All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

隆一は全く妥協を許さない態度だ。澪は胸の奥が痛んだ。先生がここまで腹を立てているのも、自分をかばってのことだと分かっている。こんな歳になってまで、自分のためにいろいろと気を遣って、その上、自分の面子まで立ててくれようとしている。一方、紗耶は胸を針で刺されたような痛みを覚えた。澪が二人にあることないこと吹き込み、自分を悪い女だと仕立てたに違いない。今の状況では、完全に逃げ道を塞がれている。澪の家庭を壊したのは自分だと認めろというのか?要するに、最初から自分を受け入れる気などないだろう。「柴崎先生、やはりもう一度よくお考えいただきたい。ほかにご要望がおありなら、できる限りお応えします」征司はわずかに目を細め、ゆっくりと立ち上がった。礼儀は崩していないものの、一歩も譲るつもりがないことは明らかだ。紗耶にそんな屈辱を味わわせるつもりなどないのだろう。澪には、それが痛いほど伝わってきた。唇からふっと自嘲気味な笑みがこぼれた。愛とは、大したものだ。あれほど誇り高く、誰もが一目置く征司でさえ、紗耶のためなら自ら頭を下げる。根も葉もない噂を流され、実際に傷つけられているのは自分のほうだというのに、彼は何ひとつ気に留めようとしない。澪は大きく息を吸い、ぎゅっと握りしめていた手をゆっくりと開いた。手のひらには、爪が食い込んだ痛々しい跡がいくつも残っている。隆一は目の前にいる気高く落ち着き払った男を、ほとんど失望に近い眼差しで見つめた。これではっきりした。こんな男に、玲衣の父親になる資格はない。「それなら、話は終わりだ」隆一はそれ以上何も言わず、険しい顔のままドアを開けて出ていった。紗耶は顔をこわばらせた。これほど人前で面目を潰されたのは、生まれて初めてだ。全ては澪のせいだ。彼女が変なことを吹き込まなければ、隆一が自分を拒むはずはない。征司が断られてどう思ったかなど、今の澪には気にする余裕もない。知之に一声かけると、隆一の後を追って部屋を出た。先生はすっかり怒っていて、なだめに行かなければならない。澪が出ていくと、征司は知之へ視線を移した。「今日はお時間をいただきました。榊社長、また今度」礼儀正しい口調ではあるが、どこかよそよそしい。隆一に取りなしてほし
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第62話

二人の後ろ姿を見送りながら、知之は初めて、澪がこれまでどれほど息苦しい思いをしてきたのかを実感した。誰の目から見ても、征司に愛され、守られ、堂々と隣に立つことを許されているのは紗耶だ。愛されている側なら、不倫相手でさえ、ここまで堂々としていられるものなのか。――澪は、三人の間で交わされたやり取りを知る由もない。慌てて隆一を追いかけたものの、彼はすでに車で去った。仕方なく、いったん知之のオフィスへ戻ることにした。階段を上がると、征司と紗耶が一緒に部屋から出てくるのが見えた。紗耶は澪を冷たく睨みつけると、征司の腕に絡みついて歩き去った。征司は電話の最中で、澪に視線を向けることすらしなかった。自分が紗耶の悪口を吹き込んだと思い込んで、腹を立てているのかもしれない。しかし、征司にどう思われようと、今の澪にはもう関係ない。――その夜、蓮が食事の席を設け、征司たちも顔をそろえている。紗耶も、隆一に弟子入りを断られたことを隠そうとはしなかった。「ほかに理由なんて思い当たらないわ。きっと澪が何か吹き込んだから、柴崎先生もあんなふうに私を見るようになったんだと思う」紗耶は唇をかみ、悔しそうに続けた。「正面から勝負できないからって、こんな卑怯な真似をするなんて」蓮は眉をひそめたものの、すぐに紗耶をなだめるように言った。「気にするなよ。これから会う機会はいくらでもある。君のことを知れば、先生だって澪の嘘を見破るはずだ。