All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

蓮がこれほどまでに自分を後押ししてくれるとは、紗耶にとって予想外の展開だ。しかも、気心の知れた仲間が集まるこの場で、蓮がここまで自分を立ててくれた。これで、自分が征司の特別な相手だということは、皆にも十分伝わったはずだ。紗耶の頬に、思わずうっすらと赤みが浮かぶ。彼女はすぐ隣に座っている征司を見上げた。「征司、蓮さんの悪ノリに付き合わないで。みんな見てるんだから」そのひと言で、周囲はたちまち沸き立った。「腕を組んで飲めよ!」「そうだ、腕を組んで!」「そのままキスもしちゃえ!」あちこちから、冷やかすような歓声が次々と沸き起こる。征司は膝に肘をつき、長い指でグラスをゆっくりと揺らした。「今日の主役は蓮だろ」蓮は征司のグラスに自分のグラスを軽く当てた。「誕生日なんて関係ない。親友が幸せになるほうが大事だろ」今日この場に集まっているのは、プライベートでも親しい仲間ばかりだ。征司が若くして結婚したという噂は、誰もが以前から耳にしている。しかし、目の前の光景に、誰一人として違和感を覚える者はいない。名家同士の結婚なんて、世間体さえ保てていればそれでいい。裏では好きに遊んでいるのが当たり前で、親しい女の一人や二人いることも珍しくない。蓮は部屋の隅へ意味ありげな視線を投げた。祖父の命を救ってくれた紗耶に、蓮は返しきれないほどの恩義を感じている。これを見れば、澪も自分など征司にとって何の意味もないと分かるだろう。それで大人しく身を引いてくれるなら、紗耶にとっても好都合だ。会場はもう誰にも止められないほどの騒ぎになっている。澪は目の前の茶番を嫌でも見せつけられている。人混みに遮られて、もはや征司たちのいるあたりの様子はほとんど見えない。まさか、ここまでの事態になるとは思わなかった。澪は背を向けた。背後では今も歓声がやむ気配はない。この場にふさわしくない人間は、自分一人だ。お酒を一気にあおると、彼女はそのまま出口へ向かった。「澪さん、待って」紗耶が追いかけてきた。振り返ると、紗耶は人混みを抜け、澪の目の前に立っている。二人が腕を組んで酒を飲んだのか、それとも本当にキスまでしたのか、澪には分からない。だが、紗耶の唇の端には、グロスがほんのわずかに滲んでいる。
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第52話

少し離れた場所にいる人たちもその場の異変に気づいた。「紗耶さん、どうして倒れてるの?」「その女、誰?」「まさか、彼女が突き飛ばしたんじゃ……」その声は紗耶にも届いている。彼女は何も説明せず、唇を軽く結んだまま、意味ありげにちらりと澪へ視線を流した。実際は自分が足元をよろめかせただけだった。それでも、周りが勝手にそう思ってくれているのに、わざわざ澪をかばって説明してやる必要などない。澪は冷ややかな目で紗耶を見つめている。明らかに意図的に周囲を誘導している。まるでつまらない恋愛ドラマの悲劇のヒロイン気取りだ。何もないところで、よくもまああんなに都合よく転べるものだ。「澪!いい加減にしろ」蓮は眉をひそめ、すぐにこちらへやって来ると、澪の肩を強く突いた。不意を突かれた澪は後ろへよろめき、腰をテーブルの角にまともにぶつかった。あまりの激痛に、彼女の顔からすっと血の気が引いた。骨まで響くような衝撃に、腰から力が抜け、立っていられなくなりそうだった。そのとき、力強い腕が腰を支えてくれた。顔を上げると、征司の冷えた瞳が真正面から彼女を捉えた。「征司……?」その光景を見て、紗耶が唇を結んだまま、彼の名を呼んだ。征司はほとんど表情を変えずに澪から手を離した。まるで、今触れていたことさえ人に見られたくないとでも言うようだ。彼は澪を冷たく見下ろし、冷えきった声で問い詰めた。「紗耶はなぜ倒れたんだ?」澪は一瞬、彼が親切心から助けてくれたのかと思った。