All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

あの頃の澪は、何か至らない点があって征司の友人たちに嫌われてしまったのかもしれないと思い込んでいた。だから、理由を聞いてみたかっただけだった。それがそこまで冷淡な態度であしらわれるとは思いもしなかった。そのせいで、澪は何日も落ち込んだ。それでも征司は何事もなかったように過ごし、彼女の心の機微には最後まで気づかなかった。あるいは――気づいていたのかもしれない。それでも、どうでもよかったのだ。彼女の機嫌を取るために、わざわざ時間を割くのが惜しかったのだろう。結局、澪は、傷ついたのは気のせいだと自分で自分をなだめるしかなかった。そもそも、彼女は幼い頃から誰かに無条件で愛され、大切にされた経験がなかった。だから、人と人との距離とはそういうものなのかもしれないと思った。少し距離があって、時々見落とされる。それくらいが普通なのだと。それどころか、自分が敏感すぎるのだと自分に言い聞かせたりもした。今思えば――澪は画面を閉じた。人は誰でも、あとから振り返ってようやく自分の愚かさに気づく時がある。目が覚めるのが早いか遅いか、それだけの違いだ。愛されていない人間がどれほど心を尽くしたところで、そのすべてが独りよがりな思い込みになってしまう。自分を愛してくれない相手に盲目的にしがみつくのは、ある種の我がままであり、ただの自己満足にすぎない。「玲衣が来たら、しばらくここに住ませる?それとも柴崎先生のところ?」伊織の声で、澪はふっと現実に戻った。野菜を洗いながら少し考える。「まずは先生のところにいるほうが安全かもしれない」森宮家では何が起こるか分からない。万が一のトラブルを避けるためにも、慎重の上にも慎重を期したほうがいい。伊織は大根をひとかじりしながら言った。「私が面倒を見てもいいよ。苗字は穂積だし、表向きは穂積家の子供ってことにしとけば疑われっこないでしょ」玲衣は伊織の従兄の子として扱われている。仮に誰かが深く詮索しようとしても、簡単に見破ることはできないはずだ。澪もそれは悪くないと思った。あの時、念のため手を打っておいて本当によかった。もし朝比奈のままだったら、それこそ自分から正体を明かしているようなものだ。かといって、白石を名乗らせる気など、澪には少しも
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第42話

澪は小さく首を振り、思わず笑った。彼女はもう、恋愛や結婚に対しては何の期待も幻想も抱いていない。宇一が手を差し伸べてくれたことには、心から感謝している。宇一はあの時、澪が不安に思うことも分かっていたから、自ら提案してくれた。どうしても不安なら、あらかじめ契約書を交わしておけばいい。玲衣が六歳になった時、澪が望めば、玲衣の名字をいつでも朝比奈に変えられるようにする、と。母である澪の権利も、不安も、その契約によってきちんと守られる。来年、玲衣が誕生日を迎えれば、すぐにでもその手続きを進めることができる。――仕事の合間に、澪は祖父のいる療養施設へ向かった。そこは最高級の療養施設で、年間の費用は一千四百万円を超える。祖父の朝比奈清(あさひな きよし)は、四十歳を過ぎてから澪の母を授かった。今年で八十九歳になる。意識がはっきりしている時もあれば、ひどく混乱している時もある。清は静かに本を読んでいる。澪がベッドのそばに座ると、彼は物音に気づいて顔を上げ、穏やかな声で尋ねた。「おや、お嬢さん、どなたかな?」また、澪のことが分からなくなっているらしい。澪はそっと微笑んだ。「私のおじいちゃんにそっくりなので、少しだけ、お隣にいてもいいですか?おじいちゃんに会いたくなってしまって」清の表情がふっと柔らかくなった。「いい子だね。ご飯は?よければ一緒にどうだ。俺にも、お嬢さんくらいの孫娘がいてね、みーちゃんといって……」澪はそっと祖父の布団を整えた。