Semua Bab 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Bab 101 - Bab 110

317 Bab

第101話

澪はそちらへ視線を向けた。紗耶は資料をめくりながら、顔も上げずにそう言った。ごく自然で、まるでそれが当然であるかのような口調だった。奥の席にいる芹奈が慌てて立ち上がる。「私がやります」すると紗耶はやわらかな笑みを浮かべて彼女を見た。「澪さんのすぐ近くにありますし。皆さんは議論に夢中になってるでしょう?澪さんはずっと話についてこれていないみたいだったので、少しでも皆さんの役に立てたらと思っただけです」澪は一瞬、きょとんとした。自分が?話についていけていない?どうして紗耶がそんな結論に至ったのか、まるで分からない。ふと後ろを見ると、いつの間にかすぐ手の届く場所に、ほうじ茶のティーバッグが何袋か置かれていた。その場にいる全員の視線が澪へ集まった。紗耶が自分を顎で使おうとしていることくらい、澪にも当然分かっている。だが厄介なことに、これは紗耶一人のためではない。これだけ大勢の人がいる場で意地を張って断れば、自分が空気を読めない人間だと思われるだけだ。人との接し方に関しては、紗耶は本当に上手い。知之が振り返った。「みんな、ご自由にどうぞ」澪はためらわずに立ち上がった。「続けてください。ちょうど体を動かしたいと思っていたところだから」会議で議論されている内容は、彼女がもうとっくに研究済みの内容で、難しくはなかった。何より優先すべきなのは、プロジェクトを推進し、一日でも早く成果につなげることだ。芹奈たちは感謝の目を向けた。「ありがとうございます、澪さん」澪は微笑み、飲み物に視線を落とした。朝からほうじ茶?眠気覚ましのコーヒーだと思っていたのに。まさか――澪は思わず眉をひそめ、伏し目がちに企画書を読んでいる征司の方を訝しげにちらりと見た。K大の人たちは澪からお茶を受け取ると、紗耶と征司のほうを見て言った。「先輩のおかげです。でも、どうしてお茶なんですか?」紗耶はそこで初めてふっと笑った。「私、昨日から軽い風邪気味なんです。征司が冷たいものは駄目だって言うから、コーヒーは頼まなかったの。このほうが体にもいいですし、皆さんもよかったら飲んでみてください」「森宮社長って、本当にお優しいんですね」あちこちから羨ましそうなため息が漏れた。澪は少しも意外に思わなかった。
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第102話

澪はそこで初めて、さっきまで自分が立っていた場所に目をやった。確かに、あの場所なら紗耶も巻き込まれたかもしれない。自分を助けたというより、紗耶に熱いお茶がかからないようにしただけなのだろう。「それなら、森宮社長が澪さんを先輩のほうへ引き寄せたのって、先輩を守るために澪さんを盾にしたみたいですね……」どこからともなく、そんな声がかすかに聞こえた。その一言が、表面だけ取り繕っていた空気を打ち破り、紗耶は途端に表情を和らげた。征司の隣に座り、彼の端正な横顔を困ったように、それでいて甘やかに見つめた。「征司ったら、心配しすぎよ。私は大丈夫だから」征司は骨張った手についた水滴を拭い、薄く笑って紗耶を見た。「よかった」澪は背を向けた。二人の甘いやり取りを、わざわざ見ている必要もない。彼女は席に戻り、前に置かれたほうじ茶へ視線を落とした。二時間の打ち合わせの間、澪は一度もそれに口をつけなかった。何しろそれは、夫が他の女のために用意させたものだ。そんなものを飲む気にはなれない。打ち合わせが終わると、澪は部屋に戻って休みたくて、知之に一声かけ、先に会議室を出た。征司の火傷を気遣う素振りも見せなかった。あれは紗耶のために負ったもので、自分が気にする筋合いはない。部屋に戻るなり、澪はベッドに倒れ込んだ。幸い、先生は自分の生理痛がこんなにひどいことをまだ知らない。もし知られていたら、しばらくの間、苦い漢方薬を無理やり飲まされていたに違いない。あんなもの、とてもじゃないが飲めるものではない。布団にくるまったまま、彼女は午後遅くまで眠った。空腹で目が覚めると、部屋の中はすっかり薄暗くなっている。広いスイートには、澪一人だった。押し寄せる孤独に、しばらく頭の中を支配されていた。征司もその後は一度も姿を見せなかった。きっと紗耶と一緒にいるのだろう。その時、美佐子から電話がかかってきた。澪は気を取り直して電話に出た。「澪、今夜は八時、みんなで年越しの食事をするの。征司が呼びに行くって言ってたけど、今日はずっと一緒だったんでしょう?」澪はがらんとした部屋を見回した。それでも、征司の嘘をわざわざ暴くことはしなかった。「ええ、さっき聞いてます」「そう。身支度をして降りていらっしゃ
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第103話