でも違う。彼はただ問い詰めに来ただけだ。危うく感動するところだった。澪は腰の痛みを必死にこらえ、怯えてなどいないと言わんばかりに背筋をまっすぐ伸ばした。「防犯カメラの映像を確認したらどう?」澪の突き放すような態度が、さらに人々の反感を買ったのだろう。周りから一斉に非難の声が上がった。「自分が悪いくせに、なんであんな態度なの?相手は森宮社長でしょ。彼氏でもないんだから、お姫様気取りのわがままが通じるわけないじゃない」「素直に謝れば済む話じゃない。恋人のために話を聞こうとしてるだけなのに、森宮社長の何が悪いの?」「愛に飢えてるの?人が仲よくしてるのがそんなに気に入らないわけ?」悪意に満ちた言葉が、次々に飛んで
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第53話

澪は、自分が大げさに騒いでいるとは思っていない。夫がこの場にいるのに、他の女の肩ばかり持っている。ここで強気に出なければ、とっくに泥沼へ突き落とされていただろう。自分には頼れる者など誰もいない。誰に寄り添うこともできない。たとえ格好悪くあがくことになっても、今の澪にはそうするしかない。澪がここまで強く出るとは、誰も思っていなかったのだろう。紗耶の瞳に一瞬だけ苛立ちがよぎった。澪はもっとおとなしくしていると思っていた。昔の彼女はいつも人の顔色をうかがい、何も主張せず、争いごとを避けていたはずではないか。もし本当に防犯カメラの映像が公開されたら、自分が澪に濡れ衣を着せたように見えてしまう。「澪、もういい加減にしろよ。紗耶はさっき、気にしないって言っただろ。まだ何を騒ぐつもりだ?」蓮からすれば、紗耶はもう十分すぎるほど我慢しているように見える。それなのに、これほど頑なに好意を無駄にするなんて。澪は、紗耶のために真っ先に前へ出る蓮を冷ややかに見つめた。紗耶が征司にとって大切な女だから、皆が彼女を守るのか。それとも、紗耶は生まれながらにして人から好かれ、守られる存在なのか。澪には分からなかった。それに引き換え、自分の無力さばかりが浮き彫りになる。鼻の奥がつんとした。いくら強がっても、自分だってまだ二十六歳だ。こんな理不尽な目に遭って、皆から責められて、何も感じずにいられるほど強くはない。「だから言ってるでしょ。防犯カメラを確認して」澪は噛み締めるように繰り返した。 そこでようやく紗耶の表情が変わった。万が一映像が明るみに出れば、周囲は自分をどんな目で見るだろうか。彼女は思わず、ずっと沈黙を保っている征司へと視線を向けた。彼は澪のすぐ隣に立っている。紗耶の位置から見ると、まるで征司が澪と同じ側に立っているように見えた。それが紗耶の胸をざわつかせ、彼女は眉をひそめた。「征司」彼を自分の側へ引き戻したい。この場を収められるのは征司しかいないと彼女はわかっている。澪もまた冷ややかな視線を征司へと向けた。征司は冷たい目で澪を見つめ、数秒の沈黙のあと、淡々と口を開いた。「もういい」短いひと言だった。しかしそれは、この件を強引に終わらせるには十分
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第54話

「澪さん」だなんて、なんて他人行儀で冷ややかな呼び方だろう。紗耶はひどく満足した。征司の腕をさらに強く抱きしめると、口角を上げて澪に笑いかけた。「征司、女性にそんなに冷たくしないで。傷ついてしまうわ」蓮が小さく笑った。「君と一緒にすんなよ。征司の前で特別扱いされる人間なんて、そうそういるわけないだろ」紗耶の意図も、蓮の皮肉も、そして征司が自分をこの場から「追い出そう」としていることも、澪には痛いほど分かっている。おそらく、自分が人々の前で紗耶の正体をぶちまけるのを恐れているのだろう。しかしそれは考えすぎだ。離婚協議書が正式に成立するまで、澪は感情に任せて愚かな真似をするつもりなど毛頭ない。