All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

幼い玲衣がどうして気づいたのか、澪には分からない。自分では感情を隠すのは得意なほうだと思っていた。それなのに、玲衣には見抜かれてしまった。今すぐ泣き出してしまうほど、悲しみに打ちのめされているわけではない。ただ、胸の奥に押し込めてきたものが多すぎて、もうどうやって吐き出せばいいのか分からなくなった。「そんなことないよ。どうして?」澪は手のひらを軽く握り、いつもよりやわらかく笑った。「玲衣、もうお風呂上がった?」玲衣はこくんとうなずき、小さな頬をスマホの画面にすり寄せた。まるで画面越しに澪をなぐさめようとしているみたいだ。「ママ、悲しい顔しないで。今、話そらしたでしょ。玲衣、ちゃんと分かってるよ。でもいいの。玲衣がママのところに帰ったら、ママのこと、いっぱい幸せにしてあげるから」澪は慌ててスマホを胸元に伏せ、玲衣に見られないよう顔を上げて、こみ上げるものを必死にこらえようとしたが、目元はすぐに熱くなった。このところ、本当にいろいろなことがあった。自分でも強く振る舞えているつもりでいたが、実際はずっと耐えているだけだ。耐える以外に、何もできない。吐き出せないものを抱えたままなら、何もなかった顔でやり過ごすしかない。そうしていなければ、自分を保てない。澪は乱暴に目元を拭い、もう一度笑った。「うん。玲衣、もう少しだけ待ってて。ママ、すぐに玲衣のことを隠さなくていいようにするから」――昨夜遅く、道端に置き去りにされ、三十分以上もタクシーを待つ羽目になった。そのせいか、翌朝にはすっかり風邪を引いた。ただ、澪は昔から薬が苦手だ。幼い頃、先生に生薬の見分け方や味まで無理に叩き込まれたせいで、薬に対して生理的な拒否感がある。数日我慢すればそのうち治るだろうと、澪は薬に頼らずやり過ごすことにした。年内は、アカリ製薬で新しいプロジェクトの方向性を詰めることになっている。年明けから、澪は和漢医学を広めるための計画を本格的に進めていくつもりだ。近年、和漢医学はさまざまな問題を抱え、かつてのような勢いを失いつつある。生薬の品質問題、医師の力量のばらつき、症状を正確に見極めないままの処方、さらには和漢医学を名乗った詐欺まがいの行為まで存在している。そのせいで、世間の評価は極端に分かれてしま
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第32話

征司と一緒に中へ入っていった。若い看護師はまだペチャクチャと喋り続けている。「やだ、あんな二人見せられたら、結婚怖いなんて言ってられませんよね!私、ひとつ分かっちゃいました」澪はすでに手元のファイルへ視線を戻した。「何が?」「イケメンほど、一途なんです!」「……」澪は複雑な思いで、自分より三、四歳年下の彼女をちらりと見やり、思わず口を挟んだ。「男の魅力なんて、所詮は女の想像力が作り出したものよ」しかし、若い看護師は納得しない。「えー、でもさっきのお二人はどう見てもラブラブでしたもん!」「……」それは、澪にも否定できない。法律上の妻である自分でさえ、この盛大な不倫劇には拍手を送るしかない。「澪さん、さっきみたいなイケメンで一途なイイ男って、どうして世の中に出回らないんでしょうね」若い看護師は本気で残念そうにため息をついた。澪はそこでファイルから目を逸らし、ぽん、と彼女の肩を叩いた。「出回るわよ。ちゃんと出回る。一番目は無理でも、三番目、四番目、五番目、六番目ならいくらでもね。男なんて、隙さえあれば女を乗り換えたがる生き物よ。身体を安売りしているだけで、人間性には一文の価値もないわ」若い看護師は黙り込んだ。二番手は? 二番手じゃダメなの? なんでいきなり三番手なの?――と、彼女は思った。澪はこれ以上、この話題を続けるつもりはなかった。しかし若い看護師は心配そうに彼女を見て言った。「澪さん、顔色、すごく悪いですよ。