澪の視線は、その鮮やかな口紅の色に釘付けになった。ガーゼについていたのは、くっきりとした唇の形ではなく、ほんの少し擦れたような跡だった。それでも、何があったのかは容易に想像できた。征司の火傷を手当てしたのは紗耶だろう。この怪我も、二人の距離を縮めるきっかけになったのかもしれない。彼を心配した紗耶がキスでもしようとして、うっかり口紅がついた――そんな場面まで思い浮かんでしまう。何があったにせよ、征司と紗耶がすでにただならぬ関係にあることだけは、はっきりしている。そして征司は紗耶との親密さに慣れきっているからこそ、ガーゼに口紅がついていることにも気づかず、妻である自分の前でも堂々とさらしているのだろう。「まだなのか」部屋を出た征司が振り返り、問いかけるような目で澪を見た。澪は我に返り、何事もなかったように部屋を出た。もちろん、問い詰めるつもりなどない。離婚するかどうかにかかわらず、自分には彼を問い詰める資格などない。征司は、澪が妻の立場で自分を問いただしたり、ほかの女との仲を責めたりすることを、これまで一度も許さなかった。エレベーターホールに着き、澪がボタンを押そうとした時だった。征司はふいに視線を伏せ、彼女の手首をつかむと、そのまま反対側へ引いていった。「どこに行くの?」澪は腕を引こうとしたが、振りほどけない。征司は振り返りもせずに言った。「専用エレベーターを使う」目の前にあるのは、VIPフロア専用のエレベーターで、隣の一般用とは明らかに違う。すると――。「向こうは混む。こっちのほうが静かだ」征司はエレベーターに乗るなり彼女の手首を離し、気怠げな声で言った。澪は思わず笑いそうになった。なんてもっともらしい理由だろう。要するに、人目を避けたいだけだ。アカリ製薬やK大の人たちに見られず、二人が夫婦だと知られないようにしている。「分かった」澪はわざわざ指摘する気にもならなかった。なにしろ今の彼は、周囲から見れば、紗耶の「恋人」なのだ。 公式発表も同然の派手な振る舞いで、紗耶を十分すぎるほど安心させている。だからこそ、妻である澪も含め、他の女とはきっちり一線を引かなければならないのだろう。征司はそこでようやく、ゆっくりと澪を一瞥した。けれど、澪の表情からは
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第104話