彼女はそれ以上何も言わず、背を向けて外へ歩き出した。背中に刺さる視線には、どれも嘲りが混じっているようだ。きっと誰もが、自分のことを無様に敗北したピエロのように見ているのだろう。澪はすぐに自分の部屋へ戻る気にはなれない。行くあてもなく、リゾート内にある大きな湖の周りを歩いた。腰の痛みはまだ消えない。まるで、さっき何があったのかを何度も思い出させてくるようだ。山の中の気温は、室内より七、八度は低い。果てしなく続く山々は白く霞み、冷たい月明かりが静かに降り注いでいる。澪は、自分がひどくつらいとは思っていない。ただ、どうしようもない孤独だけが全身を包み込んでいる。格差や劣等感は、自分の頭の中だけで生まれるものではない。他人と比べることで、否応なく意識させられるものだ。世の中には、欲しいものを何の苦労もなく手に入れられる人間がいる。澪はその残酷な現実を突きつけられた気がした。冷えきって赤くなった鼻をすすり、涙すら浮かんでいない目元をそっと指でぬぐった。大丈夫。誰かが与えてくれるのをただ待ち続け、しかも相手の気分次第でいつでも奪い返されるような温もりなど、最初から欲しくはない。欲しいものは、自分の手でつかめばいい。遅かれ早かれ、必ずそうしてみせる。澪は湖の周りを三十分ほど歩き続けた。ようやく気持ちが落ち着いてから、ホテルへ戻った。ホテルのすぐそばにある公園までたどり着いた時のことだ。月明かりの下に、見覚えのあるすらりとした後ろ姿が佇んでいるのが目に留まった。征司の容
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第55話

澪は、冷酷なまでに冷えきった征司の目を見つめている。肩にかけられた上着は暖かいはずなのに、骨の奥まで冷えていくようだ。「紗耶の盾になれって言ってるの?あなたと仲のいい夫婦を演じて」自分が森宮家へ帰れば、美佐子が紗耶を責めることはなくなる。そういうことなのだろう。征司は否定しなかった。「お前が前から望んでいる家族の円満だろ。理由が何であれ、穏やかに済むならそれでいいんじゃないのか」「私は、二人の恋を後押しするための踏み台でも、道具でもない。行くつもりはない」澪は努めて冷静な口調を保ちながら、肩にかけられたコートを剥ぎ取るようにして征司の手に投げ返した。そして、そのまま振り返ることもなく中へ入った。彼の紗耶を守りたいという身勝手な想いのために、自分が犠牲になるなど真っ平御免だ。征司は遠ざかっていく澪の背中を見送った。以前に比べて、澪はずいぶん気が強くなった。こんなふうに真っ向から歯向かってきたのは、これが初めてだったかもしれない。しかし、征司はそれほど気にしなかった。どうせ、澪は帰ってくる。彼はそう確信している。*翌朝早く、澪は市内へ戻った。あの玉のお守りは、その日のうちに玲衣のところに郵送した。征司から法外な値を引き出して手に入れたものだと思うと、胸がすっとした。森宮家の食事会については、やはり行くつもりはない。美佐子は、澪が征司と離婚することを知っているから、今さら芝居をしに行く必要などない。征司が紗耶を美佐子に責められたくないのなら、それは征司の問題で、自分でどうにかすればいい。ぶつけた直後は、ただ腰が痛むだけだったが、時間がたつにつれ、その痛みはじわじわと広がっていった。仕方なく、澪は家で一日休むことにした。翌日、澪はまたS総合病院に行った。アカリ製薬の開発センターは、ここ最近多忙を極めていた。病院側もアカリ製薬との連携を強化し、特効薬の共同開発を推し進めたい考えだ。澪にとっても、それは悪い話ではない。S総合病院は、国内でも一部のトップクラスの大病院を除けば、最先端の設備を持つ私立病院だ。研究で成果が出れば、S総合病院の知名度が、その薬にとって何よりの宣伝になる。午後。澪はデータをまとめ終え、アカリ製薬へ戻ろうとした。仲のいい数
