止めなくていいの?」征司の隣に座っている紗耶が、声を潜めて尋ねた。そして、困ったように息をついた。「澪、少しやりすぎじゃない?」一応姉なのだから、心配する姿勢を見せておくのも不自然ではない。征司は長い指でグラスの縁をつまみ、軽く揺らした。「止めるって、何を?」澄んだ瞳は静かなままで、何の感情も浮かんでいない。紗耶が何を言っているのかさえ深く考えていないようだ。紗耶は口元に笑みを浮かべ、征司とグラスを合わせた。澪の話はそれ以上を続けなかった。「あとで海辺を散歩しない?二人だけで」一方、聡祐は何度も切られても、諦める様子はない。引き続きビデオ通話をかけながら、隣の誰かとグラスを合わせて酒を飲んでいる。ホテルの部屋では何度切っても鳴り続ける着信音に、澪もとうとう作業の手を止めた。彼女はペンを置き、知之と顔を見合わせてから通話に出た。画面に映ったのは、薄暗いバーの個室で、音楽は騒がしくなく、むしろ落ち着いた雰囲気だ。聡祐は澪が通話に出たことに気づかず、隣の誰かと話し続けている。「陸原さん?」澪が呼びかけたが、聡祐には聞こえないようだ。澪は通話を切ろうとしたその時、聡祐が何気なくスマホを動かし、カメラが偶然向かい側を映した。画面には、並んで座る紗耶と征司の姿が映っている。紗耶は一度こちらへ目を向けて、笑顔で征司の耳元に何かを囁いた。征司もわずかに顔を寄せ、その声を聞いている。二人の間には、周
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第192話

澪の胸の奥には焼けつくような痛みが一気に広がって、喉まで詰まり、ひりつくように痛んだ。彼女自身も驚いている。二人がどれほどこじれていようと、自分は一人の人間だ。誰かに好き勝手扱われるモノではない。征司にも、そこまで軽く扱われるとは思っていなかった。カメラはまだ征司と紗耶のほうを映している。征司の反応ははっきりと見えた。彼はゆっくりと顔を上げただけで、怒った様子も不快そうな様子もない。澪は征司の返事を待たず、通話を切った。眉間を指で揉み、深く息をついた。征司が何を答えるのか、もうどうでもよかった。二人はすでに別々の道を歩いている。征司が何を考えようと、自分には関係のないことだ。知之は澪の隣に座っているため、通話の内容をすべて聞いた。彼は怒りを抑えきれず、勢いよくテーブルを叩いて立ち上がった。「君はあいつらが好き勝手に扱っていいモノじゃない!七年も夫婦だったんだ。離婚するにしても、ほかの男が妻を狙ってると聞いて何も言わないなんて、おかしいだろ。あいつには心ってものがないのか?」知之は本気で腹を立てている。普段は穏やかな顔も、今は怒りで険しくなっている。ほかの男なら、妻に手を出そうとしている聡祐にとっくに警告しただろう。ただ、征司だけは違う。彼の澪への無関心さが、知之にはどうしても許せなかった。澪にも、知之がなぜこれほど怒るか分かっている。知之はいつも自分を実の妹のように大切にしてくれている。だからこそ、澪は申し訳なく思った。自分の惨めな結婚のせいで、周りの人にもこんなふうに心配をかけたりしている。「明日が君の誕生日だってこと、あいつは覚えてるのか?紗耶に夢中で、何もかも忘れてるんだろうな」知之は冷ややかに笑った。妻の誕生日すら覚えていない。それどころか、ほかの男とデートすると聞いても、引き止めようとしない。知之は男でありながら、男そのものが嫌になりそうだ。「それに聡祐も、まともな男じゃない。あんな金、断ってしまえ!」聡祐も、どうせ本気ではなく、遊ぶつもりで澪に近づいたに決まっている。そんな男からの出資など、たとえ六十億円でも知之には必要ない。澪は知之の背中を軽く叩いて慰めた。「大丈夫だよ。私も考えなしに決めたわけじゃないから。明日は契約書を持っていくけど、向こ