美佐子が眉をひそめた。修一は千佳子をちらりと見て言った。「やめなさい。せっかくの正月だ。雰囲気を悪くするな」千佳子は言い返せず、椅子に背をもたれて冷ややかに笑った。紗耶のあのふしだらな女め、朝斗が刑務所に入った途端に征司に乗り換え、それを愛だの何だのと美化している。それどころか香澄も、火に油を注ぐかのように、征司に新しい妻を迎えようと必死に動き回っている。彼女としては、腹が立たないはずがない。「言わせてもらうけど、お義姉さん、征司の実の母親ではないとはいえ、朝斗が女一人で征司と仲たがいしているのを黙って見ていられるの?森宮家の体面くらいは考えるべきじゃない?本気で朝斗の元婚約者を征司の嫁にするつもりなの?」その言葉を聞いて、澪はようやく顔を上げた。森宮家の事情はたしかに複雑だ。香澄は征司の実母ではない。征司の母の妹――つまり、実の叔母が孝允の後妻になったのだ。「恋愛なんて、他人が口を挟んでどうにかできるものじゃないでしょう」香澄は淡々と言った。「誰かが自分の負けを認めるしかないのよ」澪には、その意味が理解できた。負けを認めるべきなのは、朝斗だけではない。それは、森宮家の妻である自分に向けられた言葉でもあった。「お義姉さん――」千佳子の表情が険しくなった。「もういい。静かに食べなさい」美佐子がテーブルを叩き、この言い争いを終わらせた。ようやく、その場の険悪な空気が収まる。澪は何も言わなかった。皆、澪の前で何のためらいもなくこんな話をしている。最初から、澪のことなど眼中に入っていないのだろう。征司の父も叔父も、まるで部外者のように女たちの言い争いに一切加わろうとしない。誰も彼も冷たい。まして、隣に座る征司は、のんびりと茶を注いでいるだけだ。自分と従弟の婚約者との背徳的な関係が引き起こした争いなど、全く意に介していない様子だ。澪はこの修羅場に巻き込まれたくなくて、机の上に並んだ料理に目をやった。目の前にはれんこんの煮しめがあり、その隣には豚の角煮が置かれている。彼女は音も立てずに箸を置いた。「征司。澪の前には、食べにくいものばかりでしょう。少しくらい気を遣ってあげなさい」美佐子は、せめて仲のいい夫婦に見えるよう、征司に視線で促した。澪自身は、そんなことは気にして
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第105話

和幸の言葉に、香澄たちが一斉に澪に視線を向けた。澪だけが、少し気まずそうに顔を上げた。美佐子は穏やかな笑みを浮かべ、スマホの画面を澪のほうへ向けた。「みんなそろってるよ。お兄さんも、澪も」澪は不意に、画面越しの和幸と目が合った。記憶の中の彼と全く変わらない姿だ。和幸のいる場所は明るく、征司とどこか似たその顔は、よりいっそう爽やかで気品があるように見えた。「少し痩せたんじゃないか?」和幸が口を開いた。澪は耳の後ろをかきながら、曖昧に笑った。「そうかな。最近ちょっと忙しかったからかも」和幸はやわらかく笑った。「昔のままだね。自分のこともちゃんと大事にして、何でもかんでも我慢しちゃ駄目だよ」澪の胸に、じんわりと温かさが広がった。二人は中学時代から同じ学校に通っていて、和幸は澪の先輩だ。森宮家に澪を紹介してくれたのも彼だ。かつて美佐子が急病で倒れた時、たまたま居合わせた澪が鍼治療で応急処置をし、容体を安定させた。それ以来、美佐子はたびたび澪を家に招き、大学進学も支援していた。澪にとって、和幸は本当の兄のような存在だ。森宮家の他の人に比べ、彼はとても親しみやすく、穏やかな人だ。「うん、和幸さんもね」澪が笑うと、和幸も微笑んだ。それから、彼は征司へ目を向けた。「兄さん、時間があれば、ここでの事業展開について少し話したいんだけど」征司はそこでようやく顔を上げた。冷淡でありながら威圧感のある目元を少し和らげ、薄く唇を吊り上げた。「ああ、いいだろう」新年の挨拶回りは、いつも長くて退屈なものだ。しかし、和幸のおかげで、場の空気はいくらか明るくなったようだ。何より美佐子が、隠しきれないほど嬉しそうだ。和幸は、森宮家の三男の一人息子で、美佐子がとりわけ可愛がっている孫でもある。数年前から祖父の時雄とともに海外へ渡り、それ以来、現地で事業を広げてきた。向こうにも仕事があるため、通話はほどなくして終わった。しかし、話題がそこで途切れることはなかった。ふと香澄が澪の方を見て、笑みを浮かべた。「澪、和幸とは今でも連絡を取ってるの?学生時代はとても仲が良かったでしょう。あの頃は、二人がそのまま結ばれるのかと思ったものよ」広い個室が一瞬にして静まり返り、澪も思わず動きを止めた。美佐子が眉
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第106話

