森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します의 모든 챕터: 챕터 11 - 챕터 20

30 챕터

第11話

「紗耶さんと征司さんって、並んでるだけで絵になるよね。完璧すぎる組み合わせじゃない?」「征司さんがわざわざ迎えに来るなんて、紗耶さん相当大事にされてるよね。羨ましいな」人々の声は嫌でも耳に入ってきた。澪は聞き流そうとしたが、どうしても気になってしまう。七年も夫婦でいたのに、征司が自分を迎えに来たことなど一度もなかった。人前で並んで歩いたことも、自分のことを妻として紹介したこともない。考えてみれば、自分はずっと、名ばかりの森宮夫人という立場にいた。征司は当たり前のように紗耶に優しくしている。迎えに来ることも、人前で隣に立つことも、周囲に誤解されても訂正しないことも。自分が七年かけて一度も手に入れられなかったものを、紗耶はこんなにも簡単に受け取っていた。「森宮夫人」という誤解を、紗耶はあえて否定しなかった。澪にだけちらりと視線を向けると、それから何事もなかったようにこちらへ歩いてくる征司に微笑みかけた。征司は紗耶の柔らかな笑みを見て、応えるようにほんの少し口元を緩めた。それを見た若い女性が、思わず頬を押さえて声を上げた。「待って、これ本物じゃん……!」それを聞いて、紗耶の笑みがさらに深くなる。彼女は自分から征司の腕に手を添え、堂々と記者たちに告げた。「すみません。これから食事に行くので、取材はこのあたりでお願いします」征司にも、周囲が紗耶を「森宮夫人」と呼んでいるのは聞こえていたはずだ。それでも彼は、何も言わなかった。誤解を解くつもりなど、最初からないようだ。人波が押し寄せた途端、征司は迷わず紗耶を自分のそばへ寄せた。その仕草はあまりにも自然で、守り慣れているようにさえ見えた。彼は周囲を見渡し、低い声で口を開いた。「皆さん、少し下がってください。人にぶつからないように」低く落ち着いた声だが、その場の空気を一瞬で静める力があった。その光景を前に、澪は紗耶があれほど堂々としていられる理由を思い知らされた。あれは、絶対に守られると分かっている人間の余裕だ。たとえ澪がこの場で真実を暴いたとしても、紗耶は少しも怯えないだろう。たとえ何が起きても、征司は自分を責める側には回らないと彼女は分かっているからだ。むしろ今の澪のほうが、二人のあいだに割り込んだ邪魔者のように見
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第12話

澪は紗耶と言い争っている余裕などなかった。澪はあの母親のそばへ歩み寄り、優しい声で言った。「私は医者です。お子さんをお預かりします。そのほうが処置しやすいので」若い母親は涙を拭いて、感謝の気持ちを込めてうなずいた。澪も一人の母親だ。今彼女がどれほど不安なのかがよくわかる。それに、子育ての経験も十分にある。澪は紗耶の不満げな視線を無視し、子どもが楽な姿勢でいられるように、かつ処置もしやすいように配慮しながら、子どもをしっかりと抱きかかえた。紗耶は当然ながら、澪の行動に不満を抱いていた。その目には一瞬、かすかな嘲笑が浮かんだ。澪はわざと人前で目立とうとしている。どう見ても、自分が救護を手伝ったというだけで、その手柄に便乗しようとしているに違いないと紗耶は思った。だが、今は喧嘩している暇などない。紗耶は腰をかがめて子どもの様子をざっと確認した後、眉をひそめて言った。「アレルギーによる気道浮腫ですね。簡単な応急処置をしてから、直ちに病院へ搬送しましょう」その判断については、澪は口を挟まなかった。周りの誰かがすぐにスマホで救急車を呼んだ。確かに、その子はアレルギー反応を起こしていた。だが、紗耶の応急処置のやり方は……紗耶は続けて周囲に尋ねた。「アドレナリン注射液をお持ちの方はいらっしゃいますか?」誰も答えなかった。紗耶は動揺を悟られないように冷静を装い、応急処置のために指の関節で子どもの鼻の下をギュッと押した。澪はその手つきをじっと見ながら、唇を結んで眉をひそめた。効かないわけではないが、緊急時には効果が限定的で、かえって貴重な時間を失う恐れがある。今は、紗耶の処置が効くのを待っている場合じゃない。澪は迷わず紗耶の手を払いのけて、子どもを優しく仰向けに寝かせると、その母親に言った。「お子さんの足を高く上げてください」「何をするつもり?この子を死なせる気?」人前でメンツを潰された紗耶は、顔をこわばらせた。澪はそんな紗耶を相手にせず、素早く子どもの靴と靴下を脱がせると、手のひらを温めてから、足の裏の中央を細かく揉みほぐした。さらに手首の内側のツボもちゃんと押した。周りの人たちは、驚きと興味が混ざった目で澪を見た。征司でさえ、何かを考えるように、澪の冷静な横顔をじっと見ていた
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第13話

