All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

征司がまだ病院にいることを澪は知っている。仕事をすべてキャンセルして、大したけがもしていない律樹に付き添うためだ。だから、わざわざ征司を探しに行く手間が省けたわけだ。玲衣は点滴を受けながら静かに眠っている。頭の傷の手当はすでに済んでいる。澪は優しく玲衣の布団の端を整えてやった。玲衣の寝顔を見ていると、凍りついている胸の奥が少しずつほどけた。房江が病院に来て、澪はようやく病室を出た。片方の靴をなくしていたため、彼女は裸足のまま歩いている。廊下の角を曲がったところで、征司がふとこちらへ目を向け、彼女の姿を捉えた。澪を上から下まで視線で追った彼は、片方だけ靴を履いていないことに気づくと、彼女が出てきた病室のほうを見た。「警察署の件は片付きました。穂積さんも、これ以上事を荒立てるつもりはないようです」スマートフォン越しに、健太の声が聞こえてくる。征司は片手をポケットに入れたまま、病室のほうを見ている。「誰か、けがをしたのか?」「それが……穂積さんの車には、お子さんも乗っていたようです。だが現場に着いたときには、すでにその子はいませんでした」征司の目がわずかに細くなった。「伊織の子どもか?」「奥様が連れて行かれたそうです。車内で怪我をしており、一刻を争う状態だったため、先に治療を受けたとのことでした」征司はすでに病室の前まで来ており、ドアノブに手をかけた。「分かった」電話を切ると、彼はドアノブを回した。「征司、ちょっといい?」背後から、不意に澪の声がして、征司は動きを止めた。振り返ると、澪が立っている。急いで戻ってきたのだろう。髪は少しほどけ、裸足のつま先には擦ったような小さな傷から血がにじんでいる。赤い血の跡が、かえって彼女の足の甲の白さを際立たせている。澪はできるだけ落ち着いた顔をしていたが、心臓は今にも飛び出しそうなほど激しく脈打ち、背中には冷や汗が流れていた。まさか征司が玲衣の病室に来るとは思わなかった。こんなふうに取り乱した澪を、征司はほとんど見たことがなかった。彼は彼女をじっと見つめ、次の瞬間、ドアをぴったりと閉めた。「何をそんなに慌てている?」澪は閉じたドアを見つめ、黙ったまま手にしていた封筒を持ち上げた。房江がさっき届けてくれたものだ
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第82話

二ヶ月半という時間が、こんなにも長く感じられるとは。今、この茶番劇を早めに終わらせてもいいだろう。征司は冷えきった目で封筒をちらりと見てから、再び澪に目を向けた。「伊織のことで?」澪は思わず笑いそうになった。たったそれだけだと思う?何度も何度も容赦なく傷つけられ、気づけば心の奥までぼろぼろにされている。それでも征司にとっては、ただその程度のことにすぎないだろう。紗耶が好き勝手に人を傷つけるのを、征司は見て見ぬふりをしている。そのことを自分でもわかっていながら、たいした問題だとは思っていないのだ。誰が傷つこうと、どんな目に遭おうと、紗耶が楽しければそれでいいと彼は思っている。本当は「それだけじゃない」と言いたかった。夫婦の関係が壊れていくのは、小さなことの積み重ねだ。最初はまだ我慢できた小さなことが、やがてもう耐えられない傷になっている。そして何より、彼は事実を確かめようともせず、一方的に紗耶の肩ばかりを持っているせいで、玲衣まで危険な目に遭った。だが、今さらその理由を並べたところで何になる。二人の離婚は、もはや避けられない結末だ。「ええ、そういうことにしておいて」澪は顔を上げて笑みを浮かべた。しかし、その目に光はなかった。「おめでとう、征司」これから始まる紗耶との未来がうまくいくように。澪はそれ以上何も言わず、征司の横を通り過ぎて病室へ入った。彼が入ってこられないよう、すぐに内側から鍵をかけた。