食事が終わり、家族を見送ったあと、澪と征司は最後にその場を出た。VIP用エレベーターの中は、二人だけだった。征司は澪と並んで立ち、表示板の数字が変わっていくのを見ていたが、やがて視線を落とした。「行きたいのか」ホテルの催しや、夫婦・恋人向けのゲームに参加する気があるのかと聞いているのだ。澪はすぐに察した。こういう時は空気を読むものだ。「行くか?」と聞かれれば「行かない」が正解で、「欲しいか?」と聞かれれば「欲しくない」が正解だ。つまり、征司は紗耶のところへ行き、機嫌を取るつもりなのだろう。澪にも空気を読め、ということだろう。「行くわ。おばあ様にも言われたし」澪は何食わぬ顔で、彼の言葉の裏など全く気づかないふりをした。征司を少しは困らせてやりたかった。なぜ、何もかも彼の都合で決められなければならないのか。自分は彼にとって、都合のいい時だけ呼び出され、必要がなくなれば切り捨てられる、そんな存在でしかないのか。本当は、夫婦向けのイベントなど少しも行きたくない。それでも時には、こういう人たちが掲げる耳障りのいい建前を、突き崩してやりたくなる。案の定、征司はしばらく澪を静かに見つめたあと、かすかに笑った。「気にしないなら、これから人に会いに行くところに連れて行ってやってもいい」誰のことを言っているのか、わざわざ聞くまでもない。「……」澪のこめかみがぴくりと動いた。征司は彼女の意図を見抜いている。それでも少しも気に留めないばかりか、反撃にまで出てきた。征司は最初から、澪が自分と紗耶のいるところへついてくるはずがないと分かっている。チンと音を立ててエレベーターが止まった。征司は澪の横を通り過ぎ、一人で降りていった。澪がついて来ないことを彼は知っている。再び扉が閉まると、澪はようやく深く息を吐いた。ほんの短い時間だったのに、胸の奥まで重苦しさに蝕まれたような気がした。彼女はすぐには部屋に戻らず、一階まで降りて、一人で少し散歩しながら新年の空気を味わおうと思った。 ちょうどその時、玲衣からビデオ通話がかかってきた。画面に映った小さな顔が、ぱっとほころんだ。「ママ!今年もいっぱい笑って過ごそうね。新年の挨拶、玲衣が一番最初かな?」澪はようやく笑った。「もちろんよ
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第107話

「だよな。伊織の親友だから」征司は特に気に留める様子もなく、上の空の口調で言った。伊織は穂積家でそれほど大切にされている娘ではないが、そのツテがあるなら、澪が宇一の連絡先を知っていても不思議ではない。それにお正月だから、メッセージアプリには一斉送信の新年の挨拶がいくらでも届く。自分に届いたものもきっとその類いだと彼は思ったのだろう。「そうだね。伊織がいなければ、宇一さんと知り合う機会なんてなかったもの」全く気にしていない征司を見て、澪はかすかに口元を緩め、宇一に返信した。【明けましておめでとうございます】すると、通知音がまた鳴った。宇一からはほとんど間を置かずに返事が来た。【来月、帰国する】なぜ予定を知らせてきたのか、澪は深く考えなかった。【分かりました。では、その時に】宇一が玲衣の法的な父であり、自分の恩人でもあることを澪が征司に話すはずはない。宇一が玲衣の父親として手続きをしてくれなければ、澪は玲衣を手元に置くことさえできず、この事情を隠し通すこともできなかった。もっとも、こんな秘密を一生隠し通せるわけがない。征司と正式に離婚すれば、いずれ彼も知ることになる。しかしその時にはもう、玲衣を取り上げることなどできない。「じゃあ、風呂に入ってくる」征司はこの話にやはり興味がないらしく、澪が誰とやり取りしているのかも気にせず、無関心な顔でバスルームに向かった。澪ははっとして、今朝早く起きた時に征司に人違いで抱きしめられたことを思い出した。まさか今夜もここに泊まるつもりなのだろうか。「ここで寝るの?」彼女は思わず口にしていた。征司はシャツのボタンを外しながら、澪をちらりと見た。「じゃあ、どこで寝ればいいと思う?教えてくれるか」紗耶のところに決まってるでしょう。澪の胸の内にはすぐに答えが浮かんだが、顔には出さなかった。征司はそれ以上澪を相手にせず、ドアを閉めてシャワーを浴び始めた。澪はしばらく眉をひそめていたが、すぐに状況を理解した。征司がここに泊まりたいわけじゃない。美佐子たちがこのホテルにいる以上、たとえ彼が心底紗耶の元へ行きたくても、今はおとなしくしているしかないのだ。万が一美佐子たちに知られでもしたら、紗耶がひどい目に遭うことになる。澪はそんな
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第108話