紗耶は当たり前のように征司のそばに歩み寄り、口を開いた。「お腹空いた。先にレストラン探そう」征司は視線を紗耶に戻した。あの母親の言葉を、征司は特に気に留めなかった。澪に子どもがいないことを、彼はよく知っている。子どもと接する機会があるとすれば、せいぜい救急の患者くらいだ。「そうだな」冷たい視線が一瞬だけ澪をかすめたが、そこに感情はなかった。征司は紳士的に紗耶のために車のドアを開けた。二人の振る舞いは注目を集めた。征司にそこまで気を遣ってもらえる存在であることに、周囲は羨望のまなざしで紗耶を見つめた。澪は二人が大勢を連れて立ち去った後、大きく息を吐いた。実際には、あれほど目立つ二人を気にする余裕すらなく、全身が震えるような緊張に包まれていた。もう少しで玲衣の存在がバレるところだった。幸い、征司は特に疑っていなかった。残り三か月、一瞬たりとも油断はできない。三か月後、確実に離婚が成立していればいい。そうすれば、たとえ征司が玲衣の存在を知ったとしても、もう手遅れだ。今は離婚を確実に成立させることだけを考えなければならない。協議書はとっくに交わしてある。大きな問題はないはずだけど――澪はしばらく考え込んだ。玲衣のことについては、いくつか対策を講じておく必要があると感じた。その後、澪はあの親子を無事に救急車へ送り届けた。そこへ知之が出てきた。「さっき何かあったのか?」知之は記者を避けて、澪を裏口から連れ出した。澪は征司と紗耶の話は伏せて、子どもを助けたことだけをざっと伝えた。知之は楽しそうに言った。「WAKANナビの開発者だとわかってたら、きっと運がいいと思ってたに違いないだろうな」澪は肩をすくめて笑った。「ずいぶん昔の話だよ」知之は澪の頭を軽く叩いた。「君は一人でアカリ製薬を上場させたんだぞ。それに柴崎先生の唯一の後継者だ。謙遜しすぎると、かえって自慢に聞こえるぞ」知之は医学の家系に生まれたが、自分の才能では澪に及ばないと思っている。柴崎隆一(しばさき りゅういち)も言っていた。澪のような才能は百年に一度あるかどうかだと。常人には到底敵わない。澪は何度か瞬きをして、それ以上は流すことにした。あまり優秀だと、かえって相手を傷つけてしまいそうだから。「
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第14話