俺たちはみんな君の味方だから」その言葉に、紗耶は思わず笑みをこぼした。「それに、征司が後ろに控えているんだから、何も怖がることはないだろ」彰人はスマホから目を上げ、軽く眉を上げた。紗耶はうれしそうに微笑んだ。二人とも、自分を元気づけようとしてくれているのは分かっている。蓮の祖父の命を救って以来、彼は以前にも増して私を気にかけてくれるようになった。彰人も澪を快く思っておらず、いつもこうして自分の側に立ってくれる。それは、私を友人として認めている証拠でもある。人の心を掴むという面だけでも、澪は到底自分の足元にも及ばない。自分の周りには、征司をはじめ、いざとなれば力になってくれる人間がそろっている。澪に、それだけの後ろ盾があるとは思えない。紗耶は隣にいる征司へ顔
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第63話

澪が顔を上げ、支えていたのが彰人だと分かった瞬間、表情が凍りつき、目に露骨な嫌悪が走った。「離して」彼女は疫病神でも避けるような勢いで、慌てて後ずさった。彰人はちっと舌を鳴らし、ふっと笑った。「おい澪、俺が支えてやったから転ばずに済んだんだぞ。助けてもらった相手に対する態度がそれか?」澪がつくづく人の好意を踏みにじる可愛げのない女だと思った。「先にぶつかってきたのはあなたでしょ。それを支えたからって、どうして私がお礼を言わなきゃいけないの?ずいぶん都合のいい話ね」澪は抱えている書類を整えながら、淡々と言い放った。紗耶の味方ばかりしている相手に、愛想よくする理由などない。彰人は言葉に詰まり、眉間にしわを寄せた。「口が減らないな。で、どうしてここに?」K大の敷地内、それも部外者の立ち入りが厳しく制限されている研究棟に、澪がわざわざやってきたということは……彰人は片手をポケットに突っ込んだまま、値踏みするように彼女を上から下まで眺め回した。「まさかまた尾行か?」澪は冷ややかな目で、ニヤニヤと小馬鹿にするような彰人の顔を見つめ返した。その時だった。すぐ傍らに、見覚えのあるベントレーが静かに滑り込んできて停まった。征司は車から降りてきて、無表情で澪を一瞥し、すぐに視線を外した。続いて紗耶も車から降り、澪を見つけると口元をほんの少し吊り上げた。ほどなくして研究棟からK大の担当者がいそいそと姿を現し、征司の前に歩み寄ると、恭しく頭を下げて手を差し出した。「森宮社長自ら紗耶さんをお連れくださるとは、我々の研究室にとってこの上ない光栄です。多大なご支援、感謝いたします」澪は思わず目を向けた。彰人は彼女の表情の変化を見逃さず、からかうように少し身をかがめて耳元で囁いた。「知らなかったのか?征司がK大薬学部に十億円規模の資金を入れて、最新鋭の精密機器をそろえたんだよ。その条件で紗耶を研究チームにねじ込んだ。これでアカリ製薬との共同開発にも自然に関われるって」澪はこめかみがズキリと痛むのを感じた。まさか、裏でそんなことが行われていたとは思いもしなかった。アカリ製薬が紗耶を受け入れなければ、征司は今度はK大に金を出し、共同研究先のメンバーとして紗耶を入り込ませた。結局、紗耶に実績を作ら
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第64話

「先輩、もし結婚が決まったら、ぜひ私たちも招待してくださいね」彰人が歩み寄り、澪を一瞥してから、首を傾げて笑った。「森宮社長が招待状を出さなくても、俺が代わりに出すから安心して」紗耶はすぐに困ったように笑った。「彰人さん、からかわないで。今日は大事な仕事があるんだから」仕事を優先するその姿勢に、周囲からはまた好意的な視線が集まった。「榊社長はいらっしゃらないんですか?」紗耶がふと思い出したように尋ねた。周りにいるアカリ製薬のプロジェクト担当者たちが、一斉に澪へと視線を向けた。彼らは、知之を除けば澪がこのプロジェクトの実質的な責任者であることを熟知しているからだ。澪は紗耶を見る。