征司はゆっくりと振り返り、冷たい目で閉ざされたドアを見つめた。澪が自ら離婚を切り出したのはこれが初めてだ。しかもこれほど冷静に。取り乱すこともなければ、別れを惜しむ様子もない。征司は封筒を手にしたまま、開けようともせず、足早にナースステーションへ向かった。看護師は征司の姿を認めるなりパッと表情を輝かせ、勢いよく立ち上がった。「何かお手伝いできることはございますか?」征司は少し考えるように尋ねた。「2013号室に入院しているお子さん、何という名前ですか?」伊織が連れてきた子どもだ。伊織はまだ警察署で手続きをしているはずだから、澪が病院へ連れてきたに違いない。看護師は手元の資料に目を落として確認した。「……玲衣ちゃん、ですね」「玲衣?女の子ですか?」「はい。
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第83話

蓮も、最後の署名欄が空白のままだと気づいた。さっき征司が離婚協議書の内容を読んでいる間、蓮も横から一つひとつ目を通した。離婚を申し出るのは澪のほうだ。こんな条件をよく書けたもんだ」その協議書には、いくつかの際立った条項が並んでいる。一、離婚する場合、征司は全財産の半分を澪に分与すること。二、離婚後、森宮征司は白石紗耶とどのような関係になろうと、いかなる立場も与えてはならない。ましてや公にしてはならず、白石紗耶とその子どもたちは、決して森宮家に入れてはならない。三、離婚の条件として、夫婦の子どもを一人もうけること。その子どもは朝比奈家が引き取り、育てる。蓮は呆れ果てたように笑った。「これ、本気で離婚したい人間の態度か?ただ理不尽な嫌がらせじゃないか。澪は、お前がこの協議書に絶対署名しないとわかっているから、こんな強気に出たんだろ?」征司は表情を変えなかった。意味などないものだと、征司は決めつけた。「澪はそもそもお前と離婚する気がないんだ。お前が絶対にサインしないと確信しているんだから」蓮はそう結論づけた。彼女がその気になれば、一生かかっても使い切れない金を手に入れられる。征司がどれほど莫大な資産を持っているか、知らないはずがない。それなのに、くだらない理由を持ち出して、こんなにも自分を待たせるつもりなのか。そのうえ、澪が妊娠するまで離婚しないという条件までつけている。何を狙っているのかは、考えるまでもない。そこまで子どもに執着しているのか。本当に子どもができたら、澪は離婚するのか。そうなればますます森宮家から離れなくなるだけだ。「征司、澪の言うとおりにするつもりはないだろうな?」「そんな暇はない」征司は淡々と答えて、その離婚協議書にもう一度目を落とした。指先でつまみ、ためらいなく二つに引き裂いてゴミ箱へ投げ捨てた。その様子を見て、蓮にもわかった。征司は澪の望みどおりにするつもりなどない。「澪に、ちゃんと話してやらないのか?」「そんな必要ない」征司はそのまま階段を下りていった。澪が勝手に騒ぐなら、好きにさせておけばいい。この協議書は最初から見ていなかったことにする。蓮は眉をひそめたが、すぐに征司の意図を理解した。「徹底して無視し、これ以上踏み込むな
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第84話

澪のほうなら……また何とかして抑える方法を考えるしかない。「でも、署名済みの離婚協議書が二通もあります。七年前に前会長がすべて手配したものですし、あと三か月たてば、結局は離婚が成立してしまいます」房江が核心を突くと、美佐子は眉をひそめた。今日房江が書類袋の中身を確認していなければ、危うく事態を悪化させるところだった。彼女がそれとなく探りを入れたところ、征司は最初から離婚協議書のことを全く知らなかったみたいだ。いずれ、離婚協議書の存在は明るみに出る。その言葉を聞いた瞬間、美佐子の目つきが異様なほど鋭くなった。「少なくとも、今はこうして時間を稼げば、しばらくは波風を立てずに済むわ」房江には美佐子の考えがよくわからない。