大きな家系にとって、子孫は何よりも大事だ。澪は知之の心配をよくわかっていた。「大丈夫。征司との離婚協議書なら、もう七年も前に交わしてある。署名したことすら本人は忘れている。離婚なんて時間の問題。玲衣も穂積姓だし、穂積家は森宮家に縛られる立場じゃないから」これも、あの男が玲衣を自分の戸籍に入れると言い出したとき、澪がそれを受け入れた理由の一つだった。知之は穂積家のあの男の顔を思い浮かべ、笑った。「そうだな。離婚さえ成立すれば、征司はもう後戻りできない」――知之と食事を終えた澪は、K市で評判のいい幼稚園をいくつか回ることにした。夕方、澪が車で一軒の幼稚園を出たところで、商業街の交差点の信号に引っかかった。ふと窓の外を見ると、ベントレーが停まっていて、男女が一人ずつ降りてきた。二人は振り返って車内に手を差し伸べ、五、六歳くらいの男の子がその手を取って楽しそうに飛び降りた。征司はいつもの無表情をわずかに緩め、紗耶が微笑みかける。三人はそのままデパートの中へ入っていった。絵に描いたような、一家団欒の光景だった。澪は知らず知らずのうちにハンドルを握りしめていた。それはかつて自分が夢見た光景だった。征司と玲衣と三人で、ああやって歩く日を夢見ていた。「もうすぐ」「まもなく」――そんな言葉を信じて、何年もの間、彼女を支えてきた。冷め切った結婚生活も、感情のない日々も、それで乗り越えてきたのだ。なのに、その希望が消えかけたいま、征司は澪が何年も願ってやっと得られなかったものを、紗耶と彼とは無関係な子どもに与えている。澪は首を振って、自嘲した。皮肉なものだ。紗耶には弟が二人いる。一人は大学に入ったばかりで、もう一人はまだ小さい。目の前の男の子は五、六歳――つまり、後者の方だろう。まさか征司が、そこまで紗耶の身内に気を遣うなんて。紗耶とのデートに付き合って、その弟の面倒まで見ている。征司はいつも忙しいと言っていた。昔はデートどころか、一緒に食事することさえ滅多になかった。プレゼントを贈ったり、彼女を喜ばせようとしたりしたことなんて、一度もなかった。今、ようやくわかった。彼はどうやって夫婦をやればいいか知らなかったわけじゃない。ただ、自分に時間を使いたくなかっただけだ。彼の気遣いも細やかさ
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第15話

澪が森宮家に着いた頃、十二月の雪が舞い始めていた。寒風の中、美佐子の別邸へ足を踏み入れる。中に入ると、香澄と千佳子が揃って居間にいた。香澄は冷たく澪を一瞥した。あの日、澪に「死ね」と言われたことを、まだ根に持っているようだ。「澪!どういうこと?お前の嫉妬で征司に泥を塗っただけじゃ済まないわよ。あの記事を大奥様も見てしまった。お前のせいで具合が悪くなったのよ!」千佳子が嘲笑うようにまくし立てる。全部澪のせいにしようとしている。澪は思わず眉をひそめた。そして、問い詰める千佳子を見返して言った。「あんなみっともないことをした張本人を責めず、被害者の私に文句を言うのですか?おばさん、頭は大丈夫ですか?」それに、そもそも大奥様に隠すつもりなら、どうしてあの記事をきちんと処理しなかったのだろう。きっと、誰かがわざと拡散させたんだ。千佳子がテーブルを叩いて立ち上がった。「誰に向かってそんな口をきいているの!」「そんなにお嫌いなら、おばさんが先に消えればいいんじゃないですか?」澪はとっくに我慢の限界だった。千佳子の罵声に付き合う気はなく、無表情のまま相手を無視して美佐子の寝室へ向かおうとした。千佳子は澪の「先に消えれば」という言葉に、しばし言葉を失った。昔の澪は、森宮家の年上の人にこんな口をきけるはずがなかった。いつも言いなりで、従順だったのに。千佳子はカッとなって、澪の背中に向かって叫んだ。「罰が当たるわよ!お前もあの紗耶も、調子に乗りすぎよ!」うるさい。澪は足を止めて振り返った。だが、思いがけず玄関に立っていた征司と目にあった。気づかぬうちに、征司がそこに立っていたのだ。黒いコートを腕にかけ、薄暗がりに半分隠れて、その瞳は冷たく深く沈んでいる。千佳子も征司に気づき、慌てて口をつぐんだ。昨夜、澪に手をあげたばかりだ。今日は澪と紗耶を散々罵った。しかもよりによって、征司に聞かれてしまった。澪なら構わない。征司が気にしないことはわかっている。だが、紗耶は――千佳子は思わず征司の表情をうかがった。澪は征司に聞かれていたとわかっていたが、特に気にする様子もなく、視線を戻して美佐子の寝室のドアをノックした。香澄は何事もなかったかのように茶をすする。その目には意味深な光
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第16話