澪の幼い頃の呼び名は、みーちゃんだった。祖父は認知症の症状が重くなっても、なお自分の名前だけは決して忘れずにいる。「そうなのですか。でも、ちっとも会いに来ないなんて、薄情な初孫さんですね」清の年老いてなお上品な顔に、すぐ不満そうな色が浮かんだ。「みーちゃんはいい子だよ。誰よりも心の優しい子だ。優しすぎて、誰にでもつけ込まれてしまう。俺が死んで、あの子に後ろ盾がなくなったらどうなるのか、それだけが心配でね」澪は目頭が熱くなるのを覚えた。清の視線がどこか遠くを見るように揺れた。「みーちゃんは嫁に行った。あの子の夫なら、きっと良さを分かってくれるし、生涯守ってくれるだろう」「そうだ、婿は征司というんだ。実に立派な名前で、真っ直ぐな目をし
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第43話

澪は完全に不意を突かれた。何より、征司は終始気だるげな態度を崩さず、切れ長の目で露わになった彼女の肩や首筋を眺め、そのままゆっくりと視線を下へ滑らせていく。タオルに締めつけられ、わずかに谷間の浮いた胸元もその目から逃れられなかった。澪はまだ体を拭ききっていない。天井から降り注ぐ光を受け、肌に残った水滴が真珠のような艶やかな輝きを放っている。すらりと伸びた脚も、嫌でも目を引く。そこに澪の少し呆然とした表情と、無意識に胸元を押さえる仕草が加わり、どこか恥じらうような風情を醸し出している。しかし、澪は恥ずかしい気持ちなど毛頭ない。ただ意表を突かれ、腹を立てているだけだ。「どうして……」なぜ自分の部屋にいるのか問いただすより先に、征司は大股で中へ入ってきた。その視線は、すでに澪から外れている。「いつからついてきてた」感情の読めない、そっけない一言だった。しかし、澪はその一言に別の意味を嗅ぎ取った。「ついてきた?」また自分が尾行したとでも思っているのだろうか。征司は黒革のソファに腰を下ろし、軽く顎を上げて澪を見た。「ここは俺専用のスイートだ」喉に言葉がつかえ、澪は絶句した。またしても美佐子に仕組まれて、征司のもとへ送り込まれたらしい。かといって、美佐子が手配したのだと説明したところで、かえって言い訳がましく聞こえるだけだ。「今すぐ部屋を替えてもらう。それでいいでしょ?」澪はそう言うなり、ソファに置いたスマホを取った。フロントへ電話するつもりだ。征司を追いかけて、自分から部屋まで来たと思われるのはごめんだ。まだ離婚が成立していないとはいえ、こんなことで後ろ指をさされたくはない。征司は動かず、冷ややかな視線で彼女を見つめている。澪は誰もが認めるほどの美人である。身長は百七十二センチ。長い脚に恵まれ、均整の取れた体つきをしている。肌も目が眩むほど白い。以前、肌を重ねたときは、気持ちが高ぶるにつれて肌の奥から淡い紅がにじみ、すぐに恥ずかしそうに目を伏せた。タオル一枚の姿で彼の前をうろつくなど、かつての彼女なら決してあり得ないことだった。しかし、今は違う。征司は煙草に火をつけるでもなく、金属製のライターを指先でもてあそんでいる。一方の澪は、ひどく平然として
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第44話

澪は部屋を替えるのをやめた。征司のほうから出ていったのだから、わざわざ自分が面倒な思いをする必要もない。そのまま一晩を過ごしたが、案の定、征司が再び姿を現すことはなかった。今日のイベントは午前十時から始まる。伊織もこちらへ向かっているところだった。澪は身支度を済ませ、会場の入り口で伊織と合流した。伊織はパソコンを抱えてプレゼン資料の作成に追われている。気晴らしの旅行のはずなのに、結局仕事からは逃れられないらしい。澪は伊織を連れて会場に入り、指定された席に着いた。今日は古美術品や書画の一部が展示され、残りはオークションにかけられることになっている。二人が席に着いて間もなく、一人のスタッフが申し訳なさそうに腰をかがめて近づいてきた。