本当にお薬、飲まなくていいんですか?」澪は笑って首を横に振った。「平気よ、もうすぐ治るから」若い看護師もそれ以上は何も言わなかった。午前中いっぱいかけて、澪は漢方事業部のおおよその運営体制を把握した。休憩時間になると、伊織からチャット画面のスクリーンショットが大量に送られてきた。そのすべてが、紗耶に関するものだ。伊織:【征司、紗耶に物件を買ってやったの?もう噂になってるよ!】澪の目元がわずかに揺れた。征司があの家を明け渡すよう迫り、その代わりに五十億円近い金を渡すと言った時点で、気づくべきだったのかもしれない。澪を追い出すために五十億円近い金を惜しまない男だ。紗耶の家くらい、自分で用意してやらないはずがない。澪は送られてきたチャット
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第33話

澪は答えなかった。そんなこと、言わなくても分かる。征司が自分に話しかけるのは、誰にも見られていない時だけだった。人前では他人行儀を貫いている。「薬は?」征司は澪が答えようが答えまいが気にしないらしく、もう一度尋ねた。澪は振り向きもせずに答えた。「飲んだ」「嘘だな」征司の口調は相変わらずだ。澪のことをよく理解しているからこそ口にしただけで、そこに本当の気遣いがあるようには感じられなかった。ただ事実を述べているだけの口調だった。「……」澪はふっと思い出した。結婚したばかりの頃、征司は自分を愛してはいなかった。それでもそれなりの教養と優しさは持ち合わせていた。あの頃、澪は体調を崩しても薬を一切飲もうとせず、布団に潜って眠るばかりだった。動くのも面倒で、一度寝込むと一日や二日、そのまま冬眠でもするように眠り続けた。征司はその頃から、澪がどうしても薬を飲みたがらない性格を知っている。澪に薬を飲ませるために、彼はとてつもなく苦い漢方薬を口に含み、布団から彼女を引っ張り出したことがある。まだ意識がぼんやりしている彼女の口を無理やり開かせ、一口ずつ口移しで飲ませた。その時、二人はまだ結婚して一か月も経っていなかった。あとになって征司は言った。「結婚してひと月で本当に死なれたら、俺が妻を死なせる男みたいに言われるだろう」エレベーターにいる時間がこれほど長く感じられたことはない。まして征司に心配されるような真似をされると、澪は余計に落ち着かない。「ここの病院で処方された、風邪に効く粉薬だ。飲んでみろ」征司は手にしている紙袋を差し出した。中には薬が入っているらしい。彼は軽く腕を伸ばし、それを澪の胸元へ押しつけるように渡してきた。澪は仕方なくそれを受け止めたが、不快そうに眉をひそめた。「結構よ」彼女は意外に思った。離婚を目前にして、征司がまともな人間の心を取り戻すなんて。彼女が拒絶するのを見て、征司はスッと目を細めた。「お前は薬の成分によって合う、合わないがあるだろう。紗耶の弟も症状が似ている。お前なら成分を見れば分かるはずだ。飲んで効き目を確かめてくれれば、お前の風邪にも効くし、向こうの参考にもなる」澪は信じられない思いで顔を上げ、征司を見た。「紗耶の弟に試す薬
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第34話

征司は、まだロックをかけていない澪の新しいスマホを手早く操作した。LINEを立ち上げても、メッセージには目もくれない。そのまま迷いなく、澪の投稿画面を呼び出した。動きはあまりにも速く、澪がスマホを奪い返そうとした時には、もう征司はそれを彼女に返した。前回のように彼女のプライバシーを覗き見るような真似はしなかった。そもそも、興味すら持っていないようだ。ちょうどその時、エレベーターが到着した。征司はひどく顔色を悪くした澪の横をすり抜けていった。すれ違いざま、清涼感のあるモミと沈香の香りがかすかに揺れる。澪は、彼が今いったい何をしたのか分からない。