「何かご用ですか?」紗耶は平然とした顔で言った。「榊社長がいないなら、どなたが仕切っているのかと思って」こんな重要な共同研究に、澪が本当に中心メンバーとして関わっているとは思えない。どうせ末席に名前を連ねている程度だろう。「紗耶さんは、K大学を代表して確認しているんですか?」澪が問い返した。紗耶は小さく笑った。「ただ伺っただけなの。そんなふうに決めつけなくても」「ずいぶん敏感なんですね」澪はそっけなく応じた。それを聞いて、紗耶の表情が一瞬こわばった。言い返せず、目の奥にかすかな苛立ちがにじんだ。澪はどうしてこうも場をわきまえず、人を怒らせるような物言いしかできないのだろうか。その場の空気がにわかに気まずくなり、周囲の視線が自然と澪に集まった。その瞬間、彼らは思わず息をのんだ。澪はあまりにも美しいからだ。抜群のスタイルに、透き通るような白い肌。化粧っ気がないにもかかわらず、その佇まいは凛とした清らかな美しさを放っている。ただ澪はあまりに控えめで、人に紛れていたため、誰も最初は気づかなかったのだ。「店は予約してある。皆さん、そろそろ行きましょう」征司の落ち着いた声が周囲の意識を引き戻した。澪はそこで初めて彼に目をやった。自分がこれ以上、紗耶のメンツを潰すのを恐れてのことだろう。彰人が軽く手を叩いた。「車も用意してある。食事をしながら話そう」澪はアカリ製薬のメンバーと一緒に自分の車へ向かった。紗耶はわずかに眉を寄せ、それから黒沢教授へ視線を向けた。「
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第65話

澪の声はひどく落ち着いている。突然、彼女が「夫」と口にしたことで、テーブルを囲んでいる全員の箸が止まり、一斉に視線が彼女に集まった。紗耶の顔色すらかすかに変わった。ただ征司だけは、感情の読めない目で澪をじっと見据えたまま、何も言わなかった。彰人も驚いたように澪を見つめていた。ところが、澪はすぐに皆へ向けて笑ってみせた。澪はふっと笑みを浮かべ、もったいぶるように間を置いて言葉を継いだ。「実はですね。夫は……もう死んだようなものです。しかも、その死んだような夫を、まだ別の女が欲しがっているみたいで」「……」「……」広い個室が、数秒ほど静まり返った。やがて、誰かが戸惑ったように声を上げた。「えっ……それって、本当ですか?」澪は神妙にうなずき、いかにも悩ましげに言った。「ええ。彼、お墓から掘り起こされちゃったみたいで。でも、彼が亡くなった時、私たちまだ離婚していなかったんですよ。これってやっぱり、浮気になるんでしょうか?」最初は誰もが真に受けそうになっていた。しかし最後の一言で、ようやく澪が真顔でとんでもない冗談を言っているのだと皆が気づいた。数秒の沈黙が落ちたあと、個室にはどっと笑い声が広がった。「そりゃ浮気ですよ!完全にアウト!死んだような男にまで執着するなんて、どれだけ男に飢えてるんですか」「幽霊になってまで結婚したいなんて。あっちの世界、そんなに男がいないんですかね」皆が次々に乗っかり、場は一気に笑いに包まれた。その傍らで、紗耶の顔はすっかり引きつっていた。彼女は唇をきつく結び、澪を鋭く睨みつけた。今の話が、自分と征司の二人に向けられた強烈な皮肉であることに気づかないはずがない。征司はテーブルに肘をつき、すらりとした指先でトントンと叩いている。その視線が数秒、澪の顔に注がれた。怒っているのか、それとも何も感じていないのか、その目からは読み取れない。ただ、黙って見ているだけで、人を息苦しくさせるほどの威圧感がある。澪は気づかないふりをした。先に仕掛けてきたのは、そちらだ。彰人はこの時ようやく確信した。澪があれほど容赦ない態度を取るのは、自分に対してだけではない。征司に対しても、まったく手加減するつもりがないらしい。彰人は頬杖をついたま
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第66話