「恐れ入ります。こちらは本日の特別招待客のお席でして、お二人には後方のお席へお移りいただきたいのですが……」伊織は手を止め、顔を上げた。「ここ、六番ですよね?間違えてないと思いますけど」「はい。ただ、こちらの手違いで札を置き間違えてしまいまして……。申し訳ありませんが、お席をお譲りいただけますでしょうか」澪は相手を困らせるつもりはない。スタッフも仕事で言っているだけだ。「分かりました」伊織は不満そうにぶつぶつ言いながら、パソコンを抱えて立ち上がった。「どこのお偉いさんだか知らないけど、ほんっと面倒くさい」澪は特に気に留めていない。どんな世界にも格差はある。それが社会の冷徹な法則なのだと彼女はわかっている。席を移動して腰を下ろした直後、脇の扉のあたりが急に騒がしくなった。オークションハウスの支配人まで出迎えに現れ、会場中の視線が一斉にそちらへ向いた。澪がそちらへ目を向けると、大勢に囲まれた征司と紗耶の姿が見えた。紗耶は征司の腕に手を添え、華やかな笑顔を浮かべている。声をかけてくる人々にも、愛想よく応じている。二人が腰を下ろしたのは、ついさっき澪たちがどかされたばかりの席だ。二人が並んで現れた姿は、誰が見ても恋人同士にしか思えないだろう。紗耶は澪に向けて軽蔑をにじませた視線を投げかけたかと思うと、すぐに笑みをこぼして征司の耳元へ唇を寄せた。人目もはばからずに囁いている姿は、この上なく親密に見えた。征司も静かに耳を傾け、口元にはかすかな笑
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第45話

幸い、伊織は声を潜めていた。彼女の口の悪さがいつか災いを招くのではないかと、澪は気が気でない。征司自身は、女の言葉にいちいち目くじらを立てるような男ではない。しかし、紗耶の耳に入って騒ぎ立てられでもしたら、征司が放っておくはずもない。そうなれば、面倒なことになる。澪はジュースを伊織の口元へ差し出して、少し口を休めるよう促した。伊織はまだ腹の虫が収まらない様子だ。澪が心配しているのは分かっているが、それでも最後に吐き捨てるように言わずにはいられなかった。「そこまで見せつけたいなら、いっそステージにベッドでも持ち込んで、みんなの前でヤればいいじゃない。そのほうがよっぽど盛り上がるでしょ」澪が怒りのあまり体調を崩しはしないかと、彼女は本気で心配している。しかし澪はもうこれくらいのことでは心を乱されなくなった。彼女は再びステージに視線を向けた。紗耶が母親も気に入りそうだと言った花瓶とあって、征司も落とす気満々らしい。惜しげもなく値をつり上げるたび、周囲からは驚嘆の声が上がった。澪は否応なく、征司が紗耶をどれほど甘やかしているか見せつけられることになった。しかも周囲からは羨望の入り交じったひそ声が絶えず聞こえてくる。「森宮社長って、今まで女の噂なんてなかったでしょ?あの紗耶さん、いよいよ本命なんじゃない?」「森宮社長がここまで特別扱いするのは、あの人だけよね。今度どこかで会ったら、ちゃんと挨拶しておいたほうがよさそう」「見て。スマホケースまでお揃いなんじゃない?」澪は思わず二人へ目をやった。偶然なのか、わざとなのか。紗耶のスマホは画面を下にして置かれ、ケースがよく見えるようになっている。征司も仕事の電話がたびたびかかってくるため、手に取るたびにケースが目に入った。征司のような男が、紗耶に合わせてお揃いのアイテムを使うなど、思いもしなかった。以前の征司は、手触りが悪くなるからとケースをつけることすら嫌っていた。先日の車のナンバープレートの件も、まだ記憶に新しい。自分のナンバーとお揃いに見えると知った途端、あからさまに嫌な顔をし、その日のうちに変えてしまった。いつか征司に想いが届くかもしれないと信じていた頃、澪はお揃いの腕時計を贈ったこともあった。あのとき征司は、箱の中をちらりと見
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第46話