澪は、征司が紗耶をどれほど大事にしているかなんて、これっぽっちも知りたくない。まして……「結構です。持ち帰ってください。澪はマンゴーアレルギーなんです」知之がリビングから出てきた。その表情には、険しさが浮かんでいる。スタッフは一瞬戸惑ったが、慌てて頭を下げた。「申し訳ございません。森宮様もご存じないようで……どうかお気を悪くなさらないでください」澪はふっと笑った。自嘲なのか皮肉なのか、自分でも分からない。「大丈夫です。知らなくて当然ですから」スタッフを見送ると、こめかみがずきりと痛んだ。新薬の研究でずっと頭を働かせていたというのに、あの二人は見計らったように気分を乱してくる。「マンゴーアレルギーのことくらい、あいつは知らないのか?」知之は澪に水を注いで差し出した。妻である澪のところに、わざわざ愛人のために作らせたケーキをスタッフに届けさせるとは、一体どういうつもりなのか。もし澪が口にしていたら、どうなると思っているのだろう。あまりにもひどい仕打ちだと知之は思った。澪はソファに腰をかけて、薬理報告書に目を落とした。「もともと私に関心なんてないもの。知るはずがないでしょう」好き嫌いを知っているのとは訳が違う。同じ席につきさえすれば、征司ほどの人間なら好みくらいすぐに気づく。しかし、絶対に口にしてはいけない食べ物については、相手への深い関心と理解が必要になる。それは愛情があってこそ成り立つものだ。それが、自分と紗耶の決定的な違いでもある。「君はあいつの命の恩人なんだろう。それなのに、どうしてここまで冷たくされなきゃならないんだ」知之は澪が不憫でならず、その口調には怒りが滲んでいる。命の恩人……澪の視線が、ふと遠くなる。それはもう、十年以上も前のことだ。征司ほどの立場にいる人間には、欲に目がくらみ、身代金目当てで犯罪に手を染める者は後を絶たない。かつて征司も、身代金目当てに拉致され、辛うじて家に帰ったことがある。あの時、征司は全身に傷を負い、息も絶え絶えの状態で、人里離れた山中を逃げ回っていた。澪と出会った時には、もう道端に倒れ込んでいた。あの頃、隆一のもとで何年も医学を学んでいなければ、征司を助けることはできなかったはずだ。応急処置で止血した
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第109話