ただ、自分をこれほどまでに軽んじる征司の態度に、胸が締め付けられるような屈辱感を覚えるだけだった。澪は深く息を吸い込んでエレベーターを降りると、物陰に移動して、抱えている袋をいったん置いてから、ようやくスマホを確認した。前回、危うく征司に玲衣の写真を見られそうになって以来、澪は用心するようになっていて、玲衣に関するアルバムはすべて非表示にしてある。澪は迷わず、自分のタイムラインを確認した。しかし、画面を見た瞬間、澪は息をのんだ。スマートフォンを握る手が、小刻みに震えている。一分前。征司が澪の名義で投稿した。【皆さん、憶測はもうやめてください。紗耶は私の実の姉です。夫の征司と私が実家のために用意した物件であり、紗耶個人に買い与えたものではありません。賢明な方なら、根も葉もない噂を信じないはずです】「実の姉」という言葉を目にした瞬間、澪の全身に悪寒が走った。征司は知っている。すべてを知り尽くしている。自分と白石家との確執も、紗耶が自分のすべてを奪い去った張本人であることも。そして、紗耶が正毅の愛人の連れ子として白石家に入り込んできた人間だということも、彼はすべて分かっている。それなのに、彼はただ紗耶の名誉を守るためだけに、こんな投稿をした。征司は、あまりにも残酷だ。澪はすぐにその投稿を削除した。まだ誰の目にも触れていないとしても、骨の髄までまとわりつくような不快感が、彼女から離れなかった。憎んでいる相手を「姉」と呼ばされること。紗耶を潔白な存在に仕立て上げるために、自分の名前を使われること。それは澪にとって何よりも吐き
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第35話

森宮家の前会長も、まさか今になってこんなことになるとは思っていなかっただろう。当時、前会長は森宮家の何人かを連れて海外拠点へ移った。来年には前会長たちも帰国することになっている。その頃にこの件を知ったところで、もうどうにもならないはずだ。澪は、何の躊躇もなくその金を受け取った。向こうから差し出してきたものを、くだらないプライドのために拒む理由などない。ここで変に意地を張って受け取らないほうが、よほど馬鹿らしい。せっかく征司の財布から金を毟り取る機会を得たのだ。彼の心を痛められないまでも、せめて懐くらいは思いきり痛ませてやりたい。これだけの金が入った以上、澪ももう細かく節約するつもりはなく、さっそく新しい物件探しを再開した。住む場所を決めるついでに、今乗っている車も買い替えるつもりだ。過去の自分ときっぱり決別するためだと思えばいい。昼休みを利用して、澪はすぐディーラーへと足を運び、レンジローバーを一台注文した。車内は広々として快適で、仕事にも家族との外出にも使いやすい。ちょうど店に即納できる車があり、そのまま引き渡してもらえることになった。総額は八千万円を少し超え、澪にとって人生で初めての高級車である。ナンバーだけは希望ナンバーに替える手続きを頼んだ。選んだのは澪にとって縁起のいい数字で、運よく抽選に当たった。そのおかげで澪の気分はいくぶん晴れやかになった。新しい車でアカリ製薬へ戻り、エレベーターに乗ろうとしたところで、ちょうど中から出てきた紗耶と鉢合わせた。澪を見た瞬間、紗耶は少し驚いたようで、かすかに眉をひそめた。「ここで何をしているの?」と紗耶が尋ねた。澪は相手を一瞥しただけで、一言も返さずにそのままエレベーターへと乗り込んだ。紗耶は振り返り、閉じたエレベーターの扉を見つめた。澪はきっと面接に来たのだろうと彼女は思う。紗耶は今日、アカリ製薬の研究開発センターに共同研究の提案書を提出しに来た。アカリ製薬の中核を担うチームに入り、将来的には、国家レベルの研究機関とも提携するS総合病院のような一流チームに参画する足がかりにしようと考えているのだ。もし澪が求職目的でここへ来たのだとしたら、紗耶はむしろ安心した。何しろ、澪の経歴といえば看護師くらいのもので、到底お話