紗耶を森宮家に迎え入れる気がないのなら、別の方法はいくらでもある。それなのに、なぜどうしても澪を引き留めないといけないのだろう。澪がなぜあれほど頑なに離婚を望むのか、房江にもわからない。征司ほどの夫がいて、何が不満だというのだろう。誰が見ても、澪は森宮家の嫁になって、恵まれた暮らしを手に入れたはずだ。征司ほどの立場にいる男なら、周りに女がいるくらい珍しくない。それを気にしすぎたら、自分が苦しくなるだけだ。「奥様、もしかして外に男でもできたんじゃありませんか?」房江は、はっとして手を打った。よほどの事情がなければ、これほど何もかも捨てるように離婚を急ぐはずがない。美佐子の表情に一瞬だけ鋭い不快感がにじんだが、すぐに何事もなかったかのように笑みを浮かべた。「森宮家の家風を汚すようなことは、決して許さない。言葉を慎みなさい」房江は怯えたように、慌てて頭を下げた。美佐子はしばらく眉をひそめたまま考え込み、やがて再び仏壇のほうへ目を向けた。「澪の身辺を調べて」――澪が病室へ戻って間もなく、看護師がドアをノックした。澪はすぐに鍵を開ける。看護師は中へ入ると、玲衣の体温を測ってから、ワゴンに載せている新品のスリッパを一足、澪に差し出した。「これ、使ってください。足、傷だらけじゃないですか」「私にですか?」看護師はふわりと笑い、使い捨てのヨードチンキ綿棒を二本手渡してくれた。「予備で持っているものなので、遠慮しないで使ってくださいね」澪に断られると思ったのか
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第85話

青葉区役所に着くと、澪は戸籍届出の窓口のあたりに目をやった。婚姻届を出しに来たらしいカップルはまばらなのに、離婚届を手に順番を待つ人たちだけが、やけに多く見える。ふいに、彼女の中に、賽は投げられたのだという妙な高揚感が湧いてきた。区役所の中では、何組もの夫婦がそれぞれの終わりを迎えようとしている。顔を真っ赤にして言い争っている夫婦。隣に座っていながら、一言も交わさない夫婦。そして、ようやく終われるのだとでもいうように、疲れ切った顔で順番を待っている人たち。自分と征司の場合はどうだろう?どうなるのだろう。澪はほんの一秒で答えを出した。夫婦とは思えないほど冷め切っていて、まるでセフレ関係を解消するようなものだ。七年も肌を重ねてきたのに、そこに愛だけは一度もなかった。そう思うと、澪は場違いにも笑ってしまった。笑ったというより、自分を嗤ったのだ。さっきまで激しく言い争っていた夫婦たちが、一斉に澪を見た。まるで頭のおかしい人を見るような目だ。澪は少し表情を整えた。「すみません。夫が既婚者と不倫していたものですから。あまりにも腹が立って、つい笑ってしまったんです」女性たちは途端に共感と怒りの入り混じった目で彼女を見た。「そんなに若くてきれいなのに?旦那さん、本当見る目がないのね?」離婚手続きをしようとした女性の一人が、呆れたように言った。澪は頷いた。「私もそう思います」「男って、本当にどうしようもないわね。外の女なら、どんな相手でもよく見えるんだから」澪はまた素直に頷いた。「本人がその気なら、止めようがありませんよね」「そういう良心のない男は、いつか内側から腐るのよ」女性たちは言えば言うほど勢いづいた。それまで黙っていた男たちも、自分たちのことを言われているように感じたのか、顔をこわばらせて言い返し始めた。区役所の中はまたたちまち罵声でいっぱいになった。澪はその光景を静かに眺めていた。長年連れ添った夫婦が最後にはこんなふうに終わるなんて。悲しむべきなのか、それとも互いに苦しみから解放されるのだと喜ぶべきなのか、彼女にはよくわからない。時間を確認すると、もうすぐ十時だった。それでも、征司からの返事はまだない。澪はもう一度征司に電話をかけた。だが今度も征司はや
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第86話