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第56話

澪は表情ひとつ変えずに引き出しを閉め、平然と振り返った。そこに立っていたのは、美佐子に長く仕えている大西静江(おおにし しずえ)だ。森宮家の中で、静江は数少ない、澪にきちんと礼を尽くしてくれる人だ。彼女は丁寧に頭を下げた。「若奥様。お時間がよろしければ、大奥様がお呼びでございます。お越しいただけますでしょうか」澪としては、もちろん「時間がない」と断りたい。紗耶の仮面を剥ぎ取ることで、頭がいっぱいだからだ。とはいえ、これからしようとしていることは、森宮家にとっても痛いところを突くものだ。今ここで、先に勘づかれるわけにはいかない。「分かった」美佐子の屋敷へ行くと、彼女は澪に向かって手招きした。「澪、こっちおいで」澪はそばへ歩み寄った。美佐子は澪の手を取り、そっと叩いた。「こんな大変な時に、わざわざ帰ってきて、相手をしてくれるなんて。本当に感心な子だね」「当然のことです」澪も、社交辞令くらいは言える。しかし、頭の中は書類のことでいっぱいだ。記憶違いのはずがない。確かにあのクローゼットの中にあるはずなのだ。「ネットの件は、私も見たんだ」と、美佐子がため息をついた。澪の口元から笑みが消えた。「あなたが怒るのも無理はないわ。でもね、すべてを表に出して釈明するわけにはいかないの。征司と朝斗は兄弟なのだから。これは身内の恥、表に出すわけにはいかないわ」美佐子は心底困っているような顔をして、澪の手をそっと握ったままだ。その様子からは、いかにも仕方がないように見える。「つらい思いをさせてしまうけれど、今回は森宮家のためと思って、どうか胸に収めてちょうだい」澪の胸の奥が少しずつ冷えていった。無意識に手を動かし、そばにあった湯呑みに触れてしまった。湯呑みが倒れ、熱い茶が手の甲にかかり、白い肌がみるみる赤く染まっていく。「つまり、私は何も言わずに、このまま引き下がればいいっていうことですね」その瞬間、澪はふっと消えた書類のことを思い出した。これで合点がいった。美佐子が先回りして回収したのだ。二人がまだ夫婦だと示せるものがなければ、澪がいくら口で説明しても意味がない。世間から見れば、自分が一方的に騒いでいるようにしか見えないだろう。征司が認めず、森宮家も何も言
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第57話

澪は、提示された補償金の数字に目を通した。十億円。ずいぶん太っ腹だこと。澪はしばらくその条項を見つめていたが、ふと顔を上げて美佐子を見た。「つまり、これから先、私に何があっても森宮家は関係ない、ということですね。私に干渉もせず、身内として認めることもありません。絶対にこの約束を破らない、ということですね」美佐子は困ったような顔をした。「これも、あなたのためなのよ。離婚したあとのことなら、私がきちんと取り計らうわ。あなたが一度結婚していたことも、余計な噂にはさせない。そうすれば、次の縁談にも差し障りはないでしょう」ずいぶんと自分のことを考えてくれているものだ。澪は思わず笑いそうになった。美佐子は、自分が離婚後も森宮家にしがみつくことを恐れているのだろう。それに、紗耶の件で征司が一歩も引かず、どうしても彼女と結婚すると言い出すかもしれない。だからこそ、澪がかつて征司の妻だったということを、今のうちに切り離しておきたいのだろう。そのうえで、出所後の朝斗のことも内密に処理する。そうすれば、スキャンダルを一つ揉み消せるというわけだ。しかし――澪は一瞬揺れる感情を、すぐに押し殺した。見方を変えれば、これは玲衣を守るための盾にもなる。たとえいつか玲衣の存在が知られたとしても、森宮家は先に澪との関係を断ったことになる。そうなれば、征司が玲衣に手を伸ばす口実も弱くなる。これなら、子供を奪われないための確固たる保証が一つ増えたと言えるだろう。美佐子はずっと、澪と征司のあいだに子どもができることを望んでいる。