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第36話

蓮は大げさに舌を鳴らした。「やれやれ、俺がお邪魔虫になっちゃったってこと?」紗耶は口元を押さえて、くすりと笑った。「もう、何を言ってるの……」その時、スマホがぶるりと震えた。まだ笑みが消えきらないまま画面を見た紗耶は、知之からのLINEの返信に目を留めた。【このたびはお声がけいただき、ありがとうございます。今回は見送らせていただきますが、また機会がございましたら、ぜひ検討させていただきます】紗耶の表情がこわばった。「どうした?」征司は炭酸水を一口飲み、彼女の顔を見て尋ねた。紗耶はスマホをテーブルに伏せ、腑に落ちない様子で言った。「アカリ製薬から断られたの。共同研究の話」「断られた?あそこの上層部、どれだけ見る目がないんだよ」蓮は驚いたように言った。「理由は?」征司が考え込むように尋ねた。紗耶は唇を軽く噛んだ。「何も。とても丁寧な文面だけど」彼女は、いつも通り落ち着いた征司をじっと見つめた。「征司、どうしよう。アカリ製薬との共同研究という実績があれば、私にとって大きな強みになるのに」征司は彼女のグラスに水を注ぎ、なだめるように言った。「大丈夫だ。難しい話じゃない」その一言を聞いた瞬間、紗耶の不安は吹き飛んだ。気品漂う端正な征司の顔立ちを眺めるたび、胸いっぱいに甘いときめきが広がる。征司ならきっと、自分の困りごとを全部片付けてくれると彼女は信じていた。蓮は二人を見て、思わず拍手した。「はいはい、ごちそうさま。目のやり場に困るよ、今から目を潰しても間に合うか?」——澪の仕事は、徐々に軌道に乗りつつある。これからしばらくは、チームに馴染み、仕事の進め方をすり合わせていく時期になる。最近、アカリ製薬にはあちこちから声がかかっていた。K市で隔年開催される和漢医学の大きな催しもその一つである。名の知れた医師たちも大勢集まる。知之は、澪を連れて業界内での顔つなぎをしようと考えているらしい。澪は手に入れたばかりの新しい車を運転してきて、鮮やかなテールスライドで知之の目の前に車を滑り込ませ、ぴたりと止めた。知之は親指を立てた。「派手だな、朝比奈社長」澪は唇の端を上げた。「タダで手に入れたものを使うのって、最高に気持ちがいいわ」降って湧い
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第37話

澪は、征司がこちらへ来るとは思ってもみなかった。まして彼が口を挟んでくるなど、想像すらしていなかった。その一言は、澪のいちばん触れられたくないところを容赦なく刺激した。和漢医学の奥深さは、まさにこういうところにある。出産から何年も経っているというのに、本当に腕のある名医なら、脈に触れただけで見抜いてしまう。知之もまさかこのような事態になるとは予想していなかった。その場は、何とも言えない緊張感に包まれた。複雑な内情など知る由もない医師は遠慮なく言った。「このお嬢さんは、脈から見ても気血がかなり足りておらん。一度大きく体力を消耗し、十分に養生できていないままずるずると引きずっているようだ」征司の視線がゆっくりと下へ落ち、頑なに振り返ろうとしない澪の後頭部に注がれた。彼はわずかに眉をひそめ、感情の読めない声で尋ねた。「何かの間違いではありませんか?」紗耶の胸に、不快感がよぎった。こんなことで、征司が澪のことを気にするなんて。彼女は唇をきゅっと噛み締め、医師へ鋭い視線を向けた。その瞳には不満の色が隠しきれない。適当なことを言っているだけに違いない、と彼女は思う。本当にそこまで分かるものなのか。脈を取っただけで、何もかも見抜けるというのか。そもそも、澪が出産などしているはずがない。澪はきっと子供が産めない体に違いない。でなければ、これだけ長い年月の間に、ニワトリだって卵の一つくらい産んでいるはずだ。澪が不妊なのか、それとも、征司が子どもを望まないのか。紗耶には、どちらの可能性もあるように思えた。