玲衣のことは、結局隆一に隠し通せなかった。退院の手続きを済ませたばかりのところへ、隆一が慌ただしく駆けつけてきた。玲衣の頭の包帯を見た瞬間、彼は怒りで顔をこわばらせた。もちろん玲衣がこっそり来ていたことを責める気にはなれない。その矛先は、当然のように澪へ向かった。「見てみろ。なんて男を選んだんだ」隆一は事情をすでに把握している。部外者である彼でさえ、怒りで胸が冷えるほど腹立たしい。澪は一言も返せず、黙り込むしかなかった。「玲衣はしばらく、うちで預かる。もともと体の弱い子だ。こんな目に遭って、熱まで出して、けがもしている。しばらくは落ち着いた環境で休ませてやらないといけない」隆一が誰よりも玲衣を大事にしていることを澪はよく知っている。玲衣が少しでもけがをすれば、彼にとっては自分の身を切られるようなものだ。「はい……」澪に断れるはずもない。隆一はK市での生活もほぼ整えていて、最高レベルのセキュリティを誇る高級住宅地に暮らしている。政府から支給された住居なので、澪としても安心だ。どのみち自分はまだ家を購入できておらず、無理に玲衣を連れて不安定な生活を送らせる必要もない。伊織が気まずそうに頭をかいた。「私のせいです。油断したから……」隆一は鼻を鳴らした。「あなたが背負うことじゃない。恩を仇で返すようなあの男のせいだ!」「おじいちゃん、なぜそんなに怒ってるの?」玲衣が不思議そうに顔をのぞかせた。隆一は澪をちらりと見て、皮肉交じりに言った。「ろくでもない男のせいだよ。玲衣も大人になったら、男だけはちゃんと選びなさい。お母さんみたいに、わざわざろくでもない男を引き当てるんじゃないぞ」澪は返す言葉もなく、心の中で、もうやめなさいよ、と項垂れた。玲衣はぱちぱちと瞬きをして、思いもよらない言葉を口にした。「パパのこと?」澪は一瞬、返す言葉を失った。玲衣は幼いのに妙に勘が鋭く、こういうときに限って核心を突いてくる。「ちが……」澪は慌てて否定しようとしたその時、玲衣は見上げて真顔で言った。「ママ、説明しなくていいよ。パパは死んだんでしょ。知ってるから」澪は一拍置いて、頷いた。「……そうね」たしかに、生きていても死んでいても大差はない。何の役にも立たないどころか、時折ゾンビのよう
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第87話

その澄んだ声は、あまりにも突然だった。その場にいる全員の視線が車の窓へと向けられ、征司の黒い瞳も、その小さな女の子にじっと注がれている。少女の見つめる先へと、彼の視線が流れていく。その暗い瞳に映ったのは、冷たい風にさらされ、血の気を失った澪の顔だ。周囲の音がふっと遠のいたように感じ、澪は息をすることさえ忘れてしまいそうだ。頭の中が真っ白になり、体がその場に縫い止められたように動かなくなる。その瞬間だった。伊織が勢いよく大きく一歩踏み出し、玲衣の小さな手をさっと握った。「あらあら、お利口さんね。いい子だから今日は先に帰って休もうね。元気になったら、今度遊園地に連れていってあげるから。ね?」伊織はその体で、征司の探るような視線を遮った。玲衣は本当は澪に甘えて、今夜は一緒に寝てほしいとねだるつもりだった。伊織にそう遮られ、くるくると目を動かしたあと、分かったような分からないような顔で頷いた。「うん。あとでビデオ通話してね」伊織は笑顔を作ったが、目元がこわばっていた。車の窓が再び閉まる。隆一も、これ以上ここで騒ぎを大きくするわけにはいかないと思った。澪がまだ森宮家と縁を切れていない以上、ここでこれ以上、面倒を増やすわけにはいかない。彼はすぐに車に乗り込み、運転手に出すよう指示した。伊織はようやく息をついたように振り返り、おおげさに声を張った。「もう、あの子ったら! 病気になるとすぐママに甘えたがって、誰を見てもママって呼んじゃうんだから!」澪はそこでようやく我に返った。