「征司に離婚したいって言ったのは、ただのわがままだったことにしてくれない?」澪は思わず眉をひそめた。美佐子が彼女の手をぎゅっと握る。「おばあちゃんがなるべく早く、いい人を探してあげる。家柄も人柄も申し分なく、嫁げば、きっと幸せになるから。でも、森宮家は大きい。朝斗もいつかは出所してくる。もし兄弟で仲違いでもすれば、家の中が荒れてしまう。あの子の反省次第で早く戻ってこられるかもしれない。そうなれば、紗耶もあなたたちの離婚を待たずに、朝斗とよりを戻すかもしれない」澪は、美佐子がこんなことを言うとは思わなかった。彼女の心配は理解できる。だが――「おばあ様、でも私はもう待ちたくないんです」もう征司との苦しい結婚に、これ以上時間を無駄にしたくはなかった。それに、玲衣の存在は秘密にしておくためにも、早く離婚するのが何より大事だ。だから、美佐子の「もうちょっと待って」という言葉に応じるわけにはいかなかった。美佐子は澪の強い意志を悟り、そっとため息をついた。「離婚のこと、あなたと征司はよく話し合って、もう話はついたの?」澪は思い返した。征司はもう離婚協議書を受け取っている。普通に考えれば、目を通しているはずだ。でもその後、彼は何も言ってこなかった。おそらく、協議書の条件に全部同意したのだろう。黙認したということだ。そう考えて、澪はうなずいた。「彼も同意です」「じゃあ、澪、とりあえず紗耶には黙っていて。あなたの姑さんや千佳子たちにも、離婚のことは知られないようにするから。これは私たち三人だけの秘密。征司には、私がうまく言って、この一年、紗耶に離婚のことを一切漏らさないように釘を刺しておく」美佐子は紗耶のあいまいな態度を気に入っていなかった。でも、この件は穏便に済ませるしかないと思っていた。強硬に出れば、逆効果になりかねない。澪はしばらく考えて、承諾した。離婚に支障がなければ、それでよかった。あと三ヶ月、離婚が成立するのを待つだけだった。そのあとの問題は全て森宮家が何とかすべき問題だ。――美佐子の部屋を出ると、ちょうど入ろうとしていた征司と鉢合わせした。征司は視線を落として澪を見た。「おばあちゃんはどうだ?」「入って見れば分かるでしょう」その言葉に、征司は眉をわず
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第17話

「おばあちゃんは離婚してほしいの?」征司は相変わらず、どうでもよさそうな口調だった。美佐子はすぐに察したが、澪が離婚したがっていることはあえて触れずに、鼻を鳴らした。「そんなわけないでしょう。もしあんたが澪と離婚しようものなら、紗耶をこの家に入れることは絶対に許さないわ。揉めるなら家のなかで揉めなさい」「わかった」征司は美佐子にオレンジを一つ差し出すと、口元に軽い笑みを浮かべた。美佐子には分かっていた。征司が適当に澪をあしらっているだけだと。だが、それ以上は何も言わなかった。何しろ彼女はもうすぐ八十歳になる。澪は本気で離婚するつもりだ。そのうえ澪は、征司も承知のうえで同意しているとはっきり言った。なのに、征司の態度はまるでその話を知らないかのようだ。美佐子は薄々気づいていた。どこかで話が食い違っているのだと。だが、あえてそれを指摘するつもりはなかった。征司が澪と離婚する気がないなら、それでいい。二人がうまく折り合いをつけて、このままやっていけるなら、それが何よりだ。どうしても無理なら――澪に次の相手を探すと言ったのは、本気だった。澪の行き先がちゃんと決まってから、征司に離婚の話をすればいい。征司が早く知ろうと遅く知ろうと、どっちでも同じだ。離婚の話だって、征司はきっと受け入れるだろう。そうすれば、誰にも迷惑をかけずに済む。――澪はすぐには本邸を離れなかった。まだやることがあった。医者と一緒に美佐子の薬を用意し、煎じてもらうよう頼んだ。その合間に伊織へメッセージを送った。「『親権放棄同意書』を作ってほしい。なるべく早く」パソコンがなかったので、条文をきちんと書き出せなかった。本邸に呼ばれた時には、澪はもう決めていた。離婚協議書だけでは不安だった。七年前に交わした離婚協議書には、子供に関する条項がなかった。念のため、自分でちゃんとしておくべきだと思った。伊織は二十分も経たないうちに用意してくれた。「どうしたの?まさか征司に見せるつもり?あの人がこれを見たら、子供の存在を疑うんじゃない?」澪は森宮家の共用の茶室で、その書類を印刷した。「何としてでも彼にサインさせてみせる」何より、将来玲衣のことで征司と揉めたくなかった。自分の権利を
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第18話