征司が重ねて問いかけてくるたびに、澪のこめかみには冷や汗がにじんでいる。この前、あの若い母親から好奇の目を向けられた時とはわけが違い、今ここにいるのは、正真正銘の名医だ。もしも征司が疑いを抱きでもしたら……澪は思わず奥歯を噛みしめた。医師がこれ以上余計なことを口にして、征司に確信を持たれるのが怖い。医師の指はまだ澪の手首に添えられたままだ。彼は不思議そうに澪をちらりと見て、彼女の動揺を脈を通じてありありと感じ取っている。心拍が急激に跳ね上がっている。和漢医学で言えば、これは――恐れによる乱れだ。鋭い光を宿した医師の目がふっと動いた。そして、ゆっくりと言った
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第38話

澪には、用心しておいたほうがいいと紗耶は思う。少し間違えて本音が漏れれば、収拾がつかなくなる。そんな事態だけは避けなければならない。澪は知之がここまで攻撃的に出るとは思っていなかった。彼は真正面から場をひっくり返した。そのおかげで、相手は全員引くに引けなくなった。そこは機転の利く蓮がすぐさま助け舟を出すように話題を変えた。「まあ、よその家の事情なんて、俺たちには関係ないしな。せっかく今日はこんな名医がいるんだ。紗耶も最近、体調がすぐれないって言ってただろ。診てもらえば?」紗耶は一瞬返答に詰まり、無意識に目の前にいる医師へ視線を送り、それから澪を睨みつけた。彼女は唇をきゅっと結び、ようやく口を開いた。「いいえ。私は大丈夫」「本当に診察が必要な方の時間を無駄にしたくありませんし」その言葉の裏にある嫌味を、澪が聞き逃すはずがなかった。要するに、自分を「医師の時間を無駄にする身勝手な人間」だと仕立て上げたいのだろう。澪はそっと手を引き、平然とした様子で立ち上がった。「確かに元気そうですもの。むしろ、隣にいる森宮社長のほうが、診てもらったほうがいいんじゃありませんか?」征司は昔、自分で「自分には子供ができない」と断言していた。ならば、治すべきなのは彼のほうだ。そう言い残し、澪はその場を離れた。征司は去りゆく彼女の背中に、そっけない視線を向けた。澪が何を言わんとしているのか、彼には痛いほど分かっている。しかし、彼はその感情的な当て擦りには取り合わず、腕時計に目を落とした。「もういい。本題に入ろう」その一言で、紗耶の顔にぱっと華やかな高揚感が戻った。「柴崎先生は、今日いらっしゃるの?」彼女が今日、征司に伴われてここへやって来た最大の目的は、和漢医学界の最高峰に君臨する柴崎先生にまみえることだ。もし柴崎先生の弟子になれるなら、どんな企業との提携も思いのままだ。征司は自分のために問題の根本を鮮やかに解決しようとしてくれるのだと彼女は思う。蓮は周囲を見回しながら、なだめるように言った。「会いさえすれば、柴崎先生だって君を気に入るよ。今の君は半ばタレントのようなものだし、知名度もあるし、発信力もある。和漢医学を広めるには、これ以上ない人材だ」紗耶は満足げに口元をほころばせた。蓮
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第39話

その「人の夫にくっついてるお姉さん」という一言には、さすがの蓮も思わず軽く咳払いをした。彼は思わず、澪の姿をまじまじと見つめた。澪は昔もこんなふうに……ブラックユーモアを口にするような性格だっただろうか。紗耶は口元に冷ややかな笑みを浮かべた。嫉妬から出た負け惜しみなど、いちいち相手にする気はなかった。彼女の視線が澪の車に注がれた。「それ、あなたの車?」「盗んだの」相手の質問があまりにも馬鹿げていると感じ、澪はまともに答える気などさらさらなく、ぞんざいに答えた。征司が感情の読めない目で、こちらをちらりと見た。それでも澪は表情一つ変えなかった。まさか、彼の不倫相手を少しからかうくらいで、征司が本気で責めてくるとも思えない。