彰人は、傍らで冷たい顔をしている征司に目を向けた。「お前、止めなくていいのか?男なんてろくなもんじゃないぞ。澪は自分が人の妻だってことを忘れてるんじゃないか。あんなふうに、ほかの男に世話を焼いてもらってさ」征司がそちらへ目をやると、ちょうど澪が車に乗り込むところだった。澪は振り返り、知之ににっこりと笑いかけた。警戒心など微塵もない、心からの笑顔だ。柔らかく細められた目と、口元に浮かぶえくぼから、甘やかな喜びがにじんでいる。そんな笑顔を、かつて征司は何度も目にしたことがあった。澪はもともと、実によく笑う人だった。初めて征司を「あなた」と呼んだときもそうだ。当時、彼は黙って澪を見つめるだけで、何も答えなかった。気まずさをごまかそうと、澪はすぐに同じ笑顔を浮かべてみせた。そんな思い出が一瞬だけ脳裏をよぎったが、彼の心に波風を立てることはない。彼はただ淡々と視線を外し、煙草へ火をつけた。「そんなの、どうでもいい」その一言が、ちょうど歩み寄ってきた紗耶の耳に届いた。彼女はかすかに口元を緩めたが、すぐに目を細めた。「これで分かったわ。澪がどうやってアカリ製薬に入り込んだのか。それに、榊さんが私のチーム参加を断った理由もね」紗耶はそれ以上、はっきりとは口にしなかった。彰人は彼女を見つめて言った。「つまり、知之が澪の色仕掛けに乗せられて研究チームに入れた?その上、澪に言われて君を断ったと?」紗耶ははっきりとは答えなかったが、心の中ではすでにそう決めつけていた。澪は美貌を武器に知之に取り入り、研究チームに潜り込んだ。そして、研究成果に名前だけ載せてもらおうとしている。自分と同じ土俵に立つことが、そこまで怖いのか。征司は指先で煙草を軽く弾いた。「帰るぞ」澪のことなど、はなから興味がない様子だ。それを見て、紗耶は笑みを浮かべた。男は勝手なものだ。妻を愛していなくても、妻が別の男になびくことだけは許せないものだ。それなのに、征司はまるで意に介しておらず、澪への関心は、もはや欠片も残っていないのだろう。夫としての最低限の独占欲すらないようだ。澪が征司の心を動かすことなど、もう二度とないだろう。――今回、K大と共同で進める新薬開発は、心血管疾患と脳血管疾患を対象としたものだ。
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第67話

澪は聞き間違いかと思い、思わず声を漏らした。「……は?」知之は眉間を押さえた。初めて聞いたときは、呆れすぎて笑ってしまったほどだ。「ずいぶん偉そうなことを言ってくれるよ。先方の言い分、ほら見てよ」【コネで途中からチームに入ってくるような方は、到底受け入れられません。新薬の研究は、研究者一人ひとりが心血を注ぎ、積み重ねてきた成果です。それを、誰かの実績づくりや経歴に箔をつけるために利用されたくはありません】澪は言葉を失った。紗耶は本気でどうかしているのではないか。征司に甘やかされすぎて、ここまで我が物顔で振る舞えるようになったのか。澪は鼻で笑った。「自分がどうやってK大のチームに入ったのか、すっかり忘れてるみたいね」「自分には実力があると思ってるから、自分だけは別だと。都合のいい話だよ」知之は呆れたように首を振った。澪は目を伏せ、静かに考え込んだ。「私はこの数年間、研究の現場から離れていた。K大側が私の実力を疑うのも無理はないと思う」自分には紗耶のような華々しい経歴がない。紗耶の経歴も実績も、非の打ちどころがないように整えられている。そのうえ、征司という強力な後ろ盾まである。「君は柴崎先生の最後の直弟子だよ。奴らにとやかく言われる筋合いはない。君がいるからこそ、今のアカリ製薬があるんだ。WAKANナビの膨大なデータベースだって、君が一から構築した。どれほど多くの人がその恩恵を受けてると思ってるんだ。弱気になるな」それは紛れもない事実だ。