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第193話

その言い方、まるで澪が征司に悪いことをしたみたいじゃないか。澪はすっかり食欲をなくし、彰人に冷たく見た。「征司の肩を持つの?ずいぶんいい親友なのね。ご立派なことで」澪と目が合った瞬間、彰人の胸がなぜかざわついた。彼は自分の言い方がまずかったことに気づいた。本当は、聡祐は遊びのつもりだから、本気になる前に手を引けと言いたいだけだ。できれば、聡祐とのデートをきっぱり断るようにと。なのに口から出た言葉は、まるで澪を責めるようなニュアンスになった。澪は一晩中起きていたせいで頭がぼんやりしているうえ、朝から彰人に責められ、もう食事を続ける気にはなれなかった。よほど彰人の恨みを買うようなことでもしたのかと思うほど、何かにつけて彼は絡んでくる。澪はナイフとフォークを置くと、彰人とはそれ以上話さず、席を立った。彰人も反射的に立ち上がり、遠ざかっていく澪の背中を見つめた。自分でもどうかしていると思った。そもそも、澪のことで気を揉む必要などない。なにせ彼女は人の親切心すら分かっていないというのに。彰人は眉間を揉みながら、最近の自分は確かにおかしいと思った。澪は部屋に戻り、少し眠ることにした。すると、聡祐から立て続けにメッセージが届いた。【昨日、ビデオ通話に出ました?履歴では二分半つながっていたことになっていますが】【今夜のレストランを予約しました。八時に待ちます】【メッセージを見たら返事くらいしてください。それがマナーでしょう】【まあ、遅れずに来てくだされば、それで構いません】澪は呆れて画面を見つめた。これ以上しつこくされるのも面倒で、OKのスタンプだけ返してそのまま眠りについた。午後二時を過ぎた頃、喉の痛みで彼女は目が覚めた。起き上がると、大きめのコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。今日はアカリ製薬とのオンライン会議もあった。仕事を終えてからでも、聡祐と出資の話をするには十分間に合う。知之に連絡すると、プールにいるとのことだ。澪は少しためらってから、ノートパソコンを持ってプールに向かった。実は、澪は泳げない。それどころか、水そのものが怖い。征司と結婚する前、森宮家の庭にある広大な池に落ち、溺れかけたことがある。それ以来、水がさらに怖くなった。以前、プール付きのス
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第194話

視界がぼやける中、澪は生きたい一心で、水に飛び込んできたその人に必死にしがみついた。腰に回されたその腕は力強く、びくともしない。その腕に支えられて、澪の体は一気に水面へと押し上げられた。水面から顔を出した途端、澪は大きく息を吸い込んだ。しかし、目の前が真っ暗になり、かつて溺れた時の恐怖がよみがえって、何も考えられず体を震わせている。「澪?」聞き慣れた低い声が耳元で響いた。気づけば、澪は抱きかかえられてプールサイドまで運ばれた。頭が重く、意識もまだはっきりしない。どうにか目を開けると、征司の引き締まった顎が見えた。濡れた黒髪から水滴を落としながら、征司は落ち着いた表情で近くの椅子にあるバスタオルを取り、澪の体を包んだ。澪は肺に強い痛みを感じている。もともと風邪気味だったところへ大量の水を飲んでしまい、全身が熱で燃えるように熱くなっている。手足にも全く力が入らない。征司は澪を抱いたまま、足早にその場を離れた。かなり急いでいるのに、腕は安定していて、澪はほとんど揺れを感じなかった。エレベーターを待っている時、誰かが征司に声をかけるのが聞こえた。「森宮社長?そちらはどなたですか?」聡祐の声だ。