蓮は、今の澪がわざと棘のある態度を取っているのだと分かっていて、紗耶に代わって口を挟んだ。「澪、少しは考えたほうがいい。征司とお揃いみたいなナンバーにするのは、さすがにまずいだろ。それじゃ、外から見たらお前が森宮夫人だと誤解されちゃうじゃないか」お揃いみたいなナンバー?澪は眉をひそめ、蓮が指したほうへ視線を向ける。彼女の車のすぐ近くに、ピカピカの真新しいロールスロイスが停まっている。ナンバープレートを見ると、最初の数桁は自分の車と完全に一致しており、末の数字だけが、一方は「7」、もう一方は「3」となっている。知らない人が見れば、どう見てもわざと揃えた番号に見える。二台並ぶと、なおさら目立つ。しかも、どちらも誰もが知る最上級の高級車だから。それにしても、蓮の「森宮夫人だと誤解されちゃう」という言葉は、あまりにも滑稽だ。自分は正真正銘、籍を入れた本物の妻なのに、何をどう誤解するというのか。紗耶が不機嫌に騒ぎ立てているのは、このことが原因なわけか。「ずいぶん似た番号ね。本当に偶然かしら。随分と手が込んでいること」紗耶は上から目線で澪を値踏みするように見つめた。声の調子は変わらないが、口元だけがわずかに歪んでいる。「わざと揃えたって言いたいわけ?」澪は、ようやく相手の言いたいことを理解した。すると紗耶はふいにまた笑った。「そんなこと言ってないわ。どうしてそんなにムキになって言い訳するの?別に怒ってなんかいないのに」澪は、あまりの馬鹿馬鹿し
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第40話

征司はようやく、遠ざかっていく澪の車から視線を戻した。「送っていく。気にするな」紗耶は眉をひそめ、再び征司の車についたナンバープレートに目をやった。同じ女だからこそ、澪の計算高さが分からないはずがない。このところ、澪はわざと今までと違う言動を見せて、征司の気を引こうとしている。その一方で、こういう目立たないところでは小細工をして、周囲に自分と征司の関係を誤解させようとしている。自分が征司にとってどんな特別な存在なのか、周りに勘繰らせたくてたまらないのだろう。よくもまあ、ここまで図々しく関係をこじつけられるものだ。こんな低次元なことで澪と張り合うなんて、馬鹿馬鹿しい。――澪はアカリ製薬の開発センターに足を運んだ。新薬の開発に加えてスマート医療関連の進捗も追わなければならず、年末までに確認すべき案件が山積みである。開発センターには、黙々と創薬データに向き合う研究者ばかりが集まっており、進んで残業している者も少なくない。番組の企画を担当している伊織は、最近さらに輪をかけて多忙を極めている。そんな彼女がようやく都合をつけ、一緒に夕食を食べようと連絡してきた。澪は伊織のために手料理を振る舞うことにした。料理が得意なわけではなく、いつもレシピ動画を見ながら一品ずつ必死に覚えている状態だ。作る前には、毎回もう一度レシピを確認しなければならない。伊織は呆れたようにため息をついた。「ねえ、玲衣は育ち盛りなんだからさ。いっそ私が預かったほうがよくない?私のほうが絶対うまく育てられると思うんだけど」澪は振り返って彼女を睨んだ。下心が透けて見えすぎている。「料理は普通だけど、栄養食や薬膳を体質に合わせて組み立てるのはかなり得意よ」少なくとも、体を健康そのものに育てることくらいはできる。「玲衣ちゃんはまだ五歳半でしょ!毎日そんなの食べさせたらのぼせちゃうって。やりすぎはだめ!」伊織は本気で玲衣を引き取りたい衝動に駆られている。あのクールで愛くるしいお利口な姿を見れば、誰だって目に入れても痛くないほど可愛く思うはずだ。澪はお腹を抱えて笑った。レシピを探すつもりだったのに、気づけば無意識にSNSのタイムラインを開いていた。そのまま二、三回スクロールするまで、指が止まらなかった。
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