澪はゆっくりと視線を戻した。軽く首を振り、バッグのストラップをぎゅっと握りしめて、迷わず駐車場へ向かった。昨夜のうちに美佐子の容態はほぼ落ち着いていた。今のうちに征司に会って書類にサインをもらおうと思ったのだ。駐車場に着くと、ちょうど征司が本邸から出てきて、歩きながら電話をしているところだった。遠くでは運転手が彼のためにドアを開けて待っているのが見えた。口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。その端正な顔に、その笑みはひときわ目立っていた。七年の間、彼がそんな表情をしているのを、澪はほとんど見たことがなかった。誰と話しているのかは、考えるまでもなかった。どうやら昨夜は一晩中、本邸に泊まっていたようだ。なのに、自分のところには戻ろうともしなかった。澪はすぐに悟った。征司は自分を避けているのだと。同じ屋根の下で過ごすことさえ嫌なのか。あるいは、紗耶に気を使っているのか。おそらく、澪の視線が強すぎたのだろう。征司は車に乗り込む前に、一瞬だけ彼女の方を見た。だがそれも一瞬のことだった。彼はすぐに車に乗り込んだ。車は本邸を走り出し、どんどん遠ざかっていった。澪は結局、彼と話すことも、書類にサインをもらうこともできなかった。彼女は顔を上げて大きく息を吸い込んだ。征司が自分を避けているかなんて、今はどうでもよかった。すぐに自分の車に乗り込み、どうにかして征司にサインさせなければ、と思った。一刻の猶予もない。森創に着くまで、思ったより時間がかかった。朝の通勤ラッシュで、長い間車がまったく動かなかったのだ。澪はビルのロビーに入り、受付に向かって言った。「すみません、社長室に電話をつないでいただけますか?私は――」一瞬、なんて名乗ればいいか迷ったが、とにかく早く征司に会いたくて、こう言った。「征司の妻です」まだ正式に離婚したわけではない。でも、今さら遠慮してる場合じゃない。受付の女性は、一瞬探るような目で澪を見たが、それでも笑顔で対応した。「かしこまりました。少々お待ちください」征司が結婚しているという噂は、ここ数年ずっとあった。でも、奥さんの姿を見た者は誰もいない。森宮家は分家も多いし、この女性がどの家の方なのか、受付には見当もつかなかった。社長室への電話はすぐに繋がった。「林
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第19話