「六億円」澪は言い返すこともなく、ただ札を上げた。玲衣に贈るあのお守りを、どうしても手に入れたい。さすがの紗耶も今度は眉をひそめた。六億円ともなれば、この品の相場を大きく上回っている。紗耶は征司を見た。「律樹に贈りたいんだけど、さすがにこの値段だと……」征司は澪から目を離した。「子供への贈り物だろ。値段なんて気にするな」その一言で、紗耶の顔がぱっと明るくなった。澪をちらりと見てから、勝ち誇ったように札を上げた。「十億円!」征司なら、自分が欲しいと言ったものは何でも与えてくれる。紗耶はそう確信している。澪にも、征司がどこまでも紗耶の肩を持つつもりなのだということが、嫌というほど伝わってきた。紗耶に勝たせるつもりなのだ。金で張り合えば、どうしたって勝ち目はない。続けたところで、恥をかくのは自分だ。それくらい、痛いほど分かっている。それでも、紗耶をあまりいい気にさせたくない。征司に思いどおりにされるのも癪だ。勝てないと分かっていながら、澪はもう一度札を上げた。「十六億円」もはや、品を競り落とすためだけの争いではない。会場にいるのは、こういう場に慣れた者ばかりだ。澪がわざと値をつり上げていることなど、誰の目にも明らかだ。紗耶もそれに気づき、その表情は恐ろしいほどに冷え切っていく。「澪さん、いい加減にして。征司が私のためなら惜しまずお金を出してくれるからって、意地になって値をつり上げるなんて迷惑よ」澪は冷ややかに見返した。「自信がないなら、そっちが降りればいいじゃない」伊織は危うく吹き出すところだった。いつも人当たりのいい澪だが、嫌いな相手にはなかなか容赦がない。紗耶は唇を引き結んだ。澪の言葉に腹を立てながらも、内心では迷い始めている。彼女とて、このお守りはせいぜい六億円程度だということは分かっている。これ以上となると——「二十億円」低く冷えた声が張り詰めた空気を断ち切り、誰もが驚きを隠せない様子で前方に目を向けた。澪は胸にずしりと重いものがのしかかるのを感じながら、それまで一言も発していなかった征司に視線を向けた。冷ややかなその顔には、これで終わりだと有無を言わせない迫力がある。紗耶は一瞬目を見開いたが、すぐに喜びを隠しきれ
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第47話

伊織はサッと顔色を変えた。反射的に罵声を浴びせようとしたが、澪の様子をうかがい、かえって彼女を傷つけてしまうのではないかと口をつぐんだ。しかし澪は取り乱さなかった。紗耶の言葉は、根拠のない強がりではない。今日の征司の態度が、何よりの裏付けになっている。何を言えばいいのだろう。認めるのか、言い返すのか、否定するのか、それとも罵るのか。どんな反応をしても惨めになるのは自分だ。澪は伊織を連れ、その場を後にした。二人を見送った蓮は、紗耶のそばへ歩み寄った。「澪も、そろそろいい加減に現実を見てくれるといいんだけどね。自分にふさわしくない場所に居座り続けるなんて、誰も幸せにならない」紗耶は満足げに眉を上げた。少しでも自尊心があるのなら、自分から離婚して、潔く身を引くべきだと彼女は思う。そうすれば、せめて人の幸せを邪魔せずに済む。人の恋を阻むような真似など、誰だって許さないだろう。*伊織は今日の一件で、腹の虫が収まらない様子だ。澪がどれほど無力で、身動きの取れない立場に置かれているのか、嫌というほど思い知らされたからだ。相手が征司ほどの権力者でさえなければ、澪だってこんな理不尽を黙って受け入れたりはしないだろう。しかし現実はそう甘くない。この先のことを考えれば、怒りに任せて動くわけにはいかない。その代償は、あまりにも大きい。「あの泥棒猫の勝ち誇ったような顔!思い出すだけで心臓が止まりそうだ!」先ほどの紗耶の言葉を思い出すだけで、伊織は怒りで頭から湯気を立てるほどだ。もし人を殺すことが罪にならないのなら、今すぐアクセルを全開にしてあいつを轢き殺してやりたいくらいだ。