だが征司は歩みを止めることなく、手早く彼女の体に掛かっているバスタオルを顔まで引き上げて覆い、そのまま最上階のプレジデンシャルスイートに向かった。澪が今にも吐きそうなのを見て、征司は洗面所のドアを足で蹴り開け、そのまま洗面台の上に座らせた。澪はすぐにバスタオルを振りほどき、洗面台に身をかがめて、飲み込んだ水を吐き出した。胃と肺が焼けるようにヒリヒリとする。征司の前髪からも、まだ絶えず水が滴っている。彼は苦しそうにしている澪を見ながら、何も言わずに手を上げ、彼女の背中を軽くさすった。ようやく呼吸が落ち着いてくると、澪は背中に触れる温かな手のひらを意識し、洗面台に手をついたまま征司を見た。深く静まった黒い瞳からは、何を考えているのかまったく読み取れない。焦りもなければ、心配もない。まるで、たまたま居合わせたから助けただけのようだ。「少しは楽になったか?」白いシャツをびしょ濡れにした征司は、澪を上から下まで静かに見た。澪もひどい有様だ。襟ぐりの広い白の長袖Tシャツは、水に濡れて
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第195話

澪はドンッと彼の胸を押し返した。「触らないで」勢いよく突き放したせいで、澪自身もバランスを崩してよろめいた。征司は澪をじっと見つめ、軽く笑うとと、彼女の抵抗など気にせず、いつものように抱き上げてベッドに向かった。澪が反応する間もなく、ベッドに下ろされた。「スタッフに頼んで薬を用意してもらった。先に飲め」征司も濡れた服を脱ぎ、腰にバスタオルを巻いたまま椅子に腰を下ろすと、薬を澪に差し出す。枕元にはぬるま湯も用意されている。征司の表情は相変わらず冷淡で、まるで見過ごすわけにもいかないから、仕方なく世話をしているように見える。「ありがとう。薬は飲むから、もう行っていい」澪はこれ以上彼と関わりたくなくて、できるだけ穏やかに言った。征司は長い脚を投げ出したまま、淡々と答えた。「ああ。飲んだら行く」その目は、澪が一人になれば薬を飲まないと、見抜いているようだ。澪が薬を嫌っていることを、征司は誰よりもよく分かっている。澪は苛立ちをこらえながら唇を結び、差し出された手から薬を取ると、無表情で水で流し込んだ。薬の苦さなど、今さら何とも思わない。目の前の男には、それ以上につらい思いをさせられてきたのだから。「これでいい?」そう尋ねながら、澪は枕元の目覚まし時計を手に取り、アラームを午後六時半にセットした。征司は澪を見つめた。顔は青白いのに、早く出ていけと言わんばかりの気持ちが、目にはっきりと浮かんでいる。征司は空になったグラスを受け取った。「寝てろ」征司が出ていくのを見送って、澪はようやく息をついた。すぐに布団にくるまって、ただしっかり眠りたいと思った。夜には聡祐と投資の契約について話を詰めなければならないから、どれほど体調が悪くても行くつもりだ。澪はそのまま深い眠りに落ち、昔の夢を見た。何よりも大切にしているブレスレットが、森宮家のあの広い池に投げ捨てられたあの日の夢だった。澪は何も考えず、ブレスレットを拾おうと池に飛び込んだ。石壁に額をぶつけ、息も続かなくなり、このまま死ぬのだと思ったその時――誰かが水に飛び込み、澪に向かって泳いできた。目を覚ましたとき、澪は全身汗びっしょりだった。汗で張りついた髪を無造作にかき上げると、丸みを帯びた額があらわになった。室内に
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第196話