澪は一瞬、眉をひそめた。わずかに残っていた期待がすっと消えていった。そもそもそんな予定はなく、玲衣と祖父のためにお参りをするのだと思ったからこそ誘いを受けたのに。彼女は少し苛立ちながら言った。「おばあ様、お分かりでしょう。私たちはもう……」「征司は遅い便を取ったそうよ。午前中は夫婦でデートでもして、自由に過ごしなさい。澪、誰だって間違えることはあるの。夫婦の暮らしは、二人で育てていくものよ。あなたが征司にまだ想いを寄せていることくらい、私には分かってるわ」「……」澪は言葉に詰まった。どれほど深く想っていても、傷つけられるたびに心はすり減っていく。誰だって、どうな扱いを受けても平気でいられるわけわけじゃない。何も求めずに一方的に愛し続けるなんて、できるものじゃない。美佐子はそれだけ言うと、電話を切った。かけ直しても、もうつながらない。澪は、いつまでも自分を責めて沈み込むような性格ではないから、そこですぐ考えを切り替えた。実際のところ、あの翡翠の帯留の話について、征司とは一度二人きりで話しておく必要がある。あれは何としても取り戻さなければならないものだ。今なら、いい機会かもしれない。荷物をまとめると、澪は征司に電話をかけた。しかし、電話は繋がらなかった。今、彼がどこにいるのかも分からない。澪はさほど気にせず、一人で朝食を取りに行った。そのうち征司から連絡が来るか、部屋に戻ってくるだろうと思っていた。しかし、空港へ向かわなければならない時間になっても何の連絡もなかった。澪は仕方なく、慌てて空港へ向かった。ここまでくれば、もうはっきりしている。征司は自分との約束をすっぽかしたのだ。美佐子までもが彼に丸め込まれていたというわけだ。これは澪にとって、もはや驚くことではない。征司が二人きりで過ごしたい相手は、最初から自分ではない。K市に着いた頃には、すでに昼を回っていた。征司にすっぽかされたことよりも、澪の心に引っかかっているのは、祖母が嫁入り道具だったあの翡翠の帯留のことだ。視察先から持ち帰った生薬のサンプルには、劣化しないうちに分析しなければならないものもあるため、彼女はひとまずアカリ製薬に向かうしかなかった。研究室で無菌服に着替えながら、もう一度征司に電話をかけた。
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第110話

三時間ほど経って、澪は凝り固まった首をほぐしながら、ようやく研究室を出た。すると、伊織が大きな荷物を抱えてやって来た。「お正月なのに、家で過ごさずにどうしたの?」「あなたが帰ったって聞いたからよ。穂積家にはなんてはいてもいなくても同じだし、それなら澪と過ごそうかなって。受付の人に、澪宛ての荷物が届いてるって渡されたの。何を買ったの?会社にまで送らせて」伊織は厳重に梱包された箱を軽く揺らし、その箱は、見た目以上に重そうだ。穂積家において、伊織の立場も決して楽なものではない。澪は小さく息をつき、手袋を外して歩み寄った。「ネットで買い物なんて、もうずいぶんしてないわ。先生からのお年賀かな」箱を開けると、中には四角い彫刻が施された箱が入っていた。その箱自体が、すでにかなりの値打ち物だと分かる。「こんな高そうな箱に、何が入ってるの?」伊織が息をのんだ。澪も首をかしげ、送り状の差出人の住所と連絡先をもう一度確かめた。見覚えのある番号で、森創グループ社長室のものだ。征司が送ってきたの?澪は眉を寄せ、ためらいながらも箱の蓋を開けて、中身を見た途端、言葉を失った。伊織が驚いた声を上げた。「これ、海外のオークションでとんでもない値が付いた螺鈿蒔絵の香箱じゃない!?現存数が少ないことで有名な品よ。この前ニュースで見たの。日本円で四十億円近くで落札されたって、大騒ぎになってた。征司が買ったの!?」なんてことだ……さっきまで彼女は、この宝物が入った箱をあんなに荒っぽくガンガン振っていたのだ。もし本当に割れていたら、彼女の心も一緒に砕け散るところだった。一瞬の喜びのあと、澪の表情は複雑になった。四十億円近く――「これは母が営んでいた骨董店の、看板ともいえる品よ。以前、正毅が資金繰りのために売り払ったの」白石家はその資金を元手に事業をさらに拡大していった。朝比奈家が探し続けている品の中でも、この香箱は特に取り戻すのが難しい品だった。澪の力だけでは、可能性はゼロに等しい。正毅でさえ、買い戻せるほどの力はないはずだ。それなのに――征司がこれを彼女の元に送り届けてくれるとは。「急にどういう風の吹き回し?」伊織は不思議そうに首をかしげた。「海外じゃ、この品を落札した大物コレクターが誰なのかって、ず
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