WAKANナビには、症状や体質から「証」を導き出す診断支援機能や、適切な処方を提示するシステムのほか、歴代の名医が残した処方、長く埋もれていた秘方、生薬に関する膨大な文献や資料が収録されている。そのすべてを澪が三年かけてまとめ上げた。開発者の和漢医学に対する造詣の深さに、多くの専門家が舌を巻いた。その実用性は国からも高く評価され、今では各地の医療機関や研究機関で広く活用されている。肩書きだけをきれいに飾った紗耶とは、そもそも比べものにならない。「それは分かってる。今の私に必要なのは、実力を示せる場よ。まずは結果を出して周りを納得させないと、WAKANナビを開発したのは私だと言っても、誰も信じてはくれないでしょうね」澪は目を伏せた。
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第68話

今の状況を最もよく知っているのはどうやら紗耶らしい。全員の視線が一斉に彼女へ向けられた。考え込んでいた紗耶は、皆の視線に気づいて顔を上げ、言いよどみながら口を開いた。「知っているのは、澪さんが既婚者だということだけですよ。でも、榊社長とはずいぶん親しいみたいで……」その言葉に、周囲がざわつき始めた。「人は見かけによらないね。自分が関わってもいない研究に名前を連ねるために、あそこまで必死になって、挙げ句の果てに体まで……」さすがに口にするのはまずいと思ったのか、その人は言葉を濁した。しかし、続きを聞かなくても、何を言おうとしたのかは誰にでも分かる。真面目に実験と研究に取り組んできたメンバーたちが次々と怒りをあらわにするのを見ると、紗耶はかすかに口元を緩め、ひっそりとその場を後にした。――メンバー交代については、結局折り合いがつかなかった。双方とも譲らず、話は平行線をたどったままだ。プロジェクトの開始が迫るなか、澪はこれまでどおりK大との打ち合わせに向かった。今回は知之も同行している。会議室に入った瞬間、澪はK大のメンバーたちがいつもとは違う目で自分を見ていることに気づいた。もっとも、その理由までは分からない。この日も、紗耶は姿を見せなかった。相変わらず、自分勝手な理屈を頑なに押し通しているのだろう。知之は終始穏やかに振る舞い、会議も予定どおり進められた。そして会議が終わろうとした頃、知之がようやく静かに口を開いた。「紗耶さんほどの方となると、K大でも手に負えないようですね。このままでは、今後も滞りなく共同研究を進められるのか疑問です。K大で対応が難しいということでしたら、こちらもほかの大学に声をかけるしかありません。K大とは、また機会があればということで」その言葉に、K大側の人たちは顔色が変わった。なかでも、会議中ずっと澪を睨みつけ、陰でひそひそと噂していた院生たちは、たちまち慌てだした。「そんなの困ります!」アカリ製薬との共同研究に参加できれば、今後の就職にもプラスになる。アカリ製薬は、製薬業界の最先端を走り続けている企業であり、国からも注目されているWAKANナビまで擁している。WAKANナビの開発チームと本格的な共同研究に携わったという経歴があれば、将来どの企
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第69話

紗耶の目がすっと冷たくなった。そして、知之の隣に座っている澪に嘲るような視線を向けた。最初からこれが狙いなのか。征司は驚いた様子もなかった。「榊社長、それは行き過ぎでしょう」征司が紗耶をかばうことなど、澪にも分かりきっている。紗耶に頭を下げさせるなど、彼が黙って見ているはずがない。「構いません。プロジェクトのためですもの」紗耶はすぐに気持ちを切り替え、わずかに顎を上げて澪を見た。「ここにいる全員、研究を進め、一人でも多くの患者を救いたいという思いは同じでしょう。私もチームのまとまりや研究水準にこだわりすぎたのかもしれません。ただ、研究者として譲れないものがあることは分かってほしいのですが」それを聞いて、澪の口元にふっと笑みが浮かんだ。