森宮家は血筋というものをことのほか重んじている。しかし今は、彼らの方から澪との関係を断ち切ると言ってきたのだ。そう思った瞬間、澪の中の苛立ちは不思議なほど静まった。将来、森宮家が玲衣の存在を知ったとき、どんな顔をするのかを想像するだけで、少しだけ胸がすいた。ただ、違約した場合の条件もある。澪は後ろの条項に目を走らせる。違約金は百億円。しかも必要に応じて、家族に対しても請求できる。つまり、おじいちゃんまで巻き込むことになるかもしれない。これは、はっきりとした脅迫だ。それでも、自分がもう一度森宮家に戻ることはないだろう。この泥沼から抜け出せるだけでも十分すぎる。
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第58話

乾いた音がひどく耳障りに響いた。美佐子は驚いた顔で澪を見た。征司も自分の腕に目を落とした。澪の指の跡がくっきりと残るほど赤くなっている。澪がどれほど力を込めて叩いたかが窺える。鼻先に残るかすかな甘い香りに澪は吐き気を覚えた。それでも、何事もなかったような顔で言った。「どこへ行っていたのか知らないけど、汚いものがついていたから、払ってあげたのよ」紗耶も、その匂いをまとって帰ってきた征司も、澪には同じように汚いのだ。征司の瞳は底知れないほど暗いものの、怒っている様子はない。彼はゆっくりと腕を下ろして、美佐子に尋ねた。「塗り薬はありますか?」美佐子はようやく我に返った。「静江、持ってきてあげて」澪は背を向け、そのまま外へ出た。もちろん、今日美佐子と交わした話を征司に伝えるつもりはない。紗耶の二股をもう表に出せないが、少なくとも、この種を蒔いたのは森宮家自身だ。いつかその代償を払うことになっても、澪の知ったことではない。廊下に出ると、澪は腕にかけたバッグに目を落とした。中には、離婚後は二度と森宮家に関わらないという、美佐子との合意書が入っている。以前は、美佐子が本当に自分を可愛がってくれていると思っていた。しかし今なら分かる。家族の利益が絡めば、いかなる感情も後回しにされるのだ。澪は振り返り、煌々と明かりの灯る屋敷を見つめながら、どうやってここから抜け出そうかと考えた。そう考えているとき、背後から足音が聞こえた。顔を上げると、征司がこちらへ歩いてくるところだった。もともと背が高いだけに、目の前に立って見下ろされると、ひどく威圧感がある。その黒い瞳は、決して溶けることのない氷に覆われているかのようだ。澪には、彼が何を言いたいのか分かるような気がした。「今日、帰ってきたのは、あなたのためじゃ……」つい先日、森宮家の食事会には絶対に出ないと言い切ったばかりだった。「少しは気が済んだか?」彼は彼女の言葉を遮った。澪は眉をひそめ、赤くなった彼の腕を見た。くっきりと残った指の跡がやけに目障りだ。彼女はもう少しで、力任せに腕を振り回して殴りかかるところだった。その痛みは、想像に難くない。「何の話?」澪が聞き返した。「ネットの件はもう収まった。
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第59話

澪は一瞬、言葉を失った。征司がそんなことを言うとは思わなかった。自分は警戒しているわけではない。ただ、紗耶の匂いをまとった彼に触れられるのが、たまらなく気持ち悪いだけだと、すぐにでも言い返したい。しかし、口を開くより先に、征司のスマホが鳴った。澪が何気なく画面に目をやると、また例の「ベイビー」からだった。征司は澪の視線に気づくと、すぐに画面を伏せるようにスマホを引き寄せ、そのままリビングへ戻っていった。大切な女とのやり取りを、澪には少しも見られたくないらしい。澪は征司が残していったコートに目をやったが、結局二度と触れることはなかった。それをその場に残したまま立ち上がり、吹きつける雪の中へ歩き出した。この身も心も凍らせる場所から、一刻も早く離れたい。