「今さらだけど、どうして私、法学部に行かなかったんだろ。私が権力を握ったら、真っ先に法律を変える」「人の家庭に割り込んで不倫するようなやつは全員逮捕!きっちり罰を受けないから、ああいう連中はどこまでも図に乗るのよ!」今日の一件でさすがに疲れていたが、それでも澪は親指を立て、冗談めかして言う。「市長選に出るなら応援するわ。毎日そんな奴らを並べて、あの世へ送ってちょうだい」伊織は唇を尖らせた。「まったく……よく笑っていられるわね」澪は空を仰いだ。「人生はまだ長いもの。いつまでも苦しいことばかり考えていたら、
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第48話

征司は余計なことを言わず、澪の向かいに腰を下ろした。袖口を飾る深緑の宝石をあしらったカフスボタンを外しながら淡々と告げた。「おばあさんも俺がここに来ていることは知ってる。今夜はここに泊まっておけば、余計な詮索をされずに済む」そのカフスボタンを見た途端、澪は昼間のことを思い出した。紗耶は征司のカフスボタンとお揃いにするつもりで、よく似た色のブレスレットを落札した。澪は目を逸らして、ようやく征司の言っていることを理解した。「つまり、私を隠れ蓑にして、紗耶をかばうつもり?」紗耶を美佐子の目から隠すために、嫌々ながら自分の部屋へ泊まりに来たというわけだ。征司は落ち着いた様子で顔を上げた。澪の冷ややかな皮肉など、まるで耳に入っていないかのようだ。ポケットから、金細工をあしらった木製の小箱を取り出して見せた。「これを取引の条件にしよう。悪い話じゃないだろ」澪の視線がその小箱に注がれた。見間違えるはずもない。これこそ今日、征司が二十億円で競り落とした、あの翡翠のお守りである。紗耶を美佐子から守るための口止め料として持ってきたらしい。美佐子が決して一筋縄ではいかない人間だということは、澪もよく知っている。幾多の修羅場をくぐり抜け、森宮家を取り仕切る立場を守ってきた人間だ。紗耶ひとりを追い詰める方法などいくらでもあるだろう。紗耶では到底太刀打ちできない。征司は、紗耶もここにいることを美佐子に知られたくない。本家に「今夜は澪の部屋で共に過ごしている」と思わせれば、紗耶は完全に身を隠すことができる。「なるほど。口止め料ね」澪の声は驚くほど冷静だ。征司はその言葉には答えず、長い指で小箱を軽く叩いた。「まだ紗耶には渡してない。気にせず受け取ればいい」澪は、自分の考えを見抜かれていたとは思わなかった。それをここまであっさり口にされるとも思っていなかった。しかし、澪にとっても悪い話ではない。どうせ離婚するのだから、いちいち気持ちをすり減らす必要はない。玲衣に贈りたいものが手に入るなら、それで十分だ。「分かった」澪はその箱を手に取って、すぐに自分の部屋に入った。寝室はほかにもある。征司がどこで寝ようと、自分には関係ない。翡翠のお守りを写真に撮って玲衣へ送ると、ようやく気持ちが
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第49話

荒い息遣いを耳にした澪は、すぐに駆け寄った。花壇のそばでは、杖をついた老人が足元をふらつかせながら、どうにか体を支えている。顔は真っ青で、呼吸もひどく乱れ、吐いた跡まである。高齢者は何かしら持病を抱えていることが多い。こうして急に具合を崩したときは、一刻を争うこともある。澪は急いでそばにしゃがみ込んだ。「おじいさん、大丈夫ですか?」意識はぼんやりしているが、老人はかろうじて目を開け、澪の顔を見た。澪はしばらく脈を取り、瞳孔や呼吸の状態も確かめた。おそらく急性胃腸痙攣だろう。元々重度の高血圧を患っているため、それに伴う合併症を引き起こしているようだ。少しでも処置が遅れれば、脳出血を起こし、さらに血栓による脳梗塞につながるおそれもある。澪は老人の体を支えながら、落ち着いた声で話しかけた。