気を落ち着かせるように、指先でそっと手のひらをつねる。「ええ、そうね。子供ってそういうところがあるものね」それでも、征司の視線は依然として、まるで他人事のように佇んでいる澪に注がれている。紗耶はその視線に気づき、唇をわずかに引き結んで、征司の腕に手を絡めた。「征司、彼女……本当は子供が欲しくてたまらないみたいね……」紗耶が言わんとしていることは、その場にいる全員に伝わった。蓮も当然それを察し、眉を片方上げて言った。「そこは心配しなくていいだろ。征司が、好きでもない女と子どもをつくって、弱みを握られるような真似をするわけがない」紗耶はそれを聞いて、口元が嬉しそうに綻んでいる。その甘い笑顔は澪の目の
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第88話

澪は、どこまで図々しいのだろう。自分と征司の未来をわざわざ壊そうとしているのか。征司は目を上げた。声はいつもと変わらず静かであるが、その答えには迷いがない。「ありえない」簡潔な答えだ。しかし、それだけで紗耶の表情は少し和らいだ。やっぱりそうだ。征司はもう澪のことを心底うんざりしている。これまで紗耶は、征司がまだ澪を妻として扱っているのではないかと、どこかで気にしていた。しかし今になってみれば、澪が一人で必死にすがっているだけなのだろうと彼女は信じている。あの女、自分を商品みたいに差し出して、なんて安っぽいんだろう。「征司さん、あの悪い女、いつ追い出すの?お姉ちゃん、今日から征司さんのおうちに住んじゃだめ?」律樹がふいにそう尋ねた。そうすれば、自分も征司さんの大きな家に住める。部屋いっぱいのおもちゃを買ってもらえて、友だちみんなにうらやましがられるはずだ。紗耶はたしなめるように言った。「律樹、そんなこと言っちゃだめよ」ところが、彼女は期待を込めた笑みを浮かべて征司を見つめている。征司は淡く口元を緩めた。「かまわない」―隆一の住まいは、K市でも屈指の厳重なセキュリティを誇る高級住宅街にある。そこに住んでいるのは、政界の重鎮や各界の有力者ばかりだ。澪は本来、隆一の家で食事をしてから帰るつもりだったが、知之から連絡が入り、急きょ会社へ向かうことになった。「朝比奈家に伝わっていた品、だいぶ売られたんだろう?明後日、個人所蔵の古い書画を見られる鑑賞会がある。一緒に行かないか」澪は頷いた。「正毅に骨董店を取られてから、ずいぶん手放されたみたい。何か心当たりがあるの?」知之は机の上から招待状を二枚取り上げた。「国内トップクラスの製薬会社、陸原グループの陸原ファーマ、知ってるだろ。今回の鑑賞会はそこが主催している。社長の陸原聡祐(りくはら そうすけ)に会うつもりだ。君も業界の中心にいる人間とつながっておいたほうがいい。陸原ファーマはここ数年、がん治療薬の研究にかなり力を入れている。君の研究とも相性がいい分野だ」知之が本当に望んでいるのは、澪を表舞台に立たせることだ。澪には並外れた才能があり、「WAKANナビ」という輝かしい実績もある。その実力と経歴は誰もが驚くレベルだ。それでも
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第89話

征司は澪に気づくと、まったく感情の浮かばない目を彼女の顔に二秒ほど留め、まるで初対面の相手にするように軽く頷いた。その目からは、かつて夫婦だった相手を見るような気配など、少しも感じられない。紗耶はさらに口元に笑みを浮かべ、知之へ挨拶した。「榊さん」澪には一言も声をかけず、完全に無視した。征司の隣にいるのは自分だと、そう見せつけているようだ。澪もこの状況はあまりにも滑稽だと思う。妻である自分の前で、紗耶は征司の恋人として紹介されている。おかしいのは明らかなのに、場違いな存在のように扱われているのは自分のほうだ。紗耶には当たり前のように与えられているその立場を、澪は一度も手にしたことがない。