ずいぶん都合よく自分を正当化したものだ。謝罪らしい言葉を並べながら、相変わらず澪を見下し、自分がいかに高潔な研究者であるかを印象づけようとしている。これ以上追及すれば、今度はこちらの器が小さいと思われてしまう。「遅刻したことについては、申し訳ございません。皆さんの時間を無駄にした埋め合わせとして、追加で十億円を出しましょう」頃合いを見計らったように、征司が口を挟んだ。その一言で、紗耶の謝罪はあっさりとなかったことにされた。スマートフォンを握る澪の手に、無意識のうちに力がこもった。その瞳に自嘲が浮かんだ。征司がこれ以上、澪に紗耶を責めさせまいとしていることくらい、分からないはずがない。自分は何もしていないし、紗耶だって実際には何の不利益も被っていない。それでも征司は、紗耶をかばわずにはいられないらしい。しかも、このタイミングでの追加投資だ。これによって紗耶の立場が悪くなるのを防ぐどころか、かえって彼女の顔を立てたようなものだ。案の定、征司が言い終えると、そこにいる全員の表情が一気に明るくなった。皆が感激した様子で紗耶を見つめる。「先輩、森宮社長って本当に優しいですね。何から何まで先輩のことを考えてくれて、こんな破格の投資までしてくださるなんて。先輩がこのチームにいてくれて、本当に良かったです!」「そうですよ、先輩。私たちも、先輩が妥協のできない人だって分かっています。この世界には、先輩みたいに信念を貫ける人が必要なんです」「もう
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第70話

しかし――澪は、今も変えていない連絡先の登録名を見つめ、眉をひそめた。その文字をこれほど不快に感じたのは初めてだ。すぐには返信せず、まず連絡先の編集画面を開いて、「夫」という登録名を削除した。それからようやく、短く返信した。【無理だ】【ああ】そこで、あっさりと会話は終わった。征司は理由を尋ねることも、引き止めることもしなかった。まるで一文字でも余計に打てば、それだけで時間の無駄だとでも言うように。一方で紗耶のこととなれば、たとえそれがアカリ製薬とK大の仕事用のグループチャットであっても、彼はいつも根気よく様々な人と交渉し、指示を出している。こんなやり取りを、これまでずっと繰り返してきた。この数年間、「ああ」や「そうか」といった征司の素っ気ない返事を見るだけで、澪はすっかり身構えるようになっている。離婚が現実になろうとしている今でさえ、それは変わらない。こうした返事を見るたび、長年の結婚生活で負った古傷が鋭く痛んだ。澪はスマートフォンを放り出して、気分を切り替えるようにシャワーを浴びた。翌日、仕事が終わると、澪は祖父のいる療養施設へ足を運んだ。祖父の記憶は相変わらず曖昧だ。澪が「卒寿のお祝いはどこでしたい?」と尋ねると、それまでぼんやりしていた祖父の目に、一瞬だけ光が戻った。「征司は来られるのか?もうずいぶん会っていないな」澪は言葉に詰まった。どうして祖父がこれほど征司を気に入っているのか、澪には分からない。もう身近な人の顔さえ分からなくなることがあるのに、征司のことだけは覚えている。「離婚」という言葉が喉元まで出かかったが、祖父の珍しく期待に満ちた眼差しを見て、澪はそれを無理やり飲み込んだ。「聞いてみるね」祖父と食事をしたあと、澪は卒寿の祝いの会場候補をいくつか見せ、どこがいいか選んでもらった。家に帰った頃には、もう夜の十時近くになっていた。何度も迷った末、澪は征司に電話をかけた。祖父の容体は思わしくない。せめて心残りだけはなくしてあげたくて、澪は気が進まないながらも征司に頼んでみることにした。プルルル――しばらく経ってから、ようやく電話が繋がった。澪が先に口を開いた。「少し、お願いしたいことがあって……」「今、何時だか分かってる?こんな時
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