「おじいさん、ゆっくり息をしてください。慌てなくていいですよ」彼女は無料診療会のために持参した鍼治療のセットを素早く取り出すと、手際よく消毒を済ませ、迷いのない手つきで正確に鍼を刺した。しばらくすると、老人が大きく息を吸い込んだ。呼吸が少しずつ落ち着き、うつろだった瞳にもしっかりと焦点が合い始める。佐伯宗一郎(さえき そういちろう)は澪を見上げ、申し訳なさそうに笑った。「お嬢さん、ありがとう。服まで汚してしまって、すまないな」ひとまず危険な状態を脱したのを確認し、澪もほっと息をついた。「気にしないでください。ご家族はいらっしゃいますか?お送りしましょうか?」宗一郎は首を横に振った。「もうだいぶ楽になったから、大丈夫だよ。子どもたちに知られたら、大騒ぎになる」とりわけ蓮からは、以前から一人で気晴らしに出歩くことを反対されていて、こんなことがあったと彼に知られたら、今後ますますうるさく言われるに違いない。宗一郎はそう考えている。それでも澪は念を押した。「持病もおありのようですから、やはり一度、詳しい検査を受けることをお勧めします。原因をはっきりさせて、しっかりコントロールしたほうが安心ですから」宗一郎は澪を見れば見るほど気に入ったらしく、優しく笑って何度もうなずいた。「分かった、そうするよ。ところで、お嬢さんはなんていう名前なんだい?」澪が答えようとした、そのときだった。「澪さん、ちょ
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第50話

このリゾートに滞在しているのは、上流階級の人間ばかりだ。人脈を広げるには絶好の機会だと思い、紗耶も無料診療会へ顔を出し、しばらく手伝っていた。この日も何人かの高齢者を診ていたため、蓮から感謝に満ちた目を向けられたとき、紗耶は一瞬驚いたものの、すぐに笑顔を浮かべた。「あの方、蓮のおじいさまだったの?当然のことをしただけよ」まさかこれほど都合よく、佐伯家の当主を診る機会に恵まれるとは思ってもいなかった。これで佐伯家に恩を売れたのだから、紗耶にとっては願ってもない展開だ。「じいちゃんがな、君のことをとても綺麗だと言って、何度も褒めていたよ。必ずしっかりお礼をしなければと言っていた」蓮は目を輝かせながら紗耶を見ていて、宗一郎が話していた女性は、紗耶に違いないと信じ切っている。優しい美人で、無料診療会に参加していた女性。そんな条件に当てはまるのは、紗耶以外に考えられない。祖父が紗耶を自分の相手にどうかと考えていたことまでは、さすがに口にしなかった。紗耶はくすりと笑い、征司を見上げた。「そんなに褒められたら、恥ずかしいわ」蓮は思わず征司の肩を叩いた。「征司、こんな完璧なパートナーがいるなんて、お前は本当に宝くじに当たったようなもんだな」征司はわずかに眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。「そうか?」紗耶は彼の気品ある顔立ちを見つめ、思わず頬を赤らめた。祖父が無事だと分かり、すっかり機嫌をよくしている蓮はその場で言った。「じいちゃんももう心配ないし、今夜の誕生日パーティーは予定どおり開くよ。紗耶には、テレビ局のプロデューサーを何人か紹介する」紗耶は驚いて目を見開いた。どうやら蓮は、祖父を助けてもらった礼に、仕事の面でも力を貸してくれるつもりらしい。しかし……彼女は眉をひそめて、少し考え込んだ。今日診察した高齢者の中で、重篤な状態の患者などいただろうか?蓮の話では、宗一郎は命に関わるほど重い症状だったという。「どうかした?」征司が視線を落とし、紗耶の顔をのぞき込む。蓮も心配そうに視線を向けてきた。紗耶はすぐに考えるのをやめた。多少話が食い違っていたところで、佐伯家が自分を命の恩人だと思っているのなら、黙っていればいい。「何でもないわ。ただ、医者になって本当によか
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