彰人はこの修羅場のような空気を見なかったことにするように、片手をポケットに入れたまま近づいてきた。そして聡祐と軽くグラスを合わせた。「紹介はいらないだろ。澪は森宮社長とも……その恋人さんとも、十分に面識がある。将来は結婚式に呼ばれるかもしれないしな」彰人は口元だけで笑っている。整った顔には、どこか人をからかうような軽さがある。彼と聡祐は幼なじみで、聡祐の姉が彰人の従兄と結婚しているため、今では親戚付き合いもある。澪にはこれまで何度もやり込められてきたため、彼女がいつ我慢の限界を迎えて激怒するのか、面白半分で観察しているのだ。その言葉に、征司も淡々とした視線を彰人に向けた。悪趣味もほどほどにしろ、という意味だろう。しかし紗耶はさらに笑みを深くし、勝ち誇ったように澪を見据えて、彰人の「冗談」に乗っかった。「私の結婚式に、澪さんが来てくださるなら嬉しいよ」澪は紗耶の目を見返し、その奥に勝ち誇ったような光と、こちらを見下す気配を感じ取った。澪は軽く頷いた。「ええ、ぜひ。ただ、そんなに急がなくてもいいんじゃないですか。森宮社長は今すぐ結婚できる立場ではありませんし、順番を間違えると、大変なことになりますから」実際、澪と征司の離婚はまだ成立していない。その状態で紗耶と結婚できるはずがない。聡祐を除いて、その場にいる者たちはほとんどが澪の言葉の意味を理解した。征司も何とも読めない目で澪を見た。それは余計なことを言うな、という警告だと澪には分かっている。征司は紗耶を大事にしている。澪が紗耶の面目を
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第90話

聡祐は紗耶のことを詳しく知っているわけではないが、それでも最近、ニュースやインタビュー番組で何度か名前を見ている。彼は征司とグラスを合わせた。「森宮社長はお幸せですね。白石さんは、去年海外で受賞されたとか?」澪に嫌味を言われてへこんでいた紗耶だったが、聡祐に自分の誇れる経歴を振られると、ようやく口元に笑みを浮かべた。「参加しただけで、主要メンバーというほどではありません」澪がいくら口先だけで強がったところで、何の意味もない。そんな暇があるなら、どうやって自分の実績に追いつくかでも考えればいいのに。もっとも、澪にはそこまで考える余裕もないのだろう。彼女は目先のことにばかりこだわって、つまらないことで腹を立てているだけだ。「いえ、それだけの研究に関わられているだけでも大したものです。森宮社長のお相手に選ばれるくらいですから、きっと相当優秀な方なのでしょう」知之はさすがに黙っていられず、そちらへ目をやった。「紗耶さんはたしかに、清らかでお綺麗な方ですね」紗耶は少し戸惑った。知之は今、自分を褒めているのだろうか。それとも。そこへ、征司が何気なく知之に目を向けた。「榊さんが女性をそこまで褒めるとは、珍しいですね」知之は言葉に詰まった。征司の言葉には、どこか突っかかるものがある。紗耶を庇うように、知之の皮肉をあえて褒め言葉として受け取るようにも聞こえた。知之は思わず眉をひそめた。自分の考えすぎだろうか。そう思っていると、聡祐がグラスを軽く揺らし、知之へ目を向けて率直に切り出した。「榊さん、朝比奈さんの連絡先を教えていただくことはできますか」その一言で、場が一瞬静まり返った。彰人は反射的に征司を見た。征司はゆっくり目を上げたが、澄んだ冷たい瞳からは感情が読めない。紗耶も思わず眉を寄せた。胸の中に驚きと、信じられないという思いが入り混じっている。自分のほうが澪よりはるかに優れているのに、どうして聡祐は澪の連絡先を欲しがるのか。知之は一瞬きょとんとしたが、胸につかえていたものが少しずつほどけた。「もちろんです。陸原社長、それはどういう意味で?」聡祐は隠す様子もなく、さらりと言った。「朝比奈さんに非常に惹かれました。こういうのが、一目惚れというやつでしょうか。
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