澪は、まさかこんなことになるとは思わなかった。本来なら、知之と一緒にアカリ製薬とのオンライン会議を終わらせてから、そのまま待ち合わせに向かうはずだった。ところが、子どもにぶつかられてプールに落ち、高熱まで出したうえに、風邪薬が効きすぎて、こんな時間まで眠り込んでしまった。澪は頭の中を整理し、もう一度時刻を確認すると、布団をめくった。「スマホ、貸してくれない?」せめて聡祐には連絡を入れなければならない。今からでも会いに行ける。六十億円もの投資の話だ。簡単に諦めるわけにはいかなかった。「駄目だ」征司は澪を静かに見て、容赦なく断った。その理由は澪にもすぐに分かった。夫婦だった頃でさえ、征司は澪にスマホを見せようとしなかった。まして今は、紗耶とあれほど親密な関係にあり、スマホには二人だけのやり取りが山ほどあるはずだ。そんなものを澪に見せるわけがない。澪はすぐに諦めて、枕元の固定電話に目を向けた。「分かった。じゃあ、陸原さんの番号は知ってるでしょう?悪いけど、教えて」今度は征司も断らず、スマホを取り出した。そのとき、着信音が鳴った。征司は発信者の名前を確認すると、澪を一瞥し、その場で電話に出た。「征司?澪と一緒にいるんでしょ?」美佐子の声が聞こえてきた。征司はスピーカーに切り替えた。「ああ、一緒にいるんだ」そう答えながらも、征司は澪から目を離さない。離婚したことを悟られるな、と目で伝えていた。澪は仕方なく声を出した。「おばあ様」美佐子の声がたちまち弾んだ。「ほら、やっぱり一緒にいると思ったわ。今日は澪の誕生日でしょ。征司も少しは気が利くじゃない。仕事を切り上げて、ちゃんと一緒に過ごしてるのね。今は家?それとも外で食事?」そこで澪はようやく、今日が自分の誕生日だったことを思い出した。だが、美佐子は勘違いしている。征司は自分の誕生日なんて覚えていない。二人が一緒にいるのも、たまたま事故があったからだ。「ええ……今は外です。心配しないで、おばあ様」彼女はとにかく早くこの場をやり過ごそうと考えた。「せっかく二人で誕生日を過ごしてるんだから、あとでビデオ通話しましょう。夫婦喧嘩なんて、いつまでも引きずるものじゃないわ。仲直りした姿を見せてくれたら、私も安心だから」澪は
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第197話

テーブルの上にはケーキが用意されている。青いチューリップの花びらがあしらわれ、ろうそくにはまだ火が灯されていない。澪はためらいながら近づいた。「ここまでしなくてもいいんじゃない?」「そんなに長く時間は取らせない。あとでおばあさんにひと言返して、食事をして、ろうそくを吹き消す。それだけだ」征司は手元のスマホから目を上げ、一度だけ澪を見ると、また画面に視線を落とした。美佐子が思い立ったらすぐ動く人だということは、澪もよく知っている。考えなくても分かる。これもすべて美佐子の手配だろう。キャンドルディナーまで完璧に用意されている。ただ、美佐子が自分の好きな花まで知っていることには驚いた。青いチューリップは、澪がいちばん好きな花だ。バラのような情熱的で濃厚なものより、こうした淡く静かな佇まいを好んでいる。 しかし、こんなロマンチックな場を整えてくれたのは、目の前の男ではない。他人が用意したものを借りただけの「気遣い」など、澪には何の価値もない。征司はスマホの相手とのやり取りに夢中になっている。まるで、逐一報告でもしているようだ。仲睦まじくて甘くて、べったりだ。あまりにお似合いで、澪は思わず応援したくなるほどだ。「写真だけ撮って送ればいいんじゃない?」澪は何事もなかったように歩み寄ると、椅子に置かれている青いチューリップの花束をテーブルの端に移し、そのまま席に着いた。手の込んだ包装が施された花束に、二度と目を向けることはなかった。すでに九時を回っており、ずいぶんと遅刻してしまった。それに、スマホまでない。聡祐は連絡がつかないことを、わざと無視されているのだと思っているかもしれない。彼女にしてみれば、とんだとばっちりである。「何か急用でも?」征司はようやくスマホを置き、脇へ追いやられた花束に目をやった。声は落ち着いていた。「プライベートなことだ」澪は即答し、それ以上の説明はしなかった。それが彼女自身のプライバシーであると明確に示し、きっちりと境界線を引いたのだ。征司も、それを追及することはなかった。「九時十三分に花火が上がる。この部屋からなら、いちばんよく見える。時間があるなら、一緒に花火を見て」そう言って、彼は窓の外に広がる夜景に目を向けた。澪は意外に思った。