*リビングに征司が戻ってくると、美佐子はそれまでの笑顔を消し、不機嫌そうな表情を浮かべた。「今回のことは、さすがにやり過ぎだよ。紗耶のことをきちんと片付けられないっていうなら、私が代わりに片をつけるからね」征司は美佐子に淡々と目を向けた。「一人くらい、守り通せますよ」「じゃ、あなたの妻はどうするの?澪は?あの子こそ、森宮家の嫁なんでしょう」美佐子は怒りを隠さずに征司をにらんだ。征司は視線を落としたまま、紗耶から届いたメッセージに返信して、やがてその口元にわずかな笑みが浮かんだ。「澪なら分かってくれるから大丈夫」美佐子は言葉を失った。先ほど澪の言った離婚の話が脳裏をよぎり、彼女は征司の表情をうかがいながら、ふいに尋ねた。「澪から、離婚を切り出されるとは思わないの?」紗耶への返信を打っている征司の指がほんの一瞬止まり、何かを考えるように目を伏せたあと、平然と答えた。「あいつは俺と別れられない」*何人もの人間から口を塞がれた以上、これ以上動いたところでどうにもならない。澪はすっかり疲れきった体を引きずるようにして家に帰った。翌日、澪が出社すると、知之が肩を軽く叩いてきた。「柴崎先生が来てる。ボロ出すなよ」澪は目を見開いて、すぐにオフィスへ向かう。扉を開けると、濃紺のジャケットを着ている白髪の老人が、背筋を伸ばしてソファに座っている。八十を超えているというのに、その目つきは鋭く、小柄な体からは近寄りがたい迫力
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第60話

隆一の独特な思考回路に、澪は感服せざるを得なかった。彼女は慌てて声を落とした。「森宮家から、二人のことを公にしないよう言われているんです。ここは会社ですし、誰に聞かれるか分かりません。言葉には気をつけてください」隆一は鼻を鳴らした。「何が二人のことだ。要するに愛人だろう」澪はにじり寄り、調子を合わせて言った。「もしこれが昔だったら……」「打ち首だ!」隆一は勢いよくテーブルを叩いた。知之は二人を見比べ、何も言えなくなった。本当に二人とも落ち着きというものがないと彼は思う。コン、コン、コン――ドアが開いて、征司と紗耶が姿を見せた。征司は澪を一瞥しただけで、すぐに目をそらした。一方、紗耶は澪がいることに気づくと、わずかに眉をひそめた。すぐに征司の腕に自分の腕を絡め、澪など目に入らないという顔で隆一に微笑みかける。「柴崎先生、初めまして。白石紗耶と申します。ようやくお目にかかれて光栄です」隆一は湯呑みに口をつけ、征司に視線を向けた。「森宮社長、久しぶりだな」紗耶は完全に無視され、一瞬だけ笑みを消した。征司は落ち着いた様子で、薄く笑みを浮かべて頷いた。「最後にお会いしたのは3年前ですね。祖父が重病を患った際、先生にわざわざお越しいただき、命を救ってくださいました。祖父は今でもよく先生のお話を口にしており、深く感謝しております」その話を聞くと、隆一は思わず澪の方をちらりと見た。当時、隆一は海外で休暇を過ごしていた。澪の頼みでなければ、征司の祖父に会うことなど絶対にあり得なかった。それなのに澪はそのことを森宮家には一度も話していない。そもそも、森宮会長が助かったのは、澪のおかげだ。それなのに、森宮家の人間は誰一人、そのことを知らない。隆一は、呆れと非難の入り混じった目を澪に向けた。まるで「こんな家のために、そこまでしたのか」と言っているようだ。澪は気まずそうに目をそらし、黙っている。「そんなことがあったんですね。先生と森宮家に、そこまで深いご縁があるなんて知りませんでした」紗耶が驚いたように言った。隆一は一度だけ紗耶を見てから、征司へ尋ねた。「たしか、森宮会長はご結婚しているそうだが。こちらの方は?」あまりにも容赦のない質問だった。澪は口
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