征司は部屋に入ると、スーツのボタンをほどきながら澪をちらりと見た。「何の書類だ、なにをそんなに急いでる?」澪には分かっていた。彼は自分が無断で来たことを快く思っていない。自分との関係を隠したいのだ。澪は自嘲気味に笑うと、彼の目線を避けて書類を机の上に置いた。征司は書類の表紙を一瞥した。――財産の帰属に関する確認書。「おじいちゃんに家を買おうと思ってて。自分の貯金で出すつもりだけど、ローンを組むにはあなたの確認がいるの。私個人の資金だとはっきりさせておきたいから」澪はできるだけ冷静に言った。もし「離婚協議書の追加条項」と言えば、征司は必ず隅から隅まで読むだろう。それは避けたかったので、回りくどいやり方でいくしかなかった。征司は書類をちらりと見て、あまり気にしてない様子だった。「なぜローンを組むんだ?いくら必要だ?俺が振り込む」征司は澪の家庭の経済力をよく知っている。朝比奈家は小さく、力もない。すべて澪が一人で支えてきた。征司がそう言うことは、澪にとって想定内だった。金に関しては、彼は昔から気前がいいから。だが、昔の澪は自分から何かを求めることはなかったし、征司も自ら差し出すことはなかった。ただ、愛されてないから、それだけのことだ。とはいえ、今回はそれなりの理由が必要だった。K市の住宅価格は全国で一番高い。彼女はこれまで救急外来で働いてきた。誰も彼女にまとまった貯金があるとは思わない。だから、ローンの名目で契約書を作るのが一番無難だった。「この家が共有財産だって揉めるのは避けたいの。実家のために買ったのに、あなたのお金で買ったと思われるのも嫌だし、そんな余計な面倒は避けたい」征司の視線がようやく澪の顔に止まった。彼女はローンを背負ってでも、自分の金を使いたがらない。だが、それも束の間、彼は淡々と言った。「好きにしろ」澪は最後のページだけを開いて書類を渡していた。征司はちらりと見たが、すぐにはサインしなかった。手に取って、中をめくろうとした。その仕草に、澪は内心焦った。征司は決して適当にサインしない。妻からの書類でも、必ず一通り目を通す。澪はぎゅっと手を握りしめた。爪が掌に食い込み、その痛みでなんとか冷静を保った。最初の数ページはすべてカモフラージュだ。征司が全部めくる
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第20話

彼女が求めていたのは、たった二秒だ。それだけ。なのに、紗耶が階下で足を挫いたと聞いて、征司は書類どころではなくなった。彼は眉をひそめ、一歩も引かない澪を睨んだ。そして、ペンを手に取り、澪が開いたそのページに、迷いなくサインした。紙を破らんばかりの勢いで、文字が並んでいる。澪は一文字ずつ紙面に刻まれていくのを見つめながら、緊張で胸が高鳴っていた。「他に用は?」征司はペンのキャップを閉め、探るように澪を見た。澪は彼が何を思おうと構わなかった。書類を引き寄せ、顔を上げると、珍しく晴れやかに笑った。「ないわ」征司はその笑顔に、一瞬目を鋭くして、数秒彼女を見つめた。澪はその瞳を避けずに言った。「ありがとう」だが、その声は彼の耳には届かなかった。征司はもう聞いていなかった。振り返りもせず、部屋を出ていった。足を挫いた紗耶が気がかりなのだ。澪は表情を変えず、閉じたドアを静かに見つめた。自分にしか聞こえない声で、そっと呟いた。「……おめでとう」良かった。彼が最後まで紗耶を選んで、あの書類の内容に気づかなかったから、澪は救われた。そして――おめでとう、征司。別の女を選んで、自分の子を手放すことになるとは思わなかったでしょう?かつて澪を傷つけたその行動は、今や彼女の希望になった。いずれ離婚が成立すれば、この同意書は効力を発揮する。征司に感謝しないわけにはいかない。征司が去るや否や、澪は一瞬も無駄にせずエレベーターで下の階へ向かった。車を出そうとしたとき、森創の入り口で、征司が紗耶を抱きかかえて中に入っていく後ろ姿が目に入った。その光景を目撃した社員は少なくなかった。紗耶が「正真正銘の社長夫人」だという見方は、ますます確かなものになった。澪は視線を戻した。もう、そんなことに悩まされることはない。彼女はもう一度、征司との結婚生活を送っていた家へ向かった。目的は、印鑑だ。征司はその家に個人の印鑑を置いている。サインだけでは不安だった。念のため、印鑑も押してもらうことにした。押印を済ませて、澪はようやく少し安心した。法律に従えば、親権放棄同意書は離婚成立後に効力が発生する。今はまだ、玲衣の存在を隠し続けなければならない。離婚協議書の準備
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