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第198話

貸し切りにしたレストランからホテルに戻る間、聡祐は澪に何度もビデオ通話をかけた。だが、澪は一度も出なかった。女にすっぽかされるなど、人生で初めてのことだ。これまで、聡祐に近づく女は誰もが機嫌を取り、気に入られようと必死だった。それなのに澪だけは、彼を一時間も待たせたままにしていた。車を降りた聡祐は、見るからに機嫌が悪かった。険しい顔のまま大股で澪の部屋に向かった。彼は、自分が少し優しすぎたのかもしれないと考えた。だから澪にここまで舐められたのかもしれない。今夜こそは、じっくりと距離を縮めようとする紳士的な態度はもうかなぐり捨ててやる。エレベーターを降りたばかりところで、反対側のエレベーターから出てきた紗耶と鉢合わせた。紗耶は深いグリーンのロングドレスをまとっている。ウエストを絞った細身のデザインで、胸元は大きく開いている。歩くたび、深いスリットから脚がちらりとのぞいた。聡祐は何気なく彼女に視線を走らせた。たしかに美しい。だが、男の目を意識した装いであることは明らかだ。今夜は誰かとデートするのだろう。その装いを見ても、彼の中に下心は湧かず、むしろ無意識に「澪がこんな服を着たら……」と想像してしまった。ひとたび芽生えた想像は、たちまち頭の中を埋め尽くした。聡祐は片手で眉間を揉んだ。彼に気づいて、紗耶はにこやかに話しかけた。「陸原さん、今日は澪さんと会う予定でしたよね。今夜、お二人は……」紗耶は聡祐の様子をさりげなく観察した。少なくとも、澪と甘い時間を過ごしたようには見えない。それを確かめると、紗耶はわずかに目を細めた。「ああ。今から会いに行くところだ」聡祐はそれ以上説明しなかった。すっぽかされたなど、わざわざ人に話すようなことではない。紗耶の目が微かに揺れた。「これから澪さんの部屋へ?澪さんが呼んだんですか?」澪はついに……聡祐に心を許したということか?聡祐は足早に歩きながら、短く「ああ」とだけ答えた。紗耶は遠ざかる背中を見つめると、ゆっくりそのあとを追った。――呼び鈴が、次第に激しさを増していく。扉の向こうにいる相手が苛立っているのは明らかだ。澪は翡翠の帯留の入った箱を思わず握り締め、理由もなく胸が騒いだ。今日はあまりにもいろいろなことが重なりす
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第199話

自分は、征司が愛する女とのデートの合間に、ついでに相手をされていただけなのだ。花火でさえ、紗耶と見るために用意されたものを、ついでに譲られただけだ。澪は呆れて笑った。征司はよくここまで手が回るものだ。その見事な時間のやりくりには、拍手を送りたいくらいだ。自分の誕生日を祝うと言っても、美佐子の前で体裁を整えるためだけだ。もし澪が本気にしていたら、きっと途中で置き去りにされるだろう。幸い、最初から何も期待していなかったから、今もさほど心を乱されずに済んでいる。「何をぼんやりしている?」背後から声がした。振り返ると、征司は伏せ気味の目で澪を一瞥し、インターホンのモニターに視線を移した。聡祐は立ち去る気配を見せない。どうやらこのドアが開かない限り、彼は諦めるつもりはないようだ。扉ひとつ隔てた向こうには、聡祐と紗耶がいる。今ここで開ければ、一気に面倒なことになる。少し考えた末、澪は単刀直入に言った。「ちょっと隠れて。しばらく寝室にいて」もうすぐ離婚が成立する今になって、二人の関係が人に知られるような面倒事には巻き込まれたくない。森宮夫人なんて、もう過去のことだ。これから先は、征司と一切関わりたくない澪の口調はあまりにも落ち着いていて、征司が隠れるのは当然だとでも言わんばかりだ。そのせいで征司は、自分が見られては困る浮気相手にでもなったような錯覚を覚えた。征司はしばらく澪を見つめている。その無言の威圧感を澪も感じている。征司ほどプライドの高い男が、こんな扱いに耐えられるはずがない。澪はモニターを指さし、もっともらしく続けた。「外には、あなたが大事にしてる人もいるでしょう。私と一緒にいるところを見られたら、きっと傷つくわよ。あとで機嫌を取るのも大変なんじゃない?それに、もとは従弟の婚約者だった女と付き合っていることを、陸原さんに知られるのも困るんでしょう?」それに、紗耶と征司は今夜、花火を見る約束をしている。これが原因で二人が喧嘩になっても、責任は取らない。征司は、澪が冷静に話す様子を横目で見た。「ずいぶん俺のこと、考えてくれるんだな」征司は感情の読めない口調でそう返したが、澪に言われたとおり寝室へ行く気はないようだ。澪には、彼が何を考えているのか分からなくなってきた。二人
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第200話

澪は征司がまだ外にいるのか帰ったのか、気にしなかった。おそらく、もう出ていったのだろう。紗耶があれほど着飾っているのだから、二人で甘い夜を過ごすつもりに違いない。澪はその後、部屋から一歩も出なかった。もともと体調を崩しているのに、あんな煩わしいことにかまう気力など残っていない。部屋の固定電話から知之に連絡し、誕生日の準備はもうしなくていいと伝えた。今夜は何もせず、ゆっくり休んで体力を取り戻したい。そこで知之は初めて、澪が体調を崩していることを知った。心配する知之をなだめて、スマホをなくして連絡が取れなかったことを聡祐に伝えてほしいと頼んだ。その後、聡祐が部屋を訪ねてくることはなかった。おそらく知之がうまく話をつけたのだろう。これで今夜はようやく静かに休める。澪は心からの喜びを胸に、あの翡翠の帯留の箱を抱きしめて眠りについた。翌朝。目を覚ました澪が寝室を出ると、昨夜の青いチューリップの花束とケーキが、リビングのキッチンカウンターに移されていた。寝室から出れば、すぐに目に入る場所だ。おそらく客室係が片づけたのだろう。まだ必要だと思い、捨てずに置いていったらしい。澪はカウンターに歩み寄ると、チューリップの花びらをそっと撫でた。そして花束を持ち上げ、そのままゴミ箱に放り込んだ。――澪はホテルのプールに行き、責任者に尋ねた。「すみません、昨日プールの清掃をした時、スマホが落ちていませんでしたか?」これほどの高級ホテルなら、館内の管理は徹底されている。衛生面には特に厳しく、プールも毎日清掃しているはずだ。昨日、澪が突き落とされた拍子に、スマホも一緒にプールに落ちた。「申し訳ございません。もしスタッフが拾えば必ず報告することになっております。報告を怠れば処分の対象になりますが、昨日はスマホを拾ったという報告はございませんでした。もしかすると、別の場所でお落としになったのではないでしょうか?」澪は腑に落ちなかった。自分の見間違いとは思えない。スマホがプールに落ちたことは間違いなかった。だが今さら探してもらうとなれば、かなり大ごとになってしまう。しばらく考えた末、澪は諦めることにした。たとえ見つかったとしても、長時間水に浸かっていたのだ。修理に時間と手間をかけるくらいなら、新し
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